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1巻
1-3
しおりを挟む「今日は、ありがとう」
美術館を出て、城下町の通りを宿舎へと歩きながら、ルナはケヴィンにお礼を言う。
「楽しかったか……?」
「うん」
立ち止まり、少し不安そうに聞くケヴィンにルナが笑って頷くと、彼はホッと息を吐いた。
「そうか」
ルナの笑顔にケヴィンは頬を緩め、彼女の頭を撫でた。大きな手に撫でられるとくすぐったい。男性にこんな風にされることなんて、今までなかったから……
それから彼の手は、ルナの頬に下りて、ゆっくり指の背で頬骨の辺りをなぞる。
「ふふ……ケヴィン、くすぐったい」
ルナが首を竦めてケヴィンを見上げると、とても真剣な彼の表情が視界に入った。
「ケヴィン……?」
ルナが問うように彼の名を呼べば、ケヴィンは手を彼女の顎へ滑らせ、持ち上げる。だんだんと近づいてくるケヴィンの顔――
ルナは慌てて足を引いた。
「え、ま、待って! な、何……?」
「何って……この状況で聞くなよ……わかるだろ?」
至近距離でケヴィンが低い声を出す。色香を含んだそれに、ルナの身体がふるっと震えた。
「わ、わかるから……待ってって……」
キスをするのだということくらい、経験がなくとも雰囲気でわかる。だからこそ、ルナは後ずさっているのだ。
「なんで? 俺達、恋人だろ?」
じりじりと二人の距離が詰まっていく。今は幸いにも人通りはないが、人が見たら、この妙な動きを訝しく思うに違いない。
「や、そ、そうだけど……でも、それは……っ! あの、それに、初めてだから、こ、心の準備が……」
慌てすぎて、ルナは自分でも何を言っているのか、半分くらいしか理解できなかった。恋人は恋人でも、偽りの関係なのだし、キスは必要ないと言えばいいだけだ。なのに、混乱したルナの唇から漏れたのは、ファーストキスだからという陳腐な言い訳だった。
しかし、初めてだと言った瞬間、ケヴィンの瞳の奥が揺らいで炎が見えた――ルナは思わず惹き込まれそうになる。
それを知ってか知らずか、ケヴィンはルナの腰を力強く引き寄せた。
「初めてなら尚更……俺がもらう」
「ケヴィ――っ!」
ふわりと……強引な腕とは違って、柔らかく重なった唇。ルナは目を見開いてそれを受け入れる。
少し乾いた唇。けれど、長いキスの間に、じんわりと温かさが伝わってきた。ルナは息を止めたまま動けずにいる。
やがて、ぬるっとした感触が唇を這い、ルナはびっくりして声を上げてしまった。その隙に、今度は強く押し付けられた唇に自分のそれを塞がれる。そして、口内に入ってくる温かなもの――
「んん! ん……っ」
それをケヴィンの舌だとルナが理解する頃には、彼は彼女の後頭部を抱え込み、キスを深めていた。
温かくてざらついた舌が、ルナの舌を探り、擦り合せる。彼女は驚きに舌を引っ込めたが、歯列や上顎を舐められて、身体を震わせた。
ルナは息の仕方がわからず、ただ苦しさから解放されたいという本能的な欲求でもっと唇を開く。だが、空気を取り込めたのは僅かで、すぐにケヴィンの舌の動きに翻弄されて頭が痺れた。
「ふぅ……ん」
鼻にかかった声と、荒くなる息遣い。ギュッと目を瞑ると、ケヴィンの吐息と舌を更に近くで感じる。
やがて、ちゅっと音を立ててケヴィンの唇が離れた。彼のシャツを握り、ルナは思わずぼんやりしてしまう。そんな彼女の頬を、ケヴィンが唇でそっとなぞった。再びルナの身体が震える。
「あ……ケヴィン、やだ……」
自分の反応が恥ずかしくて顔を背けようとすると、頬に手が添えられて顔の向きを戻された。
「可愛い……」
反対側の頬にも口付けられる。それと同時に掠れた声で落とされた言葉は、ルナの心臓を大きく跳ねさせた。
「もう一回したい。今度は、舌出せ」
「え、んぅ……ふっ」
ルナの返事を待たず、ケヴィンは再び唇を重ねる。しっとりと濡れた唇が、官能的な音を立てた。
ルナの舌を追って動く、生き物のようなケヴィンのそれ。ルナはどうしていいかわからず、彼にされるがままだ。
彼の舌がルナの口内に触れる度に、ぞくぞくと知らない感覚が背を伝う。嫌悪感とも恐怖とも違う、未知の痺れ。
くちゅりと立つ水音が、いやらしいものだということくらいしか、今の彼女には判断できなくて……
――どうしてだろう。
確かに二人は恋人という関係だけれど、それは偽りのものだ。だから、ルナは彼のこの行為を拒絶しなければいけないのに、抵抗できない。
「ケヴィ……苦し――は、あっ」
とにかく苦しくて、ルナはケヴィンの胸を弱々しく叩く。ケヴィンも呼吸を荒くしているのに、ルナを離してくれない。
それどころか、ルナの腰を抱えていたはずの手が、いつのまにか彼女の身体をなぞり始めている。
「ンっ……んんっ!」
ルナは彼の腕を掴んで止めようとするが、全く効果がない。
キスは激しさを増し、呑み込めない唾液が唇の端から零れ落ちる。はしたない……そう思うのに、与えられる淫らな感覚と熱に、浮かされてしまう自分がいる。
ケヴィンの手は、ルナの腰の辺りをゆらゆらと行き来していたが、だんだんと上がってきて、二人の身体の間に滑り込む。
そして、ルナの胸の膨らみを撫でたと思うと、彼の指先に力が入った。ケヴィンの手がはっきりとした意思を持って、彼女の胸を揉む。
「――やっ!」
ルナはありったけの力を込めてケヴィンの身体を押した。彼は強い抵抗に驚いたのか、二人の身体が離れる。
ルナは反動でよろめいたものの、なんとか足を踏ん張って身体を支えた。
頬が熱い。きっと、真っ赤になっている。
それなのに、唇は今まで重なっていた熱がなくなったことで、冷たさすら覚える。そのことがどうしようもなく羞恥を煽り、ルナは手の甲で唇を拭った。
「ご、ごめんなさい!」
なぜ謝ったのかと聞かれたら、自分でもわからない。ルナは心を羞恥心で掻き乱され、ケヴィンの顔をまともに見ることができなかった。
ルナは考える暇もなく身体を翻し、宿舎へ向かって走り出す。
「お、おい! ルナ!」
ケヴィンの声が背に届いたけれど、ルナに振り返る余裕などない。
彼が追いかけてきたら、きっとすぐに捕まるだろうが、幸い足音はついてこない。
心臓がおかしいほどに高鳴っている。それが、たった今経験したキスのせいだと思うと、消えてしまいたいくらい恥ずかしい。ルナは、鼓動が乱れているのは走っているためだと自分に言い聞かせながら宿舎へ駆け込んだ。
***
ペタリと赤色をキャンバスに乗せる。すると、真っ赤なそれは、だんだんと乾いていく。
昨日の、ケヴィンの乾いていた唇は、この色のように赤くて熱かった。ルナの唇と重なって潤いを増し、甘美な音を立てるそれを濡らしていたのは、二人の――
(わああああああ! 違う!)
ブンブンと勢い良く首を横に振り、ルナはキャンバスの赤の上から青を塗りたくった。
ケヴィンとのデートの翌日、つまり、あの刺激的すぎたファーストキスを経験して一日が経った。昨晩からずっと、恥ずかしい場面が何度も脳内で再生されて寝不足な上に、授業に集中できない。
「ルナ、大丈夫?」
隣に座っていたイルマが、心配そうに話しかけてくる。
「だ、大丈夫……ちょっと、考え事。それより、今日は何かあるのかな? 先生たち忙しそうね」
いつもなら、この時間は美術史の講義だ。しかし、教師が急用で出られないということで、それぞれ課題作品を描く時間に当てていいことになった。
絵を描く時間は、いつもなら皆集中しているため、話し声が聞こえることは滅多にない。それが、今日は隣の生徒とこそこそ話す者が多く見受けられる。
しかも、教師が来ていないのは、ルナたちの教室だけではないようだ。先ほどから廊下を行き来する生徒を何度か見ている。
「ルナ、知らないの? 休みの間に、学校に保管してあった卒業生の作品がまたなくなったらしいわ。朝から大騒ぎよ」
「そうなの? それって、かなり深刻なんじゃ……」
「先生は皆、対応と対策にてんてこ舞い。うちで保管している作品は、過去のコンクールの最優秀作品だし、描いた卒業生は、今じゃ有名な画家ばっかりだから」
イルマはそこでため息をついて、自分のキャンバスを見た。
「コンクールに作品を出す生徒は皆、不安になっているわ。美術館で起こった盗難事件で被害に遭ったのも、うちの生徒のものだったでしょう?」
「そうだよね……」
コンクールで賞を取ったら作品が盗まれてしまうなど、縁起が悪いとしか言いようがない。皆、自分の渾身の一作を提出するのだから、彼らの心配も当然のことだ。
コンクールに出す作品のイメージすら出来ていないルナには、遠い話のように思えたけれど。
「でも、この学校の生徒の作品ばかり狙われるって……まさか犯人もこの学校の生徒なんてこと……」
「……そう考えるのが自然でしょうね。だから軍の人たちも出入りをしているのでしょうし」
ルナは「違う」という答えを期待して呟いたのだけれど、イルマは淡々とそれを肯定した。
「これだけ先生が長く席を外すってことは、今日も軍の人たちが来ているはずよ」
不謹慎だとはわかっているが、ルナは違う意味でドキッとしてしまう。
ケヴィンは美術品盗難事件の担当だったはずだ。彼が学校にいるとしたら、鉢合わせる可能性が高くなる。しかし、昨日の今日で顔を合わせる自信がない。
「ルナの彼も来てるの?」
「え……どうかな」
イルマの質問に曖昧に笑い返し、ルナはキャンバスに視線を戻す。ぐちゃぐちゃになってしまった絵は、描き直しだ。
「ルナも、次のコンクールに出すのでしょう? 早く解決するといいわね」
「うん……」
今の状態では、最優秀賞どころか、コンクールに間に合うかすらわからない。イルマの気遣いがチクリと心に刺さったけれど、ルナはもう一度首を横に振り、邪念を払った。
結局、その日は教師が不在のまま授業が終わってしまった。授業がなかったため、一日を自分の絵に費やせたはずなのに、ルナの手元にあるのは、描き直しになった絵と真っ白なキャンバスだけ。
教室に一人残って片付けをしながら、ルナはケヴィンを恨めしく思っていた。
恋をすると芸術家は変わると言ったのは彼だ。ルナにとって、ケヴィンとの関係のメリットは、絵が描けるようになること。しかし、あんなに恥ずかしいキスまでしたのに、芸術の神様は降りてこないではないか。
「嘘つき!」
ガン、と音を立ててカバンを机に置く。
流されるまま彼の提案に乗ったのはルナだ。美術館巡りという絶好の機会に釣られて、デートにうきうきしていたのも事実だし、キスだってちゃんと拒めなかった。
恋をすると変わるなんて安易だと思いつつも、全く期待していなかったのかと言うとそうでもない。その上、あれだけ濃厚なファーストキスだったのだ。それなりの見返りがあってもいいはず……!
そんなことを考えるルナは鼻息荒く、筆やエプロンをカバンにしまった。いつもなら丁寧に畳むエプロンも、くしゃくしゃと丸めて詰め込む。
本当にケヴィンのせいだと思っているわけではないが、何かに八つ当たりしないとやっていられない。
「誰が嘘つきなんだ?」
「きゃっ!」
突然、教室に入ってきたのは、ルナが嘘つきと責めた張本人だ。
「な……ケヴィン? 急に入ってきたらびっくりするじゃない」
「いや、声はかけたんだが……叫んでいたの、廊下まで聞こえてたぞ」
ケヴィンは怪訝そうに眉根を寄せ、ルナのもとへ歩み寄ってきた。ルナは居心地が悪くて、カバンの取っ手を握って後ずさる。
「なんで逃げるんだよ」
「に、逃げてるわけじゃ……あの、だって……」
またキスをされるかもしれない、とは言えず、口籠ってしまう。ようやく薄れつつあった記憶が戻ってきて、頬が熱くなっていく。
いや、そもそも「また」なんて考えるのは自意識過剰かもしれない。
ルナがもごもご言いながら目線を落としたところ、ケヴィンがぽつりと呟いた。
「嫌……だったのか?」
「え?」
「だから……キス。嫌だったのか? 昨日もお前、逃げ帰ったし」
ルナが視線を上げると、ケヴィンがばつが悪そうに顔を背けて髪を弄っていた。
「い、嫌っていうか……」
嫌だったかと言われると、そうではないのだ。自分でもわからない感覚や気持ちに戸惑ってしまっているだけで。ただ、わかっているのは――
「恥ずかしかったの……」
そう口にすれば、更に恥ずかしさが増した。ルナは真っ赤に染まっているだろう顔を隠すため、カバンを顔の前まで持ち上げる。
「そう……か」
ケヴィンの表情は見えないが、彼が息を吐き出したのは聞こえた。
「今日はしないから……来い。宿舎まで送ってやる」
「え、でも……仕事は?」
恐る恐るカバンから顔を出すルナに、ケヴィンは、はぁっとため息を吐いて手を差し出す。
「仕事は終わった。ほら、行くぞ」
「うん……」
ルナは頷き、差し出された手に自分のそれを重ねた。ケヴィンが驚いた顔をして、彼女をじっと見つめる。
「え、何?」
「お前……本当に、わからないやつだな……」
ケヴィンはくしゃりと前髪を握ってから、長く息を吐き出した。それからルナのカバンを引ったくるようにして取り上げ、さっさと歩き始めてしまう。その際、彼はなんとも言えない顔で彼女を振り返った。
ルナには、ケヴィンの行動の理由はわからなかったが、彼に手を引かれて慌てて足を動かした。
「ケヴィン。私、何か変なことした?」
「……何も」
やけに恨めしそうな視線を寄越した彼に聞く。だが、ケヴィンは呆れた顔で首を横に振った。
「それより、絵の方はどうなんだ? さっきの様子じゃ、描けてないみたいだけど」
「うん……コンクールの作品のテーマで、まだ迷ってて」
あれからも考え続けていたが、ルナが描きたいのは、やっぱりフラメ王国の炎なのだ。一年間、異国の地で過ごして感じたことを残したい。しかし、炎と一口に言っても、燃え盛る大きな炎や蝋燭の灯火のように小さな炎、赤い炎、青い炎……色々とある。ルナには具体的にどんな炎を描きたいのか、イメージがない。だから、色も定まらない。
「あんまり考えすぎるなよ」
「それは、わかってるけど……コンクールはもうすぐだし、全然描けないし、どうしたらいいのかわからないの」
今までこんなことはなかった。絵を描けば周りから褒められて、両親も喜んでくれて……ルナは満たされていた。
ルナが弱音を吐くと、ケヴィンが彼女の手をぎゅっと強く握る。
「プレッシャーを感じてるのか」
プレッシャー――そうかもしれない。きっと、ルナが感じている今の気持ちは、快く彼女を外国へ送り出してくれた両親への後ろめたさだ。
こんな風に自信を失くして、絵を描けなくなってしまった。彼らの期待に応えられないまま帰ることになるのが情けない。
「自分の理想に追いつけない。でも、焦れば焦るほど、更にどうしようもなくなる」
ケヴィンはそう言うと、苦笑いをした。
「そんなこと、お前だってわかってるよな。悪い、説教みたいなこと言った」
「ケヴィンも、そういう風になったことがあるの?」
自分の気持ちを代弁した彼に、ルナが問う。
「俺は――」
ケヴィンはそこで言葉を切った。彼はしばらく思案するように黙ったままで、二人の歩く足音だけが響く。
ルナは、軽々しく聞いてしまったことを後悔した。誰にだって言いたくないことはある。ルナは、ケヴィンが自分の気持ちをわかってくれることを嬉しいと思ったけれど、彼もそうとは限らない。
「い、言いたくなかったら――」
しかし、ケヴィンは沈黙を破った。
「盗難事件を担当してるって言っただろ?」
「え……あ、う、うん」
「それ、俺の昇格試験を兼ねた任務なんだ」
驚きつつ、じんわりこみ上げてきた温かい気持ち――ケヴィンが彼自身について話そうとしてくれることが嬉しい。
そういえば、彼は自己紹介をしてくれたときに「少尉候補」だと言っていた。
「自信がないわけじゃない。だけど、やっぱりプレッシャーはあるし、お前が感じてる気持ちに近いと思う。だから……お互い、その……」
ケヴィンは黒髪をくしゃりと握って、はぁっとため息をつく。最後の言葉はよく聞こえなかったが、ルナには十分彼の励ましが響いた。
――お互いに頑張ろう。
彼はきっと、そう言いたいのだ。
「うん……ありがとう」
ルナがお礼を言うと、ケヴィンは咳払いをした。それがおかしくて、彼女は彼に聞こえないように小さく笑う。
少しずつだけれど、彼の性格がわかってきた気がする。彼はルナを気遣う優しさを持った人だ。照れ隠しに髪を弄ったり、咳払いをしたりする部分は、ちょっと可愛げがある。でも、キスをしたときは……大人な男の人だと感じた。
濃厚なキスを再び思い出して、ルナの頬が染まる。
昨日は、とてもドキドキした……でも、ケヴィンはどうだったのだろう。彼は、迷いなくルナの唇に触れてきたように思えた。彼は慣れていて、なんとも思わなかったかもしれない。
彼の整った容姿に、軍人という立場は、女性の「守られたい」という気持ちを刺激しそうだ。それに、ケヴィンみたいな二十代前半くらいの青年ならば、恋愛経験があってもおかしくはない。
そう考えると、ケヴィンに励まされて嬉しい気持ちが、なぜか急に萎んでしまった。
「ほら、着いたぞ」
ケヴィンは宿舎のエントランスの前で、ルナに荷物を渡す。彼女はそれを受け取って俯いた。
「ねぇ……ケヴィンは、恋人……いるの?」
「は? 恋人はお前だろ?」
眉根を寄せて、怪訝な表情をするケヴィン。
「そ、そうじゃなくて……その、私、以外に……」
「お前以外? 何だそれ……急にどうした?」
ケヴィンはますます顔を顰める。
そんな彼に、ルナはもごもごと言葉を続けた。
「や……あ、あの、キス……慣れてたから。初めてじゃなかったのかなって。だから、他に恋人……」
「……そういうことを聞くなよ。困るだろ」
ケヴィンはルナに視線を戻し、前髪をかき上げてはぁっとため息をついた。
「っ! ご、ごめんなさい」
呆れた調子の彼の声に、ルナは慌てて謝った。答えなどわかっていたはずなのに、バカな質問をしてしまったと後悔する。
「ったく、そんな顔するなって……」
ケヴィンはそう言うと、ルナを抱き寄せる。
「俺だってもう二十二だし……キスしたことはある。でも……今の恋人はお前だ。他とか、過去のこととか、言うなよ」
「……うん。ごめんなさい」
ルナはもう一度謝って、そっとケヴィンから離れた。彼もすんなり彼女を離してくれる。
今の恋人は――その言葉が痛かった。それに、他のことは聞くなと言われたことに寂しさを感じる。ケヴィンがほんのひと欠片でも自分について話してくれて、嬉しく思ったばかりだ。だから余計に、寂しさの色がルナの心を濃く染めた。
ルナはケヴィンの仕事上の恋人で、今だけの関係だと言われた気がしたのだ。それは、ルナもわかっていたことなのに……
「変なこと聞いてごめんなさい。送ってくれてありがとう」
ルナは精一杯の笑顔をケヴィンに向けた。すると、ケヴィンは気まずそうに視線を泳がせる。
和んだ空気を台無しにした自分を心の中で叱咤して、ルナは彼に背を向けた。
「ルナ――」
ケヴィンの声に、ルナは振り向いて手を振る。
「またね。昇格試験、ケヴィンならきっとうまく行くよ!」
私も協力するから――その言葉は、なぜかルナの喉の奥に詰まって出てこなかった。自ら恋人関係を〝仮初めのもの〟だと言いたくない。
炎を描きたいと思っているルナ。今、彼女の心に浮かぶ炎は、木枯らしに吹かれて消えてしまいそうなほど、小さな、小さな灯火だった。
第二章
――もやもやする。
ルナは授業後、宿舎の庭に出て、自分の心を占領する渦巻きを一心にキャンバスに写していた。
自分はどうして、あんなことを聞いてしまったのだろう。
ケヴィンに「恋人がいるのか」と聞いてから、一週間は経つ。送り迎えをしてくれるため、ケヴィンとは毎日会うけれど……二人の間にはなんとなくぎこちない雰囲気が漂っている。
恋人とはいえ、便宜上の関係でしかないのに、プライベートを探るようなことをしたのだから、当然なのかもしれない。
「うぅ……」
キャンバスが真っ黒になってしまうほど渦巻きを描いて、それでも晴れない心。ルナは唸り声を上げてパレットを投げ出し、トサッと芝生に寝転んだ。
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