「婚約破棄します」その一言で悪役令嬢の人生はバラ色に

有栖川灯里

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「……視察?」

その知らせを受けたのは、朝の診療指導を終えた直後だった。

ユリアが手にしていた公文書には、整った筆致でこう記されていた。

《本学び舎の設立理念に感銘を受け、王都より監査役を派遣いたします。  
視察は形式的なものであり、当方の立場に影響を与える意図はございません──》

「“影響を与える意図はない”。……意図があるときの常套句ですね」

私が皮肉をこぼすと、隣にいたノエルが肩をすくめた。

「王妃陛下の差し金だ。おそらく、あんたの“孤立”を確認したいんだろうよ。  
王家に頼らずどこまでやれるのか、どこまで本気なのか」

「あるいは、内部から崩せると見ているのかもしれません」

ユリアが険しい表情で続ける。

「“表の顔は監査、裏の顔は密偵”。かつて王都でよく見た構図です」

私は頷いた。

「ええ。だから、こちらも“表の顔”でお出迎えしましょう。  
この場所が、どれほど“監視に耐えうる自由”でできているかを見せてあげましょう」

──数日後。

視察と称して現れたのは、一人の若い男だった。  
銀の徽章を胸に、神殿書記官としての肩書きを持つ、痩身の青年。

「はじめまして。クラウス=レイネルトと申します。  
学び舎の活動に関心があり、陛下の命により参りました」

「ようこそ。私はエヴァリーナ=ヴァイセローゼ、この施設の責任者です」

私が差し出した手を、彼はごく自然に取った。  
その所作には、慇懃さも、不躾さもなかった。

だが──その目だけが、静かにこちらを計っていた。

「よく整った施設ですね。薬草の分類が王都式とは違うのが印象的です」

「王都の様式に倣うと、古い概念に引きずられることが多くて。  
ここでは“使う者に合わせて、定義を組み直す”ことを重視しているんです」

「……自由で、興味深い考え方ですね」

視察は丸一日続いた。  
ルークを含めた子どもたちにも、彼は静かに質問を重ねていった。

だが私は気づいていた。

──彼は、“子どもたちの心”ではなく、“指導者の影響力”を見ている。

視察の終わり、彼は一言だけこう言った。

「……王妃陛下は、“あなたがどれほど王都から離れても”、常に見ていると仰っていました」

「それは、“評価されている”という意味か、“見逃されていない”という意味かしら?」

「……両方です。ですが私個人としては、あなたがここで育てているものを──興味深く見守りたいと思っています」

そして彼は、風のように去っていった。

ユリアが少しだけ眉をひそめた。

「正体は明かさず、意図も断定させない。……まるで王妃陛下の分身のような男ですね」

「けれど、あの人は“破壊しに来た”のではない。  
──“揺さぶることで確かめに来た”。それだけです」

私は静かに空を見上げた。

この場所が、どれだけの目にさらされても揺るがないように。  
私はここで、ただ“育てること”を選び続ける。

自由とは、隠れることではない。  
あらゆる視線に耐えて、それでも“信じるものを示し続けること”。

そう決めた時から、私はもう、“役”では生きていないのだから。
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