12 / 51
長編版
12 もう一つの攻防戦①
しおりを挟む
まったく、あの方は。
去り行く広い背中へと呆れた目を向けた。
目の前で池に落ちた女生徒がいて、手を差し伸べるのは悪いことではないが、あそこは僕に命令するべきところだ。なぜご自身が手を伸ばしてしまわれるのか。
そもそも、せっかく婚約者の手に触れる機会を作って差し上げたのに、放り投げるとは……手の施しようがない。
ああ、いや。さっきは頑張っていたな。もう少しリシュフィ嬢が大人しくしていれば最後まで伝えられただろうに。……まぁ、とても綺麗だと伝えたところで、リシュフィ嬢なら「存じ上げております」の一言で済まされてしまいそうだけど。
「あの娘は……」
主君への同情心に苛まれる僕の耳に、深い嫌悪の滲む声が届いた。僕と共に残った一人のルビーのような瞳は一点に亜麻色の後ろ姿を捉えている。
「ああ。あれが噂の娘だね。知らぬは本人達ばかりなり、だ」
どうやら声を出したのは無意識だったらしい。エレシア嬢は僕へと一瞬慌てたように目だけ向け、貴族令嬢にあるまじきことだが眉を寄せて、不快感をあらわにした。
「…………」
返事は返してくれないか。まぁ、いいけど。
「リシュフィ嬢の人の良さは天井知らずだな。あのストール。学園の制服一式買い揃えてもお釣りが来るだろうに」
それで池の水を拭うなんて僕でもしない。汚れた泥水ではないにせよ、蓮の葉の浮く池には多数の子魚が泳ぎ、水面を足の長い虫が滑るように這っている。
僕の意図に気付いたらしいエレシア嬢が些か急ぎ気味に礼を執った。
「わたくしも下がらせていただきます。ご機嫌よう」
急いで一歩踏み出した。
橋の出口は一つしかない。そこを塞いでしまえば、エレシア嬢は去ることが出来ない。鋭く睨みつけられ、美しく彩られた唇には嘲笑が浮かんだ。
「人の行く手を遮るなど、あまりに失礼ではありませんか。新参のスコット家の方にこのような礼儀を説いたところで無意味かしら」
「無礼は謝罪するよ。でも少しくらい話をしてくれてもいいだろう?」
笑顔を浮かべて言う。十人の令嬢に向ければ十人ともが同じ笑顔を返してくれるだろう自信のある笑顔だが、この人には逆効果だ。
エレシア嬢は表情から嘲りを消し、僕に対する嫌悪を深めた。
「お家を侮辱されて笑っていられるなど、わたくしには理解できません」
「本心で言っている言葉じゃないのだから、腹を立てる必要なんてないよ。──僕に嫌われようとしても無駄だって、何度言わせる気?」
「仰せの意図はわたくしには図りかねます。お話することなど、わたくしにはありません。道を開けてください。迷惑です」
大公爵家に生まれ、貴族令嬢の模範ともいわれている彼女に『迷惑だ』とまで言わせるとは。さすがに堪える。
「……せめて寮まで送らせてくれないかな?」
「無用です。あなた様とわたくしは──他人ではありませんか。そのようなことをしていただく謂れはございません」
まるで鞭を打たれたようだ。エレシア嬢はそっと脇をすり抜けて、立ち去ってしまった。
何重にも鎧を着ているかのような拒絶を纏う背中に声をかけられない。
「僕も、殿下を馬鹿にはできないな」
いや、追いかけていった殿下のほうがよほどご立派か。
僕は追いかける資格すら、持ち得ていないのだから。
十年前の王太子殿下の婚約お披露目パーティーには、僕も当然参加していた。
僕は殿下と親しい友人であると同時に公爵家の嫡男であり、殿下が王となられたら最もお近くで仕えることになる立場だ。
だからその主君の伴侶は僕にとっても非常に重要なお相手となる、のだが。
ご立派に王太子として挨拶に応じる殿下を盗み見る。その後ろに控えるのは、今まで見たことがないほど美しいご令嬢だ。
レストリド公爵家のご令嬢は体が弱いとのことで、これまで屋敷から出たことがないという話だった。ならば殿下と初めて会ったのはきっと婚約が決まったあと、ということになるだろう。だからなのか。殿下と婚約者殿との間には見えない壁のようなものが見えた。
両親と共に挨拶に向かった際も、丁寧なお礼をいただいたが、特に親しいという雰囲気はなかった。
しかしそれでも、あの女が婚約者となるよりはマシか、と思っていた。
エレシア・エドワーズ公爵令嬢。
馬鹿な者どもが彼女を褒め称し、それを当然のように受け止める。子供だけの茶会の女王様だ。
大人達のいない茶会では僕はいつも殿下と共に話をしたり、駆けたりして遊ぶことが多いのだが、いつもこの女の邪魔が入る。
「ご友人方とばかりお話されていては、寂しいです。わたくしともお話してくださいませ」
不遜にも殿下の腕を引いて、まるで駄々をこねる子供のように言われる言葉に、僕は内心苛立ちと不快さを感じていた。腕を掴まれる殿下はなおのことだろう。
他人が自分をなによりも優先して当たり前という心のうちが透けて見えて、どうにもこの女が好きにはなれなかった。
いくら婚約者との仲が良くなかろうとも、あんな女が未来の王太子妃とならずに済んで良かったと幼心にも思っていた。
あらかた挨拶が済んだところで、そっと隣に立つ両親に「外の空気を吸いに、庭園へと行ってきても良いですか」と尋ねる。
いつも厳しくも優しい父は「いいよ」と軽く頷いた。
「ただし、殿下をお誘いしてはいけないよ。殿下はとてもお忙しくていらっしゃるからね」
「当然のことです。僕はそのようなこともわからない子供ではありません」
ほんの少し憤慨して抗議すれば、苦笑した父に頭を撫でられた。それすらも子供扱いが煩わしくて、逃げるように庭園へと足を運ぶ。
後ろから「息子が立派に育って嬉しいとみるべきか、寂しいとみるべきか。複雑な父心だなぁ」と嘆きの声がした。
王宮の庭園はいくつもあるが、ここは生垣が高く、八歳の僕にとってはまるで迷路だ。
あまり奥深くまで入り込んでは迷子になってしまいそうだが、道を覚えるのは得意だ。まず迷いはしないだろう。
ズンズンと進んだところで、何やら人の声がした。興味を覚えて足音を消す。
父から、こういった催し物で密やかに交わされる会話には耳をすませておけと教えられていた。
常識では考えられないことだが、どこの家の誰が誰と不仲であり、どこの家の奥方とあの家の貴公子は密かに通じている、などの情報は持つだけ損はないと父は口癖のように言っていたのだ。
父のこういった抜け目のないところは嫌いではない。面白そうな話なら耳打ちして差し上げようと、そっと声のする方へとにじり寄った。
声の主は周りを顧みずに大声で喚いている。
野太く響くこの声は──エドワーズ公爵閣下だ。
そう思った時、パンッと破裂するような音がした。
「みすみす王太子殿下の婚約者の座を奪われおって! この愚か者が!!」
破裂音と共に聞こえてきたのは、罵倒だった。
「お館様、声を抑えてくださいませ。このような場でそのように声を荒げては、誰の耳目があるやも分かりませぬ」
冷静に公爵閣下を宥めるのは、エドワーズ家の家令だ。
注意を払って更に身を乗り出す。しかし高い生垣が邪魔をして、公爵閣下と家令しか見えない。
では、今の破裂音はなんだ……?
公爵閣下の目線は生垣の下へと向けられている。
「よいか。レストリドの娘と親しくなるのは悪くない。上手く近付いて、殿下のお心を射止めるのだ」
「しかしそれではレストリド家との間に軋轢が生じる恐れも……」
「殿下ご自身が心を移したのなら責められる謂れはない。レストリドの娘に魅力のなかったというだけの話だ。──よいな。必ず殿下を奪いとれ。お前は娘に生まれたのだから、そのくらいは私の役に立つのだ」
「はい。お父様」
見えない第三者の静かな声に、体が硬直して動かなくなった。ぞわりと鳥肌が立つような、背筋に冷たいものが走るような感覚だった。
返答に満足したのか、エドワーズ公爵は身を翻してパーティー会場へと戻って行き、その場には見えない声の主と家令だけが残った。
「……お嬢様。お館様はお嬢様のためを思って──」
「わかっているから、早く馬車の用意をお願い。これでは人前に出られませんから、今日はもう屋敷へ帰ります」
喚くばかりの父親とは違う、芯の通った声に命じられて、家令もその場を後にした。
しかし声の主は動かない。それを確認して、パーティー会場へと急ぎ足で取って返した。
破裂音と、人前に出られないという言葉。
その意味は明らかだった。
目当てのものを手に取り、またさっきの生垣の元へと戻る。もういないかもしれない。けど、体が動くのを止められなかった。
自らが立てる足音に頓着せずに声の主を探す。
角を曲がり、やっと低い位置にある黒い巻き髪を見つけた時、左手を頰に当てうずくまる姿に、なんとも言えない気持ちになった。
丸く見開かれた綺麗なルビーの瞳に、僕が映った。
声の主はひどく狼狽した様子で逃げるか挨拶を交わすかで悩んだようだった。
今なら頬の怪我は誤魔化しが効くと思ったのだろう。
黙って、わざわざ取りに戻ったものを差し出した。
取りに戻ったのは冷たい飲み物の入ったグラスだ。女性に差し出してもおかしくはない。けど、これは当然飲むために差し出したわけじゃない。
エレシア・エドワーズ公爵令嬢は頭の良い女の子だった。
僕のその行動だけで、頬の怪我の理由を知られていると判断したらしい。
頰に怪我だけではない赤みが増して、瞳が潤んだ。
この時の僕にはその表情の意味がわからなかったけど、今ならわかる。
この貴族然とした八歳の女の子は、父親の醜態を他人に見られて恥ずかしかったのだ。
またグラスを突きつけるように渡す。
しかしエレシア嬢は受け取らない。
もどかしくなって無理に頬の手を剥ぎ取り、グラスを頰に押し付けた。
「……早く冷やさないと、腫れるよ」
言い訳が口をついて出た。嫌がる女の子に無理に我を通すことへの、罪悪感からの言い訳だった。
グラスから移った雫が頬を伝い、丸みのある顎から地面へと落ちる。
それだけの時間、二人でグラスを押さえ、静かに佇んでいた。
こちらに駆けてくる足音がして、エレシア嬢の体が揺れた。
どうやら家令が戻ってきたらしい。
グラスは頰から離されて僕へと押し付け返された。
エレシア嬢があまりにも不安そうに顔色を変えるから、僕はすぐにその場を立ち去ろうと身を翻した。
手に、小さな手が重なった。
「ありがとうございます。……アシュレイ様」
そう言ったエレシア嬢のルビーのような瞳はひどく潤んでいて、言葉が出ない。うんと頷き、その場から逃げた。
この時、走りながら心の内に湧き上がった感情の名前を、僕はまだ知らなかった。
以来、エレシア嬢に対する見る目は変わった。
相変わらず僕と殿下が共にいると邪魔をしにきていたが、煩わしく思うことはなくなった。
そうしなければ父親に叱られるのかと思えばむしろ同情的にもなって、殿下を誘導してエレシア嬢と話せるように場を作ってあげることもあった。
父親のいるパーティーでは尚更だ。親しく話す殿下と娘の姿に満足げに笑う公爵閣下には吐き気がした。
しかし僕は、殿下が婚約者と親しくないのなら、エレシア嬢と婚約したら良いのではないかと思うようになった。
そうすれば、エレシア嬢が父親に叱られることもなくなるだろう。
この気持ちが変わったのは、王立学園に入学してからのことだ。
去り行く広い背中へと呆れた目を向けた。
目の前で池に落ちた女生徒がいて、手を差し伸べるのは悪いことではないが、あそこは僕に命令するべきところだ。なぜご自身が手を伸ばしてしまわれるのか。
そもそも、せっかく婚約者の手に触れる機会を作って差し上げたのに、放り投げるとは……手の施しようがない。
ああ、いや。さっきは頑張っていたな。もう少しリシュフィ嬢が大人しくしていれば最後まで伝えられただろうに。……まぁ、とても綺麗だと伝えたところで、リシュフィ嬢なら「存じ上げております」の一言で済まされてしまいそうだけど。
「あの娘は……」
主君への同情心に苛まれる僕の耳に、深い嫌悪の滲む声が届いた。僕と共に残った一人のルビーのような瞳は一点に亜麻色の後ろ姿を捉えている。
「ああ。あれが噂の娘だね。知らぬは本人達ばかりなり、だ」
どうやら声を出したのは無意識だったらしい。エレシア嬢は僕へと一瞬慌てたように目だけ向け、貴族令嬢にあるまじきことだが眉を寄せて、不快感をあらわにした。
「…………」
返事は返してくれないか。まぁ、いいけど。
「リシュフィ嬢の人の良さは天井知らずだな。あのストール。学園の制服一式買い揃えてもお釣りが来るだろうに」
それで池の水を拭うなんて僕でもしない。汚れた泥水ではないにせよ、蓮の葉の浮く池には多数の子魚が泳ぎ、水面を足の長い虫が滑るように這っている。
僕の意図に気付いたらしいエレシア嬢が些か急ぎ気味に礼を執った。
「わたくしも下がらせていただきます。ご機嫌よう」
急いで一歩踏み出した。
橋の出口は一つしかない。そこを塞いでしまえば、エレシア嬢は去ることが出来ない。鋭く睨みつけられ、美しく彩られた唇には嘲笑が浮かんだ。
「人の行く手を遮るなど、あまりに失礼ではありませんか。新参のスコット家の方にこのような礼儀を説いたところで無意味かしら」
「無礼は謝罪するよ。でも少しくらい話をしてくれてもいいだろう?」
笑顔を浮かべて言う。十人の令嬢に向ければ十人ともが同じ笑顔を返してくれるだろう自信のある笑顔だが、この人には逆効果だ。
エレシア嬢は表情から嘲りを消し、僕に対する嫌悪を深めた。
「お家を侮辱されて笑っていられるなど、わたくしには理解できません」
「本心で言っている言葉じゃないのだから、腹を立てる必要なんてないよ。──僕に嫌われようとしても無駄だって、何度言わせる気?」
「仰せの意図はわたくしには図りかねます。お話することなど、わたくしにはありません。道を開けてください。迷惑です」
大公爵家に生まれ、貴族令嬢の模範ともいわれている彼女に『迷惑だ』とまで言わせるとは。さすがに堪える。
「……せめて寮まで送らせてくれないかな?」
「無用です。あなた様とわたくしは──他人ではありませんか。そのようなことをしていただく謂れはございません」
まるで鞭を打たれたようだ。エレシア嬢はそっと脇をすり抜けて、立ち去ってしまった。
何重にも鎧を着ているかのような拒絶を纏う背中に声をかけられない。
「僕も、殿下を馬鹿にはできないな」
いや、追いかけていった殿下のほうがよほどご立派か。
僕は追いかける資格すら、持ち得ていないのだから。
十年前の王太子殿下の婚約お披露目パーティーには、僕も当然参加していた。
僕は殿下と親しい友人であると同時に公爵家の嫡男であり、殿下が王となられたら最もお近くで仕えることになる立場だ。
だからその主君の伴侶は僕にとっても非常に重要なお相手となる、のだが。
ご立派に王太子として挨拶に応じる殿下を盗み見る。その後ろに控えるのは、今まで見たことがないほど美しいご令嬢だ。
レストリド公爵家のご令嬢は体が弱いとのことで、これまで屋敷から出たことがないという話だった。ならば殿下と初めて会ったのはきっと婚約が決まったあと、ということになるだろう。だからなのか。殿下と婚約者殿との間には見えない壁のようなものが見えた。
両親と共に挨拶に向かった際も、丁寧なお礼をいただいたが、特に親しいという雰囲気はなかった。
しかしそれでも、あの女が婚約者となるよりはマシか、と思っていた。
エレシア・エドワーズ公爵令嬢。
馬鹿な者どもが彼女を褒め称し、それを当然のように受け止める。子供だけの茶会の女王様だ。
大人達のいない茶会では僕はいつも殿下と共に話をしたり、駆けたりして遊ぶことが多いのだが、いつもこの女の邪魔が入る。
「ご友人方とばかりお話されていては、寂しいです。わたくしともお話してくださいませ」
不遜にも殿下の腕を引いて、まるで駄々をこねる子供のように言われる言葉に、僕は内心苛立ちと不快さを感じていた。腕を掴まれる殿下はなおのことだろう。
他人が自分をなによりも優先して当たり前という心のうちが透けて見えて、どうにもこの女が好きにはなれなかった。
いくら婚約者との仲が良くなかろうとも、あんな女が未来の王太子妃とならずに済んで良かったと幼心にも思っていた。
あらかた挨拶が済んだところで、そっと隣に立つ両親に「外の空気を吸いに、庭園へと行ってきても良いですか」と尋ねる。
いつも厳しくも優しい父は「いいよ」と軽く頷いた。
「ただし、殿下をお誘いしてはいけないよ。殿下はとてもお忙しくていらっしゃるからね」
「当然のことです。僕はそのようなこともわからない子供ではありません」
ほんの少し憤慨して抗議すれば、苦笑した父に頭を撫でられた。それすらも子供扱いが煩わしくて、逃げるように庭園へと足を運ぶ。
後ろから「息子が立派に育って嬉しいとみるべきか、寂しいとみるべきか。複雑な父心だなぁ」と嘆きの声がした。
王宮の庭園はいくつもあるが、ここは生垣が高く、八歳の僕にとってはまるで迷路だ。
あまり奥深くまで入り込んでは迷子になってしまいそうだが、道を覚えるのは得意だ。まず迷いはしないだろう。
ズンズンと進んだところで、何やら人の声がした。興味を覚えて足音を消す。
父から、こういった催し物で密やかに交わされる会話には耳をすませておけと教えられていた。
常識では考えられないことだが、どこの家の誰が誰と不仲であり、どこの家の奥方とあの家の貴公子は密かに通じている、などの情報は持つだけ損はないと父は口癖のように言っていたのだ。
父のこういった抜け目のないところは嫌いではない。面白そうな話なら耳打ちして差し上げようと、そっと声のする方へとにじり寄った。
声の主は周りを顧みずに大声で喚いている。
野太く響くこの声は──エドワーズ公爵閣下だ。
そう思った時、パンッと破裂するような音がした。
「みすみす王太子殿下の婚約者の座を奪われおって! この愚か者が!!」
破裂音と共に聞こえてきたのは、罵倒だった。
「お館様、声を抑えてくださいませ。このような場でそのように声を荒げては、誰の耳目があるやも分かりませぬ」
冷静に公爵閣下を宥めるのは、エドワーズ家の家令だ。
注意を払って更に身を乗り出す。しかし高い生垣が邪魔をして、公爵閣下と家令しか見えない。
では、今の破裂音はなんだ……?
公爵閣下の目線は生垣の下へと向けられている。
「よいか。レストリドの娘と親しくなるのは悪くない。上手く近付いて、殿下のお心を射止めるのだ」
「しかしそれではレストリド家との間に軋轢が生じる恐れも……」
「殿下ご自身が心を移したのなら責められる謂れはない。レストリドの娘に魅力のなかったというだけの話だ。──よいな。必ず殿下を奪いとれ。お前は娘に生まれたのだから、そのくらいは私の役に立つのだ」
「はい。お父様」
見えない第三者の静かな声に、体が硬直して動かなくなった。ぞわりと鳥肌が立つような、背筋に冷たいものが走るような感覚だった。
返答に満足したのか、エドワーズ公爵は身を翻してパーティー会場へと戻って行き、その場には見えない声の主と家令だけが残った。
「……お嬢様。お館様はお嬢様のためを思って──」
「わかっているから、早く馬車の用意をお願い。これでは人前に出られませんから、今日はもう屋敷へ帰ります」
喚くばかりの父親とは違う、芯の通った声に命じられて、家令もその場を後にした。
しかし声の主は動かない。それを確認して、パーティー会場へと急ぎ足で取って返した。
破裂音と、人前に出られないという言葉。
その意味は明らかだった。
目当てのものを手に取り、またさっきの生垣の元へと戻る。もういないかもしれない。けど、体が動くのを止められなかった。
自らが立てる足音に頓着せずに声の主を探す。
角を曲がり、やっと低い位置にある黒い巻き髪を見つけた時、左手を頰に当てうずくまる姿に、なんとも言えない気持ちになった。
丸く見開かれた綺麗なルビーの瞳に、僕が映った。
声の主はひどく狼狽した様子で逃げるか挨拶を交わすかで悩んだようだった。
今なら頬の怪我は誤魔化しが効くと思ったのだろう。
黙って、わざわざ取りに戻ったものを差し出した。
取りに戻ったのは冷たい飲み物の入ったグラスだ。女性に差し出してもおかしくはない。けど、これは当然飲むために差し出したわけじゃない。
エレシア・エドワーズ公爵令嬢は頭の良い女の子だった。
僕のその行動だけで、頬の怪我の理由を知られていると判断したらしい。
頰に怪我だけではない赤みが増して、瞳が潤んだ。
この時の僕にはその表情の意味がわからなかったけど、今ならわかる。
この貴族然とした八歳の女の子は、父親の醜態を他人に見られて恥ずかしかったのだ。
またグラスを突きつけるように渡す。
しかしエレシア嬢は受け取らない。
もどかしくなって無理に頬の手を剥ぎ取り、グラスを頰に押し付けた。
「……早く冷やさないと、腫れるよ」
言い訳が口をついて出た。嫌がる女の子に無理に我を通すことへの、罪悪感からの言い訳だった。
グラスから移った雫が頬を伝い、丸みのある顎から地面へと落ちる。
それだけの時間、二人でグラスを押さえ、静かに佇んでいた。
こちらに駆けてくる足音がして、エレシア嬢の体が揺れた。
どうやら家令が戻ってきたらしい。
グラスは頰から離されて僕へと押し付け返された。
エレシア嬢があまりにも不安そうに顔色を変えるから、僕はすぐにその場を立ち去ろうと身を翻した。
手に、小さな手が重なった。
「ありがとうございます。……アシュレイ様」
そう言ったエレシア嬢のルビーのような瞳はひどく潤んでいて、言葉が出ない。うんと頷き、その場から逃げた。
この時、走りながら心の内に湧き上がった感情の名前を、僕はまだ知らなかった。
以来、エレシア嬢に対する見る目は変わった。
相変わらず僕と殿下が共にいると邪魔をしにきていたが、煩わしく思うことはなくなった。
そうしなければ父親に叱られるのかと思えばむしろ同情的にもなって、殿下を誘導してエレシア嬢と話せるように場を作ってあげることもあった。
父親のいるパーティーでは尚更だ。親しく話す殿下と娘の姿に満足げに笑う公爵閣下には吐き気がした。
しかし僕は、殿下が婚約者と親しくないのなら、エレシア嬢と婚約したら良いのではないかと思うようになった。
そうすれば、エレシア嬢が父親に叱られることもなくなるだろう。
この気持ちが変わったのは、王立学園に入学してからのことだ。
10
あなたにおすすめの小説
探さないでください。旦那様は私がお嫌いでしょう?
雪塚 ゆず
恋愛
結婚してから早一年。
最強の魔術師と呼ばれる旦那様と結婚しましたが、まったく私を愛してくれません。
ある日、女性とのやりとりであろう手紙まで見つけてしまいました。
もう限界です。
探さないでください、と書いて、私は家を飛び出しました。
〖完結〗その子は私の子ではありません。どうぞ、平民の愛人とお幸せに。
藍川みいな
恋愛
愛する人と結婚した…はずだった……
結婚式を終えて帰る途中、見知らぬ男達に襲われた。
ジュラン様を庇い、顔に傷痕が残ってしまった私を、彼は醜いと言い放った。それだけではなく、彼の子を身篭った愛人を連れて来て、彼女が産む子を私達の子として育てると言い出した。
愛していた彼の本性を知った私は、復讐する決意をする。決してあなたの思い通りになんてさせない。
*設定ゆるゆるの、架空の世界のお話です。
*全16話で完結になります。
*番外編、追加しました。
あなたのことなんて、もうどうでもいいです
もるだ
恋愛
舞踏会でレオニーに突きつけられたのは婚約破棄だった。婚約者の相手にぶつかられて派手に転んだせいで、大騒ぎになったのに……。日々の業務を押しつけられ怒鳴りつけられいいように扱われていたレオニーは限界を迎える。そして、気がつくと魔法が使えるようになっていた。
元婚約者にこき使われていたレオニーは復讐を始める。
婚約者の幼馴染って、つまりは赤の他人でしょう?そんなにその人が大切なら、自分のお金で養えよ。貴方との婚約、破棄してあげるから、他
猿喰 森繁
恋愛
完結した短編まとめました。
大体1万文字以内なので、空いた時間に気楽に読んでもらえると嬉しいです。
王子妃教育に疲れたので幼馴染の王子との婚約解消をしました
さこの
恋愛
新年のパーティーで婚約破棄?の話が出る。
王子妃教育にも疲れてきていたので、婚約の解消を望むミレイユ
頑張っていても落第令嬢と呼ばれるのにも疲れた。
ゆるい設定です
私が愛する王子様は、幼馴染を側妃に迎えるそうです
こことっと
恋愛
それは奇跡のような告白でした。
まさか王子様が、社交会から逃げ出した私を探しだし妃に選んでくれたのです。
幸せな結婚生活を迎え3年、私は幸せなのに不安から逃れられずにいました。
「子供が欲しいの」
「ごめんね。 もう少しだけ待って。 今は仕事が凄く楽しいんだ」
それから間もなく……彼は、彼の幼馴染を側妃に迎えると告げたのです。
最愛の番に殺された獣王妃
望月 或
恋愛
目の前には、最愛の人の憎しみと怒りに満ちた黄金色の瞳。
彼のすぐ後ろには、私の姿をした聖女が怯えた表情で口元に両手を当てこちらを見ている。
手で隠しているけれど、その唇が堪え切れず嘲笑っている事を私は知っている。
聖女の姿となった私の左胸を貫いた彼の愛剣が、ゆっくりと引き抜かれる。
哀しみと失意と諦めの中、私の身体は床に崩れ落ちて――
突然彼から放たれた、狂気と絶望が入り混じった慟哭を聞きながら、私の思考は止まり、意識は閉ざされ永遠の眠りについた――はずだったのだけれど……?
「憐れなアンタに“選択”を与える。このままあの世に逝くか、別の“誰か”になって新たな人生を歩むか」
謎の人物の言葉に、私が選択したのは――
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる