バッドラック ――ハイジャック騒ぎの中、個人的な問題に慌てふためくエコノミークラスの乗客たち――

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ハイジャック決行

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「落ち着いたか?」

 通路に挟まれながら四席が連なるエコノミー中央の列、その最後尾。四席並ぶ座席の右側二席に隣り合って座るのは、若い二人の男。通路側に座る長髪を後ろで束ねた男、兄である三浦初司みうらはつじは、短髪を金色に染めた弟の三浦育矢みうらいくやに、気遣いの声をかけていた。

「ああ……大丈夫だ。俺なら大丈夫だよ、兄貴」

 初司の気遣いに答える育矢の顔色が優れないのは、単なる飛行機酔いではない。
 それに顔色が悪いのは弟の育矢だけではない。普段の初司を知っている人物ならば、彼もまた平時とは違い緊張しているのが一目で判っただろう。

「今日がどれだけ重要な日なのか、わかってるよな?」

 念入りに言葉をかける初司は、育矢の肩にかけた手にぐっと力を込める。兄弟が揃って平常心でいられないのは、これから人生最大の大仕事が待っているからだ。
 しかし大仕事とはいっても、兄弟はハワイで新しい企業を立ち上げるビジネスマンでもなければ、カジノで一発当てようと企むギャンブラーでもない。そもそも彼らの目的は、合法的な手段ではないのだから。

「当然。兄貴こそ覚悟はできてんだろうな? その顔、まさかビビってんじゃねぇのか?」

「馬鹿言うな。俺の覚悟なら端っから決まってる。……よし、行くぞ」

 育矢に答えつつ改めて自分の覚悟を確かめ直した初司は、気合を込め直すと座席から立ち上がる。育矢を残して狭い通路を歩き出すと、もたつくのはごめんだと誰かが道を塞がないことを祈りつつ、向かうは機の最も前方に位置するコックピット。

 天界が人間の頭上にあるとすれば、上空を飛んでいる分、いくらか地上よりも願いが神様に届き易かったのか、初司は誰とも擦れ違わずに通路を一直線に通り抜けて、コックピットの目の前まで辿り着くことに成功した。けれどそこはあくまでコックピット目前、待ち受ける最後の関門、鍵のかかった扉が初司を阻み、コックピット内部にはこれ以上近づけない。

 コックピットと客席を仕切る一見簡素にも思えるその扉は、外側からではもちろん開かない。テロ対策のためにしっかりと施錠されている扉は、初司のノックくらいでは開いてくれないだろう。それでも初司は己の目的遂行のために、扉の先に進まなくてはならなかった。

 それは航空機マニアが興味本位でコックピットを覗きたいわけでも、パイロットのお仕事振りを間近で眺めて社会科見学をしたいからでもない。初司たち兄弟の目的は、ハイジャック。この旅客機を乗っ取ることにあった。

「兄貴、連れてきたぜ」

 遅れてやってきた育矢は当初の計画通り、一人の客室乗務員を連れてくる。
 育矢に口八丁で連れてこられた客室乗務員は、初司たちがハイジャックを企んでいることなどまだ知らない。能天気な女の客室乗務員は、己の業務に忠実なのか、微塵も疑うことのない眼差しで、コックピットへ繋がる扉から二人を遠ざけるべく対処する。

「あの、申し訳ございません。お客様、ここから先は一般の方は安全のため入れない決まりになっておりまして――っ!?」

 客室乗務員の名札には、真崎と書かれていた。
 職務を全うする真崎の言葉が途中で止まったのは、その胸元に着けられた名札の上から、初司が隠し持っていた拳銃の銃口を突き付けたからだ。

「これがどういうことか、例え初めての体験でも、客室乗務員のお前なら流石に理解できるよな? 本物を見たことがなくても、こいつを撃ったら人が死ぬことくらい、知っているだろう?」

 初司が手にするマカロフには、左胸に着いた名札ごと真崎の心臓を撃ち抜く威力が十分に備わっている。

「難しいことは言わないさ。お前は、俺が囁く通りに話すだけで構わない。その覗き穴に顔を近付けて、俺たちが見えないように上手く中の人間を呼び出せれば、お前は生き残れる。死ぬのはお前か? それとも……」

 引き金に指をかけ、態と銃口を名札の上から真崎の胸へと押し付けた。軟らかくとも弾力のある真崎の胸だが、押し付けられる銃口には抗えずに成すがまま受け入れる。
 初司はこの日のために用意周到に準備してきた。この拳銃がモデルガンであったり、安全装置が外れていないなんて間抜けな真似はしない。

「早く決めろよ。お前如きの判断でこの計画は狂わない。だから俺たちはどちらでも構わないんだ。要はスタートが早いか、遅いかだ」

 相手が酷く怯える女性であっても容赦はしない。
 後戻りはできない。もう既に計画は始まっているのだから。



          ◇◇



 コックピットから客席へ繋がる唯一の扉がノックされたことで、操縦席に座る二人の意識は自然とそちらへ向けられた。機体左側の席に座る機長の荒木祥文あらきしょうぶんと、その右側に座る副操縦士の横出翔よこでしょう。二人が今回この機を任されたパイロットだ。
 機長である荒木は、計器類に目を遣りながらもノックに返答する。

「何だ?」

「あ、あの……お飲み物をお持ちしました」

 扉の外から聞こえてきたのは女の声、客室乗務員のものだ。荒木は再び振り向くことなく返事をする。

「頼んでいないぞ?」

「あの、でも、指示が……」

 怯えた声にも聞こえる彼女の声から感じ取れるのは、極度の緊張。確か今日は新人が一人乗り込んでいると、出航前のブリーフィングで荒木は聞かされていた。客室乗務員の中には男性も少なからずいたが、その殆どは男よりも上下関係のシビアな女社会だ。新人の彼女も恐らく年増の怖い先輩に目くじら立てて指示でもされたのだろう。ここで機長の荒木が邪険に扱うのも、可哀相過ぎるだろうか。

「わかった、今開けさせる。横出君」

「はい」

 荒木が副操縦士の横出へ指示すると、彼はコックピット後部の扉を開けに操縦席から立ち上がる。扉の外で待っている新米客室乗務員の姿を覗き穴からチラリと確認すると、横出は何の躊躇もなく扉を開いた。
 直後、荒木の耳に入ってきたのは、扉を開く動作では聞こえるはずのない重く鈍い音。

「……どうしたんだ? 横出君?」

 荒木が異変に気付き副操縦士の名を呼ぶが、返事はない。
 異様な気配の変化を察知しつつ、後ろの様子が気になり荒木が操縦席から顔を出して振り返ると、そこに立っているはずの横出はうつ伏せで床に倒れ込み、横手の代わりに扉の前に立っていたのは、拳銃を手にした見知らぬ長髪の男だった。

「よ、横出君!?」

「……ぅ、機長、こいつらを早く外に――ぐあっ!?」

 横出は抵抗のために必死で体を起こそうとするが、上半身をやっと上げたところで、誰かもわからない長髪の男に拳銃のグリップで再び容赦なく頭部を殴られ、鈍い音のあとに横出は再び床へと崩れ落ちる。

「止めろ!」

 荒木の制止する声だけがコックピット内に虚しく響き、倒れ込んでピクリとも動かない横手は気を失ってしまったようだ。
 肩まで伸びる長髪を後ろで束ねたその男は、無遠慮にコックピットの奥へ侵入して口を開く。

「動くなよ。俺たちはご覧の通り、ただの乗客ではないんでね」

「……俺たち?」

 どうやらコックピットに侵入してくる愚か者は、拳銃を握る長髪の男だけではないらしい。その後ろでは怯える客室乗務員をコックピットの隅に投げ飛ばし、床に倒れる横出を足で転がしてスペースを作る金髪の男が、コックピットの扉と鍵を内側から閉めていた。

「もう一度言わせてもらう。動くな。……とは言ったが、これは無駄な抵抗に対する形式的な言葉だ。飛行に関する動作は、継続してもらって構わない」

 長髪の男は冷静に言って、荒木に拳銃を向ける。それは自分たちの力を誇示する行為だった。

「ハイジャックって言葉くらい、機長さんなら当然知っているよな。その行為自体はあまり身近ではないが、広く世間に知られた言葉だろう? 俺たちの目的は正しくそれだ。これが見えるか? 拳銃くらいはわかるよな。こうすれば頭を撃ち抜くにはちょうどいいと思わないか? 言っておくが、これはハッタリじゃないぞ。お前の命は、乗員乗客全ての命を背負っているにも拘らず、この引き金と同じだけ軽いんだからな」

 長髪の男は、荒木のこめかみに銃口を突き付けると、軽く押し付けて脅した。

「ふはははっ! そうビビるな、撃ちはしないさ。それに俺たちの本命は拳銃こいつじゃない。俺たちの本命は爆弾。貨物室の壁を四方にぶち抜くだけの威力を持った爆弾が、お前たちが積み込んだ荷物の中には紛れている」

 長髪の男が拳銃を握る手とは反対側の左手でポケットを漁り、取り出したのは携帯電話サイズの黒い物体。長方形のそれには短いアンテナと、数字をカウントする小さなディスプレイ、それに二つのスイッチが付いていた。

「これが遠隔起爆装置。既に爆弾は起動状態にあり、このモニターの数字は爆発までのカウントダウンだ。爆発までおよそ三時間ってところだな。従ってこいつは放っておいても勝手に爆発するんだが、俺がこのスイッチを押せばその時点で、ドカン! ……この意味、わかるよな? わかったのなら、俺たちの指示に従ってもらうぞ。機長さん」

 まるで玩具だ。遠隔起爆装置だなんて言われても、直ぐに信用はできない。それが拳銃で脅しをかけないとまともに話もできない男たちの言葉であるのなら猶更。
 けれど乗員乗客全員の命を委ねられている機長の身としては、この長髪の男の話を信じて、従うしか荒木には選択肢はない。楽観的で慢心的な考えなど、大概の危機を目の前にした時点で、犬の糞よりも役には立たないのだから。
 それに何より、頭を殴られた際に飛び散ったらしい横出の血が、長髪の男の手に付着していたのが、見えない爆弾よりも、荒木には強烈な恐怖の印象を植え付けていた。

「……ああ、わかった。言う通りにする」

 震えそうになる声で承諾する荒木の様子に納得したのか、長髪の男は突き付けていた拳銃をようやく引いた。

「理解して頂き、何よりだ。お互い、こいつをいいフライトにしようじゃないか。俺たちも、殺す人数は少ない方が望ましい」

 爆弾を積んでいると言ったその口で、機体を無事に着陸させる義務がある機長に向かって、いいフライトにしようなどと言われても、それが挑発なのか本心なのか、横暴を振り翳しながらあくまで紳士的に振る舞おうとする矛盾したハイジャック犯の意図は、荒木には想像もつかない。
 すると、徐々に意識を取り戻した副機長の横出が、体を半分起こしながら強気に口を挿む。

「う、くっ……。お前たちの目的は何だ? 金か? テロか?」

「黙ってろ! 質問するな! お前は命令に従えばいいんだよ。それだけでいいんだ。この機にパイロットは二人も必要か? 一人くらい殺しても、俺たちは困らないんだぞ?」

 怒鳴りつけながら答えたのは、横出の近くにいたもう一人のハイジャック犯。金髪の彼は、懐から取り出した自分の拳銃を横出に向ける。
 金髪の男の行為は、ただの脅しには思えない。パイロットの人数を一人削っても構わないと、彼らの目的には支障はないんだと、本気で考えているらしい。その事実を近くでひしひしと感じ取っていたのは横出本人よりも、撃たれそうになる横出の間近でへたり込んでいた客室乗務員だろう。
 だが今にも泣き出しそうな客室乗務員を尻目に、横出は啖呵を切る。

「……撃つのか? ここで? 構わないぞ。どうせ全員殺す気だろ? 撃ってみろよ」

「俺が撃てないとでも思ってんのか? へぇ……いい度胸だな。命張って格好いい姿みせてくれた礼に、後悔だけは先にできないってこと、人生最後に教えてやるよ! 死ね!」

 拳銃を突き付け、死の宣告をする金髪の男を睨みつけたまま、横出は瞬き一つすらしなかった。それは覚悟の表れか、はたまた撃てやしないと踏んでの行動なのか、荒木には理解できない。それでも銃声を聞いてからでは遅いのだ。たった一発の銃声が鳴り響くだけで、横出は呆気なく死んでしまうだろうし、同時に乗客もパニックを起こす。それに何より、今はまだ殺人犯ではないハイジャック犯が、一人殺すことによって、人間としての最後の箍が外れかねない。

 だからこそ荒木は、銃声を耳にする前に何とか金髪の男を制止しようと、多少暴力を振るわれることも覚悟で果敢に口を開きかけたのだが、先にもう一人のハイジャック犯である長髪の男が動いた。
 横出に向けて拳銃を翳す金髪の男の腕を掴み、冷静さを失っている相棒を制止する。

「止めておけ。この特等席を、こいつの臭い血で汚したくはない」

「でもよっ――!」

「だから! だからだ……こいつが次に口答えしたら、女を殺す」

 冷静に仲間の行動を止めたはずの長髪の男は、横出に向けられていた仲間の拳銃に変えて、今度は自らの拳銃を客室乗務員に向けた。

「まずはどこを撃とうか? 一発で終わらせるのはもったいない。こいつの装弾数は八発。楽しむには十分な量だ。そうだな……やはり初めは鮮やかな悲鳴が聞きたいな。そこの勇敢な副操縦士が生意気な口を利く度に、手足から順に穴を空けてやる。精一杯悲鳴をあげろよ。痛いと、殺してくれと泣き叫べよ。俺が満足すれば、そうしたら殺してやるからな」

「やっ、いやっ……! 止めてください……お願い、します……」

 怯える客室乗務員に抵抗する意思はない。横出のように盾突くこともなく、拳銃を握った長髪の男を前に、ただ怯えて許しを請うことしか、彼女には許されない。
 長髪の男は言葉に反して真顔で、客室乗務員の側に腰を下ろすと、彼女の左膝に拳銃を突き付けた。

「皮膚と肉を突き破った銃弾が、膝の骨を乱暴に潰すんだ。痛いぞ。だけどそれだけじゃ勿体ない。ちゃんと膝に空いた穴から俺の指を突っ込んで入念に愛撫し、お前が産まれてからまだ一度も感じたことのないだろう快楽を味わわせてやる。初体験だな、喜べ、楽しいぞ?」

「ぃ、いやっ――!!」

 言葉にならない微かな悲鳴をあげて、呼吸の仕方も忘れてしまったのか、苦しそうに顔を歪めて喉を鳴らす客室乗務員は、死に神より質の悪い男を前に、不幸極まりない未来しか思い描けないのだろう。

「くっ……わかった。すまなかった。もう何も言わない、言われた通りにして黙っている。だから彼女には銃を向けないでほしい」

 今までは殴られて朦朧とした意識の中で多少ハイになっていたのか、ようやく冷静さを取り戻し従順になる横出は、他人の命を天秤にかける圧倒的不利な状況を理解して悔しそうにしながらも、ハイジャック犯に従い大人しく口を閉じる。
 すると長髪の男は一転、先程とは打って変わり、今まで拳銃を片手にサディストの言葉を並べていた人物とは思えないほどの、紳士的な振舞いに自分を戻した。

「賢い判断だ。流石は副機長、これで一人女を救えたな。お前はヒーローだぞ。お前もよかったな、副機長のお蔭で死なないで済んだぞ。副機長に感謝しておけよ」

 長髪の男は客室乗務員の膝から銃口を離して立ち上がると、途端興味が失せたようにチラリとも客室乗務員には目もくれず、ただの快楽主義者かと思われたが最低限の自制心は持ち合わせているようで、ハイジャックという自らの仕事に戻った。
 客室乗務員も眼前から危険が遠ざかったことで、少し余裕を取り戻せたようだ。
 長髪の男は荒木の座る操縦席に手をかけ、操縦席の間から顔を覗かせる。

「それでは機長さん、無線を貸してもらおうか。交信先は、東京航空交通管制部だ」

「……わかりました」

 長髪の男は横出の席に腰掛け、少し前まで横出が使っていたヘッドセットを付ける。
 荒木は震える手を黙らせ気丈に振る舞うと、管制塔に繋ぐそのボタンを押し込んだ。

「ど、どうぞ」

 荒木からの合図を受けた長髪の男は咳払いを一つ、ハイジャック成功への意気込みを隣の荒木にも感じさせつつ、交信を始めた。

「ん……ごほん。管制官諸君、いいか、しっかりと聞いておけよ。この機は乗っ取った。繰り返す、俺がこの機を乗っ取った。これはジョークでもハッタリでも嫌がらせでもない、正真正銘のハイジャックだ。そして俺は今直ぐにでも、貨物室に積んだ爆弾でこの旅客機を乗客ごと海に落っことせることを、まずは理解していただきたい。連絡したければ警察でも自衛隊でもどこへだって連絡していただいて結構。俺はその程度でこの機を落としたりはしない。それよりも大切なのは、あまり猶予がないということだ。そちらの対応次第では、俺が苛立って爆弾の起爆スイッチを押してしまう可能性が大いにある。これは訓練でも混線でも、長時間のフライトに暇を持て余したパイロットの冗談でもないんだ。今の自分たちが置かれている状況を理解して、お互いにとって有益となりえる、迅速かつ冷静な行動を起こしてくれることを、期待している。言い換えれば――乗客ぶっ殺されたくなければ俺の言うことを聞いてもらおうか! ……と言うわけだ。細かなことは機長にでも確かめてくれ。それでは、いい返事を待っているよ」

 一方的に弁舌ふるわせ終わると、長髪の男はマイクのスイッチを切る。
 近くで観察した荒木だからこそ気付けたのだが、無線で話していたときに、長髪の男から僅かながらに緊張が見て取れた。それを裏付けるように長髪の男はマイクが切れたことを確認すると、ふっと溜息をついた。

「ふぅ……よし、こんなもんか。ビビって言葉も出ねぇだろうな。地上の連中は」

「だな」

 ハイジャック犯の二人は確かな手応えを感じ、計画の順調さに笑顔が零れる。

 しかしだ、待てど暮らせど管制所からの返答はない。スピーカーの向こうは無言を貫いていたのだ。
 長髪の男はその様子に段々と表情が険しくなるが、荒木には管制所に何らかの意図があってハイジャック犯を無視しているようには思えなかった。単純に焦って返答が遅れただけだろうが、それも仕方のないことだ。ハイジャックなどそうそう起こる緊急事態ではない。緊急事態への対策や訓練は怠っていないとしても、人間誰しも動揺はするだろうし、数十秒の応答待ちくらいはハイジャック犯が許容する範囲だろう。経験のないアクシデントに管制塔はさぞ混乱に陥っているのだか――ら?

 と、ここでようやく荒木はあることに気が付いた。
 それも、己が犯した重大な過ちに。

 管制所からの返答待ちでコックピットが静寂と苛立ちに包まれる中、ついに痺れを切らした金髪の男が口を開く。

「おい……返答がねぇぞ? どうすんだよ、兄貴」

「黙ってろ! ……俺に言っても仕方がないだろ」

「怒んなよ。大体、兄貴の話し方が悪かったんだろ? あんないけ好かない喋り方しやがって」

「ふん……。お前には言っても理解できないだろうが、一応説明してやる。交渉ってのは、冷静に、そして賢く進めるんだ。俺たちが焦っても何も得をしない。いかに会話の主導権を握るか、それが重要なんだ。あれはそのための口調で――」

 苛立つハイジャック犯たちが内輪揉めを始めた。
 彼らが罵り合うその脇で、荒木はハイジャック犯の言葉から、もしや兄弟なのではと感付いて、今更ながらハイジャック犯二人の顔を繁々と見比べる。
 手元の拳銃に気を取られ過ぎて注意が顔にまで及んでおらず気が付けなかったが、顔を見られても構わないのか覆面やマスクなど身に着けていない二人のハイジャック犯の顔の構造は、とても似通っていることに荒木はやっと気が付いた。彼らが兄弟なのはほぼ間違いがないだろう。

 それよりも……だ。言うべきか言わざるべきか、寸刻前に重大な過ちに気が付いた荒木は、この事実をできることなら隠し通したいと心が言うのだけれど、ハイジャック犯にも絡むこの問題は到底隠し通せるわけなどなく、嘘が明るみになったときに彼らを必要以上に怒らせてしまうのではないのだろうか。
 これ以上事態が不利になることを恐れた荒木は、静かな覚悟を決め、恐る恐るハイジャック犯たちの内輪揉めに口を挿む。

「あ、あのぉ……」

「チッ、何だぶっ殺されてぇのか!? お前の代役はいるんだよ! パイロットが一人くらい減っても大した損害にはならないんだぞ! 死にたくないならその口閉じてろ!!」

 苛立つ金髪の男が拳銃を向け、感情に身を委ねてそのまま引き金を引いてしまいそうなほどの怒声を、荒木に浴びせた。
 コックピットでの権限が機長から拳銃を手にした彼らに移った時点で、この機体を空港に無事着陸させるためならば、これまでの経歴もプライドも全て捨てる覚悟の荒木は、焦りながら抵抗の意思がないことを主張する。

「――い、いいや! もちろん、私も死にたくはない! でも、これは……」

「何だ? いいぞ、言ってみろ」

 長髪の男が、金髪の男とは対照的に荒木の言葉に耳を傾けた。
 荒木は黙っていても解決せず誤魔化しきれないその問題を、殺されるのではないだろうかという恐怖でいつも以上に心臓を跳ね上げながら、まるで口の中に飴玉でも含んだように話し辛そうに、ハイジャック犯へと正直に告白する。

「では……私も、もう二十年もパイロットを務めているのですが、ハイジャックというのは初めての経験でしてね。その……とても言い難いのですが……ボタンを……押し間違えたみたいです。すみません。管制所には先程の交信は届いてないですね」

 突然の機長による失態の告白に、即座に反応したのは金髪の男の方だ。

「ああん!? んだよ、こんな状況でミスしてんじゃねぇぞ! お前、確かにスイッチ押してただろ。なのに何でどこにも繋がってないんだよ!?」

「いや、繋がるには繋がっていたのですが……」

「じゃあ、どこに繋がってたってんだよ!?」

「それは……」

 その先の言葉を発することは、拳銃を握った男たちの前では流石に躊躇われるが、黙っていても銃口がこちらを向く事実には変わりないので、荒木は言うしかない。

「……き、機内です」

 弱々しい荒木の言葉は、どんなに威勢よく張り上げる立派な言葉よりも、脅威を振り翳しながらの脅し文句よりも、たった一言、それも一瞬で、ハイジャック犯二人を見事に沈黙させてしまう。



          ◇◇



 機長からの一風変わったアナウンスを耳にした乗客は、一斉にパニックに陥り、悲鳴と叫び声で大混乱に――とは、ならなかった。

 何らかのトラブルは機内で起こっているのかもしれないと、乗客にも予想は付く。だが、エンジンが爆発したり、機体が左右に激しく揺れるなど目に見えてのトラブルならともかく、事実確認もできていない乗客が、見えない恐怖に叫び出すほどの酷い混乱は起こらなかった。

 けれどその代償といっては何だが、確認できない不安に戸惑う客席から増えたのは、口数だった。「どうなっているんだ!」と、近くの客室乗務員に詰め寄る乗客もいれば、隣に座る家族や友人とひそひそ話し始める乗客もいる。反応は様々だったが皆一様に言えるのは、誰もが口々に話し始めたことだろう。

 一人一人が大声を出しているわけではないが、密集し密閉された空間では、集まった声はそれなりの音量になる。一人が話を始めれば、隣で黙っていた乗客もつられて口を開き、それが連なり人数が増えると、周囲の話し声で自分たちの話し声が聞き取り難くなり、ひそひそ話だった声のボリュームが徐々に大きくなってしまう。

 不安に駆られた乗客の起こす声の連鎖によって、じわじわと騒めき立つ客室。それはエコノミー中央列の最後尾に座っていた男、つい先程まで長髪を束ねた男と金髪の男の隣に座っていた男がいる客室でも、同様に起こっていた。

 ポリシーではなく単にずぼらな性格だから剃るのも億劫になり放置している無精髭に、大手量販店の草臥れた安物のスーツを着た男、浅井正義あさいまさよしは、ハワイで挙式を挙げるだなんてなんとも面倒な計画を立ててしまった妹の結婚式に向かう、非番の警察官だった。

「粋なサプライズってわけじゃ……ないよな」

 そんな淡い期待も、フライトプランに沿うだけが取り柄の真面目腐ったパイロットには思い付いても実行できるわけがないと、自分で自分の期待を打ち砕く。

 周囲の乗客が先程のアナウンスを事実かどうか、己の考えをペチャクチャと好き勝手に話す中で、浅井も同じように予測してはみるものの、事実確認のために立ち上がることはない。ここでハイジャックと出くわしたのが、仕事に忠実で正義感溢れる熱血警察官なら、喜々としてコックピットに向かっていく場面だろうが、別段褒められた信念など微塵も持ち合わせず、自分の職務は制服を脱ぎ捨てると同時にロッカーにしまってしまう浅井は、座席に深々と腰を下ろしたまま面倒だと溜息をつき、立ち上がろうとはしなかった。

 自分が警察官だと名乗れば、優遇して事実の確認が取れるだろう。しかしその代償として、乗客全員の希望を背負わなくてはいけないし、ハイジャック犯にも優先的に目を付けられる。そんなのお断りだ、面倒臭い。それが浅井の信念、仕事に対するポリシー。

「何で俺が休みのときに限って……。まあ別にいいか、今日くらいは休んでも。警官も公務員だから職に就いただけで、別に貫きたい正義感とかないしな。まあ……人生永遠の休みが先にこなければの話だけどな……」

 乗客全員がコックピットからのアナウンスを悪い冗談だったと願う中で、浅井は冷静に周りを見回し、機内での対応に追われる客室乗務員たちの様子を窺うと、先刻のアナウンスはやっぱり事実なんだろうなと、諦めの吐息を深くついた。



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