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第十八話:静寂の森へ
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夜は、静まり返っていた。
私は、父やアンナの目を盗み、乗馬服に着替えて自室を抜け出した。向かう先は、屋敷の馬小屋。そして、その先にある、全ての謎が眠るであろう『静寂の森』。
医務室の前を通りかかった時、私は思わず足を止めた。
扉の隙間から、穏やかな寝息を立てるレオンの姿が見える。彼の寝顔を見ていると、胸が締め付けられるようだった。
あなたを置いていくことを、許して。
(ごめんなさい、レオン。でも、私は行かなくてはならないの)
心の中で彼に別れを告げ、私は決意を固めた。
愛馬である白馬の『リリー』にまたがり、月明かりだけを頼りに、私はグランヴェル家の広大な敷地を後にした。
屋敷の北側に広がる『静寂の森』の入り口は、不気味なほどに静まり返り、まるで巨大な獣が口を開けているかのようだった。
私が馬を降り、森へ踏み入ろうとした、その時。
背後から、私を呼ぶ馬の蹄の音が、静寂を破った。
まさか、と振り返ると、そこにいたのは、絶対にいるはずのない人物だった。
「レオン……!?」
彼は、傷がまだ癒えきっていない体で、息を切らしながら馬を寄せてきた。その瞳は、怒りと、そして深い心配の色に揺れている。
「無茶をするなと、あれほど言ったはずだ!」
「あなたこそ!その体で、どうしてここに……!今すぐ屋敷に戻って!」
「お前を一人で行かせるわけにはいかない」
彼は、馬から降りると、私の前に立ちはだかった。
「俺の役目は、何があってもお前を守ることだ。忘れたのか、アデリナ」
その、あまりにもまっすぐな言葉と眼差しに、私は何も言い返せなくなってしまった。
結局、私の単独行は、早々に終わりを告げた。私たちは、二人でこの謎多き森の奥へと、足を踏み入れることになったのだ。
森の中は、月明かりが木々の隙間からレース模様のように差し込み、幻想的な光景を作り出していた。だが、その美しさとは裏腹に、獣の遠吠えや、梟の鳴き声が、不気味に響き渡る。
道なき道を進む中で、リリーの脚がぬかるみにはまり、私が落馬しそうになった時があった。
「危ない!」
とっさに、隣を歩いていたレオンが、私の体を力強く支えてくれた。彼の逞しい腕が、私の腰に回される。間近に感じる彼の体温と、たくましい胸の鼓動に、私の心臓が大きく跳ねた。
「だ、大丈夫よ。ありがとう」
慌てて身を離すと、彼も少し照れたように視線を逸らした。
夜が深まり、私たちは少し休息を取ることにした。レオンが手際よく焚き火をおこし、パチパチと燃える炎が、私たちの周りを暖かく照らす。
「冷えるだろう」
そう言って、レオンは自分の着ていたマントを、そっと私の肩にかけてくれた。彼の匂いに包まれて、不思議と恐怖が和らいでいく。
「あなたの傷は……?」
私は、彼の腕の包帯に目をやった。私が持参していた薬草を取り出し、古い包帯を解いて、彼の傷の手当てをし直す。
「ごめんなさい。あなたがこんなに傷ついているのに、私はまた、あなたに頼ってしまって……」
「謝るな」
レオンは、私の手当てを受けると、その手を優しく握った。
「俺は、お前のためなら何度だって傷つく。お前が無事でいてくれることが、俺にとっての何よりの幸せだからだ」
その言葉は、アルフォンス様が囁いた、どんな甘い愛の言葉よりも、ずっと温かく、私の心に深く染み渡った。
「……どうして、そこまでしてくれるの?」
涙ぐむ私に、レオンは少し困ったように笑った。そして、私の頬にそっと手を伸ばし、涙の跡を親指で拭う。
「昔から、決まっていることだ。俺の全ては、お前のためにあるんだよ、アデリナ」
それは、ほとんど告白と同じだった。
彼の真剣な瞳に見つめられ、私は顔を赤らめる。焚き火の炎が、私たちの間の甘く、切ない空気を揺らしていた。彼の顔が、ゆっくりと近づいてくる。私は、思わずぎゅっと目を閉じた。
だが、彼の唇が私の唇に触れることはなく、代わりに、私の額に、優しく柔らかな感触がした。
「今は、その時じゃない。……今は、お前を守ることに集中する」
そう言って、彼は少しだけ名残惜しそうに、私から身を離した。
その優しさが、もどかしくて、けれど、たまらなく愛おしかった。
しばらく、私たちは無言で炎を見つめていた。
ふと、私の脳裏に、あの人の顔がよぎった。
「アルフォンス様は、これからどうなさるのかしら……」
その名前を口にした瞬間、レオンの表情が、わずかに硬くなったのを、私は見逃さなかった。
「……あいつは、公爵家の人間だ。俺たちとは住む世界が違う。お前はもう、あいつのことなど、考える必要はない」
その声には、隠しきれない嫉妬の色が滲んでいた。
彼が、私のことでやきもちを焼いてくれている。その事実に、私は戸惑いながらも、胸の奥が温かくなるのを感じていた。
私にとって、あなたはもう、他の誰とも比べられない、特別な人なのだと、どうすれば伝えられるのだろう。
夜が明け、私たちは再び森の奥へと進み始めた。
レオンの記憶を頼りに、かつて猪に襲われたという場所を目指す。
そして、昼過ぎになって、私たちはついにそれを見つけた。
木々の間にひっそりと隠れるようにして建つ、一軒の古びた狩人の小屋。明らかに、誰かが今もここで生活している気配があった。
「ここだ……」
レオンが呟く。
小屋の壁には、古い木の板が打ち付けられていた。そして、そこには、ナイフで無骨に、しかし力強く彫り込まれた、一輪の『黒薔薇』の紋様があった。
ここが、謎の『黒薔薇』の拠点に違いない。
私とレオンは、息を殺して、小屋へとゆっくり近づいた。
その時だった。
小屋の中から、微かな、しかし、間違いなく聞き覚えのある、か細い女性の声が聞こえてきたのだ。
「……もう、やめてちょうだい……。私は、あの方を裏切ることなど、できないわ……!」
その声は。
その声の主は、行方不明になっていたはずの、イザベラだった。
なぜ、彼女が、こんな場所に?
彼女が『黒薔薇』だというの?それとも、彼女もまた、誰かに囚われているとでもいうのだろうか。
衝撃の事実に、私とレオンは、ただその場で立ち尽くすことしかできなかった。
私は、父やアンナの目を盗み、乗馬服に着替えて自室を抜け出した。向かう先は、屋敷の馬小屋。そして、その先にある、全ての謎が眠るであろう『静寂の森』。
医務室の前を通りかかった時、私は思わず足を止めた。
扉の隙間から、穏やかな寝息を立てるレオンの姿が見える。彼の寝顔を見ていると、胸が締め付けられるようだった。
あなたを置いていくことを、許して。
(ごめんなさい、レオン。でも、私は行かなくてはならないの)
心の中で彼に別れを告げ、私は決意を固めた。
愛馬である白馬の『リリー』にまたがり、月明かりだけを頼りに、私はグランヴェル家の広大な敷地を後にした。
屋敷の北側に広がる『静寂の森』の入り口は、不気味なほどに静まり返り、まるで巨大な獣が口を開けているかのようだった。
私が馬を降り、森へ踏み入ろうとした、その時。
背後から、私を呼ぶ馬の蹄の音が、静寂を破った。
まさか、と振り返ると、そこにいたのは、絶対にいるはずのない人物だった。
「レオン……!?」
彼は、傷がまだ癒えきっていない体で、息を切らしながら馬を寄せてきた。その瞳は、怒りと、そして深い心配の色に揺れている。
「無茶をするなと、あれほど言ったはずだ!」
「あなたこそ!その体で、どうしてここに……!今すぐ屋敷に戻って!」
「お前を一人で行かせるわけにはいかない」
彼は、馬から降りると、私の前に立ちはだかった。
「俺の役目は、何があってもお前を守ることだ。忘れたのか、アデリナ」
その、あまりにもまっすぐな言葉と眼差しに、私は何も言い返せなくなってしまった。
結局、私の単独行は、早々に終わりを告げた。私たちは、二人でこの謎多き森の奥へと、足を踏み入れることになったのだ。
森の中は、月明かりが木々の隙間からレース模様のように差し込み、幻想的な光景を作り出していた。だが、その美しさとは裏腹に、獣の遠吠えや、梟の鳴き声が、不気味に響き渡る。
道なき道を進む中で、リリーの脚がぬかるみにはまり、私が落馬しそうになった時があった。
「危ない!」
とっさに、隣を歩いていたレオンが、私の体を力強く支えてくれた。彼の逞しい腕が、私の腰に回される。間近に感じる彼の体温と、たくましい胸の鼓動に、私の心臓が大きく跳ねた。
「だ、大丈夫よ。ありがとう」
慌てて身を離すと、彼も少し照れたように視線を逸らした。
夜が深まり、私たちは少し休息を取ることにした。レオンが手際よく焚き火をおこし、パチパチと燃える炎が、私たちの周りを暖かく照らす。
「冷えるだろう」
そう言って、レオンは自分の着ていたマントを、そっと私の肩にかけてくれた。彼の匂いに包まれて、不思議と恐怖が和らいでいく。
「あなたの傷は……?」
私は、彼の腕の包帯に目をやった。私が持参していた薬草を取り出し、古い包帯を解いて、彼の傷の手当てをし直す。
「ごめんなさい。あなたがこんなに傷ついているのに、私はまた、あなたに頼ってしまって……」
「謝るな」
レオンは、私の手当てを受けると、その手を優しく握った。
「俺は、お前のためなら何度だって傷つく。お前が無事でいてくれることが、俺にとっての何よりの幸せだからだ」
その言葉は、アルフォンス様が囁いた、どんな甘い愛の言葉よりも、ずっと温かく、私の心に深く染み渡った。
「……どうして、そこまでしてくれるの?」
涙ぐむ私に、レオンは少し困ったように笑った。そして、私の頬にそっと手を伸ばし、涙の跡を親指で拭う。
「昔から、決まっていることだ。俺の全ては、お前のためにあるんだよ、アデリナ」
それは、ほとんど告白と同じだった。
彼の真剣な瞳に見つめられ、私は顔を赤らめる。焚き火の炎が、私たちの間の甘く、切ない空気を揺らしていた。彼の顔が、ゆっくりと近づいてくる。私は、思わずぎゅっと目を閉じた。
だが、彼の唇が私の唇に触れることはなく、代わりに、私の額に、優しく柔らかな感触がした。
「今は、その時じゃない。……今は、お前を守ることに集中する」
そう言って、彼は少しだけ名残惜しそうに、私から身を離した。
その優しさが、もどかしくて、けれど、たまらなく愛おしかった。
しばらく、私たちは無言で炎を見つめていた。
ふと、私の脳裏に、あの人の顔がよぎった。
「アルフォンス様は、これからどうなさるのかしら……」
その名前を口にした瞬間、レオンの表情が、わずかに硬くなったのを、私は見逃さなかった。
「……あいつは、公爵家の人間だ。俺たちとは住む世界が違う。お前はもう、あいつのことなど、考える必要はない」
その声には、隠しきれない嫉妬の色が滲んでいた。
彼が、私のことでやきもちを焼いてくれている。その事実に、私は戸惑いながらも、胸の奥が温かくなるのを感じていた。
私にとって、あなたはもう、他の誰とも比べられない、特別な人なのだと、どうすれば伝えられるのだろう。
夜が明け、私たちは再び森の奥へと進み始めた。
レオンの記憶を頼りに、かつて猪に襲われたという場所を目指す。
そして、昼過ぎになって、私たちはついにそれを見つけた。
木々の間にひっそりと隠れるようにして建つ、一軒の古びた狩人の小屋。明らかに、誰かが今もここで生活している気配があった。
「ここだ……」
レオンが呟く。
小屋の壁には、古い木の板が打ち付けられていた。そして、そこには、ナイフで無骨に、しかし力強く彫り込まれた、一輪の『黒薔薇』の紋様があった。
ここが、謎の『黒薔薇』の拠点に違いない。
私とレオンは、息を殺して、小屋へとゆっくり近づいた。
その時だった。
小屋の中から、微かな、しかし、間違いなく聞き覚えのある、か細い女性の声が聞こえてきたのだ。
「……もう、やめてちょうだい……。私は、あの方を裏切ることなど、できないわ……!」
その声は。
その声の主は、行方不明になっていたはずの、イザベラだった。
なぜ、彼女が、こんな場所に?
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