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第1話 規格外の少年
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「アッシュ、いつまで寝てるんだい!さっさと起きないと、朝ごはん抜きにするよ!」
階下から聞こえる母親、リラの張りのある声で、アッシュはもぞもぞとベッドから這い出した。
「んー……あと五分……」
「五分なんて待ってる間に、お父さんがアッシュの分のベーコンエッグを食べちゃうよ!」
その言葉に、アッシュはガバッと飛び起きた。
「それだけは絶対ダメー!」
ドタドタと階段を駆け下りると、香ばしい匂いが鼻をくすぐる。
食卓では、すでに父親のダリオが新聞(という名のギルドの手配書まとめ)を読みながら、分厚いベーコンを口に運んでいるところだった。
「あっ、父さん!僕の分!」
「お、起きてきたか、アッシュ。おはよう。今日のベーコンは格別にうまいぞ」
「僕のも残ってる!?」
「当たり前だろ。ほら、母さんがお前のために、切ってくれたんだからな」
ダリオが指さす先で、母のリラが鼻歌交じりにパンを切っている。その手に握られているのは、鈍い銀色に輝く、使い古されたナイフ。
アッシュの家では、もう何十年も使われている普通のキッチンナイフだ。
ただ、そのナイフが、かつて魔王の心臓を貫いたと言われる伝説の金属「オリハルコン」でできていることなど、リンクス家の誰も知らない。
切れ味が良すぎて、母親は時々、うっかりまな板まで真っ二つにしてしまうのだが、「あら、また安物のまな板を買っちゃったわね」で済まされている。
「ほら、アッシュ。席に着きな。学院に遅刻するよ」
「はーい」
アッシュが椅子に座ると、目の前に完璧な半熟の目玉焼きが乗った皿が置かれた。
いただきます、と手を合わせ、フォークを手に取る。ふと、庭に目をやると、いつものように祖父が奇妙な体操をしていた。
「じいちゃん、今日も元気だなぁ」
アッシュの祖父は、かつて世界を救った「勇者」その人である。
しかし、本人はその地位や名誉にまったく興味がなく、引退後は王都の片隅で悠々自適の年金生活を送っていた。
その祖父が、庭で漬物石として使っているゴツゴツした黒い石。
それが、古代竜の猛攻さえも防いだと言われる国宝級のアーティファクト「絶対防御の結界石」だと知る者は、今や王宮の書庫の奥でホコリをかぶっている文献くらいのものだ。
先日も、祖父はその石で「今までで一番うまいキュウリの浅漬けができた」と大喜びしていた。
そんな規格外だらけの環境で育ったアッシュは、自分の家族が、そして自分自身が、どれほど普通ではないのか、まったくもって認識していなかったのである。
「ごちそうさまでした!じゃあ、行ってきまーす!」
「おお、行ってこい。帰りにギルドで新しい依頼書をもらってきてくれると助かる」
「わかったー!」
オリハルコンのナイフで切られたパンを鞄に詰め込み、アッシュは元気よく家を飛び出した。
伝説の勇者の血を引く、規格外の少年が、今日も今日とて、何も知らずに王立学院へと向かう。
王都アストリアは、今日も活気に満ち溢れていた。
石畳の道を、商人や騎士、そしてアッシュのような学院生が行き交う。
アッシュが通う王立学院は、この国の未来を担う若者たちが集う学び舎だ。
十五歳になるまで、貴族も平民も関係なく、剣術や魔法、そして歴史や数学を学ぶことができる。
……建前上は。
実際には、生徒の大半を占める貴族の子弟たちが、平民の生徒を見下し、派閥を作って威張り散らしているのが日常だった。
特に、アッシュのような平民で、なおかつ呑気な性格の持ち主は、格好の的になりやすい。
「おい、そこの平民。止まれ」
背後からかけられた、ねっとりとした声に、アッシュは首を傾げながら振り返った。
そこには、高級そうな制服を着こなした三人の男子生徒が、腕を組んでアッシュを見下ろしている。中心にいるのは、アレクシス・フォン・ヴァイス。
国内でも有数の公爵家の嫡男で、貴族生徒たちのリーダー格だ。
「ん?僕のこと?」
アッシュがきょとんとして聞き返す。
「貴様以外に誰がいる。今朝も汚い格好をしているな。我々と同じ空気を吸うだけでも不愉快だ」
アレクシスは、わざとらしく鼻をつまんで見せた。取り巻きの二人も、げらげらと下品に笑う。
普通の平民生徒なら、ここで青ざめて謝罪するか、悔しさに唇を噛むところだろう。しかし、アッシュは違った。
「え?汚いかな?母さんが毎晩、ゴシゴシ洗ってくれてるんだけどな。あ、もしかして、昨日食べたニンニクの匂いが残ってるのかも!ごめんごめん!」
あっけらかんとそう言って、アッシュはぺこりと頭を下げた。
あまりにも屈託のない、悪意の欠片もない反応に、アレクシスのほうが調子を狂わされる。
「なっ……!そういうことを言っているのではない!」
「じゃあ、どういうこと?」
こてん、と首をかしげるアッシュ。その純粋な瞳に見つめられ、アレクシスは言葉に詰まった。まるで、言葉の通じない動物と話しているような気分だ。
「ちっ……!もういい!行くぞ!」
アレクシスは忌々しげに吐き捨てると、取り巻きを連れてアッシュの横を通り過ぎて行った。その際、わざとアッシュの肩に強くぶつかろうとする。
しかし、その瞬間。
にゃーん。
一匹の猫が、アッシュの足元をすり抜けようとした。
「おっと、危ない!」
アッシュはひょいと身をかがめて猫をよける。その動きと、アレクシスがぶつかろうとしたタイミングが、奇跡的に一致した。
結果、アレクシスは勢いよく空振りし、前のめりによろけてしまう。
「うわっ!?」
「アレクシス様!?」
取り巻きたちが慌てて支えようとするが、間に合わない。アレクシスは、派手な音を立てて石畳に手をついた。
「い、痛てて……」
「大丈夫?怪我はない?」
アッシュが心配そうに声をかける。その顔には、やはり悪意のかけらもない。
アレクシスは、真っ赤な顔でアッシュを睨みつけた。
わざとやったのか?いや、しかし、こいつに限ってそんな知恵があるとは思えない。
だが、結果として自分は衆目の前で恥をかかされた。
「き、貴様ぁ……!覚えていろ!」
捨て台詞を残し、アレクシスたちは足早に学院へと去っていった。
その後ろ姿を見送りながら、アッシュはぽりぽりと頭をかく。
「なんだろう?怒ってたのかな?まあ、いっか。早く行かないと、一時間目の魔法実技に遅れちゃう」
猫ににこりと笑いかけると、アッシュもまた、学院の門へと足を向けたのだった。
自分が、公爵家の御曹司に完全に目をつけられたことなど、まったく気づかずに。
「いいか、諸君。今日の授業は、各自の魔力を測定する。魔法の基本は、己を知ることからだ」
魔法実技の担当教官であるエルネスト先生が、低い声で言った。
エルネスト先生は、厳格だが公平なことで知られ、生徒の身分で態度を変えることのない、数少ない教師の一人だ。
彼の前では、貴族たちもあまり露骨な態度はとらない。
広い訓練場には、十数個の水晶でできた的が設置されている。
生徒は順番に、その的に向かって初級の攻撃魔法「ファイアボール」を放ち、魔力の大きさを測定するのだ。
「では、ヴァイス君から。前に」
「はい」
エルネスト先生に呼ばれ、アレクシスが自信に満ちた足取りで前に出た。彼が手にしているのは、銀の装飾が施された、いかにも高価そうな黒檀の杖だ。
「見ていろ、平民ども。本物の魔法というものを見せてやる」
アレクシスは、アッシュたち平民生徒をちらりと見やり、鼻で笑う。そして、的に向かって杖を構えた。
「来たれ、炎の塊。『ファイアボール』!」
詠唱と共に、アレクシスの杖の先から、バスケットボールほどの大きさの火球が出現する。火球は唸りを上げて空中を走り、見事に的の中心に命中した。
バチィン!という音と共に、的の水晶がまばゆい光を放つ。
「おお……!」
生徒たちから感嘆の声が上がる。水晶に表示された数値は「85」。十二歳の初級魔法としては、かなり高い数値だ。
「ふん、まあ、こんなものか」
アレクシスは満足げに微笑み、自分の席に戻る。
その後も、貴族の生徒たちが次々と魔法を放っていくが、アレクシスの記録を超える者はいない。彼らは皆、親から買い与えられた立派な杖を手に、得意げに魔法を披露していた。
そして、ついに。
「次、リンクス君」
「はい!」
アッシュが元気よく返事をして、前に出た。その手には、杖と呼ぶにはあまりにも貧相な、ただの木の枝が握られている。
それは、祖父が庭の木の剪定をしたときに、「お、これは魔力が通りやすそうな良い枝じゃ。杖にでも使え」と言って、アッシュにくれたものだった。
もちろん、その木が、世界樹の分け木である「生命の古木」であることなど、祖父もアッシュも知らない。
アッシュの「杖」を見た瞬間、貴族の生徒たちからクスクスと笑い声が漏れた。
「なんだ、あの杖は。その辺で拾ってきたのか?」
「みすぼらしい……。さすが平民だな」
「あんなもので魔法が使えるのか?」
アレクシスも、腕を組んで冷笑を浮かべている。
しかし、アッシュはそんな周囲の嘲笑に全く気づいていない。彼はただ、エルネスト先生の指示通り、的の前に立った。
「(えーっと、ファイアボール、だったよな。じいちゃんが昔、焚火の火付けに便利だって言ってたやつだ)」
祖父が言うには、魔法のコツは「なんとなく、こう、ぐわーっとやって、どーん!と出す感じ」らしい。アッシュは、その教えを忠実に守っていた。
「よーし……」
アッシュは木の枝を的に向け、目を閉じて精神を集中させる。
ぐわーっと……ぐわーっと……。
体の中に、温かい力が集まってくるのを感じる。
そして。
「どーん!……って、あれ?呪文、なんだっけ?ええと、『ファイアボール』!」
半ば思い出したように、アッシュが呪文を唱えた、その瞬間。
ゴォォォオオオオオッ!!!
アッシュの掲げた木の枝の先から、もはや「火球」と呼べるような可愛らしいものではない、「炎の塊」いや、灼熱の太陽のような巨大な火球が出現した。その大きさは、馬車ほどもあるだろうか。
訓練場全体が、一瞬で真昼のように明るくなり、熱風が全生徒の髪を揺らす。
「なっ……!?」
エルネスト先生が目を見開く。アレクシスは、口をあんぐりと開けたまま固まっている。
そして、その巨大すぎるファイアボールは、ゆっくりと、しかし圧倒的な質量を持って、測定用の的に向かって飛んでいった。
ドッッッッッッッッッッッッッッッッッ!!!!!!!!!
轟音
衝撃
爆風
測定用の水晶の的は、直撃の瞬間に蒸発した。いや、的だけではない。
的が設置されていた台座も、その背後にあった訓練場の壁も、すべてがまとめて吹き飛んでいた。
壁の向こうには、青い空が広がっている。ぽっかりと、巨大な穴が開いてしまったのだ。
「…………」
「…………」
訓練場にいる全員が、言葉を失い、目の前の光景に凍り付いていた。貴族も、平民も、教官でさえも。
そんな静寂を破ったのは、張本人であるアッシュの、のんきな声だった。
「あれ?ごめんなさい。ちょっと、力加減を間違えちゃったみたいです」
ぺろり、と舌を出し、悪びれもなく笑うアッシュ。その手には、先端が少し焦げただけの、ただの木の枝が握られている。
吹き飛んだ壁の向こうから、涼しい風が吹き込んできた。それはまるで、これから始まるであろう、アッシュ・リンクスの波乱に満ちた学院生活を、高らかに告げるファンファーレのようだった。
「……お腹、すいたなあ」
誰にも聞こえないくらいの声で、アッシュが呟く。
彼の頭の中は、すでに昼食のことでいっぱいだった。
階下から聞こえる母親、リラの張りのある声で、アッシュはもぞもぞとベッドから這い出した。
「んー……あと五分……」
「五分なんて待ってる間に、お父さんがアッシュの分のベーコンエッグを食べちゃうよ!」
その言葉に、アッシュはガバッと飛び起きた。
「それだけは絶対ダメー!」
ドタドタと階段を駆け下りると、香ばしい匂いが鼻をくすぐる。
食卓では、すでに父親のダリオが新聞(という名のギルドの手配書まとめ)を読みながら、分厚いベーコンを口に運んでいるところだった。
「あっ、父さん!僕の分!」
「お、起きてきたか、アッシュ。おはよう。今日のベーコンは格別にうまいぞ」
「僕のも残ってる!?」
「当たり前だろ。ほら、母さんがお前のために、切ってくれたんだからな」
ダリオが指さす先で、母のリラが鼻歌交じりにパンを切っている。その手に握られているのは、鈍い銀色に輝く、使い古されたナイフ。
アッシュの家では、もう何十年も使われている普通のキッチンナイフだ。
ただ、そのナイフが、かつて魔王の心臓を貫いたと言われる伝説の金属「オリハルコン」でできていることなど、リンクス家の誰も知らない。
切れ味が良すぎて、母親は時々、うっかりまな板まで真っ二つにしてしまうのだが、「あら、また安物のまな板を買っちゃったわね」で済まされている。
「ほら、アッシュ。席に着きな。学院に遅刻するよ」
「はーい」
アッシュが椅子に座ると、目の前に完璧な半熟の目玉焼きが乗った皿が置かれた。
いただきます、と手を合わせ、フォークを手に取る。ふと、庭に目をやると、いつものように祖父が奇妙な体操をしていた。
「じいちゃん、今日も元気だなぁ」
アッシュの祖父は、かつて世界を救った「勇者」その人である。
しかし、本人はその地位や名誉にまったく興味がなく、引退後は王都の片隅で悠々自適の年金生活を送っていた。
その祖父が、庭で漬物石として使っているゴツゴツした黒い石。
それが、古代竜の猛攻さえも防いだと言われる国宝級のアーティファクト「絶対防御の結界石」だと知る者は、今や王宮の書庫の奥でホコリをかぶっている文献くらいのものだ。
先日も、祖父はその石で「今までで一番うまいキュウリの浅漬けができた」と大喜びしていた。
そんな規格外だらけの環境で育ったアッシュは、自分の家族が、そして自分自身が、どれほど普通ではないのか、まったくもって認識していなかったのである。
「ごちそうさまでした!じゃあ、行ってきまーす!」
「おお、行ってこい。帰りにギルドで新しい依頼書をもらってきてくれると助かる」
「わかったー!」
オリハルコンのナイフで切られたパンを鞄に詰め込み、アッシュは元気よく家を飛び出した。
伝説の勇者の血を引く、規格外の少年が、今日も今日とて、何も知らずに王立学院へと向かう。
王都アストリアは、今日も活気に満ち溢れていた。
石畳の道を、商人や騎士、そしてアッシュのような学院生が行き交う。
アッシュが通う王立学院は、この国の未来を担う若者たちが集う学び舎だ。
十五歳になるまで、貴族も平民も関係なく、剣術や魔法、そして歴史や数学を学ぶことができる。
……建前上は。
実際には、生徒の大半を占める貴族の子弟たちが、平民の生徒を見下し、派閥を作って威張り散らしているのが日常だった。
特に、アッシュのような平民で、なおかつ呑気な性格の持ち主は、格好の的になりやすい。
「おい、そこの平民。止まれ」
背後からかけられた、ねっとりとした声に、アッシュは首を傾げながら振り返った。
そこには、高級そうな制服を着こなした三人の男子生徒が、腕を組んでアッシュを見下ろしている。中心にいるのは、アレクシス・フォン・ヴァイス。
国内でも有数の公爵家の嫡男で、貴族生徒たちのリーダー格だ。
「ん?僕のこと?」
アッシュがきょとんとして聞き返す。
「貴様以外に誰がいる。今朝も汚い格好をしているな。我々と同じ空気を吸うだけでも不愉快だ」
アレクシスは、わざとらしく鼻をつまんで見せた。取り巻きの二人も、げらげらと下品に笑う。
普通の平民生徒なら、ここで青ざめて謝罪するか、悔しさに唇を噛むところだろう。しかし、アッシュは違った。
「え?汚いかな?母さんが毎晩、ゴシゴシ洗ってくれてるんだけどな。あ、もしかして、昨日食べたニンニクの匂いが残ってるのかも!ごめんごめん!」
あっけらかんとそう言って、アッシュはぺこりと頭を下げた。
あまりにも屈託のない、悪意の欠片もない反応に、アレクシスのほうが調子を狂わされる。
「なっ……!そういうことを言っているのではない!」
「じゃあ、どういうこと?」
こてん、と首をかしげるアッシュ。その純粋な瞳に見つめられ、アレクシスは言葉に詰まった。まるで、言葉の通じない動物と話しているような気分だ。
「ちっ……!もういい!行くぞ!」
アレクシスは忌々しげに吐き捨てると、取り巻きを連れてアッシュの横を通り過ぎて行った。その際、わざとアッシュの肩に強くぶつかろうとする。
しかし、その瞬間。
にゃーん。
一匹の猫が、アッシュの足元をすり抜けようとした。
「おっと、危ない!」
アッシュはひょいと身をかがめて猫をよける。その動きと、アレクシスがぶつかろうとしたタイミングが、奇跡的に一致した。
結果、アレクシスは勢いよく空振りし、前のめりによろけてしまう。
「うわっ!?」
「アレクシス様!?」
取り巻きたちが慌てて支えようとするが、間に合わない。アレクシスは、派手な音を立てて石畳に手をついた。
「い、痛てて……」
「大丈夫?怪我はない?」
アッシュが心配そうに声をかける。その顔には、やはり悪意のかけらもない。
アレクシスは、真っ赤な顔でアッシュを睨みつけた。
わざとやったのか?いや、しかし、こいつに限ってそんな知恵があるとは思えない。
だが、結果として自分は衆目の前で恥をかかされた。
「き、貴様ぁ……!覚えていろ!」
捨て台詞を残し、アレクシスたちは足早に学院へと去っていった。
その後ろ姿を見送りながら、アッシュはぽりぽりと頭をかく。
「なんだろう?怒ってたのかな?まあ、いっか。早く行かないと、一時間目の魔法実技に遅れちゃう」
猫ににこりと笑いかけると、アッシュもまた、学院の門へと足を向けたのだった。
自分が、公爵家の御曹司に完全に目をつけられたことなど、まったく気づかずに。
「いいか、諸君。今日の授業は、各自の魔力を測定する。魔法の基本は、己を知ることからだ」
魔法実技の担当教官であるエルネスト先生が、低い声で言った。
エルネスト先生は、厳格だが公平なことで知られ、生徒の身分で態度を変えることのない、数少ない教師の一人だ。
彼の前では、貴族たちもあまり露骨な態度はとらない。
広い訓練場には、十数個の水晶でできた的が設置されている。
生徒は順番に、その的に向かって初級の攻撃魔法「ファイアボール」を放ち、魔力の大きさを測定するのだ。
「では、ヴァイス君から。前に」
「はい」
エルネスト先生に呼ばれ、アレクシスが自信に満ちた足取りで前に出た。彼が手にしているのは、銀の装飾が施された、いかにも高価そうな黒檀の杖だ。
「見ていろ、平民ども。本物の魔法というものを見せてやる」
アレクシスは、アッシュたち平民生徒をちらりと見やり、鼻で笑う。そして、的に向かって杖を構えた。
「来たれ、炎の塊。『ファイアボール』!」
詠唱と共に、アレクシスの杖の先から、バスケットボールほどの大きさの火球が出現する。火球は唸りを上げて空中を走り、見事に的の中心に命中した。
バチィン!という音と共に、的の水晶がまばゆい光を放つ。
「おお……!」
生徒たちから感嘆の声が上がる。水晶に表示された数値は「85」。十二歳の初級魔法としては、かなり高い数値だ。
「ふん、まあ、こんなものか」
アレクシスは満足げに微笑み、自分の席に戻る。
その後も、貴族の生徒たちが次々と魔法を放っていくが、アレクシスの記録を超える者はいない。彼らは皆、親から買い与えられた立派な杖を手に、得意げに魔法を披露していた。
そして、ついに。
「次、リンクス君」
「はい!」
アッシュが元気よく返事をして、前に出た。その手には、杖と呼ぶにはあまりにも貧相な、ただの木の枝が握られている。
それは、祖父が庭の木の剪定をしたときに、「お、これは魔力が通りやすそうな良い枝じゃ。杖にでも使え」と言って、アッシュにくれたものだった。
もちろん、その木が、世界樹の分け木である「生命の古木」であることなど、祖父もアッシュも知らない。
アッシュの「杖」を見た瞬間、貴族の生徒たちからクスクスと笑い声が漏れた。
「なんだ、あの杖は。その辺で拾ってきたのか?」
「みすぼらしい……。さすが平民だな」
「あんなもので魔法が使えるのか?」
アレクシスも、腕を組んで冷笑を浮かべている。
しかし、アッシュはそんな周囲の嘲笑に全く気づいていない。彼はただ、エルネスト先生の指示通り、的の前に立った。
「(えーっと、ファイアボール、だったよな。じいちゃんが昔、焚火の火付けに便利だって言ってたやつだ)」
祖父が言うには、魔法のコツは「なんとなく、こう、ぐわーっとやって、どーん!と出す感じ」らしい。アッシュは、その教えを忠実に守っていた。
「よーし……」
アッシュは木の枝を的に向け、目を閉じて精神を集中させる。
ぐわーっと……ぐわーっと……。
体の中に、温かい力が集まってくるのを感じる。
そして。
「どーん!……って、あれ?呪文、なんだっけ?ええと、『ファイアボール』!」
半ば思い出したように、アッシュが呪文を唱えた、その瞬間。
ゴォォォオオオオオッ!!!
アッシュの掲げた木の枝の先から、もはや「火球」と呼べるような可愛らしいものではない、「炎の塊」いや、灼熱の太陽のような巨大な火球が出現した。その大きさは、馬車ほどもあるだろうか。
訓練場全体が、一瞬で真昼のように明るくなり、熱風が全生徒の髪を揺らす。
「なっ……!?」
エルネスト先生が目を見開く。アレクシスは、口をあんぐりと開けたまま固まっている。
そして、その巨大すぎるファイアボールは、ゆっくりと、しかし圧倒的な質量を持って、測定用の的に向かって飛んでいった。
ドッッッッッッッッッッッッッッッッッ!!!!!!!!!
轟音
衝撃
爆風
測定用の水晶の的は、直撃の瞬間に蒸発した。いや、的だけではない。
的が設置されていた台座も、その背後にあった訓練場の壁も、すべてがまとめて吹き飛んでいた。
壁の向こうには、青い空が広がっている。ぽっかりと、巨大な穴が開いてしまったのだ。
「…………」
「…………」
訓練場にいる全員が、言葉を失い、目の前の光景に凍り付いていた。貴族も、平民も、教官でさえも。
そんな静寂を破ったのは、張本人であるアッシュの、のんきな声だった。
「あれ?ごめんなさい。ちょっと、力加減を間違えちゃったみたいです」
ぺろり、と舌を出し、悪びれもなく笑うアッシュ。その手には、先端が少し焦げただけの、ただの木の枝が握られている。
吹き飛んだ壁の向こうから、涼しい風が吹き込んできた。それはまるで、これから始まるであろう、アッシュ・リンクスの波乱に満ちた学院生活を、高らかに告げるファンファーレのようだった。
「……お腹、すいたなあ」
誰にも聞こえないくらいの声で、アッシュが呟く。
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