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第十一話
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俺がもしあのまま高校に残っていたらと考えることはたまにある。けれど考えるだけで後悔はない。並行世界が無限にあったってきっと俺はああいう決断を下していたと思う。
ショーウィンドウに映り込む俺はあの頃より随分変わっていて高校の頃の同級生が見たって俺とは分からないと思う。
あの時の真面目な風貌はもうどこにもない。
光の当て具合によっては白にも見えるグレーの髪色に両耳と下唇に光る銀のピアス。もうスポーツなんてしていないから肌は白く、筋肉は落ちて身長は高校を出た時からちっとも伸びてはいない。
この姿は全部ヤマトのためのものだった。ヤマトが自身の好みに俺に手を加えた。俺だったら決して身に纏わない黒を基調とした病んでいるような目を惹く服も容姿もヤマトが選んだものだ。
ポケットに手を突っ込み、金を落としてはいないか確認する。三千円札、たまには家の外に出かけてはとヤマトがくれたお小遣い。二十四にもなって俺は何の職にもついてない他人に寄生するただのヒモ。しかし貯金とかしたくて働きたい欲求は確かにあった。けれどヤマトは自分の相手をしてくれればいいからと決してそれを許してはくれなかった。金がいるなら俺が出すと言って。そういうことではないのだが逆らえば捨てられてしまう気がしてあれから俺はその話題を出してはいない。
ヤマトは俺を必要としてくれている。
けれど毎夜体を預けても胸に抱える虚しさはいつまで経っても消えることはない。
「俺はずっとこのままなのだろうか」
ショーウィンドウに映る自分に問いかけるけれど当然答えは返ってこない。
鬱屈さに加えて昼間に人で賑わう街並みは俺にとっては毒だった。逃げるようにここではない影が差す場所へと俺は歩き出した。
店が少し小汚い方が飯は美味い。ここも例に漏れず、椅子も机も壁も年季が入っていて色はくすみお世辞にも綺麗とは言えない。だがラーメンは絶品で、ここの地区がどんなに治安が悪くとも暴力団のアジトが三軒隣にあろうとも毎日通いたいくらいに病みつきになる。
「うまっ」
この味、たまらん。
ゴクリとスープを飲んでまた麺へと箸を向けようとした時、濃厚な豚骨のパレードに不協和音が混じる。
『ヤコルト首位を狙う一戦。一方後がないDoNA──』
天井近くの棚に置かれたテレビは俺の一番忌み嫌うものを映す。聞くや否や近くにあったリモコンを素早く取った。閉店間際に来たのにも関わらず店主が中に入れてくれたおかげで店にいるのは俺だけ。周りに気遣う必要はないだろう。
「おじさん、チャンネル変えていい?」
厨房に立つ店主が「ああ」と無愛想に返事する。この反応はいつものこと。誰が客でも店主はああだ。
店主の許可も得たことだしとボタンに手を掛けた瞬間、見覚えのある顔がテレビに映る。
『またしても躍進か!? 今回も九重が先発登板。第二戦で完封を成し遂げましたがまず初球……』
「……秀司」
以前より大人びた精悍な顔立ちに、たくましい体躯。身長なんてもっと高くなってる気がした。
左腕から繰り出される球は光線の如く駆け抜け、バットの直前に大きくしなる。高めに浮くボールなど一切ない完璧なコントロール。相手のバットは何度も空振りに終わる。打者の誰も彼の投球についていくことなど出来なかった。
「やはり凄いな。プロの中でもまず雰囲気が他と違う。……コイツは確実に野球史に名を残す伝説になるな」
いつの間にか店主が厨房から出て、テレビの前で腕組みをしていた。こんな饒舌な店主初めて見た。
でもそっか。秀司は夢を叶えたんだ。
純粋に嬉しかった。右腕の故障という壁を秀司は乗り越え、夢を実現した。
「本当に凄いよ。お前は……」
そばにいたからこそ秀司がどんなに頑張ってきたは記憶に深く残っている。彼の凛とした横顔に俺は涙が出そうだった。
走って走る。あまり家から出ないせいか体は鈍って鉄のように重たいけれど前を目指して腕を振る。
もう試合は始まってしまっただろうか。いや、ライブは十八時からだからまだきっと間に合うはずだ。
「はぁはぁはぁ……っうぇ気持ち悪」
久しぶりに体を動かしたせいか吐き気に襲われて思わず口元を掌で押さえる。けれどもう着いたのだ。扉を開けてテレビをつければ秀司の活躍をこの目で観れるのだ。
ドアノブに手を掛けると、ガチャリと向こう側からドアが開いて体がよろめく。
「うわっ……!」
「っえ?」
見慣れない青年が驚いたようにこちらを窺う。真っ赤に染まった艶やかな髪に、品のあるような美しい顔立ち。警戒に二歩後退る。
「だ、誰……」
「いやこっちこそ誰」
お互いが向き合う中、「どうした~?」とヤマトが開けたドアから顔を覗かせた。
「あれ透!?」
予想外の展開にヤマトは狼狽しているようだった。赤髪の青年が首を傾げる。
「なに、ヤマトの知り合い?」
「え、あ~うん。彼は千歳透。ここの同居人だよ」
「この前言ってた彼か。へぇ~」
青年にパシンと軽く肩を叩かれる。
「プロ目指してんだってな。バンド頑張れよ」
バンド……一体どういうことだろうか。
ふと青年の肩の向こう側から何かを願っているような焦ったヤマトの顔がちらりと見えた。
話を合わせろということか。
「あ、ああ。応援どうもな」
「おう。今度ライブやる時は俺も呼んでくれよ。俺も夢追うアーティストの一人。金の卵の音色がどんなもんか聴いときたい」
「も、もちろん大歓迎だ。ライブの日取りが決まったらすぐ知らせるよ」
「おう!」とニカリと浮かべる彼の笑みは輝いていかにも根明という感じだった。青年が帰り、部屋の中俺と向き合うヤマトの雰囲気はどこかぎこちなかった。
「あの人は?」
「か、彼は友人でね。道端で絵を売っててそれを出会いに仲良くなったんだ」
「……そう」
白い壁に掛けられた小さな絵に目を遣る。ああ、あれのことか。絵を見つめる度に機嫌が良くなるくらいこの絵を大層気に入っていたのを憶えている。
ヤマトは友人が多いけれど決して人を家へと招き入れたことはなかった。それなのに彼を中へ入れ、同時に俺を外へ行かせた。
合点はすぐにいった。あの青年はただの友人ではない、ヤマトにとってそれ以上の存在なのだろう。
「なんでそんなに狼狽えてるんだ? だって俺はヤマトの恋人でもなんでもないんだぞ」
「えっいや……」
「ヤマトがいらないって言うなら俺はここを出て行く。だからヤマトは一言俺に言えばいい。そしたらなんのしがらみもなく全て終わる」
捨てられることに恐怖がなかったとは言えない。けど今話を流して捨てられるかもとずっとビクビクしているよりかは今聞いておいて楽になりたかった。
もう既に関係性がバレてしまっていることに更にヤマトは焦っているようだったが、俺への返答に悶々と考え込んでいるようだった。
「……無理だ」
その声は絞り出すような呟きにも似たものだった。
「俺にとって透はいてくれなきゃ困る存在なんだ。透を失うなんて考えられない」
結局ヤマトはどちらも選べなかった。縋るように俺に抱きつく。
「透、愛してる。愛してるんだ」
深みのない俺を繋ぎ止めるだけの仮初の言葉にヤマトは道具として俺を捨てきれないのだと悟る。ヤマトにとって俺の具合は最高に良く、クスリに手を出したように今更手放すことなんて出来ないのだろう。
「うん。俺も愛してる」
ヤマトの背中に腕を回し、一番最適な返しをする。
諦めに近い感情が心を覆う。俺は消耗品のように必ずいつか捨てられる存在。この胸に空いた穴は誰に埋められることもなく一生このままなのだ。
けれど必要にされている間はこの空虚さも気休めに軽くなる。だからこれでいいのだ。これで俺は構わない。
あれからヤマトは青年を家に呼ぶのをしばらく自粛していたのだが、気にせず呼ぶといいと俺が言うとヤマトは申し訳なさそうにしながらもまた俺に金を持たせて外にやるようになった。その頻度は時間が経つと共に高まり、今や一日二日どこかで泊まってくるように言われるまでなった。
もうそろそろその日は迫っているのかもしれない。
今日も外で泊まるように言われて何もすることがなくぶらぶらと夜の街を散歩する。治安が悪い地区らしく道にはおっさんが大の字で酔って寝転がり、拙い日本語で「ねぇねぇオニイサン。マッサージするヨ。気持ちいいヨ」と女性から声を掛けられる。なんなくそれを躱してどこに泊まろうかと思案する。漫画喫茶でいいかと向かえば駅に目が留まる。特に急ぐこともないのだ。俺は方向転換してそちらに歩き出した。
歩みを止めない人の流れに疲れたような顔つきが散見する中、黒いピアノがどっしりと佇んでいた。最近設置された駅ピアノは結構人気なのだが、今は幸運にも誰も使ってはいないようだった。
指先が鍵盤に触れるとポロンと軽やかに音を奏でる。そのまま俺は思いのまま指を走らせた。かつて秀司が教えてくれたこの曲。どんなに辛くて苦しくてもピアノを弾いている間は心が落ち着いてこの世のしがらみから解放させ、影の住人のような俺を影から解放してくれた。本当にピアノというものを作ってくれた人は偉大だと思う。
癒しのメロディーに釣られて周囲に人集りができていく。こんな風に人が俺の伴奏に耳を傾けてくれるのはとても嬉しく思う。
思う存分に弾いて席から立ち上がるとたくさんの拍手をいただいた。いつもの展開だけれどなんだか照れ臭くて一度軽く礼をしてそそくさとピアノから離れる。よし、漫画喫茶に行くかとしたところで背後から「あの!」と声を掛けられた。
振り向くとなんとも背が高い男が立っていた。高身長すぎて嫉妬も起こらない。深く被った帽子にふちの大きいメガネ。黒ずくめの格好に、顔の下半分は黒いマスクに覆われて表情はよく分からない。その男の姿は不審者の典型的な外見そのものだった。
「……なんでしょうか?」
「あの、人違いだったら申し訳ないんですけど……もしかして透じゃないか?」
名前知ってるってことはもしかして俺の知り合いだろうか。だけどこんな人見覚えなんてない。警戒心は依然高まるばかりだ。
「……そうだけど」
「やっぱり透なのか!?」
俺だと分かった途端、勢いよく距離を詰められて肩をがしりと掴まれる。ガタイの良い男に半ば拘束されて正直怖かった。それを相手も察知したのだろう。慌ててメガネを外し、マスクをずり下ろす。
「すまん。怖がらせるつもりはなかったんだ。透、俺のこと憶えてるだろ」
その顔はテレビで見たものと同じだった。
ショーウィンドウに映り込む俺はあの頃より随分変わっていて高校の頃の同級生が見たって俺とは分からないと思う。
あの時の真面目な風貌はもうどこにもない。
光の当て具合によっては白にも見えるグレーの髪色に両耳と下唇に光る銀のピアス。もうスポーツなんてしていないから肌は白く、筋肉は落ちて身長は高校を出た時からちっとも伸びてはいない。
この姿は全部ヤマトのためのものだった。ヤマトが自身の好みに俺に手を加えた。俺だったら決して身に纏わない黒を基調とした病んでいるような目を惹く服も容姿もヤマトが選んだものだ。
ポケットに手を突っ込み、金を落としてはいないか確認する。三千円札、たまには家の外に出かけてはとヤマトがくれたお小遣い。二十四にもなって俺は何の職にもついてない他人に寄生するただのヒモ。しかし貯金とかしたくて働きたい欲求は確かにあった。けれどヤマトは自分の相手をしてくれればいいからと決してそれを許してはくれなかった。金がいるなら俺が出すと言って。そういうことではないのだが逆らえば捨てられてしまう気がしてあれから俺はその話題を出してはいない。
ヤマトは俺を必要としてくれている。
けれど毎夜体を預けても胸に抱える虚しさはいつまで経っても消えることはない。
「俺はずっとこのままなのだろうか」
ショーウィンドウに映る自分に問いかけるけれど当然答えは返ってこない。
鬱屈さに加えて昼間に人で賑わう街並みは俺にとっては毒だった。逃げるようにここではない影が差す場所へと俺は歩き出した。
店が少し小汚い方が飯は美味い。ここも例に漏れず、椅子も机も壁も年季が入っていて色はくすみお世辞にも綺麗とは言えない。だがラーメンは絶品で、ここの地区がどんなに治安が悪くとも暴力団のアジトが三軒隣にあろうとも毎日通いたいくらいに病みつきになる。
「うまっ」
この味、たまらん。
ゴクリとスープを飲んでまた麺へと箸を向けようとした時、濃厚な豚骨のパレードに不協和音が混じる。
『ヤコルト首位を狙う一戦。一方後がないDoNA──』
天井近くの棚に置かれたテレビは俺の一番忌み嫌うものを映す。聞くや否や近くにあったリモコンを素早く取った。閉店間際に来たのにも関わらず店主が中に入れてくれたおかげで店にいるのは俺だけ。周りに気遣う必要はないだろう。
「おじさん、チャンネル変えていい?」
厨房に立つ店主が「ああ」と無愛想に返事する。この反応はいつものこと。誰が客でも店主はああだ。
店主の許可も得たことだしとボタンに手を掛けた瞬間、見覚えのある顔がテレビに映る。
『またしても躍進か!? 今回も九重が先発登板。第二戦で完封を成し遂げましたがまず初球……』
「……秀司」
以前より大人びた精悍な顔立ちに、たくましい体躯。身長なんてもっと高くなってる気がした。
左腕から繰り出される球は光線の如く駆け抜け、バットの直前に大きくしなる。高めに浮くボールなど一切ない完璧なコントロール。相手のバットは何度も空振りに終わる。打者の誰も彼の投球についていくことなど出来なかった。
「やはり凄いな。プロの中でもまず雰囲気が他と違う。……コイツは確実に野球史に名を残す伝説になるな」
いつの間にか店主が厨房から出て、テレビの前で腕組みをしていた。こんな饒舌な店主初めて見た。
でもそっか。秀司は夢を叶えたんだ。
純粋に嬉しかった。右腕の故障という壁を秀司は乗り越え、夢を実現した。
「本当に凄いよ。お前は……」
そばにいたからこそ秀司がどんなに頑張ってきたは記憶に深く残っている。彼の凛とした横顔に俺は涙が出そうだった。
走って走る。あまり家から出ないせいか体は鈍って鉄のように重たいけれど前を目指して腕を振る。
もう試合は始まってしまっただろうか。いや、ライブは十八時からだからまだきっと間に合うはずだ。
「はぁはぁはぁ……っうぇ気持ち悪」
久しぶりに体を動かしたせいか吐き気に襲われて思わず口元を掌で押さえる。けれどもう着いたのだ。扉を開けてテレビをつければ秀司の活躍をこの目で観れるのだ。
ドアノブに手を掛けると、ガチャリと向こう側からドアが開いて体がよろめく。
「うわっ……!」
「っえ?」
見慣れない青年が驚いたようにこちらを窺う。真っ赤に染まった艶やかな髪に、品のあるような美しい顔立ち。警戒に二歩後退る。
「だ、誰……」
「いやこっちこそ誰」
お互いが向き合う中、「どうした~?」とヤマトが開けたドアから顔を覗かせた。
「あれ透!?」
予想外の展開にヤマトは狼狽しているようだった。赤髪の青年が首を傾げる。
「なに、ヤマトの知り合い?」
「え、あ~うん。彼は千歳透。ここの同居人だよ」
「この前言ってた彼か。へぇ~」
青年にパシンと軽く肩を叩かれる。
「プロ目指してんだってな。バンド頑張れよ」
バンド……一体どういうことだろうか。
ふと青年の肩の向こう側から何かを願っているような焦ったヤマトの顔がちらりと見えた。
話を合わせろということか。
「あ、ああ。応援どうもな」
「おう。今度ライブやる時は俺も呼んでくれよ。俺も夢追うアーティストの一人。金の卵の音色がどんなもんか聴いときたい」
「も、もちろん大歓迎だ。ライブの日取りが決まったらすぐ知らせるよ」
「おう!」とニカリと浮かべる彼の笑みは輝いていかにも根明という感じだった。青年が帰り、部屋の中俺と向き合うヤマトの雰囲気はどこかぎこちなかった。
「あの人は?」
「か、彼は友人でね。道端で絵を売っててそれを出会いに仲良くなったんだ」
「……そう」
白い壁に掛けられた小さな絵に目を遣る。ああ、あれのことか。絵を見つめる度に機嫌が良くなるくらいこの絵を大層気に入っていたのを憶えている。
ヤマトは友人が多いけれど決して人を家へと招き入れたことはなかった。それなのに彼を中へ入れ、同時に俺を外へ行かせた。
合点はすぐにいった。あの青年はただの友人ではない、ヤマトにとってそれ以上の存在なのだろう。
「なんでそんなに狼狽えてるんだ? だって俺はヤマトの恋人でもなんでもないんだぞ」
「えっいや……」
「ヤマトがいらないって言うなら俺はここを出て行く。だからヤマトは一言俺に言えばいい。そしたらなんのしがらみもなく全て終わる」
捨てられることに恐怖がなかったとは言えない。けど今話を流して捨てられるかもとずっとビクビクしているよりかは今聞いておいて楽になりたかった。
もう既に関係性がバレてしまっていることに更にヤマトは焦っているようだったが、俺への返答に悶々と考え込んでいるようだった。
「……無理だ」
その声は絞り出すような呟きにも似たものだった。
「俺にとって透はいてくれなきゃ困る存在なんだ。透を失うなんて考えられない」
結局ヤマトはどちらも選べなかった。縋るように俺に抱きつく。
「透、愛してる。愛してるんだ」
深みのない俺を繋ぎ止めるだけの仮初の言葉にヤマトは道具として俺を捨てきれないのだと悟る。ヤマトにとって俺の具合は最高に良く、クスリに手を出したように今更手放すことなんて出来ないのだろう。
「うん。俺も愛してる」
ヤマトの背中に腕を回し、一番最適な返しをする。
諦めに近い感情が心を覆う。俺は消耗品のように必ずいつか捨てられる存在。この胸に空いた穴は誰に埋められることもなく一生このままなのだ。
けれど必要にされている間はこの空虚さも気休めに軽くなる。だからこれでいいのだ。これで俺は構わない。
あれからヤマトは青年を家に呼ぶのをしばらく自粛していたのだが、気にせず呼ぶといいと俺が言うとヤマトは申し訳なさそうにしながらもまた俺に金を持たせて外にやるようになった。その頻度は時間が経つと共に高まり、今や一日二日どこかで泊まってくるように言われるまでなった。
もうそろそろその日は迫っているのかもしれない。
今日も外で泊まるように言われて何もすることがなくぶらぶらと夜の街を散歩する。治安が悪い地区らしく道にはおっさんが大の字で酔って寝転がり、拙い日本語で「ねぇねぇオニイサン。マッサージするヨ。気持ちいいヨ」と女性から声を掛けられる。なんなくそれを躱してどこに泊まろうかと思案する。漫画喫茶でいいかと向かえば駅に目が留まる。特に急ぐこともないのだ。俺は方向転換してそちらに歩き出した。
歩みを止めない人の流れに疲れたような顔つきが散見する中、黒いピアノがどっしりと佇んでいた。最近設置された駅ピアノは結構人気なのだが、今は幸運にも誰も使ってはいないようだった。
指先が鍵盤に触れるとポロンと軽やかに音を奏でる。そのまま俺は思いのまま指を走らせた。かつて秀司が教えてくれたこの曲。どんなに辛くて苦しくてもピアノを弾いている間は心が落ち着いてこの世のしがらみから解放させ、影の住人のような俺を影から解放してくれた。本当にピアノというものを作ってくれた人は偉大だと思う。
癒しのメロディーに釣られて周囲に人集りができていく。こんな風に人が俺の伴奏に耳を傾けてくれるのはとても嬉しく思う。
思う存分に弾いて席から立ち上がるとたくさんの拍手をいただいた。いつもの展開だけれどなんだか照れ臭くて一度軽く礼をしてそそくさとピアノから離れる。よし、漫画喫茶に行くかとしたところで背後から「あの!」と声を掛けられた。
振り向くとなんとも背が高い男が立っていた。高身長すぎて嫉妬も起こらない。深く被った帽子にふちの大きいメガネ。黒ずくめの格好に、顔の下半分は黒いマスクに覆われて表情はよく分からない。その男の姿は不審者の典型的な外見そのものだった。
「……なんでしょうか?」
「あの、人違いだったら申し訳ないんですけど……もしかして透じゃないか?」
名前知ってるってことはもしかして俺の知り合いだろうか。だけどこんな人見覚えなんてない。警戒心は依然高まるばかりだ。
「……そうだけど」
「やっぱり透なのか!?」
俺だと分かった途端、勢いよく距離を詰められて肩をがしりと掴まれる。ガタイの良い男に半ば拘束されて正直怖かった。それを相手も察知したのだろう。慌ててメガネを外し、マスクをずり下ろす。
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