風と階段

伊藤龍太郎

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次の日、職場復帰した舞華と武琉はその日の昼休みに武中に打診した。
「一回断った人が何を言っているんだって思うよね。でも、子供達の夢は親として叶えてあげたい。」舞華は1人の母親として武中に頭を下げた。
「ちょっ!頭を上げてください。最初から断るつもりなんてないですよ。」武中は慌てて2人に頭を上げさせた。周りを見渡すと他の社員達の視線が自分たちに向けられていた。
「断る理由がないってどういうこと?普通は、一回断った人がなにを言ってるんだ。みたいな展開になると思ってたんだけど。」武琉は疑問に思ったことを躊躇することなく聞いた。すると武中は「これ、牧田さんには内緒にしてくれって京介くんから言われてたんですけどね。」
「え?京介から?」舞華は驚いた。いつ京介が武中に頼み事をしたのかわからない。「実は、初詣のときに僕たち会ったじゃないですか?あのとき、牧田さん達が帰った後京介くんが戻ってきて僕に言ったんです。『もし、僕になにかあったら、妹の勉強を見てほしい。』って。
これは京介くんが美奈ちゃんのことを1番に考えてるからこその話だと思うんです。だから、僕にできることはできる限りなんでもやりたい。そう思いました。
そういうことで僕が断る理由がないんです。」
図らずとも京介の思いを知った舞華と武琉は京介への想いが溢れて言葉にならなかった。
「じゃあ、お願いしてもいいかな?」改めて舞華が聞いた。武中は「もちろんです!」とはっきりと言った。
「それじゃあ、次の土曜日にお宅にお伺いしてもよろしいでしょうか?美奈ちゃんと今後の方針について話したいので。」「もちろん。じゃあ、俺が駅まで迎えに行くわ。」武琉は一肌脱いであげましょうと言わんばかりの言い方で言った。
「さて、そろそろ仕事に戻りましょう。」舞華は腕時計を一瞥すると2人に促した。2人はフゥと一息つくと席を立ち自分たちの部署に移動した。

そして、土曜日になった。家には舞華と美奈だけがいた。武琉は、最寄り駅まで武中を迎えに行っている。
「ただ同僚がうちに来るだけなのに、娘の進路が関わってると思うと、なんか緊張する~。あぁ胃が痛い!」舞華は自分の胃の辺りをさすりながら言った。
しかし、特にいつもと変わりない様子の美奈を見て「なんで、あんたは平然としていられるのよ。わたしが誰のことを考えて胃が痛くなってると思ってるのよ。」と皮肉を言った。
「わたしも緊張してるよ。だってわたしの進路が関わってるし、そもそも親の同僚に会うって結構緊張するんだよ。」
美奈はお茶を飲もうとしたが、微かに手が震えている。
武琉は武中を連れてだいたい10時くらいに家に着くと言っていた。しかし、舞華が時計を見るととっくに10時を過ぎていた。「お父さんまだかな~。」
「道に迷ってるんじゃない?」美奈は、
冷やかしたが、そんなことあるはずがない。
そんな話のタネになっている武琉は、
最寄り駅の改札前でまだかまだかと武中のを待っていた。
スマホを見るととっくに10時を過ぎていた。「ったく。10時って言ったじゃん。」武琉が靴をトントンと床に打ち付け、少し苛立ちを表し始めた時「遅れてすみません。」と言う声が背後から聞こえた。振り返るとやはり武中が走ってきていた。武琉は武中の恰好に驚いた。武中はニット帽にマスク、目には理科の実験で使うような保護メガネをかけていた。「いや、ホントにすみません。」
しかし、武琉の視線は武中の首から上に注がれていた。それに気付いた武中は「あ、僕。花粉症なんですよ。だから、目とか鼻に花粉が入らないように完全防備で外に出るんです。
「遅いわ。」武琉は武中の肩を軽くどついた。
「すみません。ちょっと電車の方向を間違えてしまって、逆方面の電車に乗ってました。」武中は基本的には仕事ができるのだが、たまにこのようなダメな一面を見せる。そのため、いわゆるギャップ萌えが多いのだ。
「まぁいいや。とにかく行くぞ。舞華と娘が待ってる。」武琉は進行方向に身体を向け、武中に言った。
武中は武琉についていかなければ逸れてしまう。それにもかかわらず、武琉の歩く速度が速すぎて一向に追いつくことができない。このままでは完全に見失ってしまう。そう思った武中は走り出した。
曲がり角のたびに見失いそうになりながらついていくこと10分。
武中は少し長い距離の直線道路が見えた。今のうちにと少し休憩をした。しかし、俯くと武琉の姿を見失う可能性があるので、顔を上げたまま。
少し息が整ってきたため、武中は再び走り始めた。するとその時、武琉は直線道路の途中で右に曲がった。武中は想定外の展開に思わず全力疾走をした。曲がり角の近くまで走り、角を曲がろうとした時スッと誰かが出てきた。うわっ!と武中は後ろにのけぞった勢いそのままに尻もちをついてしまった。武中が顔を上げると反対側から出てきた人が武琉だったことがわかった。「驚かせないでくださいよ。いって~。」武中が尻を手でさすりながら立ち上がると武琉は「だって、後ろを振り向いたら誰もいなかったから。あれ、もしかしてどっかで逸れたのかな?って思って、探しに行こうとしたんだ。」と説明した。その説明を聞いて武中は気付いた。そういえば、武琉は道中一度も後ろを振り向いていなかった。
「ていうか、牧田さんって歩くの速すぎません?ダチョウを追いかけてるのかと思いましたよ。」「いや、いつも通りだよ。」武中は思い出したように聞いた。
「そういえば、牧田さんの家ってどこなんですか?」武琉は驚いたように「ここだけど。」と後ろを指さした。
「あ、ここですか。」驚く武中をよそに
武琉はさっさと家の中に入って行った。
しかしすぐに玄関から顔だけ出して「家に入る前に花粉を落とせよ。」と釘を刺した。わかってますと言わんばかりに武中はバックからウェットティッシュを取り出すと、身に纏っている衣類を丁寧に拭き始めた。武中の行動に唖然としている様子の武琉に気付いた武中は「服を叩いて花粉を落とすよりも、ウェットティッシュで拭き取った方が症状を抑えられるんですよ。叩いたら花粉が舞ってそれを吸い込んでしまうじゃないですか。
でも、ウェットティッシュなら拭き取るだけなので舞うことがないんです。」
なるほど~と武琉は感嘆の声を上げた。
「そういえば、牧田さんって花粉症をお持ちでしたっけ?確か、舞華さんも花粉症を持ってなかったような気がするんですけど。」疑問に思った武中は聞いた。
「俺も、舞華も花粉症ではない。でもうちの息子が京介が花粉症だったから。その名残りだな。」
家に入ると玄関口の近くで空気清浄機が
ウィーンと声を上げながら呼吸をしていた。「お邪魔します。」武中は靴を脱ぐと武琉の先導のもと洗面所に向かい、手を洗った。蛇口から出てくる水には4月になってもまだ冷たさが残っていた。
リビングには舞華と美奈がスタンバイしている。やがてガチャっとドアが開き、武琉が入ってきた。後ろには武中の姿もある。
「武中くん。いらっしゃい。適当に座っておいて。」舞華は急須のお茶を来客用の湯呑みに入れながら言った。
「失礼します。」武中はダイニングテーブルの椅子に腰掛けた。舞華が人数分のお茶を湯呑みに乗せて運んできた。
全員分配り終えると舞華も席に着いた。
美奈の横に武琉。その対面に武中。その間に舞華が。というような位置関係になった。武中は「それでは、まず自己紹介をしてもよろしいでしょうか。初詣のときにお会いしてますけど、自分の口から挨拶することはなかったので、改めて。」
舞華はどうぞと手振りで示した。
「えぇ、改めましてこんにちは。武中颯太と申します。」武琉は小声で「武中って下の名前は颯太っていうんだ。初めて知った~。」と驚きの声を上げている。
親しくしている同僚のフルネームがわからないことはどうかと思うが、武中はそれには気づかずにそのまま続ける。
「武琉さんと舞華さんとは会社の先輩後輩という関係で親しくさせてもらってます。それと、すでにお聞きになってるかと思いますが、社会科の教員免許を持っておりますのでお気軽に質問をしていただければと思います。
最後に京介くんの意思を継いで美奈さんを合格まで導くことができるように精一杯サポートして参りますので、何卒よろしくお願いします。」
「こちらこそよろしくお願いします。」
「あ、それじゃあわたしの方からも自己紹介します。」美奈はそういうと自己紹介を始めた。「牧田美奈です。高校3年生です。最近まで兄の京介に勉強を教えてもらいながら志望校を目指していました。兄が亡くなってからは基本的には1人でやっています。国語は先生がいますけど。これから何卒宜しくお願いします。」
「それでは、そろそろ今後のことについてお話しさせていただきます。」
武中は3人の顔をぐるっと見回しながら続けた。
「まず、授業ではないですけど、手伝いみたいなものはリモートで行いたいなと思っております。理由は、主に2つあります。一つ目は毎度牧田さんのお宅にお伺いすると移動時間がもったいないからです。僕の自宅からここまででかかった時間が1時間です。毎回これくらいの時間を移動に要した場合、たとえば週2で7ヶ月行うとします。すると、合計の移動時間は56時間。これは、2日と8時間に相当します。つまり、それだけの時間を有意義に活用するためにはリモートで行うことが最も手っ取り早いのです。
 2つ目は、気象条件に左右されることがないからです。たとえば、台風が近づいている。猛烈な暑さで外を出歩くことが難しい。大雨が降っている。など、現在の日本。まぁ日本に限らず世界各国でこれらのような異常気象が起こっています。そのため、いつこれらのようなことが起こるかわかりません。その都度、行けないから『今日は中止』などの判断をしていたら、その中止している時間がもったいないです。
以上のことからリモートで行いたいと思っています。」
「んん~。それもそうか。じゃあ、武中の意見を採用してみるか。」武琉は少し思案した後家族代表として答えを出した。「そうね。それがいいかもね。時間は多くて損はないし。」舞華が武琉の意見に賛同し、美奈も頷くことで賛成の意思を示した。しかし、発案者の武中は驚いたような表情を見せている。
「どうかしたか?」なぜそのような表情をしているのかわからなかった武琉は聞いた。「いや、個人的には少しは反論の意見が出るのかなと思っていたので、意外とすんなりとことが進んでいることが意外でつい。」
武中は改めて3人に聞いた。
「それじゃあ、そういうことでいいんですね?」武中は3人に最終確認をして3人はそれぞれ頷いた。
すると武中はカバンからクリアファイルを出すと、綴じていた紙を武琉と美奈の前に置いた。2人がそこに書かれていた文言を読んだ。そこには『契約書』と書かれていた。なるほどと思った武琉は「おまえはどこまで真面目なんだ?」
と揶揄った。
「まぁ、一応僕は契約してから本格的に動こうかなと思っていますので。金銭は関係ないですけど、ビジネスのつもりでやりますから。」
武中は話を戻して「それでは、確認させていただきます。形態としては基本はリモートで行う。」そこまではビジネスマンっぽかったのだが、急に言葉を止め
「やべぇ、やっちまった。」と誰にも気づかれないくらいの大きさで呟いた。
「すみません。一点、ご相談すべき内容を忘れていました。週に何回実施するのか。それを決めていませんでした。個人的にはお試し期間というような形で週に1回1時間を1ヶ月程度やらせていただきまして、その後本格的に活動させていただくというような風にしていきたいと思っています。もちろん僕の案を無視していただいても構いません。」
美奈と武琉は顔を見合わせ、舞華は2人の間に入るように身を乗り出しながら話し合いをした。「わたしは週に1回でいいと思う。」「わたしもそれでいいと思う。」舞華と美奈は武中の意見にそのまま賛成した。一方の武琉は、「本音を言うと、土日祝日とかの休みの日で週2日にしたほうがいいと思う。プロに教わる機会は多い方がいいだろ。」と別の案を提示した。その意見にはすぐに舞華が食らいつき、「武中くんの休みがなくなるじゃない。せっかくの休みを美奈のために使ってくれるっていうことなんだから
なるべく少ない方がいいと思うな。」
「わたしもそう思う。」美奈は舞華の意見に頷いた。完全に味方がいなくなった武琉も一度は自分の意見を通すために孤軍奮闘を試みたが、すぐに無理だと判断し、自分の意見を捨てた。
「ということで、週に1回でお願いします。」舞華が武中に結論を伝えると「わかりました。それでは、こちらの契約書にお名前と印鑑をお願いします。」と契約書を手で示しながら言った。
美奈は言われた箇所に『牧田美奈』と書き、その下の欄に武琉が「牧田武琉」と書いた。舞華は、2人が名前を書いている間に印鑑を取りに行き、美奈に手渡しすと言った。「この契約書の対象は美奈だから、美奈が印鑑を押して。」
美奈はわかったと舞華から印鑑を受け取ると1つ息を吐いてから朱肉に印鑑をつけると契約書にポンと押した。独特な字体で彫られた牧田という文字が赤く紙に写った。
武琉は契約書を武中に差し出すと武中はパッと内容を確認してから「契約書を受領しました。」とクリアファイルに契約書をしまいながら報告した。
「それでは、僕はこれで失礼します。」そう言って立ちあがろうとした武中を舞華が止めた。「もうこんな時間だし、お昼ごはんは食べて行かない?」と。
「僕は今日は、概要をお話しさせていただくためにお邪魔させていただいたので、すみませんその点に関してはお断りさせていただきます。」
「でもせっかくだから。」と両者共に妥協する気配がない。そのことを察した武琉が口を挟んだ。
「武中。こういう時は誘いに乗るんだよ。仮にこれが取引相手からの誘いでそれを断ったら今後の仕事に支障が出るだろ?舞華の場合はお互いの立場は違うけど、一緒だ。だから、誘いに乗れ。」
武琉の口から発せられる言葉は少し説教のように聞こえる。しかし、武琉の表情を見るといつにも増して笑顔だ。
武中は今自分が怒られているのかそうではないのかわからないが、武琉の言うことは最もであると判断した。
「わかりました。それではお言葉に甘えて。」舞華は嬉しそうにキッチンへ向かった。すると「ちなみに何を作られるのでしょうか?」武中が言った。
「今日は、美奈が好きなトマトパスタよ。」舞華が答えると武中はさらに聞いた。「それに生のトマトは入っていますか?」質問の意図が分からず舞華は困惑した。武琉は少し笑いながら「なんだ?武中。おまえもしかしてトマトが嫌いなのか?」と揶揄った。
「違います。むしろ好きです。でも、この時期はトマトを食べるのを避けてるんです。」なぜ?と聞いた武琉に武中はこう答えた。「花粉症のシーズンにトマトを食べるとアレルギーを起こすんです。」どういうこと?とさらに追求する武琉に武中は答えた。
「トマトの物質的な構造が花粉のアレルゲンと似ていて、免疫がそれに反応してしまうんです。まぁ殆どの人は問題なしなんですけど、僕はそれで一回口元が痒くなったので、避けることにしたんです。」武中の説明を聞いて美奈が何かを思い出した。「そういえば、お兄ちゃんもこの時期にトマトを食べるのを嫌がっていた気がする。理由はそれと一緒かはわからないけど。」
武中はそうだったんですね。と頷いた。


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