悪役令嬢の休暇は婚約破棄から始まります

有栖川灯里

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帝都の尖塔せんとうが、冬の星座を突き刺さんばかりに聳え立っている。

 今夜、帝国の社交界はその心臓部である琥珀こはく宮にて、一際華やかな祝宴しゅくえんを催していた。大広間の床は、磨き抜かれた大理石が鏡のように磨かれ、行き交う貴族たちの虚栄と嬌声きょうせいを、無慈悲なまでに反射している。

「……見て。あの女性が、北の地で『奇跡』を起こしたという例の……」

「王国を追放された公爵令嬢だとか。信じられないわ、あのような峻烈しゅんれつな美貌の持ち主が、数字と帳簿を友としているなんて」

 騒めきの中を、ディアナ・グラナードは静かに歩んでいた。

 彼女が纏うのは、北の夜空を切り取ったかのような深い紺青こんじょうのドレスである。装飾は極限まで削ぎ落とされ、ただ胸元に揺れる一粒の氷晶ひしょう石が、彼女の冷徹な知性を象徴するように鋭い光を放っていた。王国の社交界で「悪役」と蔑まれていた頃の、どこか刺々しい雰囲気は影を潜め、今の彼女には、自らの手で秩序を築き上げた者特有の、揺るぎない静謐せいひつさが宿っている。

「……殿下。この空気、やはり私の性分には合いませんわ。呼吸をするたびに、他人の下卑げびた好奇心が肺に溜まっていくようです」

 ディアナは、隣を歩くシルヴァンに、扇を口元に寄せて囁いた。

「我慢してくれ、ディアナ。貴女がアデルハイドで行った改革は、すでに皇帝陛下の耳にも届いている。今夜の主役は、紛れもなく貴女だ」

 シルヴァンは、軍服の襟を正しながら、満足げに微笑んだ。

「主役、ですか。……ふふ。見世物小屋の珍しいけものの間違いではなくて? 私はただ、散らかった部屋を片付けたに過ぎませんわ。それを『奇跡』などと呼ぶ帝国の感性こそ、再教育が必要かもしれませんわね」

「相変わらず手厳しいな。……だが、見てごらん。貴女に視線を送っているのは、好奇心旺盛な婦人方だけではない。帝国の財務を司る重鎮たちが、貴女という名の『知性の権化ごんげ』に、今にも跪かんばかりだ」

 シルヴァンの言葉通り、広場の隅に陣取る高官たちは、ディアナの挙動一つ一つを、まるで聖典でも読み解くかのような真剣な眼差しで追っていた。彼らにとって、数千マイルに及ぶ街道の物流を、わずか数日で正常化させた彼女の手腕は、いかなる軍事的勝利よりも驚異きょういに値するものであった。

「ディアナ・グラナード嬢。……貴女の噂は、風に乗って我が耳にも届いておりますぞ」

 声をかけてきたのは、帝国の財務尚書ざいむしょうしょ、ハルトマン伯爵であった。白髪を整然と蓄えた老人は、ディアナの前で深々と頭を下げた。

「北部の収支報告書、拝読いたしました。……あれはもはや、行政文書ではなく、一つの叙事詩じょじじですな。無駄のない数式、完璧な整合せいごう性。……失礼ながら、我が帝国の役人百人を集めても、貴女の片手にも及ばぬでしょう」

「……恐縮ですわ、伯爵。ですが、あれは詩ではなく、ただの事実の羅列です。事実を事実として記述する。それだけのことが、なぜこれほどまでに称賛されるのか、私には理解に苦しみますわ」

 ディアナは、淡々と応じた。その冷淡なまでの謙虚さが、かえって伯爵の感銘を深くしたようであった。

「その『当たり前』を完遂できる人間こそが、真の天才なのです。……どうでしょう、近いうちに一度、帝都の造幣ぞうへい局を見学に。貴女のその鋭い審美眼で、我が国の膿を剔抉てっけつしていただきたい」

「あら、それは『休暇』の延長線上のアクティビティとしてカウントしても宜しくて? もしそうなら、考えておきますわ。……殿下、次から次へと、私の『休み』を削り取るハエどもが寄ってきますわよ」

 ディアナは、シルヴァンを睨みつけた。

「ハエとは失礼な。彼らは皆、貴女の知性に魅了みりょうされた信徒たちだよ。……ディアナ、貴女は自覚していないようだが、貴女が数字を整理する時、その瞳には神々こうごうしいまでの光が宿るのだ」

 シルヴァンは、ディアナの手を取り、広場の中央へと導いた。

「今夜だけは、数字のことは忘れなさい。……この音楽と、この光。そして、貴女が作り出したこの穏やかな平穏へいおんを、ただ味わうといい」

 楽団が奏でる旋律が、大広間の空気を優雅に揺らす。ディアナは、シルヴァンのリードに身を任せながら、ゆっくりとステップを刻んだ。

 かつて王国の夜会で、ヴィンセントの足を踏まないように細心の注意を払い、彼の虚栄心を傷つけぬよう卑屈ひくつな笑みを浮かべていた自分は、もうどこにもいない。

 今、彼女を包んでいるのは、確かな実力に裏打ちされた自負と、それを正当に評価する他者の眼差しであった。

「……ふふ。悪くありませんわね、帝国の夜も」

 ディアナは、シルヴァンの肩越しに、きらめくシャンデリアを見上げた。

 王国の悪役令嬢は、今や帝国の至宝しほうとして、その輝きを放ち始めていた。彼女の「休暇」は、本人の意図とは裏腹に、世界を書き換えるための壮大な序章じょしょうへと変貌を遂げていたのである。
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