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一九九九年の八月。狂い始めた旅の計画
しおりを挟むただの強盗犯から国際テロに容疑が変わりつつある男たちのその幾つか後ろ。三席ある座席の真ん中には、尋常じゃない脂汗をハンカチで拭う男が座っていた。
名前は小野佐賀男。佐賀男は一人旅ではなかった。隣の席で窓の外を覗く佐賀男と同年代の女性が彼の妻、小野松代。佐賀男は松代と共に、銀婚式のお祝いにとプレゼントした海外旅行を、夫婦仲良く満喫しようという計画だったのだが……。
佐賀男が、温度や湿度が自動的に調節された快適な機内で尋常でない脂汗を掻いている原因は、単に佐賀男が汗っ掻きだからというわけではない。問題は左側、佐賀男の一つ隣の通路側の席に座っている、佐賀男とは二回りも年の離れた若い女性を、佐賀男は知っていた。
若い女性の名は、一尾琴美。綺麗な目鼻立ちにスタイルのいい彼女は、擦れ違うと一度は振り返りたくなるくらいの、極上の美人だ。もし運が良く長旅の機内で隣に座ることがあれば、どんな堅物で硬派な男でも、一言声をかけずにはいられないだろう。
だが、そんな美女を隣にして佐賀男は声もかけられない。声をかける勇気の問題ではなく、それ以前に声などかけたくなどないと佐賀男は心の底から考えており、例え口を開いたとしても、言葉の欠片すらも緊張のあまり喉が干上がって出せないのだ。動けば死ぬ、そう思わせるほどに佐賀男の心情は動揺と緊張で一杯だった。
ある程度の社会的地位を確立し豊富な人生経験を積んだ男がこれほどまでに追い詰められる原因は、ぶつけた車からどう見ても堅気じゃない人間が降りてきたときか、偶然隣に座った女が、浮気相手だったときくらいのものだろう。もちろん、今は車をぶつけた話など飛行機に乗っている佐賀男に心当たりはない。
昨日までの愚行を後悔しても、今現在の状況が全く好転しない中、止めどなく流れ続けていた佐賀男の汗が、今度は一転してピタリと止む。夏場にホラー映像を観てヒヤリとする、あれと同じ現象が佐賀男に起こったのだ。
ホラーに値するのは、一人の女の声。
「ご旅行ですか?」
沈黙を破り、左隣に座る琴美が、火蓋を切って話しかけてきた。
突然の先制パンチに肝を潰す佐賀男だったが、ここで動揺しては妻に怪しまれるだけだと咄嗟に思考し、日常の受け答えを思い出しつつ平静心を心掛けながら、精一杯の自然体で振舞う。
「……ええ、はい」
自然体ではありながらも、佐賀男は当たり障りのない会話が続かない言葉で敢えて返す。
ただ、佐賀男に大量の汗を掻かせる原因は、生憎と反対側にも存在する。
「あなたは一人旅かしら?」
「はい、そんなところです」
黙っておけばいいものの、何故こんなにも女性は無益なお喋りを好むのか。態々佐賀男を挿んで言葉を返す松代に、愛想よく微笑んで答える琴美の笑顔の裏にどんな意図があるか、佐賀男にはわからない。
佐賀男のルックスはとてもじゃないがお世辞にも男前だとは言い辛い。加えて別段稼いでいるわけでもなかった。世間によくいる普通のおじさん、それが小野佐賀男。それでも佐賀男が、隣を歩くには似つかわしくない琴美と不倫関係にあるのは、傍から見ればさぞおかしくも羨ましい話だろう。佐賀男の浮気話を聞いた誰かは、男が騙されていると口にするかもしれない。はたまた男の側が卑劣で、女を何かしらの方法で脅しているのだろうと勘繰る輩もいるだろう。
けれど、佐賀男は琴美と純粋に恋愛関係にあるのだと信じている。それは琴美の側も同じ気持ちのはずだ。一応、記念日以外で金品を要求されたことは一度もない。高価な代物もプレゼントしたことはない。松代と出会う以前に琴美と出会っていればどうなっていただろうか、そんなことは起こり得ないが、琴美と会う度に何度も考えた。二人の間にあるのは、偽りの時間と、紛れもない真実の恋心だけなのだから。
しかし今は違う。不倫関係に落ちた瞬間から今までの間に、これほど一尾琴美という女と付き合って後悔を感じた時間はなかった。昨日までの天使が、今日は死に神に見える。
心の動揺が表面に出易い佐賀男は、敢えて松代の顔も琴美の顔も見ようとはしない。どちらか一方を振り向けば、もう一方に何か不都合極まりないことを言われそうで首を動かせず、正面の座席を一点集中して視線を逸らさないでいるのだ。
それでも焦る必要は何もない、そう何度も自分に言い聞かせた。今この状況で松代が浮気に感付く要素は存在しない。用心深い佐賀男は浮気の痕跡や手がかりの一切を残さず、一度たりとも松代に浮気を疑わせたことがないのだから。これは平凡な佐賀男の唯一の特技といっても過言ではない。佐賀男は男前でも金持ちでもないが、ナチュラルボーンの浮気男なのだ。
加えて、琴美自身にも佐賀男の妻である松代に不倫関係を知られてメリットはないはずだ。松代に不倫がばれる、そうなれば琴美だって慰謝料を請求され、職場での信頼だって危うくなるに違いない。デメリットがあまりにも大き過ぎる。
……そう、不倫がばれて松代に愛想を尽かされる佐賀男が離婚するということ以外は、琴美にとって何もメリットはない。
三年間、佐賀男と琴美の不倫関係は続いていた。その間、幾度となく佐賀男は琴美に妻との関係を断つように強請られ、佐賀男も最初の頃ははぐらかしていたのだが、しかしあまりにも琴美がしつこいので「妻とは別れる」と、守れない約束を口頭ではあるが、ここ最近は会う度にしてしまっていた。従って業を煮やした琴美がついに、高度一万メートルの頂上決戦に打って出ても何らおかしくはなく、社会的な物差しでは測れない愛人の感情がいつ松代に牙を剥くのか、琴美に社会的デメリットが大きいとしながらも佐賀男が安堵できない原因はそこにある。
離陸直前にはこの異常な状況に気が付いてはいた。だからといって突然便を変更するのも、何も知らない松代からすれば不可解な話だ。佐賀男一人が急な仕事だと偽って逃げ出し、妻と愛人の二人きりにするのも気が引けるし、何よりもその状況を想像するのが一番恐ろしい。
これといって得策な回避方法は思い浮かばず、事なかれ主義の佐賀男が戸惑っている間に三人を乗せた機は飛び立ってしまい、逃げ場のない機内で一言も会話のないまま佐賀男だけが静かに怯えて約一時間が経過したのだが、先程ついに、琴美が沈黙を破ってきたというわけだ。
佐賀男は悪い予感がしてならない。琴美と出会ったのは仕事関係が切っ掛けなので、愛人以前に仕事上の知り合いではあるが、松代には今更知り合いだとは口が裂けても言えそうにない。そんな危ない橋は渡りたくもない。
琴美が何を考えているのかわからないので、佐賀男は引き攣った笑みのまま何も言えないでいると、沈黙に耐えかねたのだろうか、琴美が口を開く。
「一尾琴美です。初めまして」
「どうも、小野松代です。琴美ちゃんっていうの? 可愛らしい名前ね」
「ありがとうございます」
佐賀男の耳には、もはや日常の挨拶や自己紹介が宣戦布告にしか聞こえてこない。
飛び交うのはいつ佐賀男に命中してもおかしくない言葉の砲弾。女共の会話には入らんぞ、と佐賀男は亭主関白を装い堅く口を閉ざしていたのだが、友好的に話しかけてくる琴美がそれを許すはずもない。
「ご主人も、は・じ・め・ま・し・て」
一言ずつ丁寧極まりない発音での琴美の挨拶は、呪いの言葉に変わって佐賀男を苦しめる。
「ひっ!? えっ、ッ……は、初めまして」
「あら、あなた綺麗な人が隣に座ってるから緊張してるの?」
「奥様、綺麗だなんて私はそんな」
「素直に認めなさい。あなたは褒め言葉に対する謙遜が嫌味に聞こえるほど綺麗なんだから。あ、でもね、私も若い時は琴美ちゃんに負けず劣らず美人だったのよ」
「ふふふ、それでは今のご主人は両手に花ですね」
「あら、そうね。ほら、もっとあなたも嬉しそうになさい。こんなに近くに美女が二人もいるんだから」
両側から聞こえる笑い声の二重奏が、今の佐賀男にはこの上なく残酷な拷問だった。精神的な拷問は徐々に人を壊していく。佐賀男は愛想笑いも顔が引き攣ってもうボロボロ。
ともあれ琴美が佐賀男とも初対面の振りをしてくれるということは、佐賀男の眼前擦れ擦れを通過していく言葉の砲弾は、取り敢えず佐賀男を狙った凶器ではなさそうだ。
佐賀男はようやく一息吐いて一安心するが、となれば同じ便の、しかも隣の席に乗り合わせた琴美の真意が理解できずに、益々混迷してしまう。色々と問い詰めたいこともあるが、この状況では何も聞き出すことができない。
初対面の振りをするくらいならば、いっそ話しかけてくれるなと、言葉が出せない代わりにテレパシーで念を送る佐賀男だが、琴美に会話を止める気はないようだ。
「優しそうなご主人。あ、もしかして旅行はプレゼントで、何かの記念日とかですか?」
「あら、よくわかったわね? そうなの、珍しくこの人がね、結婚記念日に旅行でもどうだ? って。今までそんなこと一度もしてくれたことがなかったのに。うふふふ」
松代も口を開けば余計なことまでぺらぺらと話し出す。このお喋り女め。佐賀男は心で悪態ついても口からは絶対に漏らさない。それでもお喋り好きな松代が普段から必要以上に口を開くのは佐賀男が一番よく知っているので、ある程度心構えをしている分、もどかしさも半減はしていた。
けれど、今はそのお喋り女が一人ではないのが最大の難点なのである。
「いいですね。羨ましいです。私の彼も、奥さんに内緒でこの間、旅行に連れていってくれたんです。……安上がりな近場の温泉旅行でしたけど」
「っっぶッ!? ――ごほっ、がほっ!」
佐賀男は、汗が噴き出して止まらなかった際に客室乗務員の女の子から貰ったお茶の残りを飲み干そうとして、見計らいでもしたのか、タイミングの悪いもう一人のお喋り女の発言に戸惑い、お茶が気管に入ってしまい激しく咳き込む。
「あら、あなた大丈夫?」
松代はお茶に溺れた佐賀男の様子に軽く呆れてはいたが、佐賀男の咳き込みが、過去の自分の愚行に溺れる男の動揺だとは気が付いていないようだ。
「だ、大丈夫……何でもない。飲み込むときに失敗しただけだから。ほんと何でもない」
松代に要らぬ疑いを抱かせないように必死で誤魔化す佐賀男の記憶では、半年前に琴美と二人だけ旅行をした覚えがある。それはもちろん、松代に黙っての不倫旅行。だから行き先も、松代に黙って使える金の範疇で賄える他県の温泉旅行ではあったが、琴美はここぞとばかりにそれをチクリと突いてくる。
後ろめたい気持ちでいっぱいの佐賀男が、何かしら感付かれていないかと恐る恐る松代の顔を覗き見ると、松代の興味は佐賀男になどないらしく、佐賀男を跨いで琴美へと向けられていた。
「奥さんに内緒ってことは、琴美ちゃんの彼って……既婚者? 不倫なの?」
「はい、年上のおじ様です」
「あらら。駄目とは言わないけれど、気をつけなさいよ。ばれるばれないの問題だけじゃなくって、色々と。ねえ、あなた」
「お、おお! そっ、そうだよな! そうだよ! 全くだ……っはは、全くだ……」
それは一番振られたくない話題なのだが、松代の言葉を無下に拒むこともできないために、佐賀男は自分自身の首を絞めながらひっそりと自嘲して、こっそりと項垂れるしかない。
「一生を共にすると誓った奥さんがいる癖に、こんな若くて美人な女までもを弄ぶ愚かな男の顔が、見てみたいのもね」
松代は冗談めかして言っているが、冗談じゃない。
当の浮気男は気配を消そうと必死に小さくなるが、全てを知った上でなお事実を隠し平然と会話を続ける琴美は、佐賀男の顔を一度チラリと確認すると、不敵に微笑んで答える。
「是非、ご紹介したかったですわ……うふふふふ」
この機からスカイダイビングさせてくれるというのならば、佐賀男は迷わず志願して飛び降りるだろう。仮にそこが太平洋のど真ん中だとしても、この席よりはずっといい。
一方、沸々と生まれつつある佐賀男の現実逃避という自殺願望に、全く気が付いていないらしい松代は、呑気に琴美へと懐っこい笑顔を向ける。
「偶然隣の席になっただけなのに、こんなにお話できて嬉しいわ。いい加減、雲の上も飽きてきたところだったのよ」
人間という生き物の適応能力は恐ろしい。この場から逃避したい気持ちは増すばかりなのに、妻と愛人に両側から挟まれている環境には、徐々に慣れ始めてしまう。だからなのだろう、佐賀男には自殺願望と同時に、自らを挿んで交わされる会話に耳を傾ける余裕も生まれつつあった。
それでも緊迫状態の最中、佐賀男が僅かに落ち着きを取り戻そうとしていたまさにその瞬間、逃避できない現実を再認識させるが如く、妙に機嫌のいい笑顔を振りまく琴美が、佐賀男に改めて恐怖心を植え付ける。
「私も、です。奥様と、この長旅でお隣になれてとても嬉しいですわ。もちろん、ご主人も。……ねぇ、ご主人?」
「……ひっ!?」
妻にも聞こえたであろう琴美の言葉に怯えたわけではない。佐賀男が恐怖したのは、言葉の後に、佐賀男にだけ見えるように松代の視線を佐賀男の後頭部に隠しつつ、琴美の口元が静かに動いていたからだ。
(楽しくなりそうね。佐賀男さん)
声に出さない言葉の後、琴美は佐賀男をだけを見て微笑んだ。
◇◇
生死の狭間で脂汗を流す浮気男の更に何列か後方。恰幅の良い六十代の男と、眼鏡をかけたスーツ姿の三十代後半の女が、三席並ぶ座席の中央と通路側の席にそれぞれ座っていた。
中央の席に座る男の方、金泉和久夫は、長い人生で培った皺を折り曲げて顔に無数の谷を作り上げ、見るからに苛立っている。
通路側に座る六場伊梨花は、気を使いながら金泉に声をかけた。
「あの、喉渇きませんか? 客室乗務員に何か持ってこさせましょうか?」
「いらん。……それよりもだ、何でこの私がエコノミーなんだ?」
「申し訳ございません。……手違いで」
「明らかな君のミスだろ。ふん! 普通なら考えられんぞ、全く」
「……はい、申し訳ありませんでした」
本日この男に頭を下げるのは何度目だろうか。伊梨花はそこまで一々覚えてなどいない。
伊梨花は金泉の秘書をしているのだが、秘書業務のちょっとした手違いで、生憎と金泉を苛立たせてしまっていた。金泉が苛立つ原因はこのエコノミーの座席。雇い主である金泉の家は代々政治家一筋で、父親は元通商産業大臣、自身も三十年以上国会議員という肩書きを持つ、自尊心が人一倍強い金泉には、どうにもエコノミークラスの座席や雰囲気が肌に合わないらしい。
そんな金泉がエコノミーに座る原因になった秘書業務のちょっとした手違いとは、単に伊梨花が飛行機のチケットを取り忘れていたことに、金泉の休暇当日の朝までうっかり気が付かなかったことだった。
当初予定していた便から二時間遅れでチケットが取れたのはいいのだが、キャンセル待ちで滑り込んだ便には生憎エコノミーしか空席がなく、当然ビジネス以上を希望する金泉の性格を知っていた伊梨花は、出発の時間を遅らせるという選択肢を金泉に申し立てたのだが、予定を曲げることを良しとしなかった金泉の要望で、仕方なくエコノミーに乗り込んだ。
始めは金泉もこれも新鮮だといって一時間ほど我慢して座っていたのだが、ついに我慢の限界に達したらしく、こうなれば崩壊したダムのように次々と溢れ出る怒りは全て吐き出すまで、誰にも堰き止められないだろう。
それでも、金泉からの無理難題を日々押し付けられるのが仕事である伊梨花は、この程度の逆境ではめげることなく、そもそもが自分のミスが原因とあっては黙っていられずに、慌てて取り繕う。
「でも、でもですよ、考えてもみてください。世間知らずの厚顔無恥で有名な国会議員、あの金泉和久夫がエコノミーに乗る、これは庶民派をアピールできるいいチャンスです。前向きに考えましょう」
「厚顔無恥は余計だ。それにそんなチャンスはいらん。今回は休暇で羽を伸ばすための旅行のはずだぞ。見ろ、これのどこが羽を伸ばしているようにみえる? 狭い椅子、圧迫してくる前列の座席と、貧相で味気ない食事。数列離れているはずなのにここまで声が届いてくる鬱陶しいガキ共に、隣で死んだように音もなく眠りこける爺。……この爺さん本当に生きてるのか?」
金泉が不安そうに目を向けるのは、窓側の席で離陸直後から眠りに入った白髪の老人。息をしているのを確認しないと本当にお迎えがきてしまったのかと勘違いさせる、見事な安眠だ。
「そもそも、君を連れているのも不本意なことこの上ない。鬱陶しい、全く以て鬱陶しい」
「議員のスキャンダルを未然に防ぐのも、議員秘書の務めですから」
そう豪語する伊梨花が、実は金泉の金で海外に行けるから付いてきたなんて本音、口が裂けても言うわけがない。建て前と本心は違うのだ。
政治家の側にいる所為か、嘘と言い訳ばかりが達者になる伊梨花を、金泉は改まった顔でじっと見詰め、一呼吸の間を置いて今度は深い溜息をつく。
「はぁ……そうだな。君とはスキャンダルにならんだろうからな。伊梨花君は、私の秘書をして何年だ?」
意味深な発言と唐突過ぎる質問を伊梨花は疑問に思いながらも、年々増える忌々しい歳を数えて逆算する。
「はぁ? えーっと、もう十五年になりますね」
「そうか」
「それが何か?」
不思議がって尋ねる伊梨花に、金泉は見せつけながら、右手の指を揃えて自分の首に向けると、そこをスパッと断ち切る動作で揃えた指を横に動かした。
「クビだ」
「……え? 今、何か仰いました?」
「聞こえなかったのか? だったらもう一度言おう。君はクビ、つまり解雇だ。君は今この瞬間、クビが決定した。おめでとう」
「ええっ!? ちょっと待って下さいよ!!」
「待たん。もう決めた。これは絶対に覆らない。例え総理総裁直々の命令であってもだ」
急に突き付けられた高度一万メートルでの解雇通告に、慌てて伊梨花は噛み付くが、金泉は全く聞く耳を持とうとしない。更に金泉は伊梨花を無視したまま軽く手を上げ、通り過ぎようとした客室乗務員を呼び止めた。
「ちょっとそこの君」
通り過ぎ去ろうとしていた客室乗務員の女は足を止め、愕然とする伊梨花を挿んで金泉への応対を始める。
「はい。どうかなさいましたか?」
「私は本来、この席に座る予定じゃなかったんだよ」
「……はぁ?。そうですか」
「何をそんな困り顔をしている。気が利かないな、最後まで私に言わせる気かね? ……仕方ない。いいか、よく聞くんだぞ。私をビジネスクラスに移動させてくれ」
「お客様、申し訳ございません。当機はただいまエコノミーより上のクラスは満席となっておりまして、空席はございません」
自分が悪いわけでもないのに取り敢えず謝ることを徹底して仕込まれた客室乗務員の丁寧な対応に、何故か金泉は至極当然のことを説明するかの如く、どこか煩わしそうに上から目線で口を開く。
「私は席が空いているかどうかなど、始めから尋ねてはいない。席がないのなら、作ればいいだろう。その移動で生じた金の誤差など余分に私が払う。ごねるのなら一人くらいパラシュートでも背負わせて突き落せ。それかトイレにでも閉じ込めておけばいいだろう」
無論、ただの客室乗務員である彼女にそんな権限はない。
「申し訳ございません。当社の規則として、そのような手段での座席の移動は行っておりません。あの、座席が体に合わないのでしたら、よろしければホットココアなどいかがでしょうか? 体がよく温まってぐっすりと眠れますよ。他に軽食ならお持ちできますが?」
「会話のすり替えと目先の品で誤魔化しか……困ればそれだ。議員もスッチーも大して変わらんな」
自虐とも取れる皮肉を吐き捨てた金泉は、顰めっ面で客室乗務員の胸元に着けられた名札を、老眼の進行が著しい目で読み辛そうに見ると、嫌な態度で鼻を鳴らす。
「ふん、真崎君か……最近のスチュワーデスがいいのは所詮、体だけか」
そして名札にあったはずの視線は、やがてじろじろと真崎の全身を舐め回し始める。全身を隈なく堪能する視線は、胸やお尻の滞在時間が異様に長い。
業務時間外ならば客室乗務員の真崎も、金泉に対し何とでも言い返すことができるのだろうが、生憎と今は業務中。それを考慮してか、真崎は舌打ちを交え小声で悪態吐く。
「チッ、エロ親父が……」
「ん? 何か言ったかね?」
「いえ、何でもございません」
全力のお仕事スマイルで返答する真崎。その理想的な笑顔には、客の口を封じて我が儘を言い辛くする効力がありそうなのだが、厚顔無恥のこの男は違う。
「ならば、とっとと私の前から失せてくれないか? この先どれだけ君と話しても、環境の改善は見込めんのだろう? まあ、君が残りの飛行時間、私を個人的に楽しませてくれるというのなら話は別だが」
尚も金泉の横柄な態度は変わらない。厄介だと嫌われる客の典型的な態度だ。
「失礼します」
そう言い残し、真崎は業務に戻る。トイレに向かう乗客を華麗に避けて、金泉に悪態の一言も聞かせず笑顔で去って行く真崎のその背中に、伊梨花は、同じく社会の最前線で働きながらも虐げられる女として、どうしても同情心を抱かずにはいられなかった。
「大変だなぁ、彼女も」
◇◇
座席から立った吾妻は、トイレに籠って固まっていた。狭いトイレの中で吾妻は便器に座り、項垂れて考え込む。便秘ではない、痔でもない。
吾妻は拳銃のことを一旦忘れ、顔を見ていると腹が立つ津田から距離を取るためにトイレに行こうと思ったのだが、その際に見付けてしまったのだ。仮に客室乗務員と、その男とのやり取りがなければ、拳銃の始末に忙しい今の吾妻は気が付かなかったかもしれない。それほど男はこのエコノミーに不釣り合いで、まさかそこに座っているとは想像もしていなかった。
「何で……何でよりによってあの男が、金泉がこの飛行機に乗ってんだよッ!」
金泉和久夫衆議院議員。その男は、何時間か前に吾妻が強盗に入った邸宅の所有者である国会議員だ。
プライドが高くお坊ちゃま育ちの、一般市民と同等の感覚が欠落した金の亡者の彼が、うん百億円うん千億の建築費を「たかが」とか「これくらい」などの一言で片付けて、世間からバッシングを受けた過去のある彼が、なぜ態々この便に、恐らく金泉の尻と精神にこれポッチもそぐわないであろうエコノミーなんかに座っているのだ。
吾妻は強盗する際に、多少資金を費やしてでも、警察に追われる危険性が低い金をターゲットに選んだ。やはり優秀な警察が強盗犯にとっては一番の厄介者で、警察に追われたくないからこそ、疚しい金を蓄えていた金泉を標的にしたのだ。
しかし危惧するのはそれだけではない。寧ろ金泉のような疚しいことに心当たりがある男だからこそ起こり得る、もう一つの可能性。金泉の裏側にどのような繋がりがあるのか、吾妻は知らない。それこそヤクザや殺し屋なんて雇われでもしたら、素人に毛が生えた程度の泥棒に対処できる腕や知識などない。金泉の目から行方を晦ますことが、高飛びの理由だった。
「……大丈夫、大丈夫だ。顔は知られていない。奴自身も空の上じゃ、家に残してきた金の在りかなんて、まだ知る由もないんだ」
運の悪いことに、盗んだ金の持ち主である金泉と同じ飛行機、それも同じエコノミークラスに乗り合わせた吾妻。
それでも吾妻には大丈夫だと言い切れる自信があった。強盗の実行犯である吾妻と津田は金泉との接触を行わないようにしていたので顔は知られていないし、仮に津田の鞄に潜む二億円を目にしたとしても、まさか自分の金だとは到底気が付かない。飛び立ったあとの機内では携帯電話も繋がらず、自宅の状況も把握できない金泉が、強盗の事実を知る頃には吾妻たちは行方知れず。
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自分に言い聞かせた吾妻は、ゆっくりとトイレから出る。
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