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第一章 結婚は人生の墓場と言うが
皇弟の望み
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二人用の広い寝台、壁際には色とりどりの花。
寝台脇の物入れの上には、水差しと体を清める布の用意がある。
夕日のような蝋燭の炎が、硝子の覆いを透かして室内を淡く照らしていた。仄かに甘い蜜蝋の香りが部屋を満たしている。
「グレウス、こちらへ」
天蓋付きの寝台の端に、皇弟は黒いガウン姿で腰かけていた。大仰な白い法衣から解放されて、ゆったりと寛いだ様子だ。
ガウンの裾から出た白い足首に目を奪われながら、グレウスは言われた通りに皇弟の前に進み出た。
グレウスが湯を使っている間に、皇弟も別室で湯浴みを済ませたらしい。近づくと、昼間には無かった花のような香料の匂いが感じられた。
グレウスはごくりと唾を飲む。
部屋の灯りは寝台の中を照らすように灯されていたが、昼間に比べるとその光は仄かなものだ。
夜の闇の中に浮かび上がる皇弟の姿は、グレウスの知る言葉では表現しきれないほど艶めかしかった。
挙式の時に着けていた宝冠はすでに外されて、癖のない黒髪が左の肩から滝のように流れ落ちていた。洗い髪にはいくらか湿り気が残っているのか、燭台の炎が揺らめくたびに鈍い光を反射している。
黒は不吉な色だというのがこの国での定説だが、これほど見事な漆黒を美しいという以外にどう言い表せばいいのかわからない。手を伸ばし、冷たいその髪に触れてみたい衝動に駆られてしまう。
その長い髪とガウンの黒に対比して、肌は目を見張るほどに白かった。
黒子一つない絹のような肌。日焼けどころかそばかす一つ見当たらないのは、長年部屋にこもりきりだったせいだろうか。
そのくせ肩幅は決して華奢とは言えなかったし、寝台の上に突いた手も、指が長くて優美ではあったが、貴婦人のような弱々しい手ではなかった。貴公子という言葉が、グレウスの脳裏に思い浮かぶ。
もしもこの皇弟が君主の座に就いていたならば、きっと誰もがその足元に跪かずにはいられなかっただろう。顔を伏せて身を低くしながら、声をかけてもらえる瞬間を胸を高鳴らせて待つに違いない。
ただ黙って座っているだけで、誰もをひれ伏させずにはいられないほどの気品と、思わず顔を上げて盗み見たくなるような大人の色香が備わっていた。
「……」
グレウスは密かに息を吐いた。
体が火照り、下腹に熱が灯っていくのを感じる。酒を飲んだせいか、血の巡りが良くなりすぎている。
皇弟が男性であることは疑いようもなかったが、グレウスの体の中心は滾る劣情で形を変えようとしていた。
目の前に立ち尽くしたまま口も利けないグレウスに、皇弟は切れ長の赤い瞳で見つめながら、静かに問いかけた。
「……今から何をするか、理解しているな?」
その声を聞いて、耳元で動悸がうるさいほどに速くなった。
冷静に考えれば、グレウスと皇弟は夫婦になり、今日は婚姻後の初めての夜だ。
寝室は式を挙げたばかりの夫婦に相応しい拵えになっている。
美しく活けられた花も、甘い蜜蝋の香りも、寝台に掛かっている絹の掛物さえも、何のために用意されたかは明白だった。
体は熱く脈打ち、自分が目の前の相手に欲情しているという事実を告げてくる。
――だが、とグレウスは自問した。
これはただの政略結婚で、皇弟とは形式だけの夫婦になるはずではなかったのか、と。
「皇弟殿下……俺は、その……」
改めて間近で目にする皇弟は、この世の者とは思えぬほど神秘的な美しさだった。
胸がどきどきして、言葉がなかなか出てこない。
射干玉の黒い髪に縁どられた、卵型の優美な頭部。一分の隙もない美貌は、どちらかと言えば冷たく神経質そうに見える。
普通ならば近寄りがたいと思うのだろうが、グレウスの目は惹きつけられて止まなかった。
白い肌に、僅かに血の色を昇らせた頬と唇がうっとりするほど艶やかに見えた。今まで髪に隠されていた耳朶が姿を現わし、少し尖ったその先端が淡く色づいている様子にも、ひどく情欲をそそられる。
黒と白、そして緋色の見事な対比。
アスファロス皇室の優しく淡い色合いとはまるで違うが、闇夜の中で妖艶に煌めく星のようだ。
これほど麗しく高貴な人が、自分と夫婦になるなどと、あるはずがない。
「俺は、身分卑しい平民で……殿下に触れていいとは思っておりません。ですから――」
「グレウス」
静かに名を呼ぶ声が、グレウスの言葉を遮った。
体の前で握りしめた手を冷たい手に触れられて、グレウスは大きな体をビクリと震わせる。
皇弟は構わずに、指を沿わせて武骨なグレウスの手を握った。
「……私は皇室を出た。もう殿下と呼ばれる身分にはない」
手に汗が滲み出ていくのを感じながら、グレウスは立ち尽くした。
握り返すこともできず、ただ無言のまま俯いて。
「兄は、私がお前のものになることを望んでいる」
感情の読めない声が、たた淡々と事実を告げる。
皇帝は、おそらく実の弟を疎ましく思っているのだろう。
魔力を失ったとはいえ、皇弟オルガの影響力はいまだに王城の中に残っている。
かつてオルガが行なった凄まじい魔法の痕跡は、城の至る所に刻まれている。貴族院の議長や有力な貴族の何名かは、いまだに裏でオルガに忠誠を誓っているとも噂されている。
即位したばかりの若き皇帝にとって、いつまでも城に居座り続ける弟は、さぞかし目障りだったに違いない。
そうでなければ半ばこじつけに近いような理由で、皇族をどうして平民の男などに娶わせるものか。
「私がお前に抱かれることをお望みだ。余計なことを考えず、夜ごとお前に組み敷かれて、お前以外を見ずにいられるように」
耳の奥で、鼓動がうるさいほど鳴っていた。
平民上がりの武骨な大男に、城から一歩も出たことのない高貴な弟を投げ与える。そして、まるで卑しい商売女であるかのように、下賤な男の性欲処理をさせようとしたと。
形の良い唇は、そう語っていた。
そんなことができるはずがあるものか。
「そ……!」
反駁しようとしたグレウスを、皇弟は強い視線で黙らせた。
「グレウス。それは私の望みでもあるのだ」
「……ッ!?」
握りしめる力が緩んだ拍子に、皇弟の冷たい手がグレウスの指の間に滑り込んできた。
捉えた手を引き寄せて、皇弟はグレウスの指に自らの唇で触れた。夫の情を求める貞淑な妻であるかのように、節くれ立った指に口づけする。
濡れた舌先が唇から忍び出て、ちろりと指の関節を舐めた。
「お前の妻となることが私の望みだ。その強靭な肉体で、私を悦びに啼かせてみせよ」
炎を宿した瞳が、射貫くようにグレウスを見上げた。
寝台脇の物入れの上には、水差しと体を清める布の用意がある。
夕日のような蝋燭の炎が、硝子の覆いを透かして室内を淡く照らしていた。仄かに甘い蜜蝋の香りが部屋を満たしている。
「グレウス、こちらへ」
天蓋付きの寝台の端に、皇弟は黒いガウン姿で腰かけていた。大仰な白い法衣から解放されて、ゆったりと寛いだ様子だ。
ガウンの裾から出た白い足首に目を奪われながら、グレウスは言われた通りに皇弟の前に進み出た。
グレウスが湯を使っている間に、皇弟も別室で湯浴みを済ませたらしい。近づくと、昼間には無かった花のような香料の匂いが感じられた。
グレウスはごくりと唾を飲む。
部屋の灯りは寝台の中を照らすように灯されていたが、昼間に比べるとその光は仄かなものだ。
夜の闇の中に浮かび上がる皇弟の姿は、グレウスの知る言葉では表現しきれないほど艶めかしかった。
挙式の時に着けていた宝冠はすでに外されて、癖のない黒髪が左の肩から滝のように流れ落ちていた。洗い髪にはいくらか湿り気が残っているのか、燭台の炎が揺らめくたびに鈍い光を反射している。
黒は不吉な色だというのがこの国での定説だが、これほど見事な漆黒を美しいという以外にどう言い表せばいいのかわからない。手を伸ばし、冷たいその髪に触れてみたい衝動に駆られてしまう。
その長い髪とガウンの黒に対比して、肌は目を見張るほどに白かった。
黒子一つない絹のような肌。日焼けどころかそばかす一つ見当たらないのは、長年部屋にこもりきりだったせいだろうか。
そのくせ肩幅は決して華奢とは言えなかったし、寝台の上に突いた手も、指が長くて優美ではあったが、貴婦人のような弱々しい手ではなかった。貴公子という言葉が、グレウスの脳裏に思い浮かぶ。
もしもこの皇弟が君主の座に就いていたならば、きっと誰もがその足元に跪かずにはいられなかっただろう。顔を伏せて身を低くしながら、声をかけてもらえる瞬間を胸を高鳴らせて待つに違いない。
ただ黙って座っているだけで、誰もをひれ伏させずにはいられないほどの気品と、思わず顔を上げて盗み見たくなるような大人の色香が備わっていた。
「……」
グレウスは密かに息を吐いた。
体が火照り、下腹に熱が灯っていくのを感じる。酒を飲んだせいか、血の巡りが良くなりすぎている。
皇弟が男性であることは疑いようもなかったが、グレウスの体の中心は滾る劣情で形を変えようとしていた。
目の前に立ち尽くしたまま口も利けないグレウスに、皇弟は切れ長の赤い瞳で見つめながら、静かに問いかけた。
「……今から何をするか、理解しているな?」
その声を聞いて、耳元で動悸がうるさいほどに速くなった。
冷静に考えれば、グレウスと皇弟は夫婦になり、今日は婚姻後の初めての夜だ。
寝室は式を挙げたばかりの夫婦に相応しい拵えになっている。
美しく活けられた花も、甘い蜜蝋の香りも、寝台に掛かっている絹の掛物さえも、何のために用意されたかは明白だった。
体は熱く脈打ち、自分が目の前の相手に欲情しているという事実を告げてくる。
――だが、とグレウスは自問した。
これはただの政略結婚で、皇弟とは形式だけの夫婦になるはずではなかったのか、と。
「皇弟殿下……俺は、その……」
改めて間近で目にする皇弟は、この世の者とは思えぬほど神秘的な美しさだった。
胸がどきどきして、言葉がなかなか出てこない。
射干玉の黒い髪に縁どられた、卵型の優美な頭部。一分の隙もない美貌は、どちらかと言えば冷たく神経質そうに見える。
普通ならば近寄りがたいと思うのだろうが、グレウスの目は惹きつけられて止まなかった。
白い肌に、僅かに血の色を昇らせた頬と唇がうっとりするほど艶やかに見えた。今まで髪に隠されていた耳朶が姿を現わし、少し尖ったその先端が淡く色づいている様子にも、ひどく情欲をそそられる。
黒と白、そして緋色の見事な対比。
アスファロス皇室の優しく淡い色合いとはまるで違うが、闇夜の中で妖艶に煌めく星のようだ。
これほど麗しく高貴な人が、自分と夫婦になるなどと、あるはずがない。
「俺は、身分卑しい平民で……殿下に触れていいとは思っておりません。ですから――」
「グレウス」
静かに名を呼ぶ声が、グレウスの言葉を遮った。
体の前で握りしめた手を冷たい手に触れられて、グレウスは大きな体をビクリと震わせる。
皇弟は構わずに、指を沿わせて武骨なグレウスの手を握った。
「……私は皇室を出た。もう殿下と呼ばれる身分にはない」
手に汗が滲み出ていくのを感じながら、グレウスは立ち尽くした。
握り返すこともできず、ただ無言のまま俯いて。
「兄は、私がお前のものになることを望んでいる」
感情の読めない声が、たた淡々と事実を告げる。
皇帝は、おそらく実の弟を疎ましく思っているのだろう。
魔力を失ったとはいえ、皇弟オルガの影響力はいまだに王城の中に残っている。
かつてオルガが行なった凄まじい魔法の痕跡は、城の至る所に刻まれている。貴族院の議長や有力な貴族の何名かは、いまだに裏でオルガに忠誠を誓っているとも噂されている。
即位したばかりの若き皇帝にとって、いつまでも城に居座り続ける弟は、さぞかし目障りだったに違いない。
そうでなければ半ばこじつけに近いような理由で、皇族をどうして平民の男などに娶わせるものか。
「私がお前に抱かれることをお望みだ。余計なことを考えず、夜ごとお前に組み敷かれて、お前以外を見ずにいられるように」
耳の奥で、鼓動がうるさいほど鳴っていた。
平民上がりの武骨な大男に、城から一歩も出たことのない高貴な弟を投げ与える。そして、まるで卑しい商売女であるかのように、下賤な男の性欲処理をさせようとしたと。
形の良い唇は、そう語っていた。
そんなことができるはずがあるものか。
「そ……!」
反駁しようとしたグレウスを、皇弟は強い視線で黙らせた。
「グレウス。それは私の望みでもあるのだ」
「……ッ!?」
握りしめる力が緩んだ拍子に、皇弟の冷たい手がグレウスの指の間に滑り込んできた。
捉えた手を引き寄せて、皇弟はグレウスの指に自らの唇で触れた。夫の情を求める貞淑な妻であるかのように、節くれ立った指に口づけする。
濡れた舌先が唇から忍び出て、ちろりと指の関節を舐めた。
「お前の妻となることが私の望みだ。その強靭な肉体で、私を悦びに啼かせてみせよ」
炎を宿した瞳が、射貫くようにグレウスを見上げた。
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