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第四章 三人目のハル・ウェルディス
魂の欠片
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十と言うなら、それはまだジハードがサラトリアがと出会うよりも前――シェイドを初めて目に留めた時よりも数年も前の話だ。それほど前からサラトリアはシェイドを見知っており、心を囚われていたというのか。
公爵家の長子であるサラトリアは、宮廷内で数々の浮名を流しながらも、生涯正妻を置くつもりはないと明言していた。血縁の中から才覚に優れた者を早々に養子に迎え、嫡子として届け出も済ませてある。それも一風変わったヴァルダンのやり方なのだろうと気にも留めなかった。
まさか、それもいつの日かシェイドを手元に迎えるための布石だったのだろうか。
思い返せば、王宮の誰も行方を知らなかったシェイドの所在を突き止めてきたのは、このサラトリアだった。
サラトリアがシェイドを預かると口にするのも、これが初めてではない。
父王を手にかけ、シェイドが腹違いの兄だと判明したばかりの頃、サラトリアは即座にヴァルダンに引き取る案を提示してきた。決して外部には漏らさず、王族として生涯丁重にお迎えするので、その身柄をヴァルダンに預けて欲しいと――。
「……シェイドが、承諾すると思うか……?」
呆然としながらジハードは尋ねた。
シェイドはこのサラトリアをひどく嫌っている。それは傍から見ていても明らかだ。
王位簒奪の夜にサラトリアに騙されたことが尾を引いているらしく、信用できぬ相手だと警戒しているのがよくわかった。だからこそ、安心して白桂宮への出入りも許していたというのに。
だがサラトリアの答えは簡潔だ。
「シェイド様が私を蛇蝎のように嫌っておいででも構いません。私の方があの御方を愛しておりますから、生涯大切にいたします」
確信の籠った言葉に、唯一無二だと信じていた己の心が打ち砕かれたような気がした。
シェイドを愛しているのは自分一人だと思っていた。
まさか腹心のサラトリアがこれほどの想いを隠し続けて側にいたとは、思いもしなかった。
考えてみればあれほど美しい人間がほかにいるだろうか。サラトリアが心惹かれたところで、何の不思議もない。
同時に、ジハードはシェイドを腕に抱いたラナダーンの姿を思い出していた。
あの男もまたシェイドに惹かれたのかもしれない。
シェイドはあの時裸体に掛物を巻き付けただけの姿で、男の腕に抱かれていた。白いはずの頬は紅潮して目は潤み、声は叫んだあとのように掠れていた。
おそらく、ラナダーンはシェイドの白い肌を味わったのだろう。
シェイドの方もラナダーンを受け入れたのかもしれない。
縋りつくように男の首に回された腕、首筋に顔を埋めて、二度と振り返りもしなかった後ろ姿。
そうでなければ、あの奥手だったシェイドが敵に縋りつくような真似をするだろうか。
捕らえられたら、敵に協力する振りをしろと言ったのはジハードだ。
例え自分が殺されてもシェイドだけは安全な場所にいて欲しいと願って、突き放すような言葉を投げた。
あの言葉が、もしや迷っていたシェイドの心をラナダーンに傾けてしまったのではないか。
「もし、戻るのを拒んだら……?」
自分の事は何一つ記されていない、シェイドからの密書。
もしかすると自分の事は忘れてくれという、訣別の意思を告げるものであったのではないかという恐れが、棘のように刺さっていた。
しかしサラトリアの答えに迷いはない。
「砦の者を皆殺しにして奪ってまいります。いつの日かお怒りが鎮まるまで、何時まででも償い続けます」
ジハードは深い息を吐いた。
もしもシェイドがラナダーンを受け入れたのなら、深追いせずにそっとしておくべきかという考えが頭をかすめていたが、サラトリアはそんなことは考えもしないようだった。
サラトリアには確固たる自信があるのだ。どのような状況に陥っても、自分の想いが変わることは決してないと。
ジハードは己を嗤う。この気持ちは揺れ動いてばかりだ。
初めは父王の奥侍従だと思った。
容色が優れているだけで、中身はどうか知れたものではない。
それでもあの肉体に触れたいという思いを抑えきれず、罠に嵌めて力づくで手に入れようとした。
父の妾妃エレーナの愛人だと誤解した時にはただ腹立たしく、罰を与えて従えることしか考えなかった。
それがジハードの思い違いであり、実は腹違いの兄だと知った時には、諦めるべきだと自分に言い聞かせ続けた。
思い留まれたのは、今にしてみれば偶然のようなものだ。タチアナと話すうちに、行きつけるところまで想いを貫いてみたいと思ったのだ。
一年が経っても心開くことがないのなら、自分の手の内から解放してやらねばならないと考えていた。きっとそれを受け入れられるし、耐えられるとまで思っていた。
だが今、手の中からシェイドという存在が遠く離れようとしているとき、胸の内で嵐のように渦巻く激情をどうやってやり過ごせばいいのか、見当もつかない。
自分は本当にシェイドを愛しているのだろうか。
運命の相手だと思いながらも、自分の物にするのか手放すのかと、揺れ動いてばかり。愛しているのだから愛を返してもらいたい、そうでなければ目の前から遠ざけたいと、結局は己のことしか考えてこなかった。
果たして、自分はシェイドが本当に喜ぶことをどれほどしてやれただろう。決して、大切に扱ってきたとは言えない。
自分勝手な想いで振り回し、自分を好きになれと強要し続けてきただけだ。これで本当に愛していると言えるのか。シェイドがそれを信じるとでも思うのか。
ジハードはいつも不安だった。
シェイドが示してくれる好意は『王』に向けられたものではないか。
もしも自分が王でなければ、自分のしてきたことはただの暴力にすぎないのではないか。シェイドが自分を一人の人間として好ましく思う日は永遠に来ないのではないか。
そうではないと確信したくて、シェイドの気持ちを何度も確かめずにはいられない。
好意に対して見返りを得られないのなら、愛し続けることにさえ自信を持てないでいるくせに。
それは、この煩悶がシェイドの死という形で終わりを迎えたとしても、きっと同じことだろう。
サラトリアに聞いてみたい答えが、一つだけ残っていた。
「……もしも、もうシェイドが死んでいたらどうする……」
口にするだけで胸が潰れそうだ。
何の罪とがもない、あの若く美しい異母兄が、その身に相応しからぬ古い朽ち城で、身分卑しい男に命の灯を吹き消されたかもしれない。虜囚を失った腹いせに、嬲られいたぶられ、苦しみ抜いて死んだかもしれない。
己が僅かな護衛で離宮に連れ出したせいで。
もしそうなっていたら、自分はいったいどうすればいいのか。この気持ちをどうすれば――。
サラトリアが一瞬言葉を詰まらせた。
この冷静な男でも、感情で言葉を詰まらせることがあるのだと、ジハードはどこか冷静な頭で観察していた。
一瞬の沈黙の後、サラトリアは絞り出すようにこう言った。
「……ご遺体を取り戻して参ります。いずれ私が入るべき墓にて、安らいでお待ちいただきたく存じます」
――この男の想いは本物だ。ジハードは思った。そして自分の想いもまた同じものだと。
そうだ。どんな変わり果てた姿になったとしても、手放すことなどできはしない。初めに心惹かれたのはあの見目麗しい姿にだが、今ジハードを捕らえて離さないのは魂の気高さと孤独だ。
ミスルの離宮で、ジハードはシェイドに自らを名で呼ばせた。
王という地位に忠誠を捧げられているのではなく、一人の人間として愛されているのだと思いたかったからだ。王という地位になく、ウェルディの再来と称えられた姿や食うに困らぬ財を持たなくとも、自分という一人の人間を見てもらいたいと。
だがそれを言うならば、ジハードはシェイドの何を見ていたのだろう。
ウェルディリアには稀な美しい姿だろうか。
白金の髪と青い瞳、白く滑らかな肌。しなるような細身の体に、ジハードの体の下で紡がれる声。そんなものだけを、自分は愛したのだろうか。――いや、違う。
そのすべてが愛おしいが、それだけを愛したのではない。
自らを犠牲にすることを厭わない、無垢な心。権力や財宝や、地位や名誉。多くの者が欲する宝を求めようともしない。
シェイドがただ喜んだのは祝福だけだった。側に寄りそう温もりだけを、シェイドは望んだ。
ジハードがシェイドから与えられたものは大きい。もしもシェイドに出会わなければ、ジハードは歴代の王と同じように身の回りにいる貴族のことしか考えられなかっただろう。
生まれや育ち、姿形の違う人々も、ウェルディリアの民やジハード自身と同じように悩み苦しみ、悲しみもすれば喜びの涙を流すこともある。それを知らなければ、いずれウェルディリアは衰退してこの地上から消えていたに違いない。
シェイドの存在すべてが、ジハードに王とはどうあるべきかという自問と生きる意味を与えてくれる。もちろん、心湧き立つ喜びもだ。決して失うことはできない。
ならば、何を自分は怖気ているのか。
あの砦の中で、シェイドがどんな目に遭っていたとしても、この想いは何も変わりはしない。
美しい姿を失い、下劣な男どもに肉体を汚され、誇りを打ち砕かれて心を壊していたとしても。
目や耳や手足を、命さえも失っていたとしても、それは愛さずにいる理由にはならない。
想いは自らの内から溢れるものであって、相手から与えてもらうものではないからだ。
澄んで美しいあの魂と、自分の魂の欠片がピタリと合う。
たとえシェイドの方がそうは思わなくとも、ジハードはシェイドを手にすることでしか魂の欠損を満たされない。失えば不完全さを永遠に抱いて、空虚なまま生き続けなくてはならないのだ。
「――褒章は別のもので我慢してくれ。あいつは、誰にも譲ってやることはできん」
シェイドを譲ることはできない。例えそれが右腕とも友人とも目してきた青年であっても。物言わぬ躯となっていたとしても。
ジハードはそう宣言した。
サラトリアが顔を上げ――、一瞬今まで見せたことのないような悔しげな表情を浮かべた。
だが瞬きをするうちにその表情は掻き消え、柔和な面立ちは穏やかさを取り戻す。
心を読ませぬ青年貴族は、承諾の証に深々と頭を下げた。
十年近い主従関係を持ちながら、ジハードはこの日初めてサラトリアの本性に触れた気がした。
この男もまた、ジハードと同じく己自身だけが主なのだ。唯々諾々と従うばかりの臣下ではない。
今はジハードを従うべき王として認めてくれているが、己の信念と相反するときが来たなら、この男は一瞬の迷いもなくジハードから離れていくだろう。その時には、腕にシェイドを抱いているかもしれない。
だが今は、サラトリアが持つ力と忠誠はジハードのものだ。
今のジハードにはそれが必要だった。
「グスタフ隊が到着次第、砦攻めの準備を始めよ。――指揮は俺が執る!」
公爵家の長子であるサラトリアは、宮廷内で数々の浮名を流しながらも、生涯正妻を置くつもりはないと明言していた。血縁の中から才覚に優れた者を早々に養子に迎え、嫡子として届け出も済ませてある。それも一風変わったヴァルダンのやり方なのだろうと気にも留めなかった。
まさか、それもいつの日かシェイドを手元に迎えるための布石だったのだろうか。
思い返せば、王宮の誰も行方を知らなかったシェイドの所在を突き止めてきたのは、このサラトリアだった。
サラトリアがシェイドを預かると口にするのも、これが初めてではない。
父王を手にかけ、シェイドが腹違いの兄だと判明したばかりの頃、サラトリアは即座にヴァルダンに引き取る案を提示してきた。決して外部には漏らさず、王族として生涯丁重にお迎えするので、その身柄をヴァルダンに預けて欲しいと――。
「……シェイドが、承諾すると思うか……?」
呆然としながらジハードは尋ねた。
シェイドはこのサラトリアをひどく嫌っている。それは傍から見ていても明らかだ。
王位簒奪の夜にサラトリアに騙されたことが尾を引いているらしく、信用できぬ相手だと警戒しているのがよくわかった。だからこそ、安心して白桂宮への出入りも許していたというのに。
だがサラトリアの答えは簡潔だ。
「シェイド様が私を蛇蝎のように嫌っておいででも構いません。私の方があの御方を愛しておりますから、生涯大切にいたします」
確信の籠った言葉に、唯一無二だと信じていた己の心が打ち砕かれたような気がした。
シェイドを愛しているのは自分一人だと思っていた。
まさか腹心のサラトリアがこれほどの想いを隠し続けて側にいたとは、思いもしなかった。
考えてみればあれほど美しい人間がほかにいるだろうか。サラトリアが心惹かれたところで、何の不思議もない。
同時に、ジハードはシェイドを腕に抱いたラナダーンの姿を思い出していた。
あの男もまたシェイドに惹かれたのかもしれない。
シェイドはあの時裸体に掛物を巻き付けただけの姿で、男の腕に抱かれていた。白いはずの頬は紅潮して目は潤み、声は叫んだあとのように掠れていた。
おそらく、ラナダーンはシェイドの白い肌を味わったのだろう。
シェイドの方もラナダーンを受け入れたのかもしれない。
縋りつくように男の首に回された腕、首筋に顔を埋めて、二度と振り返りもしなかった後ろ姿。
そうでなければ、あの奥手だったシェイドが敵に縋りつくような真似をするだろうか。
捕らえられたら、敵に協力する振りをしろと言ったのはジハードだ。
例え自分が殺されてもシェイドだけは安全な場所にいて欲しいと願って、突き放すような言葉を投げた。
あの言葉が、もしや迷っていたシェイドの心をラナダーンに傾けてしまったのではないか。
「もし、戻るのを拒んだら……?」
自分の事は何一つ記されていない、シェイドからの密書。
もしかすると自分の事は忘れてくれという、訣別の意思を告げるものであったのではないかという恐れが、棘のように刺さっていた。
しかしサラトリアの答えに迷いはない。
「砦の者を皆殺しにして奪ってまいります。いつの日かお怒りが鎮まるまで、何時まででも償い続けます」
ジハードは深い息を吐いた。
もしもシェイドがラナダーンを受け入れたのなら、深追いせずにそっとしておくべきかという考えが頭をかすめていたが、サラトリアはそんなことは考えもしないようだった。
サラトリアには確固たる自信があるのだ。どのような状況に陥っても、自分の想いが変わることは決してないと。
ジハードは己を嗤う。この気持ちは揺れ動いてばかりだ。
初めは父王の奥侍従だと思った。
容色が優れているだけで、中身はどうか知れたものではない。
それでもあの肉体に触れたいという思いを抑えきれず、罠に嵌めて力づくで手に入れようとした。
父の妾妃エレーナの愛人だと誤解した時にはただ腹立たしく、罰を与えて従えることしか考えなかった。
それがジハードの思い違いであり、実は腹違いの兄だと知った時には、諦めるべきだと自分に言い聞かせ続けた。
思い留まれたのは、今にしてみれば偶然のようなものだ。タチアナと話すうちに、行きつけるところまで想いを貫いてみたいと思ったのだ。
一年が経っても心開くことがないのなら、自分の手の内から解放してやらねばならないと考えていた。きっとそれを受け入れられるし、耐えられるとまで思っていた。
だが今、手の中からシェイドという存在が遠く離れようとしているとき、胸の内で嵐のように渦巻く激情をどうやってやり過ごせばいいのか、見当もつかない。
自分は本当にシェイドを愛しているのだろうか。
運命の相手だと思いながらも、自分の物にするのか手放すのかと、揺れ動いてばかり。愛しているのだから愛を返してもらいたい、そうでなければ目の前から遠ざけたいと、結局は己のことしか考えてこなかった。
果たして、自分はシェイドが本当に喜ぶことをどれほどしてやれただろう。決して、大切に扱ってきたとは言えない。
自分勝手な想いで振り回し、自分を好きになれと強要し続けてきただけだ。これで本当に愛していると言えるのか。シェイドがそれを信じるとでも思うのか。
ジハードはいつも不安だった。
シェイドが示してくれる好意は『王』に向けられたものではないか。
もしも自分が王でなければ、自分のしてきたことはただの暴力にすぎないのではないか。シェイドが自分を一人の人間として好ましく思う日は永遠に来ないのではないか。
そうではないと確信したくて、シェイドの気持ちを何度も確かめずにはいられない。
好意に対して見返りを得られないのなら、愛し続けることにさえ自信を持てないでいるくせに。
それは、この煩悶がシェイドの死という形で終わりを迎えたとしても、きっと同じことだろう。
サラトリアに聞いてみたい答えが、一つだけ残っていた。
「……もしも、もうシェイドが死んでいたらどうする……」
口にするだけで胸が潰れそうだ。
何の罪とがもない、あの若く美しい異母兄が、その身に相応しからぬ古い朽ち城で、身分卑しい男に命の灯を吹き消されたかもしれない。虜囚を失った腹いせに、嬲られいたぶられ、苦しみ抜いて死んだかもしれない。
己が僅かな護衛で離宮に連れ出したせいで。
もしそうなっていたら、自分はいったいどうすればいいのか。この気持ちをどうすれば――。
サラトリアが一瞬言葉を詰まらせた。
この冷静な男でも、感情で言葉を詰まらせることがあるのだと、ジハードはどこか冷静な頭で観察していた。
一瞬の沈黙の後、サラトリアは絞り出すようにこう言った。
「……ご遺体を取り戻して参ります。いずれ私が入るべき墓にて、安らいでお待ちいただきたく存じます」
――この男の想いは本物だ。ジハードは思った。そして自分の想いもまた同じものだと。
そうだ。どんな変わり果てた姿になったとしても、手放すことなどできはしない。初めに心惹かれたのはあの見目麗しい姿にだが、今ジハードを捕らえて離さないのは魂の気高さと孤独だ。
ミスルの離宮で、ジハードはシェイドに自らを名で呼ばせた。
王という地位に忠誠を捧げられているのではなく、一人の人間として愛されているのだと思いたかったからだ。王という地位になく、ウェルディの再来と称えられた姿や食うに困らぬ財を持たなくとも、自分という一人の人間を見てもらいたいと。
だがそれを言うならば、ジハードはシェイドの何を見ていたのだろう。
ウェルディリアには稀な美しい姿だろうか。
白金の髪と青い瞳、白く滑らかな肌。しなるような細身の体に、ジハードの体の下で紡がれる声。そんなものだけを、自分は愛したのだろうか。――いや、違う。
そのすべてが愛おしいが、それだけを愛したのではない。
自らを犠牲にすることを厭わない、無垢な心。権力や財宝や、地位や名誉。多くの者が欲する宝を求めようともしない。
シェイドがただ喜んだのは祝福だけだった。側に寄りそう温もりだけを、シェイドは望んだ。
ジハードがシェイドから与えられたものは大きい。もしもシェイドに出会わなければ、ジハードは歴代の王と同じように身の回りにいる貴族のことしか考えられなかっただろう。
生まれや育ち、姿形の違う人々も、ウェルディリアの民やジハード自身と同じように悩み苦しみ、悲しみもすれば喜びの涙を流すこともある。それを知らなければ、いずれウェルディリアは衰退してこの地上から消えていたに違いない。
シェイドの存在すべてが、ジハードに王とはどうあるべきかという自問と生きる意味を与えてくれる。もちろん、心湧き立つ喜びもだ。決して失うことはできない。
ならば、何を自分は怖気ているのか。
あの砦の中で、シェイドがどんな目に遭っていたとしても、この想いは何も変わりはしない。
美しい姿を失い、下劣な男どもに肉体を汚され、誇りを打ち砕かれて心を壊していたとしても。
目や耳や手足を、命さえも失っていたとしても、それは愛さずにいる理由にはならない。
想いは自らの内から溢れるものであって、相手から与えてもらうものではないからだ。
澄んで美しいあの魂と、自分の魂の欠片がピタリと合う。
たとえシェイドの方がそうは思わなくとも、ジハードはシェイドを手にすることでしか魂の欠損を満たされない。失えば不完全さを永遠に抱いて、空虚なまま生き続けなくてはならないのだ。
「――褒章は別のもので我慢してくれ。あいつは、誰にも譲ってやることはできん」
シェイドを譲ることはできない。例えそれが右腕とも友人とも目してきた青年であっても。物言わぬ躯となっていたとしても。
ジハードはそう宣言した。
サラトリアが顔を上げ――、一瞬今まで見せたことのないような悔しげな表情を浮かべた。
だが瞬きをするうちにその表情は掻き消え、柔和な面立ちは穏やかさを取り戻す。
心を読ませぬ青年貴族は、承諾の証に深々と頭を下げた。
十年近い主従関係を持ちながら、ジハードはこの日初めてサラトリアの本性に触れた気がした。
この男もまた、ジハードと同じく己自身だけが主なのだ。唯々諾々と従うばかりの臣下ではない。
今はジハードを従うべき王として認めてくれているが、己の信念と相反するときが来たなら、この男は一瞬の迷いもなくジハードから離れていくだろう。その時には、腕にシェイドを抱いているかもしれない。
だが今は、サラトリアが持つ力と忠誠はジハードのものだ。
今のジハードにはそれが必要だった。
「グスタフ隊が到着次第、砦攻めの準備を始めよ。――指揮は俺が執る!」
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