紙の月と、銀河の中心

志村タカサキ

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紙の月と、銀河の中心

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「ここでホームランを決めれば、俺達の勝ちだ」
 監督の言葉を背中で聞きながら、バッターボックスに向かう。バットを構える。遠くでサッカーをしている少年たちの奇声が聞こえる。私の眼前、長身の少女がボールを握り、こちらを睨んでいる。彼女の背後には夕焼け。陰の落ちた彼女の顔は陶器のように白く美しい。
 風がびゅうっと吹いて、にわかに金木犀が香った。瞬間、長身の少女がボールを投げる。綺麗なフォーム。まるで野球経験者のようだ。私はバットをより強く握り、踏み込んだ足に力を入れて、打った──。
 痛快な音と共に、ボールはオレンジ色の空に消えていった。バットを投げ捨て駆け出すと、木の枝で地面に書いただけのベースを回る。守備の選手の間を次々と抜けて、ホームベースにスライディング。靴下とスカートが砂まみれになって、お母さんの苦い顔が脳裏に浮かんだ。
「ゲームセット!!」
 誰かが叫んだ。歓声と共に選手達が私の周りに集まる。手を取り合って喜びたいのに、ここにいる人たちの名前を全く知らない。困って愛想笑いをしていると、投手の少女も私のもとにやってきて言った。
「ナイスバッティング! ……ところでなんて名前だっけ」
「……藤野です」
「そーかそーか。ごめんね。誘う前に名前、聞いておくべきだったわ」
 そう言いながら彼女が伸ばした手を、私は掴んで立ち上がった。勢い余って彼女にぶつかりかけたのが妙に気恥ずかしくて、スカートの砂を払うフリをして、すぐに手を放した。
「よし! ホームランが出たから、約束通り今日は解散!」
 投手の少女が全員に向かって叫んだ。誰かが万歳三唱を始めた。周りがそれに合わせて万歳を続けたので、私も適当に声を合わせた。年齢も性別もバラバラの男女が公園のグラウンドで喜ぶ姿に、サッカー少年やその父兄たちは釘付けになっている。
「ルール知らなくても意外と楽しかった」
「メジャーリーグ行けるかもな」
 各々が適当な事を言いながら片付けを始める。私は投手の少女に向かって頭を下げた。
「あの、誘って頂いてありがとうございました。意外と楽しかったです」
「よかったー。つまんないって言われたらどうしようかと思ってたよ」
 選手たちは彼女のことを『オニール』と呼び、挨拶を交わしその場を去っていく。
「オニール……?」
「……あぁ、本名じゃないよ。ハンドルネームね。──実は一緒に野球をした人たちね、ネットで集めたんだ。だから藤野だけじゃなくて、今日は全員が初対面」
 変な名前で変な子と、変な人達との野球。突然巻き込まれた若干の非日常に私の心は少しだけ高揚していた。夕焼けも殆ど沈んでしまい、薄明るい夜が訪れつつある。いつの間にか公園には私とオニールさんの二人だけになった。
「オニールさんは家、どちらですか? 私は一号線の方なんですけど」
 公園を出て直進すると国道二四八号線にぶつかる。そのまま北に進んで、国道一号線を横切ってすぐのところに、私の家はあった。ここから自転車で二十分程かかる。
「私もそっちの方向だよ。あと呼び捨てでいいし、敬語も無しね」
 夜になると少し肌寒い。私はカーディガンを、オニールはジャージを羽織って自転車に乗った。国道沿いを走る車の音になるべく負けないように、オニールに聞いた。
「今日みたいな変な事、いつもしてるの?」
「変な事とは失礼な!」オニールはわざとらしくむっとした後、こちらを向いて続けた。「思いつきでも、面白そうと思った事はなんでもすることにしてるんだ!別にいつも外で走り回ってるわけじゃないよ。何も思い付かない時はだいたい家で映画を観たり──」
 突然急ブレーキした私につられて、オニールも慌てて自転車を止めた。
「何!? どうした?」
 私は自転車のかごに入っている鞄から、パンフレットの入った袋を取り出した。
「そういえば、さっき野球に誘った時にベンチで読んでたよね。もしかして、近くのイオンシネマで映画観た帰りだった?」
「そうなの! オニールも映画好きなの!?」
「映画館っていうよりはDVDで観る派なんだけどね。今日は何を観たの?」
「……トイ・ストーリー3」
「いいね。それは流石に私も公開日に観に行ったよ。どうだった?」
「面白かったよ。……でもまだ解決していない問題というか、スッキリしない部分があって……」
「スッキリしない部分かぁ」オニールは腕を組んで考え始める。「……おもちゃ達ってさ、寿命が無いから、処分されるまではいろんな子どもたちと出会いと別れを繰り返していくんだよね。きっと辛い別れもあるのに、それを『おもちゃは子どもを幸せにするのが使命』ってだけで片付けるのは、あまりにも横暴すぎないかな、って私は思ったんだけど。どう?」
「そうそう! 自我を持っているのに、生きる目的が自分の意思じゃないところに、何か引っかかるところがあって」
「でもさー、そんな事考えてるのって、多分私たちくらいだと思うよ。世の中のディズニー大好き、トイ・ストーリー大好きの、映画っていうコンテンツそのものに興味無い人たちはそこまで深く考えてないと思う」
「そうなのかな……」
 面白くない人たちだなと思った。世間との感受性の差に落胆した事が伝わったのか、フォローを入れるようにオニールは言う。
「じゃあさ、トイ・ストーリー4を予想しようよ。制作するのか知らないけど」
 私はさっき劇場でスタッフロールを眺めながら考えていた構想を話す。
「子どもたちを幸せにするだけが自分たちの人生じゃないと思ったおもちゃたちが、人間の世界を離れておもちゃだけで暮らすっていうのはどうかな。それこそ人間みたいに……」
「面白いけど、トイ・ストーリーが好きだった人からは叩かれそうだね。この作品が好きな人達っておもちゃに感情移入しているんじゃなくて、おもちゃが自分たち人間を愛してくれている事が嬉しいんだよね、多分。私はそういうの意味分かんないと思ってるから──逆に人間と戦争をするのはどうかな? 人間に虐げられた反人類のおもちゃと、人間の幸せを守るのが自分たちの使命だと思っているおもちゃの戦争みたいな」
「スモール・ソルジャーズみたい」
「古い映画知ってんね! 藤野っていくつ?」
「十五歳だよ。いま中三」
「若いね。って言っても私も十七で高二だけど」
 自転車に乗り直したものの、映画の話は留まることなく続いた。オニールが一番好きな映画を教えて欲しいと言ったので、しばらく考えながら無言で自転車を漕ぎ続けた。小学生くらいの頃、クリスマスに見た事を思い出して、私は『グレムリン』と答えた。
「ああ、分かるかも。ギズモみたいだよね。藤野は」
「褒めてるの? オニールの一番も教えてよ」
 オニールはしばらく考えた後で、「じゃあ、ビューティフル・マインド」と答えた。「じゃあ」ってどういう事? と私が聞いても理由は曖昧で、その上映画の内容はネタバレになるからと、あらすじすら教えてくれなかった。
「映画って大体好きだから、一番なんて決めらんないよ」
「つまんない映画でも?」
「うん。現実よりもつまらない映画なんてないよ」
 同意見だった。私が映画を観る理由は、この日常があまり面白くない事に気がついたからだった。学校と家の往復と、スーパーとショッピングモールと、テレビの話題。狭い世界で繰り返される代わり映えのない日常を、みんながなんの疑問も持たずに共有し合っていた。いつの間にか私たちは自転車を漕ぐのをやめて、歩きながら話をしていた。川を越えたら、もうすぐ家に着いてしまう。オニールと、ずっと話をしていたい。
「藤野は進路決まってる?」
「うーん……じつは何も考えてなくて。オニールって学校はどこ?」
「私の学校? ……えーっと、光が丘だけど。どうして?」
 光が丘といえば市内で唯一の女子校だ。父から進学先として提案された事があったけど、女子校なら一人娘に悪い虫が付かない、それだけの理由みたいだった。私自身の事は何も考えていなかった事に落胆して、進路の候補からは一度下げていた。……もし入学すれば、毎日オニールに会って、こうして話ができるんだろうか。そんな私の想いと裏腹に、彼女からは冷たい言葉が返ってきた。
「先に言っておくけど、もし藤野が入学しても、私は校内では会わないし、後悔するような事があっても、責任取らないからね」
 この街で一番車の通りが多い交差点の歩道橋で、真下を行き交う車を眺めながらオニールは続ける。
「学校はさ、私にとって必要のない世界なんだ。だから楽しく過ごすつもりはないし、楽しくなって欲しくもない」
「学校で会わなくてもいいよ。入学したいのは私の意思だから、後悔はしないと思う。だけど、入学してもしなくても、これからも友達でいて欲しいな」
「うん。もちろん!」
 オニールは満面の笑みで答えてくれた。オニールの都合は分からないけど、進路を決めるきっかけが出来た事が嬉しかった。交差点の歩道橋を降りると、程なくして私の家に到着した。十一階建のマンションは殆どが家族連れで、エントランスの脇にある自転車置場には荷台にチャイルドシートの付いた自転車や、補助輪の付いた小さな子ども用自転車が並んでいる。合間を縫ってようやく自転車を停め終わり振り向くと、オニールがこちらにスマホの画面を掲げていた。
「これ、私のツイッターね。初対面の人には教えないんだけど、藤野には特別だよ。フォローしてくれたらDMするから」
 今時LINEじゃないんだ、と思いながらIDの文字列を検索フォームに入力していると、画面が着信の通知に変わった。
「あ、やばい。ちょっと電話出るね」
 緑色の通話ボタンを押す。母は何時に帰るのか、夕飯は食べるのかと質問攻めをした。私はあと数分で家に着くと言い、電話を切った。
「早く帰ってこいって」
「そっか。……じゃあ私も、もう帰るね」
 オニールが残念そうな顔をするので、名残惜しくなった私は「また、遊ぼうよ」と少し照れくさくなりながらも伝えた。
「もちろん! 来週にでも!」
 そう言いながら彼女は自転車に跨り、左足でスタンドを蹴り上げた。振り向いて手を振りながら自転車を漕ぐ彼女は、そのうち前を向いて立ち漕ぎになった後、上り坂の向こうへ消えていった。

 玄関で出迎えた母が、砂だらけの私を見るなり呆れた顔をした。
「あんた、どこまで映画観に行ってたの?」
「イオンだよ。映画観て、公園で野球してた」
「野球?」
 母と並んで居間に進み、ダイニングの椅子に腰掛けた。母はキッチンに入り、冷蔵庫からラップのかかった皿を出して、電子レンジに入れている。
「可織が野球始めたんだって」
 寝転がってテレビを観ている父に母が伝えた。テレビ画面にはクイズ番組で五人のタレントが問題の答えを一文字ずつ当てるコーナーが映っている。
「始めたわけじゃない! たまたまやっただけ」
「進学先が愛工大名電は遠いなぁ。名古屋じゃなくて市内にしてくれよ」
 半身だけこちらに向けた父は、いつもの冗談を言った。面白くもなんともないのに、笑ってやらなければならない雰囲気がいつも面倒臭い。熱々になったばかりの煮物をテーブルに配膳する母は、父の冗談をスルーした。
「ほら、座って」
 食事が一通り出揃うと、父も起き上がり席に着いた。
「いただきます」
 里芋を箸でつまみ、口に入れる。相変わらず母の料理は美味しい。
「進学先、多分光が丘にすると思う」
 私は里芋を飲み込んで言った。二人はあまり驚く様子もなく、箸を進めながら私の方を見た。
「女子校じゃん。なんで急に?」
「前に薦めた時は興味無さそうな顔してたのに」
「いやぁ、まぁ。なんとなく。楽しそうだから?」
 ついさっき一緒に野球をした女の子と同じ高校に通いたいからなんて、口が裂けても言えない。どちらにせよ、どんな理由であったって別に応援してくれないんだから、どうでもいい。
「ふーん。まぁ、それでいいなら。お父さんは?」
「これ、分かるか?」
 父はテレビのほうを顎で差した。画面にはクイズの問題が表示されている。
『はくちょう座・わし座・こと座を繋いだ星郡 ○○○○○(五文字)』
「夏の大三角でしょ。いや、私の話聞いてた?」
 私の話には興味が無いらしい。出演者が間違えた「夏大大三形」という答えに対して、やっぱりなと言っているけど、本当にわかっていたんだろうか。
「勉強はなんとかなりそうなの?」と母が代わりに質問をした。
「国際教養科に入るわけじゃないし。普通科文理コースなら全然余裕だよ」
 光が丘女子高には普通科文理コース、普通科福祉コース、国際教養科の三つの選択肢がある。英語を覚えて留学するのは確かに素敵だけど、今私のやりたい事ではない。福祉コースも同様だ。父はともかく母は肯定的だったので、食べ終わった食器を片付けて部屋に戻った。
 ベッドに寝転がり、頭上にある充電ケーブルをスマホに刺すと、接続音と同時に画面が点灯した。一件の通知。開いてみるとオニールからのDMだった。
「今日はありがとう! また野球しようね(野球ボールの絵文字)」
 野球以外ならいいよと返信しようとしていたのに、画面を眺めているうちにいつの間にか寝落ちしてしまっていた。
      2
 受験は滞りなく行われ、春を迎えた。
 先生が式の説明をしている背後の黒板には、隅から隅まで使って「三年二組 卒業おめでとう」という凝った文字とイラストがチョークで書いてある。隣の関君は既に涙ぐんで、鼻をすすっている。
 卒業式は厳粛な雰囲気で行われた。壇上への上がり方、卒業証書の受け取り方からお辞儀の仕方まで、全員がふざける事なく練習通りにこなした。在校生からのお礼の言葉と、卒業生からの感謝の言葉が述べられ、お互いに合唱曲を歌った。
 教室に戻った後、担任の先生が私たちへの祝辞を述べた。
「この先みんなには様々な困難が待ち受けていると思う。それを乗り越えた時、本当に正しい選択だったのかと悩むかもしれない。でもそれが自分自身で選んだ選択なら後悔はしないで欲しい。それはきっと生きていく為の糧になるから」
 関君が号泣しながら頷いている。もう着ないであろう学ランの袖が涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっている。教室内に嗚咽と鼻をすする音が響く。
 放課後は卒業生全員が校門まで引率されて、記念撮影の時間となった。授業や部活で交流があった先生達もおおかた集まっていて、両親と合流するまでの間にクラスメイトや先生から記念撮影を求められた。
「この後一緒に車で帰るよな? 飯、どこ行きたい?」
 両親と合流後、担任の先生との記念撮影を終えたときに父が言った。
「クラスで打ち上げがあるんだって。二人で食べてきなよ」
 私がそう言うと両親は、ああ、そういう事なら、と駐車場へ向かった。──想像していたよりもすんなり嘘がつけた。あとは両親よりも先に家に帰って、見つからないように自転車を回収するだけだ。
 マンションの駐輪場で自転車のハンドルに手をかけた時、一度着替えてから向かおうか迷ったけれど、そうすると後で自転車を回収した事が両親にバレた時に言い訳が難しくなると思って、仕方なくセーラー服のまま家を飛び出した。来月に入学を控えている学校の近くにある公園を目指して、ペダルを漕いだ。
 目的地の公園に着いて真っ先に目に飛び込んできたのは、満開に咲いた桜の花だった。木々のあいだを抜けてあたりを見渡すと、広場の向こうにあるベンチの傍に見知った長身の少女が自転車に跨ったまま、スマホを眺めていた。私が声をかけるよりも先にこちらに気がついた彼女は全速力でペダルを回して、目の前に急ブレーキで止まった。
「藤野ー! 卒業おめでとう!」
「ありがとう。待った?」
「ううん。全然。──セーラー服、なんか新鮮だね」
 なぜかオニールが照れている。私も恥ずかしくなって、胸元のリボンを弄んだ。
「それはそうと、今日は卒業生のやりたい事に付き合ってくれるって約束だったよね。本当になんでもいいの?」 
「いいよ。でも今日は映画を観たい気分じゃない? 違う?」
 すごく雑な誘導尋問だな、と思いながらも、確かに映画もありだと思った。でも、もしかしたらクラスメイトたちは今本当に打ち上げに行っているかもしれない。
「いいけど……卒業式の日にイオンに行くのはちょっとハードル高いかも」
「そう言うと思って考えてきたよ。──の映画館に行こう! そっちの中学校の卒業式は来週なんだって」
「そうなんだ! あの映画館は行ったことないし、いいかも。」
 隣の市にある目的の映画館までは自転車で行けないこともないけど、「たまには電車で行こうよ」とオニールが言い出したので、公園から一番近い駅に向かった。そこから一回の乗り換えを経て、駅数にして二駅、距離にしておよそ六キロの移動。休日にもかかわらず電車はガラガラで、地方都市の人間がいかに車に頼っているのかがよく分かる。
 目的の駅から映画館のあるアミューズメント施設までの道のりは思ったより遠くて、十分ほど歩かされた。私達の横をすいすい通り過ぎる車を恨めしく眺めながら、地方都市の人間がなぜ車に頼っているのかを、もう一度考えさせられた。
「どれ観ようか?」
 近隣の学校で卒業式が無いとはいえ、休日の昼過ぎ。ボウリング場やカラオケ、温泉までもが併設されているせいでショッピングモールにも負けず劣らずの盛況ぶりに私達は若干辟易していた。人混みを避けながらたどり着いた映画館のチケット売り場で上映予定の作品一覧が表示されたモニタを二人で見上げている。特段観たかった映画は無い。この際なんでも良さそうだ。オニールに任せよう。
「私が気になってるの、当ててみて」
 私は不敵な笑みでオニールに出題した。
「えー、なんだろう? ……多分洋画だよね。どれかな……」
 しばらくあれじゃないこれじゃないと考えた後、モニタを見上げる私の顔とモニタを交互に見て、視線の先を探して当てようとする。
「ズルしないで」
「えー。──じゃあ、『英国王のスピーチ』で」
「うーん……正解」
 何を言っても正解だったとはつゆ知らず、喜んでいるオニールと隣同士の席でチケットを購入した。既に上映十分前だったので、そのまま劇場の中へと進んだ。席は後方の下手寄り。通路に一番近い位置だった。上映前の予告編が流れるたびに二人で一喜一憂している時間が楽しかった。劇場内が暗くなると同時に、私達はスクリーンに集中した。
 二時間はあっという間だった。スタッフロールの流れる中、隣に座っているオニールを見ると、白い肌に嵌め込まれた黒真珠のような瞳がとても綺麗だった。音楽が鳴り止んでスタッフロールも消えた。劇場の照明がゆっくりと付いて、観客がぞろぞろと立ち上がり劇場を後にした。オニールは背伸びをしながら「お腹空いちゃったね。なんか食べよっか」と言うので、「さっきここに入る前、マックあったよね? そこがいいかな」と提案した。
 施設内にあるマクドナルドの窓際の席に陣取った私達は、新しく発売したカリフォルニアバーガーを食べながら、余韻に浸る。
「何が良かったって、吹き替えを選んだ事だよね。あの暴言を吐きまくるシーン、日本語で聞けたのがめちゃくちゃ良かった」
「私はノンフィクションだって事が、一番最後に明かされるところが好きかも」
「藤野はネタバレ気にしないっていつも言うじゃん。これ、先に調べてたら真っ先に実話だって出てくるからね!? 本当にそれでいいの?」
「その時はその時かな……しょうがないと思うしか」
 ネタバレは気にしないというより、細かい事を気にしないのかもしれない。一見大雑把に見えるオニールの方が、細かい事を気にすることが多い気がする。今も目の前でポテトを食べている間、何度も指を拭いている。
 神経質なのは生まれつきなんだろうか。それとも親の影響? 本当は家の事や学校の事も含めて、オニールの事をもっと知りたいのに、話したくない事はいつも自分から話さないから、聞けずにいる。
「あんたのそういう事なかれ主義っていうの? そういうところ、ほんと良くないよ。もっと私みたいに体験を楽しみなさいよ」
「なんか、お姉ちゃんみたいだね」
 私がそう言うと、彼女は私のナゲットに付いてきたマスタードソースを開けてポテトを浸した。バーベキューソースを頼んだのに提供されたのはマスタードソースだった。レジが混んでいたので交換をお願いするタイミングを逃し、結局そのまま席に着いてしまった。私自身は損していないので別になんとも思わないけれど、こういうところが良くないらしい。
「妹欲しいと思ってたからいいんだけどさ」
 どうやら少なくとも長女では無いらしい。姉や兄がいるんだろうか。それとも一人っ子? 天真爛漫さは年上に可愛がられていたからかもしれない。違和感のないように自然な流れで聞いてみる。
「じゃあ私がお姉ちゃんだったらどう?」
「え、どうって……。なんか違う感じするなぁ。藤野ってあんまり引っ張ってくれる感じじゃないし」
 戸惑いの表情から、私は姉としての魅力が微塵も無いらしい。せめて姉がいるのか、欲しいのかどうかを教えてほしい。
「お姉ちゃん、いりませんか?」とやけに曖昧なセールストークじみたセリフで聞いてみたけれど、
「欲しいです。欲しいですが、藤野さんにはお姉ちゃんは向いてないと思います」
 あっさりと否定されてしまった。だけど「姉が欲しい」という言葉から、姉がいないことは分かった。兄がいるのも違う気がする。多分一人っ子だと思う。両親についての情報は無いけど、普段から帰る時間をあまり気にしていないところから、はやく家に帰っても誰もいないんじゃないか、もしくは親との仲があまり良くないんじゃないかと邪推していた。彼女の親からの愛情の受け方について考えれば考えるほど、私は自分自身がどれだけ恵まれているのか、私の感じる息のしづらさは甘えなんじゃないかと、時々自分を責めそうになる。

   ◆◆◆

 入学後、数ヶ月が過ぎた。
 校則、とりわけ身だしなみについて厳しい女子校という事で有名なだけあって、一見して素行が悪かったり、問題児になりそうな生徒は見当たらない。むしろ全員おとなしすぎるくらいだ。オニールと過ごす時間が増えてきて、私は退屈に敏感になってしまっていた。
「ねぇ、藤野さんの髪って地毛?」
 休み時間に、前の席の濱田さんが振り返って言った。昔から色が薄いんだと私が言うと「いいなぁ」と羨ましながら、自身のポニーテールを手繰り寄せて手櫛で撫でた。「もう少し可愛い髪型も試せたらいいのにね……」と気の毒そうに続ける彼女の髪を見ながら、私も自分の髪を触った。セミロングの髪は、耳にかからないようにハーフアップにしている。伸ばしてもいいかもしれないと最近思えてきたけれど、オニールみたいに顔が小さくないから、私には彼女のような髪型は似合わないかもしれない。
「ねえ、藤野さん。聞いてた?」
「え? ごめん。なんだっけ」
 惚けた私に、あきれたような顔をした濱田さんが続ける。
「アピタで宗教の勧誘された話だよ。二~三年前くらいは頻繁にいたらしいんだけどね。しばらく見かけなくなってみんな安心してたのに、最近になってまた現れるようになったんだって。フードコートとか駐車場で子供連れのお母さんを狙って勧誘してくるらしいよ」
 一階のフロアには食料品売場とフードコート、二階には専門店が立ち並ぶアピタは、イオンモールと比べるとお世辞にも大きなショッピングモールとは言えなかった。だけど駐車場が広く家から近いから、母に連れられて買い物に行く時はイオンよりも利用頻度は多かった。私も母も今の所そういった勧誘に引っかかった事は一度もない。
「逮捕とかされないのかな?」
「私も法律には詳しくないんだけど、多分信仰の自由とかあるんじゃないかな? 別に危害を加えてる訳じゃないから、うちのお父さんの学校でもそういう話があったって直接的な言い方じゃなくて、知らない人に話しかけられても付いていかないようにしましょうって注意喚起してるんだって」
 濱田さんの両親は母親が教師、父親が校長をしているらしい。そのおかげで生徒や保護者が絡む市内の事件や問題に詳しかった。
 少し抜けているところがある母の事が少し気がかりだったけど、一方で父が私よりも母を優先する事があるくらい母の事を大事にしているので、宗教なんてハマったらすぐに止めさせるだろうと思った。家族はともかく、身近な人が宗教に傾倒していたところで、周りに迷惑かけていなければ好きにしたら良いと思う。
 オニールと私は初めて交わした約束をお互いに守っていた。学校では絶対に会わないし、詮索もしなかった。ただ、学年も学科も違う私たちの帰宅時間が合う事はまず無く、毎日連絡を取り合うのも面倒なので、次第に決まった待ち合わせ場所で落ち合う流れが出来ていた。
 学校から自転車で二十分程の場所。ちょうど私とオニールの家の中間くらいに位置するこの『シビコ』と呼ばれている商業ビルは、市内にいくつかあるショッピングモールの中でも最も歴史が古く、最も寂れている。正面の自動ドアを抜けると、どんよりと薄暗く陰気な空気が出迎える。こんなところに私たちの学校の生徒はおろか、高校生が来る事はほとんど無かった。だからこそ、私たちにとっては憩いの場になっている。一階のフロアからエスカレーターで地下一階に降りると、生鮮食品売り場にフードコートとカフェが隣接している。フードコートとは名ばかりで、蕎麦屋が一軒構えているだけのその場所は、注文もしていないのに勝手に席に座る老人たちの休憩スペースになっていた。その隣でかろうじて店として成り立っているカフェこそが、私とオニールの待ち合わせ場所であり、憩いの場である『cafe&rest rhythm』だった。
 店内を見渡すと席に座っているのは常連の中年男性と、腰が九〇度くらい曲がっていそうなお爺さん、そしてオニールの三人だけだった。それぞれが間隔を開けて店内を広く使っている。
 私がオニールの前に立つと、スマホに視線を落としていた彼女は顔を上げて、にっと笑った。テーブルに置かれているオレンジジュースだったものは氷が溶け切ってグラスが結露し、もうほとんど水になっている。席に着くと後ろから年配の女性が現れた。
「いらっしゃーい。今日もアイスコーヒーでいい?」
 私の注文を先読みした店員さんに向かってオニールが食い気味にツッコむ。
「ちょいちょいちょい。勝手に決めないでよ!」
「今日は違うの? じゃあ別のお客さんがハンバーグ定食を注文したから、同じのだったらすぐ出てくるけど、そっちだったらどう? ハンバーグ好き?」
「晩ご飯は家で食べるので大丈夫です。アイスコーヒーお願いします。」
 言ったとおりでしょ、と言わんばかりのしたり顔でオニールの方を見た店員さんに楯突くように、オニールはオレンジジュースだった水を飲み干して、「おかわり」と言いながら空いたグラスを差し出した。
 映画『容疑者Xの献身』の犯人が許せるかどうかの議論を繰り広げていると、アイスコーヒーとオレンジジュースが運ばれて来た。それをテーブルに置いた店員さんはキッチンに戻る事なく、私達の隣の席の椅子に座って言った。
「あんた、いつもそれ着てるけど暑くないの?」
 平日のオニールは制服の上から、学校指定でも無い黒のジャージを羽織っている。背が高いのに更にオーバーサイズで様になっているから、私は結構好きだった。店員さんの物言いにわざとらしくため息を吐いた後、オニールは反論した。
「分かってないねえ……。私達みたいな育ちの良いお嬢様が、こんな寂れた店に入り浸っている事が分かったら問題になるでしょうが」
 育ちが良いかは置いておいて、市内唯一であるうちの女子校は、制服を見るだけで生徒だと一目で分かる。規律が厳しい学校という看板を背負っている手前、外で迂闊な事は出来ないという抑止力になっている。店員さんはオニールの話には興味が無いと言わんばかりに頬杖を付きながら、私の方を指差して言った。
「あんたがそれを隠したところで、こっちのお嬢さんは制服のままだけど」
「藤野はうちの制服が世界一似合うからこれでいいの!」
「私も上着着たほうが良いかな。それと今、制服似合うって言ってくれた?」
 私がオニールの顔をじっと見つめると、彼女は照れ隠しにオレンジジュースをぐっと飲んだ。それから私の方ではなく店員さんの方を向いて、
「うるさいうるさい。知らない。おばさんも大事な話するから、あっち行ってて」
と言うと、店員さんは不満げに席を立って、キッチンに消えていった。
「それで、次の土曜日なんだけどさ、一緒に落語観に行かない?」
 私が「落語?」と聞くと、彼女は続けた。
「市民会館に有名な落語家が来るんだって。落語ってちゃんと聴いたこと無いから、この機会に聴いてみようかなって思うんだけど、どう?」
 いつものように全く考えもつかないような提案に飛びつきそうになったけど、同日の予定を思い出し落胆した。
「ごめん。次の土曜日は用事が……」
「……ふーん。珍しいね」
「お父さんが高校生の時からの友達の家族グループとバーベキューがあるんだ。私は全然興味無いんだけど、一応みんな会えるのを楽しみにしてくれているし、子どもの中では私が一番年上だから他の子の面倒も見なきゃいけないんだよね。──行かないとお父さんもお母さんも不機嫌になるし……」
 この年になっても未だにそういった家族ぐるみの付き合いに参加しているのは単純に断れずにいたのが一番の理由だけど、オニールと友達になる前は断る予定を持ち合わせていなかったというのも大きかった。
「なんか、別に楽しい感じじゃないんだね。……あんまり嫌ならさ、──いや、なんでもない。私は暇してるから、万が一遊べそうになったら連絡してよ」
「ありがとう。断れそうなら断るね。暇してるって、映画は観るんでしょ?」
「そうだね。月曜日には返却しなきゃいけないDVDが何本かあるからね。でも藤野との予定が入るならそっちが優先だよ」
 平日はほぼ毎日私と会っているのにもかかわらず、オニールは週に平均五本ペースで映画を観ているらしい。一体どんな生活をしているんだろうか。

「明日ってさ──」
 私が話を切り出したのと同時に、父がテレビを見ながら大笑いをした。母も聞き取れていなかったようなので改めて切り出す。
「明日ってさ、何時に家出るの?」
 母が「お父さん、どうだっけ」と父に振る。
「十時くらいに河原に集合。道具は全部よっちゃんとこが全部持ってくるから、集まったら女性陣は食材の買い出しで、子供は子供同士で適当に遊んでて」
 『女性陣』というのは父の友達グループの奥さん側の事だ。私は『子供』の方に含まれる。しかも「適当に遊んでて」は「最年長の可織が子守りしていてくれ」という意味が含まれている。考えれば考えるほど憂鬱になってきた。
「ねえ、明日どうしても行かなきゃ駄目?」
 私の質問に対して目に見えて不機嫌になった父は、見ている番組がCMになった途端、チャンネルをザッピングしながら「逆に行かない理由あるのか? 逆に」と同じ言葉を繰り返して糾弾した。視線は変わらずテレビの方へ向けられている。
「行かなくていいなら友達と遊ぶんだけど……」
「じゃあ行くって事でいいか? こっちの予定が先だろうが」
 徐々に頭に血が登っていく父の気持ちが少しも理解できないし、これ以上議論を交わすのも無意味だと思ったので、私は話を早々に切り上げて部屋に戻った。断るに断れなかった不甲斐ない事情を改めてオニールに連絡すると、
「卒業っていう古い映画があるんだけどさ、サイモン&ガーファンクルの主題歌が良いんだ。調べてみてよ」と見当違いの返信が返ってきた。ためしに調べてみたところによると、主人公が年上に唆されたり浮気した挙げ句、花嫁を奪い去る映画らしい。つまり、そういうことなんだろうか?
 目覚ましのアラームをかけずに寝たはずなのに、いつもと同じ時間に目が覚めた。ツイッターを開いてみたけどオニールから追加の連絡は無くて、ベッドに寝転がったままだらだらとタイムラインやニュースを眺めているうちに「そろそろ行くよ」と私の部屋の扉をノックもせずに開けた母が言った。げんなりしながら身支度を整えてリビングに出ると、既にテレビも電気も消されていて、私を締め出す準備が出来ていた。
 父は既に玄関で待っているらしい。少しでも気分を上げるために買ったばかりのグラディエーターサンダルを履いて扉を開けると、玄関前の非常階段に父が腰掛けていた。手にした車のキーをおもむろに青空の方に向けると、階下で車のロックが解除される音が聞こえる。
「七階からでも開くの、知ってた?」
 本当にどうでもいいし、ただでさえ憂鬱なのに、これ以上私をいらつかせないで欲しい。一方で母は「すごいじゃん!」と、こういうときに限って良いリアクションを父に与えてしまう。だから調子に乗るんだ。
 うんざりしながらエレベーターでエントランスに降りてマンションの入り口に出ると、待ち望んでいた助け舟が現れた。
「藤野さん」
 私たちを見るなり名前を呼んだその女の子は、今まで見たことも無いような、可愛らしい花柄のワンピースを着ている。紛れもなくオニールだった。反射的に彼女の名前を呼びそうになったけど、本名で呼ばない事に、私の両親は絶対に不審がるだろう。咄嗟に出た「先輩」という言葉に、両親は目の前の人物が娘の顔見知りだということにようやく気がついた。
「もしかして可織の学校の? ──いつも娘がお世話になってます」
 母がかしこまってお辞儀をした。父はまじまじとオニールを観察している。
「ふふ、全然そんなこと無いですよ。こちらこそ、藤野さんにはいつもお世話になりっぱなしで。」
 今まで見たこともないお淑やかさでオニールも頭を下げた。
「──ところで藤野さん、十時から図書館で勉強するはずでしたけど……」
「え!? あ、そうでしたっけ。すみません。──お母さん、どうしよう」
 状況を察した私はわざと母に話を振った。母は困っている。父は私が予定をブッキングしていたのが気に入らないのか、鼻をフンと鳴らした。
「分かった。多分遅くなるから、あんたも今日は先輩と外で食べてきなさい」
 そう言いながら母は財布から取り出したお札を私に渡した。両親の様子を一瞥したオニールは私を見て、
「それでは、行きましょうか」
 と急かした。急いで駐輪場から自転車を引っ張り出し、オニールの横に並ぶと、
「じゃ、行ってくるね」と両親に挨拶を交わし、大通りの方へ歩を進めた。背筋をぴっとして自転車を押しているオニールのスピードに合わせて私も横に並んでゆっくり歩いていたけど、交差点の角を曲がって両親が見えなくなった瞬間、彼女は奇声にも近い笑い声を上げながら自転車に飛び乗って走り出した。慌てて私も自転車に跨り、後を追いかける。
「危なかったー! 自分で笑いそうになっちゃった」
「何あの演技! 不自然すぎるって! それに図書館はこっちじゃないじゃん」
「好きなところに行こうよ!」という彼女の格好を見て、
「その服、今日しか着ないんだよね? ──だったら、デートしたいな。一緒にカラオケ行ったり、ボウリングしたり、プリクラ撮ったり」
 普段私達が避けている、年相応の女子高生らしい遊びを提案した。
「うーん、なんか恥ずかしいけど……いいか」
 渋々承諾するオニールを連れて、二四八号線沿いの繁華街まで自転車を走らせた。最初に向かったのは市内で唯一のボウリング場だ。年季の入った建物の一階はゲームセンター、二階と三階のフロアがボウリング場になっている。この街に住む小学生は子ども会の集まりで必ず一度は訪れ、中高生へ進学するとクラスメイトとの打ち上げやデートで再訪する。広い駐車場には送迎バスが止まっているけれど、みんな自転車か親の車で来るから、使われているのを見たことが無い。
  ゲームセンターに吸い込まれそうになるオニールを制止して階段を上がる。二階の受付で必要事項を記入した紙を提出。受付が済んだら自分に合うサイズのシューズを自動販売機のような機械でレンタルする。指定されたレーンにシューズを置いてボールを取りに行くと、ボールに指をかけながらオニールが言った。
「ボウリングを広めたのは、ルターだって知ってる?」
「ルターって、宗教改革のマルティン・ルター?」
「そうそう。ちゃんと勉強してるね」
 オニールによると、ピンを悪魔や災いに見立ててボールで倒すという宗教儀式を整え、ルール化してスポーツとして布教したのが、かの有名なルターらしい。
 そんなボウリング豆知識を披露したオニールだったけど、ボウリングの腕前を披露することは叶わなかった。ボールがガーターレーンに向かっていく度に、悲しそうな顔で席に戻ってくる。結果は私が圧勝。「ちょうどコツが掴めてきたところなのに!」と悔しがるオニールを連れて、ボウリング場を後にした。
 ボウリング場の脇にある環状線の高架下をくぐってすぐの場所に、老舗のゲームセンターがある。ゲーマー向けの幅広いジャンルのアーケードゲームから、クレーンゲームまでなんでも揃っている。最寄り駅や他の店からのアクセスが良いことから、永らくこの街のゲームセンターの覇権を握っていたけど、数年前に国道を挟んだ斜向いに新しいゲームセンターが出来た。入り口でタッチ式のデバイスを受け取って出口で精算する新しさに、中高生はそちらの店に集まる事が多かった。だからこそ古いほうの、老舗のゲームセンターを選んだ。
「ボウリング場の一階にあったゲーセンでも良かったんじゃないの?」
「せっかくだからゲームが多い方にしたほうが楽しいと思って」
 国道から見て裏手にある、ボウリング場から近いほうの入り口の自動ドアを抜けると、様々な音楽が一緒くたになった騒音と、煙草の匂いが外に漏れ出した。格闘ゲームの筐体が何列にも並ぶエリアには、私達の遊べるゲームは無さそうだ。二人揃ってきょろきょろと辺りを見渡しながら店の中を進むと、国道に面した正面入口側には、私達のようななんとなく入ってきた客向けのクレーンゲームやプリクラが立ち並んでいた。
 何か適当なゲームで妥協しようとした私の手を引いて、オニールは更に店内をくまなく回った後、私が一度も遊んだことのないゲームに次々に手を出した。シューティングゲームもレースゲームもダンスゲームもとんでもなく上手なのに、最後に私がやってみたいと提案したエアホッケーだけは点でダメだった。どうやら彼女は球技全般が苦手らしい。
「もーだめだ。これで完全にリズムが崩れた。もう何やっても勝てないかも」
「じゃあ気分転換にプリクラでも撮ろっか」
 私の言葉に絶望するオニールの背中を押して、店内で一番明るく開けたスペースに向かった。白くて大きい筐体が並んでいて、スペースの中心にはハサミが備え付けられたテーブルが設置されている。
 最近のプリクラは目を大きくしたり、顎を細くしたり、顔を自動で補正する機能が付いている。そんな気持ち悪いもの使いたくないし、オニールは加工なんてしなくても十分可愛いと思ったので、私はシンプルな機能の台を選んだ。二人とも写真を撮られ慣れていないせいで、ポーズもままならないまま撮影が終了。外のタッチパネルに向かうように促された。
 画面の指示に従ってオニールがペンを持ち、何か書いている。
「なにこれ」
「『我等友情永久不滅』。ずっと書いてみたかったんだよね、これ」
 装飾に気合を入れてみたものの、写真写りには納得がいかなかったようで、機会があればプリクラじゃなくて、ちゃんとした写真を撮ろうという話をしながら、私達は店を後にした。
「初めてカラオケに行ったのって、いつだった?」
 自転車を走らせながら、オニールが言った。
「多分かなり小さい頃に、親の友達グループと行ったのが初めてだと思う」
「あー。という事はもしかしたら、今日連れて行かれる可能性があった?」
「そうかもね。助かったよ。──オニールはどう?」
「小六の卒業式の時かな? 打ち上げで行ったのが初めてだね」
 小学生のオニールの姿に想像を巡らせていると、大きな公園の近くにあるカラオケ店に到着した。駐輪場を見る限り繁盛しているようだったけど、幸いにも待ち時間無しですぐに部屋を案内された。
 案内された部屋に入って電気を付けた。画面には知らない演歌歌手が新曲のリリース告知をするデモ映像が流れている。オニールはカラオケに慣れていないのか、何もせずソファに座って画面を眺めている。私はマイクとタッチ式のリモコンを充電ドックから外して、彼女に渡した。
「先、歌う?」
「藤野の歌、聴きたいなー」
「私、最近の曲全然知らないよ? 古い曲ばっかりになっちゃうと思う」
 私がそう言うと、彼女は嬉しそうに「えー。いいじゃん古い曲!」と言った。
「親の世代はリアクションが毎回同じなんだよね。『いくつだよ!』って」
「めっちゃ分かるわそれ。良い曲は何歳で聴いても良い曲なのにね」
 二人の会話を遮るように部屋の扉がノックされた。
「失礼します。オレンジジュースと、アイスコーヒーです。──ごゆっくりどうぞ」
 店員さんが出ていったのを確認してようやく歌う気になった私は、リモコンを持ってしばらく曲を物色して、画面に向けて送信ボタンを押した。
 私達の両親は同世代だったらしく、古い曲の好みが似ていた。カラオケ自体は嫌いではないみたいで、私が歌った後にオニールも曲を選び、自然と一曲ずつ歌うような流れが出来た。ジュディマリやドリカムを歌うオニールは新鮮だった。
「おじいちゃんとおばあちゃんの家も市内にあるんだけどね、小学生の頃は休日に遊びに行くことが多くて。その時に車で流れてた曲をすごく覚えてるんだ」
「なんかいいね。それ」
「帰りの車に揺られて窓の外の街頭を眺めながら聴いた曲が流れるとさ、あの頃が一番何も考えないで生きてて、親も友達もみんな優しくて、幸せな時期だったんだなって思うんだ」
 オニールは溶けた氷の水しか残っていないグラスを、ぐっと飲み干した。
「オニールのさ、その、両親って……どんな人?」
 すぐに返事は無かった。予約曲が無くなった画面にはデモ映像が流れている。隣の部屋からはうっすらと天体観測のイントロが聞こえる。
「うーん。どこまで話そう」
「……ごめん。やっぱり言わなくても大丈夫」
「気遣わないでって言いたいところだけど、ご察しの通り、あんまり話したくない話なんだよね」
「うん。そうだよね。──何か歌うね」
 気を紛らわすようにリモコンに手を伸ばし、次に歌う曲を検索していると、オニールは私に密着するように隣に座り直して、画面を覗き込みながら言った。
「別に藤野だから言いたくない訳じゃないというか……いや、藤野だから言いたくないのかな……。とにかく、話しても楽しい話じゃないし。別に怒ってるわけでもないし、機嫌が悪くなったわけでもないから、それだけは分かって」
「うん、大丈夫だよ。気が向いたら話してね」
 終了十分前を告げる受付からの電話が鳴り、延長をせずに退室をした。
「お腹空いた。ご飯食べよ」
 オニールの言葉で、カラオケで食べたポッキーと飲み物以外、何も口に入れていなかった事に気がつく。私達はカラオケ店とゲームセンターの中間に位置するファミレスへと向かった。外にはすごい数の自転車が停まっている。入れないかと思ったけど、ちょうどレジで団体が会計していて、奇跡的に窓際の一番いい席に座ることが出来た。お互いにメニューを一冊ずつ開きながら、品定めをする。「ハンバーグとネギトロ丼、どっちがいいかな!?」と目を輝かせるオニールに合わせて、ハンバーグとライス、ネギトロ丼、それにドリンクバーを二つ注文した。店員が去ると同時に彼女が席を立つ。
「私飲み物持ってくるね。何がいい?」
「じゃあコーラでお願い」
 オッケー、と言いながらドリンクバーコーナーに向かった数分後、黒い飲み物が入ったグラスを二つ持って、妙ににやけた表情で彼女が戻ってきた。
「どっちもコーラ?」
「ううん。私、コーラにメロンソーダ入れてみた」
「ええ……。どっちが普通のコーラ?」
 私の差し出した手を見て、オニールは両手に持ったグラスを交互に見つめた。
「どっちがいい……?」
 差し出されたグラスの匂いを交互に嗅いで、大丈夫そうな方に口を付けた。メロンの風味が口の中に広がった瞬間、オニールの前に置かれているグラスと交換した。彼女は交換された飲み物に口をつけて一息ついた後、「この街のこと好き?」と私に言った。私は質問に答える前に、窓の外の大通りで車の行き交う景色に目をやった。土曜日の夜は、始まったばかりだった。
「オニールに出会うまでは、なんとも思って無かった。好きかどうかじゃなくて、この街には選択肢が無かったから、なるようにしかならないと思ってた。ここは県内でも栄えている地方都市だから、恵まれているんだと思ってたよ」
「私に会うまで?」
「オニールと出会って、楽しい事をどんどん知っていくうちに、もしかしたらこの街は、この世界は想像以上に退屈かもしれないと思うようになった。家族やクラスメイトに窮屈さを感じるようになった」
「私もずっとそうだった。でも今はこうして一緒に遊んでくれる友達がいる」
 オニールは笑った。私が彼女に惹かれたのは、自分と同じだと思ったからだ。
 それから私達はこの街の気に入らないところをたくさん愚痴って、学校の自販機のラインナップに文句を言った。二人で同じデザートを一つずつ注文して、きっかり割り勘で支払いをして店を後にした。
「今日はほんとうにありがとう。両親の集まりに行かなくてもよくなったし、すごく楽しかった。写真、今度はちゃんと撮ろうね」
「お礼を言いたいのはこっちだよ。いつも私のわがままに付き合ってくれてありがとう。今度は旅行とか行けたらいいね。そしたら記念撮影も出来るし」
 お互いに名残惜しさを抱えたまま、ファミレスの駐輪場で解散した。すごくながい時間を過ごした気がしたけれど、自宅に着いた時はまだ二十時を回ったばかりだった。両親は帰ってきていなかったけど、もちろん寂しさは無かった。
 記憶が新しいうちに、今日あったことをスマホのメモに日記のような形式で書き連ねた。オニールと初めて出会ったときと同じくらい、人生で最高の日だったと言っても良いかもしれない。
 着替えもせずにリビングのソファで一通り書き終えてた私はスマホを投げ捨てて、浴室へ向かった。
 お風呂から上がり、濡れた髪をバスタオルで拭きながらリビングに戻ったけれど、両親は未だ帰っていなかった。何気なくテレビを付けると、放送中の夜のニュースでは先週東京で起きた未成年の殺人事件について特集をしている。
 ふとソファに投げ出したスマホを取り上げてスリープを解除すると、ロック画面には一通の通知が表示されていた。

   ◆◆◆

 (手を合わせ、祈りを捧げる人達が画面に映っている)
 ──平和。戦も飢えも無い現代日本にも、救いを求めている人で溢れかえっています。江戸時代末期以降に生まれた、いわゆる新興宗教は今なおその数を増やし続けているのです。今回はそんな新興宗教について、徹底的にリサーチしていきたいと思います。
──振り向けば、隣の家も教祖様。
 (画面に『古今東西! 新情報発見』のロゴが表示される)
 (画面が切り替わり、掃き掃除をする女性が映る)
 ──今回ご紹介するのは、台東区に住む想望院桜妃さん。熱心に玄関先を掃除するこの女性、どこにでもいる普通の主婦に見えますが、なんと信者数四千人を抱える新興宗教、『さくら教会』の教祖様。
 (画面が切り替わり、忙しなく身支度を整えている想望院桜妃が映る)
 ──本日は朝から地方巡業。全国に二百三十二の支部を構えるさくら草教会。教祖である桜妃さんは信者との心の距離を何よりも大切にしている為、定期的に全国の支部に直接訪問し、講演会や相談会を行っているんだとか。
 (画面が切り替わり、新幹線の座席に座り食事をする想望院桜妃。背後の車窓には富士山が見える)
「やっぱりこの移動時間がいいですよね。──これから出会う方達が、たくさんの方が救われる事を考えると、胸が踊りますわ」
 (想望院桜妃の子供時代の古い写真が映される。BGMがオルゴール調になる)
 ──桜妃さんは地方で生まれた至極普通の少女であった。ところが中学二年生のある日、クラスメイトからいじめを受けてしまう。徐々に学校を休みがちになった桜妃さんは、そのまま六年間、引きこもりになってしまったそうです。
「辛かったですよ。人間が怖かった。自殺もね、うん、何度も考えましたよ」
 ──そして二十歳になったある日、ある夢を見ます。
「寝ている時にね。目の前にすごく眩しい人が下りてきてね。うわ、眩しいなー、と思ったら私に、多くの人を救いなさい。そうすればあなたも救われますって言うんです。それから体がぐあーっと熱くなって。目が覚めてからですね。この力が使えるようになったのは。それからは外にも出られるようになりました」
 ──神のお告げ。天啓とでも言うのだろうか。その日から彼女に、霊視の能力が身についたそうです。
 (名古屋駅の構内を歩く想望院桜妃。別の改札へと向かっている)
「大人になってからみんなね、何かしら後悔してる事あるでしょ。あなたもあるでしょ、違う? あの時想いを伝えていればよかったなーとか、あの時虐められた事を絶対許してないぞとか。そういうのはね、呼んじゃうんですよ。同じように後悔している人の悪い気を。──青春っていうんですかね。青春の、悪霊みたいなもんですかねぇ」
 (ふたたび電車に乗る想望院桜妃。車窓の景色を見ながら話す)
「後悔をしている気はね、限界が来て自分ではどうしようもなくなると、溢れたものが他の人のところに飛んでいくんですよ。私が救ってるのは依頼者というより、そういった気のほう。取り付いている悪霊のほうなんですよ」
 (さくら協会岡崎支部の建物が映る)
 ──そんなわけで彼女がやってきたのは、愛知県岡崎市にある協会の支部。本日は参加自由の講演会と、まだ入信していない人限定で行われる相談コーナー。なんとどちらも予約は満席。会場はすし詰め状態である。
 (壇上で演説をする想望院桜妃。テロップで[講演会参加費 五千円]、[相談料(初回のみ)一万五千円]と料金メニューが表示されている)
 (画面が切り替わり、信者によって応接間に通された相談者が映っている。画面下部には[中村宏美さん(35)]というテロップが表示されている)
 ──この相談者は市内に住む主婦。育児ノイローゼになってしまい、何もやる気がしないと悩んでいるという。この教会には娘のクラスメイトのお母さん、いわゆるママ友に連れて来られたんだとか。
 (机を挟んで向かい合わせに座る主婦と想望院桜妃)
「宏美さんに憑いているあんたは誰? 何を後悔しているの?」
(宏美と呼ばれている主婦、テーブルに置かれた紙を前にして鉛筆を握ったまま泣いている。睨みつける想望院桜妃)
「ん? 書いてみな? 何をやり直したいの?」
 (泣きながら頷く宏美)
 ──桜妃さんが相談者に語りかけると、彼女は無意識にペンを動かし始めます。
(紙に『うまれてこなければよかった』と書かれる)
「みんな、無視するの」
「誰が無視するの?」
 ──桜妃さんによると、彼女に憑いている悪霊は今もどこかに住んでいる少女の生霊だという。両親から育児放棄を受け、助けを求めている。そんな少女の生霊が宏美さんに取り憑いて、悪さをしているんだとか。
「アパートに住んでるのね。そこからは何が見える?」
「……大きい公園」
 ──相談前の印象からは想像も付かないような幼い口調で話す宏美さん。会話を重ねる度に少女の生霊は徐々に打ち解け、話し始めます。取り憑いている霊の遺恨が晴れれば、取り憑かれた人の体の病や心の病がかき消されるように消滅していくというのです。
 (想望院桜妃だけを映したインタビュー映像に切り替わる)
「霊も本来は人間ですからね。話をすれば解決します。どちらも悔いを残しているだけなんですよ。ここに来る人は──特に大人の女性なんかはね、ずっと一人で苦しい思いをしているんですよ。救われなきゃだめなの──」
 (インタビューの音声を活かしたまま、なにかに取り憑かれたように叫び暴れる女性と、取り押さえるの信者の映像が流れている)
「そういう人に取り憑いた霊の悩みを聞くことで、霊も救われるし、取り憑かれた人も悔いを残さず自分の人生を歩んでいける──」
 (取り押さえられた女性を卒塔婆のような板で叩く想望院桜妃。やり直せ、やり直せと絶叫を繰り返している)
「多少強引なやり方であっても、そういう活動を繰り返していけば、すべての大人が過去を悔やまずに、前を向いて生きていけると思うんですよね」
 ──悩める大人たちを救うため、今日も彼女は邁進する。
 ──さあお次は全国に存在する進学……

 (再生が止まり、青い画面の左上には『停止』の文字が表示されている)

 家に帰ると、再生の止まったビデオデッキの青い画面が、電気の付いていない部屋を煌々と照らしていた。涅槃仏のような姿勢でテレビの前に寝転がるママの半身も青い光に照らされている。テープが擦り切れるんじゃないかと思うくらい繰り返し観ているそのビデオの内容を、私も覚えてしまっていた。これを観ている時のママは、たいてい機嫌が悪い。
「……ただいま」
 私が電気を付けると、ようやくママは動き出し、ビデオデッキの電源を消した。ため息を吐くと、振り向く事なくテレビ画面の反射越しに私に話す。
「おかえりなさい」
 ワンピース姿で佇む私と、声色だけは優しいママに似つかわしくない家。木造二階建ての戸建ては、青い瓦屋根も色褪せていて、壁のそこらじゅうにヒビが入っている。日曜大工で庭に増設された車庫は波板やトタンでツギハギになっていて、グロテスクにカラフルだった。洗面所にはゴキブリがしょっちゅう出るし、浴室のタイルの割れ目からコウガイビルが顔を出すこともあった。トイレは時代に取り残された汲取式。月に一度、汲み取りのバキュームカーが来る直前には便槽の汚物がせり上がって来て、しばらく掃除をしないと白い蛆が湧く。
 こんなボロ屋でも数年前までは幸せだった。パパが家を出るまでは──。
 すべての原因は、家が貧乏だったせいだと私は思っている。物心付いた頃から両親は共働きで、家では一人で過ごすことが多かった。それでも夜には二人とも帰ってくるし、その頃は友達もたくさんいたから寂しくは無かった。ママがおかしくなり始めたのは、私が中学に入学した頃からだった。仕事と家事の両立に限界を感じたのか、虫の居所が悪い日が徐々に増えていった。時々ヒステリーを起こして私やパパに当たり散らすこともあった。そんなママに救いの手を差し伸べたのは、当時私のクラスメイトだったさっちゃんのママだった。さっちゃんのママは私のママをさくら草教会のセミナーへ連れて行った。セミナーから帰ってきたママはすっきりとした様子で、私とパパに入信をすることを告げた。
「ご飯、外で食べてきたから」
 冷蔵庫から麦茶の入ったボトルを取り出してグラスに注いだ。シンクには洗われていない食器が積み重なっている。麦茶を飲み干すと、スポンジに洗剤を付け、たった今使ったグラスだけを洗った。
 信者になったママはあまり家事をしなくなった。「大人こそ子供らしく生きる」という教会の理念に従って、やりたくない事はやらないという選択を取るようになった。はじめは大変なママの気持ちを汲んで、私とパパで家の事を全部やった。それだけならよかった。
 だんだんママは教会で売っている如何わしい水にも手を出すようになった。教祖が清めたその水は、飲めば憑いている悪い気がすべて体から排出されるという。ママが家事を放棄した上に、わけのわからない詐欺まがいの水に手を出した事に嫌気が差したパパは、ついに離婚を決意した。
 出ていくパパをママは罵った。他に女を作っているだの、ギャンブルで散財しているだの。優しいパパがそんな事するわけないと私は信じて、パパに付いていくと泣きついた。けれどパパは私を拒否し、ママは私を引き止めた。ママには何も残さず、私にはお気に入りだった黒のジャージを残してパパは家を出ていった。
「ださいジャージなんかより、やっぱりあんたは可愛い服のほうが似合ってるわ」
 振り向き立ち上がったママは、冷蔵庫から水のペットボトルを取り出して、そのまま直に一気飲みした。シンクに向かうと、ペットボトルの水を片手の平に出して器用に顔を洗い始めた。
 キッチンの蛍光灯がジリジリと静かに音を立て、ママの見窄らしい背中を照らしている。光の届かない足元には空のペットボトルの山が散乱している。
「ようやく決めたって事でいいの?」
 タオルで顔を拭きながらママが言った。
「バカ言わないでよ、そんな訳ないでしょ」
「まあ良いわ。とにかく明日の集会には来なさい。もうすぐ十八歳なんだから、いい加減覚悟を決めなさいよ」
 毎週日曜日の午前中、ママは教会で行われる集会に足を運んでいる。パパが出て行ってからママを一人ぼっちにさせたくなくて、ママの活動に付いていく事が度々あった。当時市内にはまだまだ信者が少なく、啓蒙活動に精を出している信者は本部から直々に評価を貰える事が多かった。私のママも認められたい一心で信者を増やす為にビラを配り、勧誘活動に勤しんでいた。
 私やさっちゃんのママが変な宗教に入っていると学校では密かに噂になっていることを知っていた。でも私達自身は変わりなく過ごしていたから、クラスメイト達は知らないフリをしていた。幸いにも同じ高校に進学するクラスメイトが誰一人いなくて、卒業後は他人の目を気にすることは少なくなった。
 宗教にハマったとはいえ、女手一人で私を育ててくれるママにはなんだかんだ感謝していたから、家事もできるだけ手伝うし、買い物にも付き合っていた。
 週末の夜。その日も近所のスーパーにママの車で買い物に行った。買い物を終えて荷物を車に置いたママは後部座席からビラを取り出して、私を引き連れて駐車場をうろついた。
 目についた主婦と思しき女性に声をかけ、呼び止める事ができればビラを渡して活動内容について詳しく説明する。ママが暴走して他人に迷惑をかけないように、見張るのが私の役目だと思っていた。赤い軽自動車の鍵を開けようとしていた女性にママが熱心に話している時、車内から顔を出した少女が言った。
「もしかして、中村さん?」
 顔を出したのは中学二年生の頃に同じクラスだった、林さんだった。
「沙也加のクラスメイト? ちょうど良いわ! 来週も集会があるんですよ。良かったら説明会だけでも是非……」
 勧誘活動に捕まる自分の母親のことなど気にも留めないといったふうに、車から出てきた林さんはにやにやしながら私に向かって言った。
「中村さんの家が変な宗教にハマってたの、本当だったんだ」
「……私は違うけど」
「でも、一緒にビラ配ったりしてるんだね」
 翌日から私は、クラスメイトから距離を置かれるようになった。後で知ったのだが、林さんの姉が私と同じ高校にいたのだという。平穏だと思っていた私の高校生活は突然、孤立無援の世界になった。
 それまでもそれからも、私をこの世界に留まらせていたのは、辛うじて持たせてもらっていたスマホで通じ合う外の世界との交流と、映画の世界だった。留まらせていたというよりは、希望を持たせてくれていたという言い方のほうが正しいかもしれない。
 この街の人々は、この世界になんの不満も疑問も持たずに日々を過ごしている。この街で起こる事、出会うものが幸福の最上限だと思って生きている。この街よりも外側の世界と、映画の中にあるフィクションの世界を知ってしまった私には、この街も、この街に住む人も、あまりにも退屈で陳腐に見えた。そんな人達よりも哀れな生活を強いられている事実に絶望しそうになりながらも、子どもの私には自分の力で生きていくことも、この街から出ることも出来なくて、退屈や不幸な現実から目を背ける以外の術を持っていなかった。
 ある日、野球のルールを知らない人限定で行う野球の企画を思いついた。参加者を募った私の投稿は奇跡的にバズって、なにもない街に様々な場所から見ず知らずの人たちが集まった。それだけでも一生忘れないくらい楽しい日だったのに、私は出会ってしまったんだ。
 私達が公園のグラウンドで野球をする傍ら、その子は一人ベンチに座っていた。転がったボールを取りに行くついでに横目で見てみると、映画のパンフレットを読んでいるようだった。ベンチには彼女一人だったから一人で映画を観てきたのだろうと思った。その状況が、その表情が私には、どこか寂しそうに見えた。
「突然だけど、一緒に野球しない?」
 私は彼女に声をかけた。その時は深く考えてなかったけど、親近感を感じたのかもしれない。だから友達になりたくて、もしこの世界がつまらないと感じているのなら、その気持ちを分かち合えると思った。
 彼女は藤野と名乗った。下の名前は分からない。背が低くて、まんまるな目をしている。背が高くてのっぺりした顔がコンプレックスの私とは真逆の可愛らしい女の子だった。藤野は私と同じくらい映画を観ていた。何を話しても通じるのが楽しくてしょうがなかった。藤野は二歳上の私よりもずっとしっかりしていた。
 藤野は私の事を詮索しないでくれていた。ママの事、宗教の事は話したくなかったから都合が良かった。藤野の家は貧しくもなく、親との仲も悪くないように見えたけれど、家の話をしている時の彼女は、あまり楽しそうに見えなかった。
 学校や家の息苦しさをじっと耐えて、藤野に会える時にだけ息継ぎが出来る。そんな毎日がしばら──
 ダンッ。
「おい、聞いてんのかって言ってんだよ!!」
 ママがダイニングテーブルを力任せに叩き、並んだ調味料の瓶が、がちゃがちゃと鳴る音で我に返った。
「ごめん、聞いてなかった。なんだっけ」
「明日の集会は婚礼の儀の説明会があるから絶対出ろって言ったの。何回言えばわかんの。あんたの為だからね。幸せになりたいでしょ?」
 私の為? 親が入った意味のわからない宗教の教えに従って、信者同士の子供が結婚することが本人の幸せ? 脳みそがイカれている。
「はいはい、ナントカ院の教えね。……うっさいなぁ」
「おい、ふざけてんのか……? 想望院桜妃様だ。いい加減ちゃんと覚えろ!」
 いい加減うんざりした私は二階にある自室に戻ろうとリビングのドアノブを握った。メッキがつるつるに剥げたドアノブはがたがたに緩んでいて、うまく角度を付けて回さないと開かない事がある。何度も回しているうちに、突然鈍い音とともに後頭部に衝撃が走った。
 視界がぐらりと真横に歪んで、気が付いた時には眼前には汚れてくすんだカーペットと毛や埃の塊が映っていた。痛みが走る後頭部を押さえながら起き上がり振り向くと、卒塔婆のような木の板を持ったママが泣き笑いの表情でこちらを見下ろしている。
「こんなに愛情持って育ててやったのに、なんで、なんで」
 突然の暴力に怒りが湧くどころか、頭はすっきりしていた。何もかも、全てがどうでも良くなってきた。ママも私もちゃんと生きていたはずなのに、なんでこんなふうになっちゃったんだろう。
「私、生まれて来ないほうが良かったのかもね」
 私がそう呟くと、ママは今にも泣き崩れそうな顔で言った。
「違う。沙也加が教えに従わないからだよ。教えに従って、ちゃんとやり直せばママも沙也加も救われるのに。あんたがいつまでも反抗するから私達はこんな汚い家に住んで、パパも出ていって、ずっと不幸なの。わかる? あんたは自分の事しか考えてないから、こうなるの」
 ママは床に転がった飲みかけのペットボトルを手にとって、私の頭上で開けた。じょろじょろと生ぬるい水が、清められた薄汚い水が私の髪から滴り、服を濡らしていく。空になったボトルを捨てて、木の板を持ち直す。
 ママが深くと息を吸い込んだ瞬間、私の頭に、肩に、背中に、再び衝撃が訪れた。
「やり直せ! やり直せ! やり直せぇ! やり直せーーー!」
 私の体を何度も何度も叩く。水をかけられた場所は叩かれる度にびちゃびちゃと汚い音を立てる。叩かれながら私は、どうしたら私達が幸せになるかをちゃんと考えてみた。もう百回は考えた。ママが大変じゃなくて、寂しくなければいいだけなんだ。貧乏なのにママだけが働いて、ママが家事を全部やらなければいけなくて、家が汚いからいけないんだ。だから私が働いて、ママを支えてあげればいい。そう思って学校も福祉科を選んだ。学校を卒業したら就職するつもりだったし、福祉の仕事を選んでいれば年を取ったママを支えることも出来る。そう思っていたのに、だんだん自分の選択が分からなくなってきていた。本当にそれがママの幸せなのか、私の幸せなのか分からなくなってきた。
 叩かれる痛みに耐えられなくなった私は、背負っていたリュックを下ろしてママの攻撃を防いだ。ママは依然として叩く手を止めない。そのうち衝撃でリュックから何かがひらりと床に落ちた。手を休めたママはぜぇぜぇと息を立てながらそれを拾い上げた。
「あんたもいっちょ前にプリクラなんて撮るんだ。笑える」
「……返して」
 私の言葉を無視したママは、私と藤野との大切な思い出を、ぐしゃぐしゃに破り、ゴミ箱に向かって投げた。私の中で何かが消える音がした。掲げていたリュックを床に投げ捨てて、ママの胸ぐらを掴んだ。
「ちょ、ちょっと! なにすんのよ! 痛い! 離しなさい!」
 抵抗して私の腕を掴もうとするママの手を振りほどきながら、そのまま勢いに任せて押し倒そうとした。動けないように押さえつけるだけのつもりだった。ママが足を踏み外して、ぐらりとバランスを崩した。私の体重もそこに加わって、
 ゴスッ。
 ママの後頭部が、開けっ放しになっていた箪笥の引き出しの角に当たった。
 ぐったりと床に項垂れるママ。私は慌てて立ち上がった。目を見開いたまま動かないママを目の前にして、頭の中が真っ白になった。繰り返し名前を呼んでみるけど、返事が無い。もしかして、
 死んだ?
 殺した?
 私が殺した?
 まずは救急車? でも、もし、手をかけたのが私だということがバレたら? 逮捕される? 少年法は? 私の人生、ここで終わり?
 この最悪な街の、最悪な家で。
 ──暗く静かな部屋に心臓の鼓動だけが騒がしく鳴り響いている。私が判断を決めあぐねていると、突然玄関のチャイムが部屋中に鳴り響いた。その瞬間、全身を硬直させて無意識に音を殺した。そのままじっとしていると、玄関を叩く音が聞こえた。しばらくすると、
「中村さーん。いますー?」
 玄関先で男性の声が聞こえる。佐々木さんだ。ママと同じ信者である佐々木さんは月に一度、会報誌を持ってうちにやってくる。いつも平日の朝とか、休日の夜とか変な時間にやって来る。今日は特に最悪のタイミングだ。しばらく息を潜めて居留守を使っていれば、帰ってくれるかもしれない。
 しかし私の願いとは裏腹に、玄関のドアノブをひねる音がした。
「中村さん、不用心ですよー。沙也加ちゃんもいるんだから」
 廊下の床板が軋む音が近づいてくる。私は音を立てないように床に落ちたリュックを拾うと台所へ向かう。勝手口のノブを慎重に捻り、外に飛び出した。目の前にある塀を登ると幸いにも隣家の明かりは付いていなかったので、四つん這いになり塀伝いに玄関先へ向かう。トイレの窓に面するあたりまでたどり着いた時、家の中から佐々木さんの叫び声が聞こえた。最悪の想像が脳裏を過る。
『愛知県岡崎市の民家で女性の死体が見つかった事件で、愛知県警は三日、母親である女性を殺害したとして、市内の女子高校生を殺人の疑いで逮捕した──』
 ここで終わってたまるか。私は物音が立つのも気にせず、玄関先に停めていた自転車に飛び乗り、振り向く間もなく全速力でペダルを漕いだ。
 表の道を左に進みしばらく走ると長い下り坂がある。そこを自転車で降りれば車でも無ければ追いつけないだろう。家の駐車場に車は停まっていなかった。
 坂の中腹にある竹林から冷たい風が吹き抜ける。もう虫の音は聞こえない。
 坂を下り終わって信号待ちをしている最中に、リュックからスマホを取り出して藤野宛のDM画面を開く。──本当は巻き込みたくなかった。それでも、私が頼ることの出来る相手はもうこの世界に彼女しかいなかった。急いで私の電話番号を彼女に送信する。信号が青に変わり、私は藤野の家の方向へとペダルを踏み込んだ。ママに手をかけてしまった事が、全速力で家を飛び出した事が、藤野に頼ってしまった事が、その全てが私の呼吸を乱す。
 だいぶ家から離れたので漕ぐスピードを落として自転車を走らせていると、ジャージのポケットに入れていたスマホが震えた。しばらく振動を続けていたので自転車を停めて画面を確認すると、知らない電話番号からの着信が表示されている。恐る恐る通話ボタンを押す。
「もしもし、オニール……の番号で良いんだよね。どうしたの?」
 その声を聞いた瞬間、全身のちからが抜けて自転車のハンドルに項垂れる。今すぐ助けてほしいのに、何から話したらいいか分からなくて、涙が溢れてきて、声にならない。私の嗚咽は横を通り過ぎる車の走る音でかき消されて、藤野には届いていない。
「もしかして、何かあった? 今外にいるの?」
「……うん」
「公園まで来られる?」
「……うん」
「すぐ行くから、そこで落ち合おう」
 電話を切って深呼吸をした。手の甲で涙を拭って落ち着くと、靴を履かずに家を飛び出してきた事に今更気がついた。でも止まっている時間は無い。足の裏にペダルの凹凸を食い込ませながら、再び漕ぎ出した。
 休日は二十時を回ると、外を出歩く人がぱったりといなくなる。通り過ぎる民家やマンションの窓には明かりが灯り、幸せな家庭の風景を想像させる。誰も窓の外なんて見ていなくて。惨めな格好で自転車を漕ぐ私には都合が良かった。
 公園に着くと、入り口のロータリーに見知った小さな影が自転車を携えて立っていた。私を見つけると自転車のスタンドを蹴り上げて、こちらに向かってくる。
「オニール!!」
 不安で、悲しそうな表情をしている。やっぱりこんな顔、見たくなかった。
「とりあえず、公園に入ろう。街灯のあるところで話すよ」
 藤野をUターンさせて公園に入り、二台の自転車を並べて止めた。その瞬間、藤野は私の事を思いっきり抱きしめた。
「……なんで靴履いてないの? なんで泣いてるの? ──全部話してよ」
 藤野のつむじが私の顎に当たる。シャンプーのいい匂いがして、安心する。私も彼女を抱きしめ返した。本当はもっと早く、笑顔で、こうしたかった。
「うん。全部話す。全部話すけど、ちょっと疲れた。座らせて」
 私の胸の中で藤野が頷いた。公園のベンチに腰掛けて、夜風に当たりながら再び深呼吸をする。隣に座る藤野は私の答えを待つようにこちらを見ている。
「さて、どこから話そうかな……」
 拗ねた子供のように「全部」と一言で答えた藤野は、私の手をずっと握っている。
「この公園で、初めて藤野と出会った時の話」
「うん。聞きたい」
「映画のパンフレットを読んでいたのが気になって、話しかけた」
「それだけ?」
「うん、それだけ」
「……もっとロマンチックなのかと思ってた。急に知らない女の子から野球に誘われるなんて、映画みたいで素敵だったの。──話しかけられる前から、なんで野球してるんだろうって、見てたの」
「野球くらいするでしょ!?」
「だって誰一人としてルールを理解してなかったじゃん。そこに女の子が一人いたら誰だって気になるよ」
 藤野が笑ってくれて、私も自然と笑った。それは、私よりも先に私の事を見つけてくれたのが嬉しかった事の照れ隠しでもあった。藤野は続ける。
「帰り道にいろんな話をしてたら、どんどん好きになってた」
「……私も。──もっと話したくて、ずっと一緒にいたかった。同じ学校に行きたいって言ってくれて、本当は嬉しかった。あの時、突き放すような事言って、ごめんね」
「学校は必要な世界じゃないって言ってたの、覚えてるよ。それも詳しく話して」
 私は答えるのに渋ったけど、藤野は私が答えるまで黙って待ってくれた。
「……虐められてるんだ。──いや、語弊があるかもしれない。ただ、無視されてるだけなんだけど」
 私が俯くと、藤野は私の肩に頭を寄せた。
 それから私は、ママが宗教にハマり、そんなママに愛想を尽かしたパパが家を出ていき、クラスメイトにママの宗教がバレて孤立してしまったという事の顛末を話した。藤野は急かすことなく、ただ頷きながら話を聞いてくれた。握られた手から伝わる熱が徐々に強くなっているような気がした。
「家の事、藤野だけにはずっと知られたくなかった。あんたの存在だけが私の救いだったから、嫌われたくなかった。怖かったよ」
「そんな事で嫌いになったりしないよ」藤野は微笑みながら続ける。「──私ね、ずっとオニールみたいになりたいって思ってた。いつも元気で、楽しいことをいっぱい知っていて、飾らないでいるの。でもそれってずっと辛くて、苦しくて、無理してたんだね。偉いよ」
「無理なんかしてない。藤野の前だからそういられたんだよ。何も聞かないで、なんでも私に付いてきてくれて、ありがとう」
「私は何もしてないよ。いつもオニールに合わせるだけ。自分で決めないのが一番楽だから。楽してるずるい人間なの」
 それでも私は、そんなずるに救われ続けていた。何も聞かないでなんでも聞いてくれる藤野が大好きで、私の居場所だった。
「──あっ、両親の話は分かったけど、どうして今日はこんな事に……?」
 さっきまでの出来事を思い出した途端、寒気がした。私は泣いてしまわないように、ゆっくりと順序立てて、言葉を紡いだ。
「信者の子供はね、十八歳になったら信者の子供同士で結婚させられる事があるんだ。……もちろん、全員がそうするわけじゃないよ。今日、藤野と別れて家に帰ってから、そのことでママと喧嘩しちゃってさ。棒で叩かれたり頭に水かけられたり、それはいつものことなんだけど。藤野と一緒に撮った……を……ママが──」
 泣かないと決めたのに、自然と涙が溢れてきて声が出なくなる。
「……今日撮ったプリクラの事?」
 私は必死で頷いた。彼女は背中をさすってくれている。
「──ビリビリに破いたから、腹立って、突き飛ばしちゃった。ママを。そしたらママ、箪笥に頭ぶつけて、動かなくなっちゃって」
 藤野は立ち上がって、もう一度、私を強く抱きしめた。その腕は少し震えている。
「殺しちゃったのかな」
 私は人殺しだ。つまんない街で、貧乏な家で、周りの幸せな人の事を心の中で馬鹿にしながら生きてきた。そんな最低な私の人生は、哀れにも殺人という罪を犯したせいで終わりを迎えた。親殺しの犯罪者。
「私、人殺しなのかな」
 事実は覆らないのに、最低な私は彼女からの優しい言葉を期待している。抱き寄せられた胸元から熱が伝わる。その温かさに余計に涙が止まらなくなる。
「オニールは悪くないよ。大丈夫。大丈夫だから。私がいるよ」
 彼女が話す度につむじのあたりで髪越しに顎の動きが伝わってくる。
「これから、どうすればいいんだろう」
 私の問いかけに、藤野の鼓動が早くなる。風が吹いて、青い葉の匂いがする。
「──逃げちゃおうか。二人で」
 瞬間、世界の音が全部無くなって、この世界は私たち二人だけになってしまったような気がした。驚いて顔を上げると、藤野は頬に涙を伝わらせながら黙って微笑んでいた。彼女の背後には青黒く塗りつぶされた空に満天の星が無数に瞬いている。その中でもひときわ強い光を放つ北極星が彼女の頭上で煌めいていて、ここがこの世界の、銀河の中心なんだと錯覚した。

   ◆◆◆

「逃げるって……そんな……」
 逃げる先なんてどこにも無いし、私達子どもだけで出来ることなんて──。
「お父さん、離婚した後はどこに行ったの?」
「……東京」
 その瞬間、こんな状況にもかかわらず藤野の顔がぱあっと明るくなった。私のぐしゃぐしゃになった顔を上着の袖で拭きながら言った。
「東京に行こう! ここから逃げるついでに、お父さんも探してみようよ」
「ちょ、ちょっと待ってよ。急すぎない? それに──」
「お父さんに頼るわけじゃない。逃げるついでに探すだけ。東京まで行ったらきっとなんとかなるよ」
 おかしい。そんな事したって、何も解決しない。結局は逃げても逃げても平穏なんてどこにも無くて、最後には捕まってバッドエンドの逃避行だ。そんなの、映画で嫌というほど観てきた。
「藤野はどうなんのさ! ……あんたはまだ家に両親いるじゃん。そんな、私みたいに全部を捨てて家を出るようなことしなくたって……」
「じゃあオニールは、どうしたい?」
 どうしたい? 私の人生、ここで終わりたくない。自首? 犯罪者? 刑務所? 家族はもう誰もいない。私には藤野しかいない。藤野と、ずっと一緒にいたい。頭の中で最悪の事態や安心できる未来のビジョンがぐるぐると駆け巡って、正常な判断が出来なくなりつつあった。
「私は……藤野とずっと一緒にいたい。離れたくない」
「じゃあ、とりあえず靴、買わなきゃね」
 藤野が指差す私の足は泥だらけになっていた。今から靴を買えるところを考えた結果、ここから自転車ですぐの場所、藤野が映画を観に行く事でお馴染みのイオンにふたりで向かう事にした。営業時間ギリギリとはいえ、このままの格好で店内に入ると目立つし、店員に捕まる可能性を考えて私は駐輪場で待つことにした。二十分ほど待っていると、買い物袋をぶら下げた藤野が戻ってきた。袋から裸の状態の運動靴を取り出すと、私の足元に並べて靴紐をほどき始めた。
「今から履き替えますって言って、タグ取ってもらった。普通の白い運動靴だけど、いいよね? それと靴下も買ってきたから履き替えなよ」
 おろしたての靴下と運動靴のさらさらとした感触が私の疲れた足を包み込んで、幾分か安心した気持ちになった。地面を踏んで感触を確かめる。今ならどこへでも行けそうだ。
「ありがと。お金返すね。いくらだった?」
 私が財布を開こうとすると、藤野が制止した。
「いいよ。私バイトしてるし」
「いやいや、私だってしてるし。……え? 藤野、バイトしてたの?」
「うん、してるよ。オニールもバイトしてたの!?」
 お互いに会っていない時間はバイトを入れていたらしい。とはいえ周りの高校生のように空いている時間は夜遅くまでシフトをみっちり入れているわけでもなく、一緒に遊びに行く時の足しにでもなればいいという稼ぎ方の考えまで、私と藤野の考えはほとんど同じだった。回転寿司チェーン店のホールでバイトをしていたらしい彼女の姿を想像しかけて、大事な事を思い出した。
「もうこの街には戻って来ないんだよね? 行っておきたい所があるんだけど」
「電車無くなっちゃうし、今ここでうろうろするのも危ない気がするけど……」
「バイト先で借りてたDVD、明後日までに返さないといけないんだよね。ちょっと挨拶して返却口で返すだけだから。北岡崎駅からすぐの場所だし、駄目かな?」
 私のお願いに渋々了承した彼女を連れて、バイト先のレンタルショップに向かった。周りの店は殆ど閉まってしまった中、煌々と光を放つ看板と入り口の自動ドアを確認して安心した。閉店時間までまだ二時間以上はある。店の脇に自転車を停め、リュックから返却するDVDを取り出した。
「一言挨拶したらすぐ戻ってくるから、ちょっと待っててね」
 確かこの時間、店長はいなかったはずだ。私がバイトを辞めるって言ったら引き止めたんだろうか。自動ドアが空くと無機質な匂いと有線のBGMが出迎えた。この匂いも今日でお別れかと思うと、途端に懐かしい気持ちになる。入ってすぐ左手の返却カウンターの前に立つと、レジ側から見知った店員が顔を出した。
「ご返却でよろしかった……中村さん。今日シフトじゃないですよね?」
 出迎えたのは私より半年遅く入ったバイトの裴君だった。彼も彼の両親も韓国人だけど、生まれた時からこの街に住んでいて日本語しか話せないらしい。
「とりあえず返却ね、これ。あと申し訳ないんだけど、今日でバイト辞めるから。店長に伝えておいて」
「なんでですか!? 中村さんいないとこの店結構大変です。最近シフト少なくなったから尚更。中村さんここで一番映画詳しいよ。頼りにしてるのに」
「制服は多分返す。後日ね。とにかく私、この街から出てくから。裵君も元気でね」
 そんな、と悲しそうな顔をした裵君はちょっと待ってくださいと私に一言断りフロアに消えていった。小走りで戻って来ると私に一枚のDVDを差し出した。
「えっ……今借りても返しに来ないよ?」
「それ、中村さんが何度も借りてた映画。返さなくてもいいです。店長に何か言われたらレンタル落ちで買い取ったって嘘付いておきます」
 その映画は、特別面白い訳でも無いし今観たら古臭くてたまらないのに、タイトルやテーマが好きで繰り返しレンタルして観ていた。もしかしたら、今の私にぴったりの映画かもしれない。
「じゃあ、ありがたく貰っておくね」
 話している間にレジ待ちの列ができかけていたので、私はDVDをリュックにしまって、そそくさと自動ドアを抜けた。
「大丈夫だった?」
「うん。今日で辞めるって伝えてきた」
「なんかオニール嬉しそうだね」
 もしかすると、うんざりしながら過ごしていたこの街での生活の中で、気が付かないうちに他人の優しさに触れていたのかもしれない。それは藤野に出会うまで私が気が付けなかっただけかもしれない。でも、良かった事を探しても、悪かった事が変わるわけじゃない。適当にごまかしながら毎日を過ごしたくない。
「なんでもないよ。これで私とこの街との繋がりは完全に無くなったんだなって思ったら、なんだかスッキリしたなって思っただけ」
「そっか。よかった」
 ふと、いつも二人で通っていたあのカフェの事を思い出した。あの場所にもきっともう二度と行けないだろう。挨拶したくても、今日はとっくに閉店時間を過ぎている。あの店員さん、なんだかんだで優しかったな。学校の先生よりも、親よりも、ずっとまともな大人だったのかもしれない。そう考えると急に後ろめたさを感じたけれど、私達の事を救ってくれるわけじゃない。赤の他人だ。私達が突然店に来なくなってもあの人は気が付かないし、きっと何年先も同じような時間をこの街で過ごすのだろう。私の想いに同意するように、藤野が急かす。
「じゃあ、時間も無いし駅に向かおうか」
「うん」

   ◆◆◆

 休日、夜の駅は閑散としていた。当たり前だ。こんな時間から電車に乗って外を目指す人なんてそうそういない。私が裵君と話している間に、藤野は電車の乗り換えを調べてくれていた。一度岡崎駅に向かい、東海道本線に乗り換えて、豊橋や熱海を経由して東京方面へ向かう。本数もあまり残っていないので、終電がある限りなるべく東京方面へ進んで、電車が無くなったら一旦途中下車して夜を明かし、翌日には東京に着くという算段らしい。
 岡崎駅に着いた頃には、時刻はまもなく二十三時を迎えようとしていた。改札を抜けてホームに降りると、目的の浜松行きの電車が間もなく発車するところだった。慌てて飛び乗った私達はシートに腰を下ろして、大きくため息を吐いた。
「なんか、ワクワクしてきた」
「オニール、だいぶ落ち着いてきたね」
 思えば今日は大災害のような一日だった。朝、藤野の両親と会ったのが何ヶ月も前の事に感じる。藤野の両親は、やっぱり心配するんだろうか。ママは本当に死んでしまったんだろうか。避けられない現実と向き合えば向き合うほど、呼吸を止められたように心臓が痛くなる。──藤野を手放したくない。右手の小指がふと彼女の左手の小指とぶつかった。私達は見合わせるでもなく、その小指同士を絡めた。温かくて、自然と眠りに落ちていく。
 パパの運転する車に乗って、家族三人で出かけた思い出が突然蘇ってきた。
 南知多ビーチランドや東山動物園、モンキーパークにナガシマスパーランド。遊びに行く日の朝は決まって早起きしてた。朝ごはんがドライブスルーで買ったマクドナルドのハンバーガーだった時は、後部座席で大騒ぎして怒られたっけ。あの頃はたくさんわがまま言って、たくさん楽しいことをさせてもらえていたけれど、その一方で「うちは貧乏だから」と諭される事もあった。無理して家族サービスをしてくれていたのか、両親の給料が安かったのか、二人とも金銭感覚が狂っていたのか、本当の事はわからない。
 藤野に揺すられて目が覚めた。どれくらい時間が経ったんだろうか。寝ぼけ眼で窓の外を見るが、景色は変わったようにみえない。彼女の肩にもたれかかって寝ていたみたいで、口から肩に涎が糸を引いていることに気が付く。
「やばっ、ごめん。汚いね」
「ぐっすり寝てたのに起こしてごめんね。もうすぐ浜松駅だったから」
 そのうち電車はスピードを落とし、静岡県の浜松駅に到着した。
「この時間はもう最終電車の一本だけ。菊川行っていうのがあるんだけど、菊川駅まで行ってもお店とかあまりないみたいだから、ひとつ手前の掛川駅で降りるからね。今度は寝ちゃダメだよ!」
 私は半開きの目で「わかりました」と敬礼をした。
 菊川行の最終電車を待つ人は、私達を入れても五、六人ほどしかいなかった。一車両まるまる貸切状態の電車に二十分ほど揺られていると、今日の最終地点である掛川駅に到着した。降りていく人達は迷う事なく改札へ降りる階段へ吸い込まれていく。私と藤野は、なるべく不審者だと思われて呼び止められないように、人の流れに合わせて改札を抜けた。
 街灯の明かりがぽつぽつと寂しく照らしているロータリーには、タクシーの一台も止まっていなかった。閑散とした夜の駅前を眺めながら隣で立っている藤野に行き先を訪ねようとすると、彼女が言った。
「さて、泊まる場所、どうしようか」
「ちょっと待って? そこは考えてないの!?」
「まあどうにかなると思って、着いてから考えるつもりだった」
「私みたいな事言わないでよ……」
 少し落胆しながら自分でも調べてみようとスマホで地図を見てみると、一応数キロ圏内にカラオケや居酒屋があるようだった。だけど未成年ではどの店にも入る事ができないし、宿すら取れないだろう。
「どうすんのよ、ほんとに。どうするつもりだったの」
 私の心の声が口から漏れる。藤野は特に反省する様子もなく、私に続いてスマホで地図を開いて、周辺の店を探している。そんな時、藤野のスマホが震えた。
 私も彼女も「お母さん」と表示されたまま震えるスマホに釘付けになる。しばらくすると藤野は鳴りっぱなしのスマホの電源を長押して、鳴り止んだそれをポケットにしまった。声をかける言葉を探したけれど、どれもふさわしくないと思って、私は黙ったまま自分のスマホを機内モードに設定した。
 しばらくお互いが自分のスマホを眺めていると、背後の改札の方からがらがらとキャリーケースを引く音が聞こえて、私達は振り向いた。カンカン帽に太ベルトを巻いた今風の格好の女性がこちらに歩いてくる。私達の状況を察して手を差し伸べてくれないかと期待しながら眺めていると、女性は怪訝そうな顔で私達の様子を見ながら通り過ぎて行った。私がため息を吐くと、藤野が呟いた。
「オニールだけだったら、絶対成人だと思われるのにね」
 彼女の自身を卑下するような言い方に、胸の中でぐつぐつと煮えたぎっていた苛立ちが声になって顕れる。
「待て待て待て! 何も考えて無かったのは藤野じゃん! なんでそんな言い方するの? 私が悪いみたいじゃん。いや、私が悪いんだけどさ……。でも、もうちょっと、もうちょっとだけどうするべきなのかちゃんと考えて欲しかったよ」
「私はとにかくあの場所から逃げて捕まらないようにするのが最優先だと思ってた。逃げてしまえばあとでどうにでもなるし、どうにかするつもりだったよ」
 私達が言い争いをしていると、先ほど通り過ぎて行った女性のキャリーを引く音がぴたりと止まり、踵を返してこちらに向かってくると私達の前で止まった。
「あんた……今なんて言った?」
 指を差された藤野は「捕まる」という言葉を聞き返されたと思ったのか、しばらく悩んだ後に「どうにかするつもりだったよ、って言いました」と答えた。
「違う違う、もっと前! そっちのあんたが『待て待て待て』言ったのよりも前」
 私と藤野は顔を見合わせて、「オニールだけだったら、絶対成人だと思われるのにね」と声を揃えて言った。
「オニール! オニールなのあんた!?」
 不意に見知らぬ人からハンドルネームで呼ばれた恐怖に心臓が止まりかけた。実際に会ったことのあるフォロワーの顔を一通り思い出してみたけど、目の前の女性の顔はいまいちピンとこなかった。
「ごめんなさい、どなたでしたっけ」
 私が申し訳無さそうに聞くと、彼女は自身のスマホ画面をこちらに向けた。
「これこれ! これがワタシのアカウント」
 画面に表示されたアカウントのプロフィールには「夢追い人(星の絵文字)東京でカフェを開くために上京予定(笑顔の顔文字)」と書いてある。名前はヤマダというらしい。ぼんやりと記憶が蘇ってくる。野球の件でバズった時に来たフォロー通知の中に同じアイコンがあったはずだ。ツイートの内容が全く面白く無いからフォローを返していない事を思い出すことができた。
「あ、ごめんなさい。多分フォロー返してないです」
「そうなんだよ! マジでなんでだし。てかあんた結構若かったんだね。いや、そんな事別にどうでも良くて。この辺地元だったの? 夜遅くに何してたん?」
 一方的に喋るヤマダというギャルに圧倒されながら、どこまで話して良いのやら、私と藤野はふたたび顔を見合わせた。頼ってみるしかないと彼女の目が訴えているように見えたので、私は助けを乞う事にした。
「実は東京に行こうと思ったんだけど、ここで終電終わっちゃって。泊まる場所を探そうにも私達未成年で入れる店が無さそうなんだよね」
 さて、通報されるだろうか。そうなった場合、二人でダッシュして逃げようかと藤野の手を掴もうとしたが、ヤマダの反応は意外なものだった
「マジ? 偶然。──ワタシも東京に向かおうとしてて、電車無くなったからここで降りたの。いや、プロフに書いてあったね。それは言わなくても分かるか。ウケる」彼女は勝手に続ける。「知り合いがやってるバーがあるらしくて、そこで始発まで時間潰すつもりだったけど、あんたたちも来る?」
「本当ですか? でも未成年だから入れないんじゃ」
「いや、どうにかなるっしょ。知り合いなんだし。なんなら泊めてもらおうよ」
 私と藤野は手を取り合って喜んだ。そして、彼女に謝った。
「さっきはごめん。ちょっと苛々してたかも。藤野は私の事考えてくれてたのに」
「私こそ、オニールのこと心配させちゃってごめんね」
「ズッ友なのはいいけどさ、ちゃっちゃと行くよ?」と言うヤマダに急かされて、私達は目的のバーを目指した。
 大通りに出るも車の通りはまばらで、街灯の明かりもこころなしか貧弱に見えて。飛び出してきたあの街の事を少しだけ思い出した。
 道すがらヤマダは、私達が聞いてもいないのに身の上話を勝手に語りだした。岐阜で大学を卒業した彼女は、地元の閉鎖的な空気にどうしても耐え切れず、中学生の頃に修学旅行で行った東京の事を思い出して上京を決めたそうだ。カフェを開くというのも何か準備や志があるわけではなく、「東京でカフェ開いたらめっちゃイケてんじゃん」という単純な理由らしい。明るい時間に出発すればいいものの、今日の夜にどうしても我慢できず、家を飛び出してきてしまったらしい。我慢できずに飛び出してきた経緯については多くを語らなかった。
 大通りから脇道に入ってしばらく進むとヤマダが「ここっぽいわ」と二階建ての建物を指差した。看板を掲げた店舗が四軒ほど並んでいて、二階の部屋は居住用に貸し出しているのか窓に「入居募集」の看板が取り付けられている。建物の前の駐車場には車は一台も止まっていない。唯一明かりが灯っている店舗の前でヤマダは立ち止まった。扉の前に置かれた「BAR大脱走」という黄色の看板が、足元のアスファルトを妖しく照らしている。格子のついた窓に目を向けると、中の人影がこちらに近づいて来て扉が開いた。胸まで伸びた黒く長い髪と綺麗に切り揃えられた前髪が印象的な女性が、ドアノブを握りながら私に言った。
「……もしかして、ヤマダ?」
 私がヤマダの方を指差すのと同時に、彼女も主張した。
「違う違う。ヤマダはワタシ。こっちはさっき会った子。一緒に入ってもいい?」
 ヤマダのお願いに、女性はしげしげと藤野に視線を向けながら悩んでいる。
「あ、未成年じゃないよ。酒飲まないけど」
 ヤマダのフォローに「それならいいけど」と納得した女性は私達を招き入れた。間接照明のオレンジが照らす店内にはソファの備え付けられたテーブル席四席、L字のカウンター席が六席ある。テーブル席側の天井の角にはテレビが吊り下げられ、なにかの映画が放送されている。
「とりあえず座って。何飲む?」
 カウンターに入った女性に向かって各々が注文を叫ぶ。
「ワタシはハイボール!」
「オレンジジュース!」
「私もオレンジジュース!」
 お冷をテーブルに置いた女性は、オレンジジュースのパックを冷蔵庫から取り出した。グラスに氷を入れる心地よい音が聞こえる。
「いやー、一時はどうなることかと思ったよ。マジで助かった。マスターにはマジ感謝ッスね」とヤマダが言うと、マスターは「一度も会ったこともない奴に突然DMしてくるのどうかしてるよ。私が男だったらどうすんの」と答えた。
「それはそれで運命かもしれないわ」と言いながらお冷をぐっと飲み干したヤマダに、藤野が質問をする。
「もしかして、お二人もツイッターとかで?」
 それと同時にマスターがオレンジジュースの入ったグラスを二つ差し出したので、私達二人は軽くお辞儀をした。
「そ。マスターとは相互だったんだけど、会うのは今日が初めて。そりゃ住んでるとこ違うからね。静岡でバーやってるっていうのだけは知ってたんだけど、掛川なのは今日知ったの。てかワタシが宿無いから遊びに行っていい? って言ったら教えてくれたの。マジで優しいよねこの人」
 マスターがハイボールの入ったジョッキをヤマダの前に差し出す。
「ありがと。じゃあ、ワタシと、オニールと、あと……あんたなんて名前だっけ?」
「藤野です」
「おっけ。フジノと……三人の未来を祝して」
「かんぱーい!」
 冷えたオレンジジュースが体に染み渡る。
「で、オニールさんとフジノさんは一体何者?」
 マスターが店の名前が書かれたマッチを擦って煙草に火をつけながら質問をした。弾けるような紅いグロスの隙間から、紫煙が吹き出される。
「実は私達も東京に向かっているんです。宿を探している所で偶然ヤマダさんに会いまして、一緒にどうかと誘われました」
「そうなのよ。ナンパじゃないからね? ほんとにたまたま、駅前にオニールがいてね。もともとフォロワーなの! こんなん運命じゃん。しかも困ってるって言うし、助けてあげるしかないよね。マジで、最高」
マスターは自分の分のお酒をグラスに注ぎながら「みんな、東京好きだね」と呟いた。グラスに口を付けたヤマダが一人頷いている。藤野が聞く。
「マスターさんは、ずっとここに住んでいるんですか?」
「厳密には掛川じゃないけどね。でもずっと静岡だよ。二人はどこから来たの?」
「私達は愛知です」
「愛知ねえ。いいところだね。それで何しに東京に? こいつみたいに無計画にカフェなんて開くつもりじゃないよね?」
 そう言いながらマスターに指で差されたヤマダは対抗するように「おかわり」と言いながら空のジョッキを差し出した。
「実は──父親を探そうと思って」
 私の言葉に全員が静まり返った。背後のテレビで流れている映画の吹き替え音声だけが店内に響く。私は続ける。
「中学生くらいの頃に離婚したパパが東京に住んでいるんです。この子と一緒に、観光も兼ねて探したら面白いんじゃないかって」
 私の言った「面白い」という言葉に安心したのか、ヤマダが口を開く。
「めっちゃおもろいね、それ。 なんかドラマみたいで最高」
 マスターが付け加える。
「父親、見つかるといいね。どのあたりに住んでいるのか、検討はついてるの?」
「実は──」
 実は、パパの住んでいる場所はハッキリと分かっていなかった。離婚した直後もしばらくはそれまでと同じようにパパとLINEをしていたけど、だんだんと返事を返してくれなくなり、最終的には既読も付かなくなり、結局今どこで何をしているのかを聞けていないままでいた。
「写真しか手がかりが無いんですけど、東京のどのあたりか分からなくて」
 私が差し出したスマホを三人が同時に覗き込む。藤野が驚きながら言う。
「これがオニールのお父さん?」
 路上で飲んでいたのか、酒の缶やおつまみが置かれた大理石のテーブルの前でスーツ姿の男性がこちらに向かってピースをしている。背後の夜景にはビルが立ち並んでいて、一番大きな建物の電光掲示板には気温が表示されている。
「いや、全然知らない人。一年くらい前にこの写真がパパから突然送られて来たんだけど、送り先を間違えたみたいですぐ削除されたの。なにかあると思って消される前に保存した」
「これ、どこかで見たことあるような……」
「私は分かんないわ。静岡から出たことないんだもん」
「私も愛知から出たことないから……」
 三者三様の感想を述べた後、ヤマダだけがすっきりしないといった様子でウーンと唸り続けている。しまいには私のスマホを取り上げ、画面を眺めながら店内をウロウロし始めた。テーブル席のソファに寝転がり、仰向けで画面を凝視する。
「わかったかも!!」と叫びながら飛び起きたヤマダに、全員が注目する。
「上野だわこれ」
 上野、という単語に私含め三人はピンと来ていなかった。それを察したヤマダが繰り返す。「上野! 上野動物園があるところ! パンダがいるところ!」
 私達は納得したような、そうでもないような曖昧な表情で顔を見合わせた。
「上野駅にこういう場所があったはず。いや、絶対そうだ! てか後ろに映ってるマルイも絶対駅前のとこでしょ! ワタシ天才か?」
 写真の場所があっさりと見つかったとはいえ、パパがこの写真の場所に住んでいるかはまた別の話だし、そもそも上野という場所に行ってもパパが見つかるとは限らない。万が一パパに会ったら、何を話せばいいんだろう。──あなたと離婚した私の母親はどんどん頭がおかしくなっていきました。そして、あなたの娘はその母親を殺してここまで逃げてきました、なんて言えるわけない。
「どこなのかさっぱり分かんないけど、お父さん見つかるかもね!」
 藤野の言葉に励まされる。全てを捨てて私を連れ出してくれた彼女と、東京でひっそりと一緒に暮らすことができたら──と淡い期待を抱いた。
「そういえば、この店の名前、映画から取ったんですか?」
「若いのに映画に詳しいんだね。その通りだよ。これは観た?」と言いながらマスターは私達の後ろにあるテレビを指した。振り返ると画面でレオナルド・ディカプリオがなにか叫んでいる。
「なんだろう、観たことないかも。……『ザ・ビーチ』かな?」
「お、すごい。正解」
 ディカプリオが出演していて、置かれている状況で判断してみたけど、正解だったらしい。私、伊達にレンタルショップでバイトしていただけあるな。
 その後、四人で映画の話でひとしきり盛り上がった。マスターは私よりも映画に詳しかった。SFやサスペンスの硬派な作品が好みで、結末が胸糞な作品は尚更との事だった。一番好きなのは『セブン』ここ数年で一番良かったのは『ミスト』らしい。趣味が悪いなと思った。
 一方のヤマダは映画を全くと言っていいほど観ていなかった。唯一語ることのできると豪語していたのは、『恋空』と『世界の中心で、愛をさけぶ』で、何故かヤマダ以外の三人が共通していて『セカチュー』の方だけ観ていたので、三人であーでもないこーでもないと、ヤマダを置いてけぼりにして内容について議論を交わしていた。恋空に関しては、三人揃ってインターネットで「ケータイ小説(笑)」と馬鹿にしていた側だったので議論にすらならなかった(ヤマダは少し悲しそうだった)。
 今日の疲労のせいか、次第に眠気が襲ってきた。藤野の方を見ると既に頬杖を付いたまま眠りについていた。それから覚えているのは、二人揃ってソファに横になるようマスターから促され、眠りに落ちたところまでだった。

   ◆◆◆

 瞼に透ける朝日に気がついて目を覚ました。起き上がって藤野の方を見ると、まだすやすやと寝息を立てている。店内を見渡すがマスターもヤマダもいない。私は大きく伸びをして、外の様子を見る為に店のドアを開けた。冷たくて、澄んだ空気が肺に入り込んでくる。小学校の頃、夏休み中にラジオ体操の為に早起きした時と同じ空気の匂いがする。ドアの脇にしゃがんで上着のポケットに入っていたスマホを取り出すが、機内モードにしていたことを思い出す。
「なんだ、こんなところにいたんだ」
 店の中から出てきたマスターは、お尻のポケットから煙草とライターを取り出して、火をつけた。一口目をフーッと吐きながら、私の隣に私と同じようにしゃがみ込んだ。
「おはよう」
「おはようございます。昨日はありがとうございました」
「……あんたらさぁ、けっこう訳アリだよね」
 私はどきりとした。平静を装いながら答える。
「父親探すって、やっぱり珍しいですかねー」
「いや、そうじゃなくてさ。目的のために向かっているんじゃなくて、何かから逃げてここまで来たように見えるんだけど。違う?」
 私の返事を待つようにマスターは二度ほど煙を吸って、吐き出した。
「──私もそこまで他人に興味ないし、どうせ今日出発するんでしょ? もう会わないと思ってさ、言っちゃいなよ。それともなに? もしかして人殺しでもしちゃったとか?」
「──はい」
「……はいって、どっちの意味?」
「殺しました」
 会話の内容とは裏腹に、のどかな雀の鳴き声がとおくで聞こえる。
「……マジ?」
「……マジです」と言いながら私は両膝に額をくっ付けた。
 煙を吐く音の後に「マジかー」というマスターの声が聞こえる。
「二人でやっちゃったわけ?」
「違います! あの子は! ──藤野は何もやってません。私の為に一緒に逃げようって言ってくれて」
「殺意があってやったわけ? それとも事故?」
「事故です。でも殺意が無かったとも言えないかもしれない」
「正当防衛だとか不慮の事故であればある程度刑が軽くなると思うけど、逃げたら逃げただけ状況は悪化するんじゃないの?」
「分かってますよ、そんなの……」
 でも。
「もし私の人生がこれで終わりなら、最後に大好きな人と思い出作りできたらなって思って。最低だけど、東京に行くのちょっと楽しみなんです」
「あの子、あんたにとってそんなに大事な人なんだね」
「私のことを救ってくれたから。私にはもう藤野しか残ってないから」
「お母さんはいるんでしょ? 相談はしたの?」私は答える事ができなかった。
「もしかして」私は俯いたまま頷いた。
「……連絡は、一切見てない感じ?」わたしは俯いたまま首を横に振った。
「いやー、なかなか難儀だね……。──でもさ、不謹慎だけど、ちょっと素敵だよね。大事な人と一緒に街を飛び出すのって。映画みたいで素敵」
「……通報、しないでください」
「別に通報もしないし誰かに話す気もない。その代わりもし捕まったら、ここに居たことを内緒にしておいてよ。私は厄介ごとに巻き込まれたくないから」
 マスターが煙草に火を付ける音が聞こえて、私は顔を上げた。
「あの、それ一本貰っても良いですか?」
「やだよ。あんた絶対未成年じゃん」
「どうせここには居なかった事になるんでしょ?」
 私の顔を睨みながらマスターは渋々箱の中身を一本取り出して、私に差し出した。私は見よう見まねでフィルター部分を咥える。マスターがライターの火を付けて、こちらに向ける。咥えた煙草の先端を火に当ててみるが、なかなか思うように付かない。
「違う違う。吸うの。吸わないと火、付かないよ」
 言われた通りにすると、煙草の先端が赤く灯った。同時に今まで副流煙として吸い込んでいたあの煙が直接口の中に入ってきて、咽せた。
「ま、そうなるよね。本当は肺に入れるんだけど、しんどいでしょ。口に溜めて吐いてみなよ」言われた通りやってみたけれど、ちっとも美味しくない。
「大人はこんなまずいもの吸ってたんだ」
「あの子が見たら、悲しむんじゃないの?」と言いながらマスターは、もたれかかっている店の壁の向こう側を示すように、顎で指した。
「絶対嫌がると思うんで、言わないでください」
 しばらくして二人で店内に戻ると、ようやく藤野がゆっくりと起き上がった。
「おはよう! もう朝だよ」
「……おはよう。そんなに寝てたんだ」
「そろそろ店閉めて帰るから、あんたたちも出ていく準備しな」
 マスターの言葉を聞いてあることに気が付く。
「あれ、そういえばヤマダは?」
「とっくに出ていったよ」
 マスターの話によると、ヤマダは一時間ほど前に店を出ていったらしい。上野とは全然違う方向に向かう予定だった事、私達二人の寝顔を見て起こすのが悪いと思って黙って出ていったとの事だった。ここで一夜を明かすことができたのは、他でもない彼女のおかげだった。お礼の一つでも言いたかったけれど、流れで一緒に行動するようなことにでもなってしまったら迷惑がかかる可能性もあるので、仕方ないと思った。
 昨晩飲んだオレンジジュースの代金を払おうとしたけれど、断られた。スマホでの連絡を絶っている話を聞いたからか、掛川駅から上野駅までの乗り換えを書いたメモも用意してくれた。「すみません、何から何まで」と私が言うと、
「上野動物園とか、博物館とか、上野駅の近くには観光地がいっぱいあるらしいから、せっかくだしいろいろ観光してきなよ」と言いながら店の扉を施錠して原付に跨り、悲しむ暇もないくらいあっさりと走り去っていった。私達は車道に飛び出して、深々とお辞儀をして彼女を見送った後、歩いて駅まで向かった。
「オニールさ、ちょっと元気になった?」
「ん? そうかな?」
「ヤマダさんもマスターさんもいい人だったからかな」
 口の中に残った煙の匂いを感じながら、信用してはいけない大人ばかりではないのかもしれないと、考えを改めるべきかもしれないと思った。
 掛川駅から上野駅までは二度乗り換えが必要なようだった。掛川駅から東海道本線行で静岡市の興津駅に向かい、熱海行に乗り換える。熱海駅から東京駅に向かい、そこから更に上野行の山手線に乗り換えるらしい。
 掛川駅のコンビニでうなぎパイを買おうか迷っている私に藤野は「熱海の方がきっと美味しいものがあるよ」と言いながら店から引き剥がした。言われた通りに熱海駅の乗り換えで構内の売店を物色すると、美味しそうな駅弁が並んでいる。
「すごい! 熱海は金目鯛が名物なんだね。どれにしようかな……」
 しばらく悩んだ結果、小鯵の押し寿司と釜飯をそれぞれ手に持って見つめる。
「金目鯛じゃないんだ……」
「せっかくだし、食べる機会が無さそうな方をあえて選んでみようと思って……」
「じゃあ私釜飯にするから、小鯵の押し寿司にしたら? 交換して食べようよ」
「ほんとに!?」
 駅弁を買って乗り換え先の電車に乗った。釜飯は山の幸が中心となっているようだった。大きな椎茸は味が染み込んでいて、冷めていても美味しい。小鯵の押し寿司の方は、酢飯と小鯵のさっぱりとした爽やかさが、夏も過ぎかけた今の季節にぴったりの弁当だった。
「キック・アス、観る?」
「観る観る。絶対面白いじゃん。勧善懲悪物よりも、ちょっとズレた正義とか境遇であったほうが見所多いよね」
「パラノーマル・アクティビティ2は?」
「無理無理! 絶対怖いじゃん。てか前作も観てないから!」
 藤野は顔に似合わずホラーが大丈夫で、私は全くダメだった。ジャンプスケアが多い作品が特に苦手で、なんでわざわざビックリするものを自分から観にいかないといけないのか、意味が分からなかった。
「それはね、現実よりもホラー映画のほうがドキドキ出来るからだよ」
 現実に飽き飽きしていた身からすると、妙に納得してしまう理論だった。
「パラノーマルはともかく、キック・アスは一緒に観に行こうよ」
「うん、そうだね。私ももっと劇場で映画観たいな」
 熱海駅を出発してからはしばらく山景が続いていたけれど、根府川あたりで海が見えて、小田原に着く頃には自然の景色よりも民家や街並みが目立つようになった。じきに車内アナウンスで次の到着駅が横浜であることを知らせた。
 昨日の出来事がずっと昔に思えるくらい、目まぐるしく景色が変わっていく。もし、昨日起きた事が全て夢だったら。私は学校を卒業して、東京で仕事を見つけて、狭くてもいいから安い部屋を借りて、藤野も卒業したら上京して一緒に……なんて、現実的じゃない。やっぱり無理だ。この旅には必ず終わりがやってくる。私の隣に藤野はいないかもしれないし、藤野の隣に私はいないかもしれない。それでも今だけは──。
「降りるよ」
 私の手を握って藤野が立ち上がった。ハッとして見上げると既に上野駅に到着している。彼女は私の手を引いて、人混みをかき分けてホームへ降りた。名古屋駅の何倍あるんだろう。人も多い。私の地元ってやっぱり、取るに足らないくらい小さな存在だったんだ。
 ホームのエスカレーターを降りると、天井の低いコンコースは柱を隔てて無限に広がっている。どこが出口なのか分からないほどに、人々が自由な方向へ歩いて行く。案内図を見つけて出口を探す。
「どの改札から出ればいいんだろう……」
「公園改札っていうのは多分違うよね……。こっちの中央改札ってところから、とりあえず出てみる?」
 私の提案により、おそらく一番メインの改札である、中央改札を通って外に出た。そのまま商業ビルに繋がっていたようで、左右には食料品を扱うスーパーのような店やカフェ、アンテナショップが軒を連ねている。まっすぐ正面に建物の出口があり、横断歩道と走り抜ける車が見える。とりあえず外に出てみようとそちらへ進み出口を抜けると、藤野が不意に叫んだ。
「あ! あれ!」
 私と繋いでいる手と逆の手で指を差すほうを見上げると、どこかで見た事のあるビルがそびえ立っていた。パパの居場所の手がかりになると思って保存していた写真の、背後に写っている建物と全く同じものだった。現在の気温を示す電光掲示板と、店の名前なのかよくわからない記号のようなものが書かれている。
「オイオイって読むの?」
「ゼロイチゼロイチ?」
 信号待ちをしながら二人で話していると、同じく隣で信号を待っていた知らないおばさんが突然私たちに向かって言った。
「マルイよ、あれは。マルイって読むの」
 私はなるほどと呟きながら、どうも腑に落ちず、視線をおばさんからマルイの看板に戻す。信号が青に変わった事に周りの歩行者の動きで気がついて慌てて歩き出すと、おばさんはどこかに行ってしまっていた。
「○が『マル』で|が『イ』なら『マルイマルイ』じゃないの?」
「そういう意味分かんなさが東京っぽくない?」
「めっちゃ雑じゃん。私みたいな事言うね」
 そうかな、と藤野が笑った。横断歩道を渡り終えたマルイ前の通りはお祭りでもあるのかというくらい混んでいた。店に入る用事も無かったのであたりを見回すと、交差点にかかる陸橋に続く階段が目に入った。方角的に上野駅側に通じているんだろうか。
「もしかしてこれ登ったらあの写真の場所、分かるかな?」
「行ってみよう!」
 駆け足で登ると、陸橋は確かに上野駅と書かれている建物へと通じている。マルイとの位置関係も考えると、間違いないだろう。
 手がかりとなる場所を目前にして、私はパパとの思い出を回想した。パパがなんの仕事をしているのか、子供の頃の私には全く検討が付かなかった。毎日私が学校に行くより先に家を出て、二十時頃には帰ってくる。家にいる時は話し相手になってくれるし、休日は家族三人で買い物に行ったり、娘の私とママとの時間を大事にしてくれているんだと、少なくとも私は感じた。だからママが宗教にハマっておかしくなって、離婚が決まった時に、パパは絶対に私を連れて行ってくれると思っていた。だけど、そうならなかった。
「もうひとつ上の場所かな」
 そう言う藤野に手を引かれるまま、駅へと繋がるエスカレーターを昇る。
 都会を意識するようになってから、地元のつまらなさがより一層鼻につくようになった。もしかしたら、パパもあの街から逃げ出したかったのかもしれない。おかしくなったママとの繋がりを絶って、もう一度やり直したかったのかもしれない。でもそれは、ママも同じだったかもしれない。そして、今こうして東京で奔走している私も。
 エスカレーターを昇り終えると目の前にコンビニがあり、奥には改札が見える。そして左方を見ると、線路の上を跨ぐように真っ直ぐに開けた通路。そこには見覚えのある景色が広がっていて、私は叫んだ。
「藤野、あれ! 写真のやつ‼」
 通路に等間隔で配置されていたのは、写真の中で酒やおつまみが並べられていたあのスペースだ。足元をよく見てみると、今立っているこの床のタイルも写真で見たものと確かに同じだということに気が付く。
 二人でマルイの方を向きながらスマホを掲げて、蟹歩きで位置を確認した。そしてついに、写真と全く同じ構図の場所に辿り着く。
「やったー‼  絶対ここじゃん!」
 二人で手を取り合ってひとしきり喜んだけれど、パパは見つかっていない。
「こ、この後どうする……?」
 そう漏らした藤野に「聞きたいのはこっちの方だ」と言いたかったけど、元はといえばパパを探しに来たんじゃない。今あったところで話す事も無い。振り返って改札の方を見ると、《JR上野駅 パンダ橋口》と掲げられた看板の向こうに、パンダ橋と上野公園の方向を示した標識が立っていた。どうやら今いる場所はパンダ橋と呼ばれていて、この橋を進むと上野公園があるらしい。
「観光でもしてみる? マスター言ってたじゃん、動物園とか博物館があるって」
「いいね! そうしよう」
 迷子になって西郷隆像の近くを何度もぐるぐる回りながら、ようやく上野動物園にたどり着いた。動物園は家族連れで賑わっていたけど、肝心のパンダは二年前に亡くなってしまったそうで、来年を目処に新しい子を迎え入れる予定らしい。
「生パンダ、見たかったなぁ」
「また来年見に来ようよ。再来年でも、その次でもいい」
 がっかりする藤野にかけた励ましの言葉は自分自身にも向けたものだった。来年も再来年も、あったらいいな。
 園内を右手から周り、ゴリラ、ゾウ、ホッキョクグマ、サル山のサルや肉食の大型鳥類も見ることができた。大きな橋を渡った隣のエリアにはキリンやサイ、爬虫類などの暑い地域に生息する動物もいた。蓮の葉が生い茂る大きな池を手元のパンフレットで確認すると、上野駅の案内図で見た『不忍口』の読みの答え合わせをようやくする事ができた。
 不忍池の脇にあるペンギンのエリアに藤野は釘付けになった。日光浴をしていて動きの無い彼らに飽きてきた私は、近くにある売店の様子を眺めていた。野外のワゴンに詰め込まれた様々な種類の動物のぬいぐるみに、子どもたちが群がっている。お父さんやお母さんは子どもの喜ぶ動物を見繕っていたり、一方で退屈そうでもある。その中の一人の男性の顔に、私はペンギンよりも釘付けになった。
 咄嗟に足が動く。ここで逃したら、一生会えないかもしれない。子どもと奥さんらしき人を店の中に送り出し、手を振っている男性の目の前で立ち止まる。男性は一瞬たじろいだが、私の顔を見て自分に用があるわけではないと思ったのか、視線をぬいぐるみの方へとやった。私は例の写真をスマホの画面に表示させて、
「これ、あなたですよね?」と男性の眼前に向けると、男性は驚いた様子で画面を凝視したまま言った。
「俺だ……。これ、どこで撮ったの? いつの写真? ていうかきみ、何者?」
 すべての質問を無視して、私は聞き返す。
「『中村弘二』っていう名前に聞き覚えは無いですか?」
「中村弘二? 誰だっけ……。これってパンダ橋だよね? いつ飲んだ時のやつかなこれ……」そう言いながら男性は目を瞑って、天を仰いだ。しばらく考えた後、思い出したのか目を開いた。
「もしかして、中村弘二ってヒロちゃんの事?」
「ヒロちゃん?」
「なんだ、違うの? この辺りじゃすげー有名だよ。知り合いでもないのにパンダ橋で飲んでると、勝手に輪の中に入ってくんの。宗教にハマった嫁を捨てて上京してきたけど、いい歳して定職にも就かずに人から金借りてパチンコに通ってるって聞いたけど」男性はヘラヘラしながら続ける。「まさかきみ、ヒロちゃんの娘とか? 流石にそんな訳ないか」
 彼に掲げていたスマホを持った手を下ろして俯いた。男性の家族が戻ってきたらしく、捨て台詞のように私に言った。
「その写真、気持ち悪いから消しといてよ。知らない人に写真撮られるのって、なんか嫌だわ」
 ギャンブルにハマっているなんてママの妄言だと思っていた。パパがろくでもない人だって信じたく無かった。私は、しょうもない両親から生まれて、しょうもない街で育った、しょうもない人間だという、心のどこかであった憶測が、確信に変わってしまった。今までの私の人生って、本当に意味のないものだったんだな。脳裏に焼き付いていた楽しかった思い出たちが第三者視点で蘇って、そこに映った自分の姿が虚しくて、涙が溢れてきた。
 ぼやけた視界の中、気がつくと目の前に藤野が立っていた。ワンピースの裾を強く握った手を引き剥がして、その手を握りながら彼女が言った。
「どうしたの。何があったの」
「なんでもない」
「嘘つかないで。泣いてるじゃん。本当の事言って」
 もう全部終わった事を説明するのも面倒で、必死に考えた言い訳を捻り出す。
「ぬいぐるみ欲しくて泣いてるの」
 彼女は一瞬呆気に取られた顔をしたが、私の指差す売店の方を見た後「どれが欲しいの?」と真剣な表情で質問をした。
「じゃあ、一番人気が無さそうなやつ」
「──わかった。ちょっと待ってて!」
 今まで見たこともないようなスピードで売店のワゴンに走り去って行った。よく見えないけど、近くにいた店員さんと何か話している。売店の店内に店員さんと消えた後、行きと同じ全力ダッシュで戻ってきた彼女の手には上野動物園のロゴが入った袋が下げられていた。
「買ってきたよ。一番人気が無いやつどれですかって聞いてきた。当ててみて」
 手渡された袋を抱きしめると、ふかふかと柔らかい感触がビニール越しに伝わってくる。形を確かめるように色々な方向から握ってみる。
「なんだろう。……うーん。オランウータン?」
「ブー。霊長類のぬいぐるみって、何故かお年寄りに人気らしいよ」
 袋の口に付いたテープを剥がして手を突っ込むと、袋から取り出した。
「これは鷲……? それとも鷹?」
「大鷲なんだって!」
 園に入って割とすぐに大鷲を見たことを思い出した。一〇メートル以上ありそうな高さの檻のてっぺんで止まり木に鎮座する姿はバイカーか空軍のジャケットにでも印刷されていそうな風格で、大きさも想像の三倍くらいあった事に驚いた。
「かっこいいと思うんだけどなぁ、大鷲。人気無いんだ」
「オニールって星座詳しい? 夏の大三角ってあるじゃん。あれって──」
「アルタイル?」
 私がそう言うと藤野は頷いた。別名アルタイルと呼ばれているわし座は、七夕の彦星としても知られている。織姫と離れ離れになる運命を背負った彦星の星座だなんて、まるで今の私みたいだなと自惚れながら、ぬいぐるみの頭を撫でた。
 上野動物園には正門とは別の出入り口があった。不忍池に沿って歩いていくと、弁天門という場所から外に出ることができる。星座の話がきっかけで博物館もあることを思い出した私たちは、今度はそちらに向かうことにした。公園の桜の並木道を抜けると、博物館の前には特別展を知らせる看板が立っている。
「特別展『空と宇宙展─飛べ! 百年の夢』だって。これも見る?」
「絶対見る! さっき星の話したばっかりだし!」
 左手は鷲のぬいぐるみを、右手は藤野の手を握っている。こんなの、地元だったら笑い物だっただろう。東京の人はみんな他人に無関心なのが心地良い。
 公園に面した野外の受付でチケットを二枚購入して建物の奥に進む。中に入ってすぐ、チケットをもぎるスタッフにパンフレットとあわせて何かを渡された。
「こちらは、各日先着百名様に配っている『ツキの砂』です」
 消しゴム大の透明なボトルに、灰色の粉のような物が詰まっていた。藤野はボトルの中身をうっとりと眺めて、宇宙へ思いを馳せている。
 ちょうど数ヶ月前に地球に戻って来た『小惑星探査機 はやぶさ』の部品の展示コーナーを抜けた先の、月についての展示でようやく入り口で配られた月の砂の正体が判明した。『ツキの砂』とあえて表記されたそれの正式名称は『月土壌シミュラント』で、本物の月の砂ではないらしい。本物の月の砂は『レゴリス』と呼ばれていて、粒に丸みがなく、角ばっている。地球の砂や地面とは勝手が違うため、月面探査機を開発する為にはそのレゴリスと同じ環境の土壌が必要だそうだ。その為に本物の月の砂に似せて作った人工の砂こそが、月土壌シミュラントであり、入り口で配られた『ツキの砂』ということらしい。
 天の川銀河のイラストが描かれた展示パネルを眺めながら、ツキの砂の入ったボトルを振ってみた。直径が一万二千キロメートルもある地球も、銀河系という集まりの中では塵ほどの大きさしかない。その地球に住む私たち人間の存在なんて、いてもいなくてもたいして変わらないのかもしれない。
「なんか、宇宙が大きすぎて全部どうでもよくなっちゃったかも」
 展示エリアを抜けた先の吹き抜けになったガラス張りのスペースで、ベンチに座りながら私は呟いた。館内を走り回る子供達の喧騒は絶えず賑やかだけど、見上げた先のガラス越しの空は薄曇り、明日の天気も分からないような不安定な色をしている。私にはそれが、旅の終わりを暗示しているように見えた。
 特別展の出口を抜けながら「博物館のお土産売り場、好きなんだ」と藤野が言った。私も楽しみだった。だけど売り場に足を運ぶと、お土産売り場に売っている元素記号の書かれたポストカードも、化石採掘キットも、恐竜のミニフィギュアが詰め込まれたボックスも、全てが霞んでしまうほどのものが、そこにあった。
 本物が見られると、思っていなかった。
「どうしたの?」
 突然足を止めた私の袖を藤野が引っ張った。私ははっとして、慌てて鞄の中から一枚のDVDを取り出した。昨日の夜お別れを告げたバイト先で渡されたそのDVDにはジャケットこそ付いていないものの、半透明のケースに透けて、ディスクにタイトルが書かれてるのが読み取れる。覗き込んだ藤野が読み上げた。
「『ペーパームーン』……?」
 DVDを持ったまま固まる私の目の前には、記念撮影用のスペースがあった。特別展のタイトルを頭上に掲げ、巨大な三日月のハリボテが微笑みながら鎮座している。三日月には上に座って撮影できるよう、裏側に台座がついている。この三日月とDVDの関係が分からない藤野は、私に質問をした。
「これ、どういう映画なの?」
「聖書を売り付けて生計を立てる詐欺師の男が、母親を亡くした女の子と一緒に、その子を伯母のもとまで送り届ける旅をするって話。──主役の二人が本当の親子なんだ。娘は十歳で、テイタム・オニールって言うの。ハンドルネームにするくらい好きなの。だからさ、好きって言うの、なんか恥ずかしいじゃん? 初めて会った時に言いそびれてタイミング逃しちゃった。それだけ」
 理由に納得したのか、知ることが出来て満足したのか、彼女はそれ以上その映画について詳しく聞こうとはしなかった。
 私は彼女に「記念撮影しよう」と提案した。一緒にプリクラを撮った時に「いつかちゃんとした記念写真を撮ろう」って約束したから。その「いつか」はもう二度と来ないかもしれないから。
 私は近くを通りかかった子ども連れの家族を呼び止めた。スマホを渡して、シャッターを押してもらうようお願いをした。藤野の手を握って三日月のもとへ向かうと、彼女は三日月の弓形になった部分の台座に腰かけて、私はその台座に上がった。そして彼女のうしろから腕を回して、抱きしめた。
 ──なんとなく、寂しそうに見えた。映画の話ができて、楽しかった。私の言うことに文句も言わず、付き合ってくれた。全部、自分のわがままだった。居心地は良かったけど、心の片隅にはずっと罪悪感が残っていた。いつか見限られて、またひとりぼっちになってしまうんじゃないかって、怖かった。
「藤野が考え無しに私を連れ出してくれて、嬉しかったんだ。私がしていた事を藤野が私にしてくれて、それで私の心は救われたんだよ」
 私が耳元で囁くと、藤野も応えた。
「こんなことをしても意味が無いって本当は分かってた。それでも、あの退屈な世界から私を連れ出してくれた時みたいに、私もオニールを救ってあげたかった」
 作り物の月と撮る記念撮影は、カメラがまだ普及していなかった三十年代では裕福さと幸せの象徴だった。映画の主題歌『イッツ・オンリー・ア・ペーパームーン』の歌詞では「あなたが信じてくれるなら、作り物ではなくなる」と歌われている。
 スマホを構える男性が手を挙げてこちらに合図を送っている。私は大鷲のぬいぐるみを握りしめて、藤野はツキの砂のボトルを構えて、それぞれが不器用にピースをした。やっぱり私たちは写真を撮られ慣れていない。
「藤野、私と出会ってくれてありがとう。あの時、一緒に野球をしてくれてありがとう。ずっと私のわがままに付き合ってくれてありがとう。最期に私をわがままで振り回してくれて、ありがとう。大好きだよ」
「オニール、私の存在に気付いてくれてありがとう。退屈から救ってくれてありがとう。私の事を信じてくれてありがとう。私も大好き」

   ◆◆◆

 それから彼女は、「もう帰ろう」とだけ言って、二人で東京を後にした。
 結局彼女のお父さんは見つからなかった。私の両親は私の捜索願を出していたらしく、地元の駅に着くなり私達は警察に補導された。母は「もう帰って来ないと思った」と涙ながらに私を抱きしめた。父は「お母さんを心配させるな」と私を怒鳴りつけた。警察署で事情聴取を受けた時に、初めて彼女の本名を知った。
 ──中村沙也加。
 彼女のお母さんは亡くなっていなかった。彼女が家を飛び出した時に訪ねてきた男性がすぐに救急車を呼んだおかげで一命を取り留めたらしい。つまり彼女は、人殺しなんかじゃなかった。犯罪者なんかにならなかった。
 宗教狂いの母親を殺しかけて失踪した三年生と、それについていくように行方不明になった一年生の私たちの存在は、しばらく学校で噂になった。以前にも増して学校での居心地は悪くなったけれど、あの日のちょうど半年後に関東を中心に起こった震災のせいで全部有耶無耶になって、いつしか私達の噂は次第に忘れ去られてしまったし、いつの間にか彼女も学校を卒業してしまった。
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 一方で私は彼女みたいに自由に生きてみようと思って、東京の大学に進学することにした。両親に上京すると伝えた時には「なんで東京なのか理解に苦しむ」「地元じゃ駄目な理由が分からない」と猛反対を食らった。それでも私は自分の意志を貫き通して、逃げるようにあの家を、あの街をふたたび飛び出した。
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「東京は星が見えないけど、街の明かりが眩しくて寂しくないね」
 その言葉に何故か寂しさを感じた私は、沙也加の手を握った。
「ちょっと~。可織がいなくても寂しくないって意味じゃないよ~」
 握った手を引いて、沙也加は嬉しそうに歩き始めた。駅前の喧騒が遠くなるにつれて、住宅地の方からは夕飯を作る懐かしい匂いが漂ってくる。
 歩道橋の階段を降り切るなり「家まで競争!」と突然言い出した沙也加の背中を慌てて追いかけながら、私たちは帰るべき場所へと走り出した。 
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