追放された香りの令嬢は、氷の宰相に溺愛されています ~契約結婚のはずが、心まで奪われました~

夢喰るか

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第三章 閉ざされた心と香りの記憶

宮廷に漂うのは…

 アウレリア王国の宮廷は、常に香りに満ちていた。

 薔薇水をたっぷりと染み込ませたハンカチ。上質な皮革の手袋。貴族たちが競うように身につける、香水師たちの最新作。人々が行き交うたび、幾重もの香りが重なり合い、まるで目に見えない霧のように漂う。

 けれども、リシェルの鼻はそのすべてを嗅ぎ分けてしまう。

 それだけではない。甘くとろける薔薇の下に潜む、冷たい金属の緊張感。胡椒と琥珀の香の奥に滲む、じっとりとした焦りの気配。今日の謁見の間には、いつにも増して複雑な匂いが混じり合っていた。

 嘘の匂いだ、とリシェルは思った。

 腐りかけた果物のように甘ったるく、微かに発酵した不快感を伴うあの匂いが、広間の隅々から立ちのぼっている。


 謁見の間の奥、玉座に収まる国王エドワード一世は、齢五十に近い。君主としての威厳を出すためか、あえて大柄に見せるデザインの衣装をまとっているが、実は痩せこけた人物であることは隠しきれない。面長の顔に、筋の浮き出た細い首。顔立ちには気品があるが、神経質そうな翳りもある。
 宰相バートラム・クロフォードは王の右後方に控え、漆黒の礼服に身を包んで、いつもの石像のような無表情を貫いている。

 リシェルは宰相夫人としての立場で末席に座りながら、そっと息を吸い込んだ。

 王妃セレスティーヌが動いた。

 濃密な薔薇と黒胡椒――誘惑と支配の香り。その香りをまとった王妃が席を立ち、国王に何事かを囁く。

 王妃は、三十代とは思えないほど若々しい美貌の持ち主だった。豊かな黒髪に、張りのある肌。印象的な大きな瞳。濃密な色香と、デビュタントのような可愛らしさが、違和感なく同居している。
 国王と並んで立つと――王妃の生き生きとした存在感が、王の病弱さをいっそう際立たせて見せる。

 リシェルの鼻孔がわずかに広がった。王妃の香りの奥に、別の匂いが混じっている。辛味のある香辛料に似た、刺激的な野心の臭気。それが今日は、いつもより鮮明だった。

(……何かを、企んでいる?)

 そして、そのすぐ傍らに立つ王妃の寵臣、ヴィオラ・ウォルコット侯爵夫人。年のころは四十代半ば。優しさがにじみ出すような柔和な顔立ちで、薄紫の絹のドレスが光を弾いている。彼女の香りは――洗練されたジャスミンと白檀。一見穏やかで貴族的な香りだが、その奥に、リシェルは「恐怖の匂い」を嗅ぎ取った。

 冷たい汗を含んだ、金属質の刺激臭。

 誰かを恐れている。あるいは、誰かを恐れさせようとしている。

 リシェルは表情を変えないまま、手元の扇を静かに閉じた。




 謁見が終わり、重臣たちが退室してゆく中、リシェルはバートラムを待った。

 彼は最後まで国王と短い言葉を交わし、深く一礼してから広間を後にした。リシェルがその背に続くと、廊下に出たところで彼がわずかに歩みをゆるめた。それだけで、彼が自分を気にかけていることが分かる。言葉にはしない。それがこの男の流儀だった。

「少し、よろしいですか」

 リシェルは彼の隣に並んで、静かに言った。

 バートラムは前を向いたまま、「何だ」と短く答える。石廊下に二人の足音が響き、金色の燭台の炎がゆらりと揺れた。

「今日の謁見の間に、嘘の匂いがしていました。それも、一人ではなく……複数の人間から」

 バートラムは歩みを止めた。リシェルは報告を続けた。

「ウォルコット侯爵夫人から、恐怖の匂いもしていました。誰かに脅されているか、あるいは誰かを脅そうとしているか。それと、王妃様の香りに含まれていた野心の気配が、以前より明らかに強くなっています」

 バートラムはゆっくりリシェルに向き直った。灰色の瞳が彼女を見下ろす。その目は何も語らないが、沈黙の中に確かな重みがある。

「……よく気づいた」

 それだけだった。けれどリシェルには、それで十分だった。
 彼が言葉を多く費やさない人間だと、もう分かっていたから。

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