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470.昔日
しおりを挟む「街へ行くわ」
「承知致しました、御嬢様」
「やめてアンロ。今の私には名もない……お前も知っているでしょう? あの火事であの日に全てを失ってから。私は……」
――悪魔に魂を売った。汚れた魔女でしかない。
(失うものは、もう何もない)
スピナ専属の馬車を引くのは彼女が幼少期から今まで変わらず傍で仕える、年老いた御者アンロ。性格や口調が豹変してしまった彼女が唯一心を許し、昔の自分へと還れる拠所である。
「いいえ、スピナ様はいつまでも御嬢様。ルシェソール家自慢の御令嬢でございますよ」
(ルシェソール……今はなき、私の家)
「まぁいいわ。他者がいる時には呼ばないし」
「はい、心得ております」
(アンロは優しすぎる。私などに扱き使われて、被害者のようなものなのに)
「お前は私の事を……冷酷で残酷だとは思わないの?」
「恐れながら」
深々と頭を下げた御者をじっと見つめること、数十秒。スピナは珍しく緊張した面持ちで返事をする。
「自分から聞いたんですもの、怒ったりしないわ。アンロ……お前の正直な気持ちと考えを、私に話してちょうだい」
すると彼は「では、申し上げます」と、口を開いた。
「私はルシェソール家にこの身を捧げ、貴女様にお仕えする者。御嬢様と共に私の命はあり、たとえどのような未来が待ち受けようとも、御嬢様が選択なされたとあらば、それが私の人生であります」
「私は命など何とも思わない、最低の主よ? お前はきっと後悔するわ……だから今のうちに」
「スピナ御嬢様」
「……」
「ご安心なさいませ。これまでも、そしてこれからも。貴女様だけに仕え、世の誰もが理解せずとも、私は御嬢様の味方にございます。この命消える最期の瞬間まで」
こんな年寄りですがねとアンロは皺を作り柔らかに、笑む。
(私が唯一、自分に戻れる場所……アンロは信頼できる、家族同然の存在なのよ)
――でも、もう戻れない。
代々ルシェソール家に仕える御者アンロが運転するのは、飾り気のない小さな馬車。その狭い“部屋”には彼女が家族と幸せに暮らした頃の思い出と――“ルシェソール=スピナ”として生きていた証が、宿る。
「ふん……敵わないわね、アンロには」
「滅相もございません」
(時間の見立ても完璧、抜かりのない動きと洞察力。本当にアンロは素晴らしい従者よ)
深夜一時。
静かに馬車を進めベルメルシア家を出発したアンロはその動きや音が周囲に気付かれぬよう『無音』の魔法を、馬車全体にかけていた。
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