「婚約破棄します」その一言で悪役令嬢の人生はバラ色に

有栖川灯里

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その男が訪れたのは、曇り空の午後だった。

「ルートヴィヒ様はいらっしゃいますか?」

初老の男は、控えめな声ながら確かな確信をもってそう言った。

「失礼ですが、どちら様でしょうか」

ユリアが応対に立ち、私はその声にすぐ隣室で気配を止める。

「私は、フォルケン伯爵家の執事を務めております。  
数ヶ月前に失踪した庶子の捜索を命じられており……この地にいるとの報せを受けまして」

──ルーク。

私は無言でユリアに目配せし、来客を応接室に通すよう指示した。

そしてすぐに、ノエルを呼び、ルークを見つけてくるよう伝える。

「見つけたら……隠すのか?」

「いいえ。向き合わせるわ。ただし、“どちらの名前を選ぶか”は彼自身に決めさせる」

やがて連れてこられた少年は、わずかに唇を噛んだまま、私の後ろに立った。

執事の目が揺れる。

「やはり……ルートヴィヒ様」

「僕は──ルークです」

少年はかすれた声で言った。

「名前も、生き方も、自分で選びたくてここに来たんです。  
“ルートヴィヒ”として戻っても、誰も僕の声を聞いてくれないから」

「ですが、それでは家の名が……!」

「家が、僕を名乗らなかったのです。  
僕は“名を与えられた”のではなく、“名を押しつけられた”だけでした」

エヴァリーナはその言葉を受け取り、一歩前に出る。

「こちらでは、過去の戸籍や爵位は関係ありません。  
私たちは“ここで何をするか”だけを見ます。  
──それでも、連れて行かれますか?」

執事の顔に葛藤が浮かぶ。

「……坊ちゃまのお姉さまが病弱でなければ、本家の目にも留まらなかったのでしょう。  
私が言う資格もありませんが、あの家では……坊ちゃまが“誰にもならないまま”歳を重ねるだけです」

ルークが一歩前に出た。

「それでも、僕はもう“誰かにとって不要な子”じゃない。  
ここで、薬師になるって決めたんです。──ルークとして生きることを、選びました」

長い沈黙の末、執事は深く頭を下げた。

「……では、ここでのご様子を手紙にてご報告いたします。  
“ルートヴィヒ様は、遠くで立派に暮らしている”と」

そして、静かに去っていった。

ドアが閉まり、重たい空気が解けたあと。

「お嬢様……ありがとうございます」

ルークが震える声で言った。

私はその小さな背中に手を置く。

「ありがとうを言うのは、私の方。あなたの選んだ“ルーク”という名前が、こんなにも強かったから」

──私はかつて、“名前を与えられた者”だった。

今、私が“名前を選んだ誰か”を守れたことが、何より誇りだった。

そして確かに、この学び舎には今──  
かつての私が欲しかった“未来の形”が、少しずつ育ちはじめている。
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