【完結】追放王女は辺境へ

シマセイ

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第十話:揺れる心の天秤、そして差し伸べられた誠実な手

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レオンハルト辺境伯からの、グリューネヴァルトの都への誘い。

それは、フィリアにとって、嵐の中で差し伸べられた救いの手のように感じられた。

しかし、その手を素直に掴むことのできない、深い躊躇いが彼女の胸にはあった。

彼の言葉は、領主として自分の才能を評価してくれているという公的な理由だけでなく、一人の人間として、自分を気遣い、共にいたいと願ってくれているかのような温かさに満ちていた。

その真摯な眼差しは、フィリアの心の奥底に眠っていた、誰かに守られたい、誰かを信じたいという切なる願いを揺り動かす。

だが、その度に、脳裏をよぎるのは、あの裏切りの夜の光景だった。

愛を囁いたはずの婚約者の冷たい瞳、実の妹の嘲笑、そして両親の無慈悲な言葉。

(もう二度と、あんな思いはしたくない……。人を信じれば、また裏切られるだけなのではないか……。)

フィリアは、レオンハルトの申し出に対し、曖昧な感謝の言葉を述べるだけで、明確な返事をすることができなかった。

そんなフィリアの葛藤を見透かすかのように、レオンハルトは無理強いすることなく、ただ静かに彼女の答えを待つ姿勢を見せていた。

その夜、フィリアは久しぶりに悪夢にうなされた。

王宮の薄暗い廊下を、アルフレッド王子とセレスティアが嘲笑いながら追いかけてくる。

父と母が、冷たい目で彼女を「エルドラードの恥だ」と罵る。

「やめて……来ないで……!」

叫びながら目を覚ますと、額には冷たい汗が滲み、心臓は激しく鼓動していた。

暗い小屋の中で一人、フィリアは震える体を抱きしめた。

人を信じることの恐ろしさが、再び彼女の心を支配しようとしていた。

翌朝、フィリアの憔悴した様子に気づいたのは、村の長老マーサだった。

彼女は、薬草を煎じるフィリアの傍らにそっと座り、優しい声で語りかけた。

「フィリアや、何か悩み事でもあるのかい?お前さんの顔には、深い影が落ちているよ。」

フィリアは、マーサの温かい眼差しに、思わず胸の内の苦しさを吐露しそうになった。

しかし、自分の素性や、王族としての過去を明かすことはできない。

「……少し、昔のことを思い出してしまって。人を信じることが、時々とても怖くなるのです。」

絞り出すようにそう言うと、マーサは静かに頷き、フィリアの手をそっと握った。

その皺の刻まれた手は、驚くほど温かく、力強かった。

「フィリア、過去の傷は、そう簡単には癒えんものさ。じゃがね、過去に囚われて、目の前にあるかもしれない幸せから目を背けてしまうのは、あまりにもったいないことだよ。怖いかい?そりゃあ怖いだろうさ。じゃが、差し伸べられた手が、本当に温かいものかどうかは、一度勇気を出して握ってみなければ分からんこともあるんじゃないかねぇ。」

マーサの言葉は、フィリアの心の奥深くに、じんわりと染み込んでいった。

勇気……。

今の自分に、それがあるのだろうか。

そんな中、騎士団長のゲルハルトが、レオンハルト辺境伯に魔物襲撃に関する調査の進捗を報告するために、集会所を訪れた。

その報告は、フィリアの心をさらに揺さぶるものだった。

「辺境伯様、森の奥で見つかった祭壇ですが、その構造や使用された魔術の痕跡から、極めて高度な知識を持つ者によって、ごく最近作られたものであることが判明いたしました。そして、そこで行われたのは、単なる魔物召喚ではなく、特定の魔物を凶暴化させ、特定の場所へ誘導するという、禁術に近い高度な呪法でございます。」

「……禁術だと?」

レオンハルトの表情が険しくなる。

「はい。そして、祭壇の周辺からは、エルドラード王国でしか産出されない特殊な鉱石の欠片が発見されました。これは……今回の事件の黒幕が、エルドラード王国と何らかの関わりを持つ者である可能性を示唆しております。」

エルドラード王国。

その言葉を聞いた瞬間、フィリアの背筋に冷たいものが走った。

まさか……アルフレッドや、セレスティアが関わっているというのだろうか?

いや、彼らにそこまでの力があるとは思えない。

しかし、エルドラード王国内の誰かが、何らかの目的で、この辺境の地でこのような凶行を……?

ゲルハルトは続けた。

「黒幕の目的や正体は依然として不明ですが、これほど大規模な術を行使できる者は限られております。そして、その魔の手が、再びこのミモザ村や、あるいは辺境伯領全体に伸びてくる可能性も、残念ながら否定できません。」

その報告は、フィリアに新たな恐怖をもたらすと同時に、ある種の決意を促した。

もし、本当にエルドラード王国の誰かが関わっているのなら、そしてその脅威がレオンハルトや、このミモザ村の人々に及ぶというのなら、自分は黙って見過ごすわけにはいかない。

その日の夕刻、レオンハルトは、再びフィリアと二人きりで話す機会を設けた。

彼は、ゲルハルトからの報告を受け、フィリアの安全に対する懸念をより一層強くしていた。

「フィリア。君がどのような過去を背負っているのか、私にはまだ分からない。だが、今の君が、何らかの危険に晒されている可能性も否定できない。私は……君を守りたいのだ。」

レオンハルトは、フィリアの青い瞳を真っ直ぐに見つめ、その両手を優しく包み込んだ。

「だから、改めて君に問いたい。私の申し出を、受けてはくれまいか。ただ都へ来るというだけでなく……フィリア、私の妻として、グリューネヴァルトに来てはくれまいか。君の過去がどうであれ、私は君を信じる。そして、何があろうとも、必ず君を守り抜くと誓う。」

それは、あまりにも誠実で、力強い求婚の言葉だった。

彼の金色の瞳には、一片の偽りもない、揺るぎない愛情と決意が宿っている。

フィリアの心は、激しく揺さぶられた。

過去の裏切りがもたらした恐怖と、目の前にある真実の愛情。

マーサの言葉が、脳裏に蘇る。

差し伸べられた手が、本当に温かいものかどうかは、一度勇気を出して握ってみなければ分からんこともあるんじゃないかねぇ。

フィリアは、ゆっくりと顔を上げた。

その青い瞳には、まだ涙の痕が残っていたが、そこにはもう迷いの色はなかった。

彼女は、レオンハルトの手をそっと握り返し、そして、震える声で、しかしはっきりと答えた。

「……レオンハルト様……。私のような者に、そのようなお言葉をいただけるとは……夢にも思っておりませんでした。私には……お話しなければならない過去がございます。それを聞いても、あなた様のお気持ちが変わらないと仰るのであれば……その時は……」

言葉の先は、声にならなかった。

しかし、その瞳が、彼女の答えを雄弁に物語っていた。

レオンハルトは、その答えを静かに受け止め、そして、これまでで最も優しい笑顔をフィリアに向けた。

「……ありがとう、フィリア。君の全てを、受け止める覚悟はできている。」

二人の間に、確かな絆が結ばれようとしていた。

しかし、それは同時に、フィリアが自らの過去と向き合い、それを乗り越えなければならない試練の始まりでもあった。
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