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第26話 囁きの湿原
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盗賊たちが教えてくれた近道――『囁きの湿原』の入り口に、アッシュたち三人は立っていた。
一歩足を踏み入れた瞬間、陽光に満ちた街道とは、空気が一変する。ねじくれた木々が空を覆い、太陽の光を遮っていた。湿った土と、淀んだ水の匂い。そして、不気味な葦が風にそよぐ音が、まるで誰かの囁き声のように、絶えず耳にまとわりついてくる。
「ここが、『囁きの湿原』……。本で読んだ通りだわ。方向感覚を狂わせる魔力の霧と、水棲の魔獣の縄張り……」
リリアナは、警戒を強め、教科書で学んだ知識を思い返す。
「油断するな。二人とも、僕から離れるんじゃないぞ」
アレクシスは、剣の柄に手をかけ、庇護者として振る舞おうとする。
「わあ!なんだか、お化け屋敷みたいでワクワクするね!」
アッシュだけが、いつも通りの呑気さで、辺りをきょろきょろと見回していた。
湿原の奥へと進むと、すぐに、リリアナが警戒していた魔力の霧が、三人を包み込んだ。
視界は、ほんの数メートル先までしか効かない。囁き声は、すぐ耳元で聞こえるようになり、どこから聞こえるのかも判別できなくなっていた。
「くそっ、これでは……」
アレクシスは、方位磁石を取り出すが、針は意味もなくくるくると回転するばかりだ。リリアナが灯した小さな光の魔法も、濃い霧に吸い込まれるように、すぐに掻き消えてしまう。
彼らは、あっという間に、自分たちがどこへ向かっているのか、わからなくなってしまった。
「完全に、道に迷ったみたいね……」
リリアナが、不安そうな声を上げる。
しかし、アッシュは、全く平気だった。彼は、目や魔法に頼っていなかったからだ。
「大丈夫だよ!こっちの地面の方が、少しだけ硬い感じがするし、あっちの囁き声は怒ってるみたいだけど、こっちの囁き声は楽しそうに歌ってるから、こっちが進む道だよ!」
彼は、無意識のうちに、大地の気の流れを「地面の硬さ」として、魔獣の縄張りが放つ危険なオーラを「怒った声」として、そして、安全な道の気の流れを「楽しそうな歌」として、感じ取っていた。
リリアナとアレクシスは、半信半疑のまま、アッシュの後についていく。
すると、どうだろう。アッシュが「楽しそうな道」を選ぶたびに、彼らは、ぬかるみや、危険な魔物の巣を、まるで奇跡のように回避し、着実に湿原の奥へと進んでいくのだった。
やがて、アッシュの「勘」が、三人を、濁った水が広がる、大きな沼地へと導いた。
対岸へ渡るには、古くて、今にも切れそうな一本の吊り橋を渡るしかない。
三人が、慎重に吊り橋へと足を踏み入れた、その時だった。
沼地の水面が、ごぼり、と大きく泡立ち、中から、巨大な何かが姿を現した。
ぬらぬらとした無数の触手と、その中心にある、飢えた光を宿した巨大な目。この湿原の主、『沼の潜むもの(フェン・ラーカー)』だ。
その触手の一本が、鞭のようにしなり、三人が渡っていた吊り橋を、いとも簡単に粉砕した。
アッシュは対岸に、リリアナとアレクシスは、手前側に取り残される形になる。
「アッシュ君、逃げて!」
リリアナが、火の魔法を詠唱しながら叫ぶ。
しかし、沼の主は、二人には目もくれず、一番近くにいる獲物であるアッシュに、その巨大な体を向け、襲いかかろうとしていた。
絶体絶命の状況。
だが、アッシュは、巨大な魔獣を前にしても、全く恐怖を感じていなかった。彼の頭の中は、全く別のことでいっぱいだった。
「(うわあ、大きなタコみたいだ……。じいちゃんが、昔、巨大なイカで塩辛を作ってくれたことがあったなあ……)」
そんな食欲に満ちた思考が、ふと、別のものに切り替わる。
彼は、沼の主の、太い触手の一本に、何かが突き刺さっているのを見つけた。
それは、古びて錆びついた、魔法の銛の穂先。暗い呪いの魔力を放ち、沼の主に、絶えず苦痛を与え続けているのが、アッシュには、なぜか、わかった。
「なんだ……。この子、ずっと痛かったんだ……」
「アッシュ君、危ない!」
リリアナの悲鳴を背に、アッシュは、誰もが予想しない行動に出た。
彼は、破壊された吊り橋の残骸から、沼の主の、巨大な背中へと、ひょいと飛び移ったのだ。
「大丈夫だよ!今、それを取ってあげるからね!」
暴れる巨体の上を、完璧なバランスで駆け抜けると、アッシュは、問題の触手にたどり着いた。そして、深く突き刺さった、呪いの銛に、両手をかける。
普通の人間の力では、びくともしないだろう。
しかし、アッシュは、庭の雑草を引き抜くかのように、んーっ、と、ただ、まっすぐに、それを引き抜いた。
彼の純粋な生命エネルギーが、銛にかけられた、古い邪悪な呪いを、一瞬にして中和する。
呪いを失った銛は、ずぶり、と生々しい音を立てて、沼の主の肉体から抜け落ちた。
その瞬間、沼の主の動きが、ぴたりと止まった。
長年、自分を苦しめ続けてきた痛みが、消えた。
怒りに満ちていたその巨大な目は、戸惑い、そして、安堵の色へと変わっていく。
巨大な魔獣は、自分の背中に乗っている、小さな少年を見つめた。
そして、感謝を示すかのように、一本の触手を優しく伸ばすと、アッシュの体をそっと掴み、対岸にいるリリアナとアレクシスの元へと、安全に送り届けた。
「ぐるる……」と、穏やかな鳴き声を一つ残し、湿原の主は、静かに、濁った水の中へと姿を消していった。
リリアナとアレクシスは、ただ、呆然と、その光景を見つめていた。
彼らは、この湿原の主と、命がけで戦うことを覚悟していたのだ。それが、まさか、アッシュによる、無償の「治療」によって、解決するなど、誰が想像できただろうか。
アッシュは、手の中に残った、錆びた銛の穂先を眺めながら、呑気に言った。
「これ、すごく古いみたいだけど、骨董品として売れないかな?売れたら、みんなでケーキが食べられるんだけどなあ」
彼の、規格外の旅は、今日も、彼の優しさと、そして、本人も知らない絶大な力によって、誰も予想できない方向へと、進んでいくのだった。
一歩足を踏み入れた瞬間、陽光に満ちた街道とは、空気が一変する。ねじくれた木々が空を覆い、太陽の光を遮っていた。湿った土と、淀んだ水の匂い。そして、不気味な葦が風にそよぐ音が、まるで誰かの囁き声のように、絶えず耳にまとわりついてくる。
「ここが、『囁きの湿原』……。本で読んだ通りだわ。方向感覚を狂わせる魔力の霧と、水棲の魔獣の縄張り……」
リリアナは、警戒を強め、教科書で学んだ知識を思い返す。
「油断するな。二人とも、僕から離れるんじゃないぞ」
アレクシスは、剣の柄に手をかけ、庇護者として振る舞おうとする。
「わあ!なんだか、お化け屋敷みたいでワクワクするね!」
アッシュだけが、いつも通りの呑気さで、辺りをきょろきょろと見回していた。
湿原の奥へと進むと、すぐに、リリアナが警戒していた魔力の霧が、三人を包み込んだ。
視界は、ほんの数メートル先までしか効かない。囁き声は、すぐ耳元で聞こえるようになり、どこから聞こえるのかも判別できなくなっていた。
「くそっ、これでは……」
アレクシスは、方位磁石を取り出すが、針は意味もなくくるくると回転するばかりだ。リリアナが灯した小さな光の魔法も、濃い霧に吸い込まれるように、すぐに掻き消えてしまう。
彼らは、あっという間に、自分たちがどこへ向かっているのか、わからなくなってしまった。
「完全に、道に迷ったみたいね……」
リリアナが、不安そうな声を上げる。
しかし、アッシュは、全く平気だった。彼は、目や魔法に頼っていなかったからだ。
「大丈夫だよ!こっちの地面の方が、少しだけ硬い感じがするし、あっちの囁き声は怒ってるみたいだけど、こっちの囁き声は楽しそうに歌ってるから、こっちが進む道だよ!」
彼は、無意識のうちに、大地の気の流れを「地面の硬さ」として、魔獣の縄張りが放つ危険なオーラを「怒った声」として、そして、安全な道の気の流れを「楽しそうな歌」として、感じ取っていた。
リリアナとアレクシスは、半信半疑のまま、アッシュの後についていく。
すると、どうだろう。アッシュが「楽しそうな道」を選ぶたびに、彼らは、ぬかるみや、危険な魔物の巣を、まるで奇跡のように回避し、着実に湿原の奥へと進んでいくのだった。
やがて、アッシュの「勘」が、三人を、濁った水が広がる、大きな沼地へと導いた。
対岸へ渡るには、古くて、今にも切れそうな一本の吊り橋を渡るしかない。
三人が、慎重に吊り橋へと足を踏み入れた、その時だった。
沼地の水面が、ごぼり、と大きく泡立ち、中から、巨大な何かが姿を現した。
ぬらぬらとした無数の触手と、その中心にある、飢えた光を宿した巨大な目。この湿原の主、『沼の潜むもの(フェン・ラーカー)』だ。
その触手の一本が、鞭のようにしなり、三人が渡っていた吊り橋を、いとも簡単に粉砕した。
アッシュは対岸に、リリアナとアレクシスは、手前側に取り残される形になる。
「アッシュ君、逃げて!」
リリアナが、火の魔法を詠唱しながら叫ぶ。
しかし、沼の主は、二人には目もくれず、一番近くにいる獲物であるアッシュに、その巨大な体を向け、襲いかかろうとしていた。
絶体絶命の状況。
だが、アッシュは、巨大な魔獣を前にしても、全く恐怖を感じていなかった。彼の頭の中は、全く別のことでいっぱいだった。
「(うわあ、大きなタコみたいだ……。じいちゃんが、昔、巨大なイカで塩辛を作ってくれたことがあったなあ……)」
そんな食欲に満ちた思考が、ふと、別のものに切り替わる。
彼は、沼の主の、太い触手の一本に、何かが突き刺さっているのを見つけた。
それは、古びて錆びついた、魔法の銛の穂先。暗い呪いの魔力を放ち、沼の主に、絶えず苦痛を与え続けているのが、アッシュには、なぜか、わかった。
「なんだ……。この子、ずっと痛かったんだ……」
「アッシュ君、危ない!」
リリアナの悲鳴を背に、アッシュは、誰もが予想しない行動に出た。
彼は、破壊された吊り橋の残骸から、沼の主の、巨大な背中へと、ひょいと飛び移ったのだ。
「大丈夫だよ!今、それを取ってあげるからね!」
暴れる巨体の上を、完璧なバランスで駆け抜けると、アッシュは、問題の触手にたどり着いた。そして、深く突き刺さった、呪いの銛に、両手をかける。
普通の人間の力では、びくともしないだろう。
しかし、アッシュは、庭の雑草を引き抜くかのように、んーっ、と、ただ、まっすぐに、それを引き抜いた。
彼の純粋な生命エネルギーが、銛にかけられた、古い邪悪な呪いを、一瞬にして中和する。
呪いを失った銛は、ずぶり、と生々しい音を立てて、沼の主の肉体から抜け落ちた。
その瞬間、沼の主の動きが、ぴたりと止まった。
長年、自分を苦しめ続けてきた痛みが、消えた。
怒りに満ちていたその巨大な目は、戸惑い、そして、安堵の色へと変わっていく。
巨大な魔獣は、自分の背中に乗っている、小さな少年を見つめた。
そして、感謝を示すかのように、一本の触手を優しく伸ばすと、アッシュの体をそっと掴み、対岸にいるリリアナとアレクシスの元へと、安全に送り届けた。
「ぐるる……」と、穏やかな鳴き声を一つ残し、湿原の主は、静かに、濁った水の中へと姿を消していった。
リリアナとアレクシスは、ただ、呆然と、その光景を見つめていた。
彼らは、この湿原の主と、命がけで戦うことを覚悟していたのだ。それが、まさか、アッシュによる、無償の「治療」によって、解決するなど、誰が想像できただろうか。
アッシュは、手の中に残った、錆びた銛の穂先を眺めながら、呑気に言った。
「これ、すごく古いみたいだけど、骨董品として売れないかな?売れたら、みんなでケーキが食べられるんだけどなあ」
彼の、規格外の旅は、今日も、彼の優しさと、そして、本人も知らない絶大な力によって、誰も予想できない方向へと、進んでいくのだった。
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