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第16話:古の知恵と目覚める力
しおりを挟む忘れられた森の奥深く、賢者シルヴァヌスの庵でのアリアンナの修練の日々が始まった。
それは、彼女がこれまでに経験したことのない、過酷で、しかし発見に満ちたものだった。
夜明けと共に起き、湖で身を清め、シルヴァヌスと共に森深く分け入っては薬草を摘み、その効能や毒性について学ぶ。
日中は、庵に籠もり、古びた羊皮紙に記された古代文字の読解や、星の配置から未来の災厄を読み解くという難解な天文学の講義を受けた。
剣の訓練も怠らなかったが、それはもはや力任せの打ち合いではなく、自然の流れと呼吸を合わせ、最小限の動きで最大の効果を生むという、より洗練されたものへと変わっていった。
「お前の母、イザベラは、ただ美しいだけの貴婦人ではなかった。
彼女は、この世界の成り立ちや、生命の循環、そして我々が忘れ去ってしまった古の力について、深い知識と探求心を持っていた」
ある日、シルヴァヌスはそう語り、アリアンナに一冊の古びた日誌を手渡した。
それは、母イザベラが遺したものだった。
日誌には、美しい文字で、彼女が研究していた「生命の響き」と呼ばれる力についての記述が綴られていた。
それは、万物に宿る微かなエネルギーを感じ取り、それに働きかけることで、傷を癒したり、植物の成長を促したり、時には動物と心を通わせることさえできるという、繊細で優しい力。
「お前の母は、その力を悪用されることを恐れ、誰にも明かすことなく、ひっそりと研究を続けていた。
そして、その力の根源は、お前たちヴァイスハルト家に流れる古い血筋と、何よりも純粋で強い慈愛の心にあると信じていた」
アリアンナは、母の日誌を読み進めるうちに、自分が知らなかった母の姿、その深い知性と優しさに触れ、胸が熱くなるのを感じた。
そして、自分の中にも、その「生命の響き」が眠っているのかもしれないと、ぼんやりと思うようになった。
最初の変化は、薬草を扱っている時に訪れた。
誤って指を傷つけてしまった時、アリアンナは無意識のうちに、傷口に手をかざし、母の日誌にあったように、心の奥底から癒しの力を念じた。
すると、驚くべきことに、傷口からの出血がみるみるうちに止まり、痛みも和らいでいったのだ。
「これは…!」
アリアンナは自分の手のひらを見つめ、信じられないという表情を浮かべた。
シルヴァヌスは、その様子を静かに見守っていた。
「焦ることはない、アリアンナ。
力は、求めれば応えてくれる。
だが、それを正しく導くのは、お前自身の心だ」
アリアンナの中に眠っていた力は、まだ微かで不安定だったが、それは確かな希望の光だった。
彼女は、シルヴァヌスの指導のもと、その力を制御し、高めていくための修練に、より一層真剣に取り組むようになった。
一方、山中の廃坑に潜む「赤狼の牙」のアジトでは、ヴォルフたちが持ち帰られた証拠の分析と、それを公表するための計画を着々と進めていた。
最高法院長官オルダス・グレイフォークとブラウンシュバイク公爵家の癒着、そして王国を揺るがす汚職ネットワークの存在。
これらの情報を、最も効果的な形で王都の民衆や良識ある貴族たちに暴露するため、彼らは危険を冒して王都との連絡を取り続けていた。
カインの傷は、ミラの献身的な看病もあって順調に回復していたが、彼の心は晴れなかった。
アリアンナの安否が不明なこと、そして彼女を危険な状況から救えなかったことへの自責の念が、彼を苦しめていた。
「アリアンナは、今どこで何をしているんだ…」
彼は何度もそう呟き、アリアンナが残していったかもしれない痕跡を探して、無謀にも一人で森を彷徨いそうになることもあった。
そのたびに、ヴォルフやミラが彼を制止し、今は耐える時だと諭した。
「カイン、お前の気持ちは分かる。
だが、我々が今すべきことは、アリアンナが命がけで持ち帰ったこの証拠を無駄にしないことだ。
そして、彼女が戻ってきた時に、万全の態勢で次の戦いに臨めるように準備しておくことだ」
ヴォルフの言葉に、カインは唇を噛み締めるしかなかった。
ミラは、王都の協力者を通じて、エドワードがアリアンナ捕縛のために血眼になっているという情報を掴んでいた。
アリアンナの美しい銀髪と紫色の瞳を描いた似顔絵が、王国中にばら撒かれ、高額な懸賞金がかけられているという。
さらに、ヴァイスハルト家に関わりのあった者たちが、次々とブラウンシュバイク家の兵士に捕らえられ、厳しい尋問を受けているという不穏な噂も流れていた。
「エドワードの奴、本気でアリアを消すつもりね…!」
ミラは怒りに声を震わせた。
「赤狼の牙」にも、エドワードの追っ手の影は確実に迫ってきていた。
彼らの潜伏生活は、日に日に危険度を増していく。
賢者の森でのアリアンナの修練は、新たな段階に入っていた。
シルヴァヌスは、彼女に精神集中のための瞑想法や、古代のルーン文字に込められた力の意味を教え、そして時には、彼女自身の心の闇と向き合わせるような厳しい問いかけもした。
「お前の復讐心は、確かに強い力となるだろう。
だが、それだけでは、いずれお前自身がその炎に焼き尽くされることになるぞ。
憎しみを超えた先に、お前は何を見る?
何のために戦うのだ?」
アリアンナは、その問いにすぐには答えられなかった。
エドワードへの憎しみ、リリアへの裏切られた悲しみ、そして全てを奪われた怒り。
それらの感情は、今も彼女の心の大部分を占めている。
しかし、旅の途中で見た、虐げられた民の姿。
母が遺した日誌に記された、生命への慈しみ。
そして、「赤狼の牙」の仲間たちの温かさ。
それらもまた、アリアンナの心に新たな思いを芽生えさせていた。
ある夜、アリアンナは深い瞑想の中で、不思議な体験をした。
まるで森の木々や動物たちの声が聞こえるような、そして遠く離れた場所にいる仲間の気配を感じるような、不思議な感覚。
それは、母が記していた「生命の響き」の力の一端に触れた瞬間だったのかもしれない。
しかし、その力はあまりにも強大で、アリアンナは一瞬にして意識を失いそうになった。
その時、胸元にしまっていた母の肖像画が、微かに温かく光ったような気がした。
「…まだ、その力を完全に制御するには早すぎるようだのう」
シルヴァヌスは、アリアンナの様子を見て静かに言った。
アリアンナは、自分の未熟さを痛感しながらも、その力の可能性に戦慄と興奮を覚えていた。
そして、数ヶ月が過ぎた頃。
アリアンナの心身は、以前とは比べ物にならないほど成長を遂げていた。
その瞳には、かつての侯爵令嬢としての気高さと、銀狼としての獰猛さに加え、深い知性と慈愛の色が宿り始めていた。
シルヴァヌスは、そんなアリアンナの姿を見て、ついに最初の実践的な試練を与えることを決意した。
「この森の奥には、『影狼(かげろう)』と呼ばれる、凶暴で狡猾な魔獣が棲んでおる。
かつては森の守り神とも言われたが、今はその力を制御できず、無差別に森を荒らしている。
お前の最初の試練は、その影狼を鎮めることだ。
殺すのではない、鎮めるのだ。
お前が修練で得た力、そして母君から受け継いだ『生命の響き』を使ってな」
影狼。
その名は、アリアンナも森の古い言い伝えで聞いたことがあった。
普通の狩人では到底太刀打ちできない、恐ろしい魔獣だと。
「私に…できるでしょうか…?」
アリアンナは、不安を隠せない。
「お前ならできる。
お前の心にある、真の優しさと強さを信じるのだ。
そして、忘れるな。
力は、破壊のためではなく、調和のためにあるべきだということを」
シルヴァヌスの言葉を胸に、アリアンナは一人、影狼が棲むという森の最深部へと向かった。
そこは、陽の光も届かない、不気味な静寂に包まれた場所だった。
やがて、茂みの奥から、二つの赤い光点が現れた。
影狼だ。
その巨体は黒い霧のようなオーラに包まれ、鋭い牙と爪が月明かりに不気味に光っている。
影狼は、アリアンナを威嚇するように、低い唸り声を上げた。
アリアンナは短剣を抜かず、ただ静かに影狼を見据えた。
恐怖はあった。
しかし、それ以上に、この苦しんでいるように見える魔獣に対する、不思議な憐憫の情が湧き上がってきた。
彼女は、シルヴァヌスに教わったように、そして母の日誌にあったように、心の奥底から「生命の響き」を呼び覚まし、影狼に向けて優しく語りかけた。
言葉ではなく、心で。
最初は激しく抵抗し、アリアンナに襲いかかろうとしていた影狼だったが、アリアンナの純粋な思いと、彼女から発せられる温かいエネルギーに触れるうちに、次第にその凶暴性を鎮めていった。
黒い霧のようなオーラが薄れ、その赤い瞳から、苦しみと悲しみの色が消えていく。
そしてついに、影狼はアリアンナの足元に静かに身を横たえ、穏やかな寝息を立て始めたのだった。
アリアンナは、そっと影狼の頭を撫でた。
これが、母が追い求めた「生命の響き」の力なのか。
彼女は、自分の内に秘められた力の大きさと、その責任の重さを改めて感じていた。
庵に戻ったアリアンナを、シルヴァヌスは満足げな表情で迎えた。
「見事だった、アリアンナ。
お前は、最初の試練を乗り越えた。
そして、お前の母君が遺した財産の在処と、それをどう使うべきか、今こそお前に伝えよう」
シルヴァヌスは、アリアンナに一枚の古い地図と、いくつかの指示を与えた。
それは、ヴァイスハルト家の先祖が、来るべき災厄に備えて隠したという莫大な財宝と、それを守る者たちの存在を示唆するものだった。
「お前の戦いは、まだ始まったばかりだ。
だが、お前はもはや孤独ではない。
その力と、母君の遺志、そして仲間たちとの絆を胸に、エドワードと、彼らを取り巻く巨大な闇に立ち向かうのだ」
アリアンナは、シルヴァヌスの言葉を胸に刻み、力強く頷いた。
賢者の森での修練は、終わりを告げようとしていた。
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