風と階段

伊藤龍太郎

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京介がこの世を去って数日が経ち、葬式が執り行われた。式には、遺族の他に
山根や京介の友人たちが参列した。
「お忙しい中、参列してくださり、本当にありがとうございます。息子も喜んでいると思います。」舞華と武琉は参列者にあいさつをしてまわった。
美奈はまだ京介の死を受け入れることができずにいた。

お葬式が執り行われた次の日、舞華と武琉、明美、そして美奈は依然として京介の死を受け止められていない。その時、ピンポーンとインターホンが鳴った。舞華が玄関先に出ると斎藤が立っていた。「突然訪ねてしまい申し訳ありません。この度は京介さんが生前私に託した遺品をお渡しすべく参りました。」すると斎藤は持っていた袋から一冊のノートを取り出した。表紙には「日記帳」と書かれている。それは京介がこの世を去るまでつけていた日記帳だった。それを舞華に渡すと斎藤はこう続けた。「京介さんはこの日記帳を書いている最中に私にこのようなことを話したんです。『家族に会う機会が少ないので、せめて自分の思いとか感じたことを文字にして伝えたい。』と。ぜひ受け取ってあげてください。京介さんの思いを。」
舞華は日記帳をペラペラと1ページずつ捲り丁寧に書かれている文章を読み、自分の口から語ることのできなかった思いを真摯に受け止めた。舞華は日記帳を読み進めるにつれて込み上げる涙を堪え切れずにただ「ごめんなさい。」と謝った。斎藤はそんな様子の舞華をじっと見守るしか術がなかった。
玄関で何かを読んでいる舞華のことが気になって美奈が玄関先に出てきた。
舞華は無言で美奈に日記帳を渡した。
美奈は舞華と同様にペラペラと捲った。
すると一枚のノートの紙がヒラヒラと落ちた。美奈はそれを拾い上げるとそこに書いてあった文章を読んだ。『最後に、美奈。もし、勉強するためのモチベーションがなくなりそうになったら、なぜ自分は立澤大学に行きたいのか。それを思い出せ!美奈の努力が身を結ぶことを願っています。
美奈!今までありがとう!最後まで諦めずにガンバレ!』決してキレイとは言えない字だが、その一文字一文字に京介の強い思いがこもっていた。
「京介さんは入院中もずっとあなたのことを気にかけていらっしゃいました。
何がなんでも妹を合格まで導くんだ。と
常に最善の策を病床で考えていました。」美奈は斎藤から京介が入院中も自分のことを考えてくれていたことを知り、京介の優しい笑みと握りしめた冷たくなっていく京介の手の最期の温もりを思い出して涙が止まらなかった。
「それでは、わたしはこの辺りで失礼します。」斎藤は舞華と美奈に向かって一礼をした。
帰路についた斎藤を外に出て舞華と美奈は見送った。

家に帰ると、美奈は舞華に「武中さんに連絡して欲しいの。」と打診した。
「どうして?」「半年くらい前に武中さんの提案を断ったでしょ?あのあと、お兄ちゃんと話したの。その時『武中さんに頼らなければいけない時が来るかもしれない。』みたいなことを言ってたの。
つまり、お兄ちゃんは自分の身に万が一のことがあることを見越して、武中さんの提案を完全に忘れてはいけないってことをわたしに伝えたかったんだと思う。」
しかし、2人の反応は微妙だった。
「美奈の受験まで時間がないことを考えると、それをした方がいいとは思うけど、京介はそういう意味で言ったのかなぁ?」
「そもそも、京介がそんなことを言ったっていう確証がないから、なんとも言えない。少し、時間をくれないか?本当に京介がそんなことを言ったのか考えたいんだ。」「わたしはもう高校三年生なの。あと、受験まで10ヶ月もないんだよ?そんな悠長に構えている暇はないの。お父さんはそんなこと言ってるけど、ほんとはまだ心の整理がついてないから待って欲しいんじゃないの?素直に言ったらどうなの?『まだ心の整理がついてないから待ってください。』って。」美奈が武琉に集中攻撃をしているとき、「いい加減にしなさい!」舞華の怒号がリビングを一気に静めた。
美奈が我に返って舞華の方を見ると、舞華は必死で涙を堪えていたが、怒りの色が滲んでいる。「美奈!お父さんの気持ちを考えて!京介がいなくなってわたしもお父さんも悲しいし、心の整理がついてない。あなただってそうでしょ?」
言いたいことを言った舞華は自分の気持ちを静めながら、懸命に今できる精一杯の優しいトーンで言った。
「じゃあ、せめて、もう少し後にしてくれない?例えば来月からとか。」
「来月って、少し遅いと思います。」
舞華に怒られてから、言葉を慎むようになった美奈はシュンと萎縮しながらこたえた。
圧倒的に不利になっている美奈を見て武琉もこの会話に参戦した。
「じゃあ、1週間でいい。来週まで待ってくれ。俺たちもまだ心の整理がついてないんだ。頼む。それに、武中の予定もあるし。」
言われてみればそうか。まだ京介がこの世を去ってから1週間も経っていない。
普通なら、1週間経っても心の傷は癒えないところを1週間だけでいいと言ってくれているのだ。第一に武中さんにだって予定がある。自分のわがままを出来る限り聞いてくれている2人に申し訳ないと感じている美奈は自分も2人の希望に応えようと答えた。
「わかった。1週間は自学自習でなんとかする。」
美奈はとにかく一歩でも『合格』に近づけるように頭を切り替えて勉強に向かおうとした。部屋に入って机の上に問題集を開いた。最初のうちこそ集中できたが、時間が経つにつれ、いつまでも静かな部屋に違和感を感じ始めた。その時に改めて自分が敬愛する兄がもういないのだということを痛感した。
完全に集中力が切れてしまった美奈は一旦席を外して部屋を出た。
美奈が向かったさきは京介の部屋だった。部屋に入るともちろん誰もいない。
机の上を見ると持ち主がいなくなった
シャーペンや消しゴムなどの文房具が寂しそうに置かれていた。
それらを美奈は掴んでじっと眺めていた。そのとき後ろから美奈と名前を呼ばれた。振り返ると舞華と武琉がいた。
「何してるの?」「お兄ちゃんの部屋に入ったことがなかったから。入ってみようかなと思って。お母さんとお父さんこそなんでいるの?」
「京介の遺品整理をしようと思ってな。
その方が京介との別れもちゃんとできて
心の整理もできると思うから。」
武琉が理由を言った。
美奈は驚いた。確かに遺品整理をする必要はあるとは思っていたが、こんなに早く取り掛かるとは思っていなかったのだ。
舞華は徐に京介の本棚に近づくと1冊の教科書を取り出した。それは高校生時代に京介が使っていた世界史の教科書だった。教科書はボロボロになっていて背表紙の『世界史B』という文字は完全に薄くなってしまっている。京介は大学受験の時、世界史を選択した。そのため、何度も教科書を読んでは問題演習をする。この繰り返しだった。
するとその教科書を見ながら舞華が美奈に向けて語り始めた。「わたしね。1年ぐらい前に京介に聞いたの。なんで高校の時の教科書を捨てないの?って。そしたら京介はこう言った。『美奈にこれくらい勉強しないと立澤大学には受からないことを教えるためだ』って。
美奈。自分の教科書と京介の教科書を見比べてみて。おそらく美奈の教科書は京介のものと比べたら新品の部類に入ると思う。つまり、美奈もこれくらいボロボロにしようっていうくらいの意気込みでいかなきゃ。」
舞華は美奈に持っていた教科書を渡した。
その後も舞華と武琉はそれぞれ京介の部屋の片付けを進めていった。すると舞華が本棚の下の方に一枚の紙が落ちていた。拾い上げてみると手紙のようなものだった。舞華は面をクルッと裏返すとそこには『受験を間近に控えた美奈へ』と書いてあった。
これはまだ美奈に見られてはいけない物だとすぐに判断した舞華はサッと京介の雑貨入れに紛れさせると美奈が物色しないうちに舞華は雑貨入れを持って退出した。誰もいないことを確認した舞華は
中身を確認することなく、自分のタンスの空いていたスペースに入れた。
舞華が再び部屋に戻ると美奈が机の方を見ているのに気がついた。
「美奈。どうかした?」美奈は机の上に置いてあったペンを手に取ると「このペン、もらっていい?」と打診した。
舞華はなぜ?と思った。ペンがほしいのなら京介が使ったものよりも新品の方が断然いいだろうになぜ美奈は京介のペンを欲しがるのだろうか。舞華は理由を聞いた。すると美奈はペンを見ながらこう答えた。
「わたしは今までお兄ちゃんと一緒に一歩ずつ合格に向けて頑張ってきた。お兄ちゃんがいなくなってわたしはすごく心細いの。まぁ結構バチバチした時もあったけど、」そこまでいうと顔を上げて舞華を見ながら続けた。「でもやっぱりお兄ちゃんにはそばにいてほしい。実際にはそばにいないけど、お兄ちゃんの形見を持っているとずっとそばにいてくれている。わたしと一緒に戦ってくれてるってそう思える気がするの。」
舞華は反対する理由がなかった。そもそも最初から反対する権利など自分には無いと思っていた。
「わかった。京介と引き続き頑張ってね。」
一通り仕分けをした舞華は武琉とともに退出しようとしたが、ひとつ言い忘れてた。と、美奈を見てから言った。「さっき、武中さんに連絡したら、こう返ってきた。『次の土曜日にお伺いします。』って。」

自分の部屋に戻った美奈は、舞華から渡された京介の世界史の教科書と自分の世界史の教科書を見比べた。
そのボロボロ加減は遠くから誰が見ても
、違いがはっきりわかるほど明確なものだった。
「まだまだ、こんなもんじゃ到底無理ってことか。」美奈もそうであることは分かっていたが、舞華に言われて合格者との違いを視覚化されてしまうと、自分の努力の足りなさが浮き彫りになってしまって嫌になってくる。
しかし、やらなければ受からない。京介との約束を果たさないわけにはいかない。そう自分に言い聞かせると美奈は京介の世界史の教科書を自分がいつでも見られるように本棚の1番上の段に、舞華からもらった京介が使っていたペンを自分の机の引き出しにしまうと、再び勉強を再開した。
すると、思い立ったようにスマホを開き
奈津美に連絡した。『しばらく学校に行けそうにないからノートを見せて欲しい』と。
既に忌引き休暇の期間は過ぎているのだが、心の傷が癒えず学校に行くための気力が出ないのだ。

しかし、いくら待っても奈津美からの返事はない。そこで優佳にも同様の連絡をした。すると優佳からはすぐに返信がきた。「ok!」美奈は奈津美からの返信が来ないことを優佳に話した。すると「次に学校に来た時にゆっくり話そう。あ、でも無理しなくていいからね。」と返ってきた。「ありがとう。」美奈はそう返信すると、もう一度ギアを入れ直して勉強を再開した。
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