バッドラック ――ハイジャック騒ぎの中、個人的な問題に慌てふためくエコノミークラスの乗客たち――

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何で仕事しねえんだ、お前はよ!!

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「最悪……」

 客室乗務員の真崎舞子まさきまいこ、彼女の本日のフライトはその一言に尽きるだろう。
 初っ端から嫌味な成金に絡まれ、お次はファーストクラスに席を移せと文句を垂れる態度が大きくて口の悪いオッサン。挙句の果てにはハイジャック犯に利用されるという、二十代の女子には全く以て必要のない、レアな経験値を積んでしまったのである。

「……もう退職したい。実家に帰ろうかな」

 舞子の滅入った気分に寄り添うように、都合よくぽっかりと開いていた席に、客室乗務員でありながらも舞子は平然と腰を落ち着ける。
 なんだか隣で鬱陶しそうにする男が一人いるが、構わない。

「やっぱりかぁ……はぁ。でもなあ……はぁ。うん、そうだよね……はぁ。でも待って、もしかして……はぁ、はぁ、はぁ……? ちょっと……そこの人、私のことちょっとくらい心配してくださいよ。どうしたんだ? とか一言声でもかけたらどうですか?」

 舞子は隣に座る男に自ら声をかける。先程から舞子に対し、男はとても鬱陶しそうな面を浮かべていたが、そんなの舞子の知ったことではない。精神的に落ち込みつつある舞子は、誰でもいいから取り敢えず心配してもらいたかったのだ。
 舞子の隣に座る無精髭を生やしたスーツの男は、舞子のかまってちゃんモードを心底鬱陶しがってはいたが、舞子に声をかけられ無視できないと観念したらしい。けれど不機嫌な態度は隠そうとせず、平坦な声で答えた。

「悪い、この状況に興奮して喘いでんのかと思ってた」

「私どんだけ変態ですか!? 違いますぅ、溜息ですぅ、乙女の溜息ですぅ。隣で可愛い女の子が溜息ついていたら普通、気にかけるでしょ? そんなことじゃモテませんよ、ってかモテないでしょ? え、モテるんですか?」

「……うるさいな、仕事しろよお前」

「いいんです。もう私はこの仕事辞めるんですから」

「へー、おめでとう」

「違います。リアクションが違います。やり直してください」

「……じゃ、何て言えばいいんだよ」

「気になるでしょ? 可愛い女の子がCA辞めたいって言ってるんですよ?」

「俺、お前の進退興味ないから」

「だが身体には興味津々ってことですか? きゃっ、襲われちゃう」

「死ね」

「そのときはあなたも一緒ですね。この状況ですし」

 自分の境遇に対する嘆きと諦めが複雑に混ざり、とうとう投げやりになっていた舞子は、まるで酔っぱらいのように酷く鬱陶しい調子で絡み、押され気味の男は言い返せずに呆れ顔で黙り込む。
 ノリの悪い男の反応にあまり面白味を感じなかった舞子は、いくら何でも初対面で飛ばし過ぎたかとほんの少しだけ反省。でも反省して改めるのは態度ではなく話の内容の方で、男が親身になって舞子のことを心配できるように、普通なら出会って初めに交わすべき挨拶をここに持ってきた。

「私は真崎舞子です。あなたのお名前は?」

 まるで嫌な勧誘に引っかかったときのような顔で答えるのを戸惑う男は、逃げ場を探して視線を彷徨わせるが、ハイジャックされた機内には逃げ場などあるはずもないと観念したらしく、やがて素直に口を開く。

「……浅井だ」

「下は?」

「浅井正義。……で、どうして辞めるんでございますか、真崎お嬢様」

 やけくそ感が強かったが、浅井がついに舞子の求めていた台詞を口にした。舞子は待ってましたと言わんばかりの笑顔が零れそうになるが、男に子犬みたいな愛想を安売りしないのが舞子の信条である。子犬の笑顔はここぞというおねだりのときだけ。だから表面上は、仕方がないそこまで訊くのなら答えてやるかという雰囲気を存分に醸し出して、浅井の質問に仕方なく答えてあげる。

「所詮、スッチーはベテランになっても『仕事ができる女』ではなく、『仕事はできる女なのに』って言われるんですよ。まあ、独身で社会に残り続ける女性はどこもそうかもしれませんけどね。結婚しようと考えて身近な環境で男を探そうにも、たまに乗ってくる金持ちでいい男こそ既婚者ばかり。残りの金持ちはケチで傲慢で下品か、加齢臭プンプンのオッサンだけ。出会いもなければ夢もない。挙句の果てにハイジャック犯の人質にされる始末……だからもう止めちゃおうかなーって」

「そうか可哀想にな。まあ俺には微塵も関係ないから好きにしてくれ」

「浅井さんは何のお仕事なされてるんですか?」

「俺は……公務員だ」

「ほぅ、公務員。何の公務員ですか? 地方公務員? 国家公務員? 役所? まさか教師とか?」

「何でもいいだろ」

「えー、意地悪言わないで教えてくださいよぉ。教えてくれるまで、私は一歩も引きませんからね。ほらほら、言ってみてください」

 議員以外の公務員なら、隠したい疚しい仕事でも、はぐらかさなければならない嫌味のある仕事でもないはずだが、何故か一瞬口籠った浅井の表情に何かを感じた舞子は、隠されると余計に気になってしまい、合コンで相手の男性の職業を聞いたときに普段使う媚びた褒め言葉を予め頭の中で用意して、浅井の機嫌を取ることも視野に入れつつ、並の男なら二秒と持たず照れるであろう顔を舞子は意識して作りながら、浅井の顔を下から覗き込み続ける。
 さあ来い、浅井がどんな職業を口にしたとしても舞子の用意はばっちりだ。実は泥棒です、なんて告白されたとしても無理やり褒め殺しにできる自信が舞子にはある。
 二秒待っても五秒経っても浅井は毛ほども照れやしなかったが、全く引こうとしない舞子の態度にはとうとう折れて、浅井は不機嫌に重たい口を動かした。

「チッ……警察官」

「ハイジャック犯を捕まえてください!」

 気が付けば褒めることも忘れて浅井の袖を掴んでいた。舞子の声だけが聞こえたらしい周囲の乗客からは、気が動転している可哀想な子を見る目をされてしまった。

「あんまり大きい声は出すな。ハイジャック犯に聞かれたら厄介だ。それに、その要望に応えるのは不可能だ。職業を教えるのだって、そんな無謀と無責任な期待を押し付けられるから嫌だったんだ」

「何でですか? プロでしょ?」

「現在進行形でハイジャックされた機体を放り出して、堂々とサボってるお前にだけは言われたくないな」

「いやいや、私は所詮、空のお茶くみですし。ハイジャックなんて専門外ですよ。命張れってんなら、もっとお給料よくしてくれないと割に合いません」

「最低だな、お前」

「だから代わりに浅井さんに働いてもらおうと思って、頼んでるんじゃないですか」

「はぁ……あのな、こんな状況で一人で立ち回るのは単なる馬鹿だ。主人公に弾が当たらない映画の観過ぎだ。エアフォース・ワンでハリソン・フォードが大活躍しようが、コン・エアーでニコラス・ケイジが果敢に悪人をとっちめようとも、そこが現実世界であれば、呆気なく弾が体に当たって死ぬんだからな」

 ブルース・ウィリスがどんなについていない主人公を演じようが、銃撃戦においては現実よりかなり幸運な方だろう。エグゼクティブ・デシジョンで機内に潜入した隊員たちの、スティーブン・セガールと比べての凡人感こそが、現実においての人間の立ち位置なのだ。
 まあ仮にこの場にハリウッドスターが一人でも乗り合わせていれば、浅井よりも勝ち目はあるかもしれない。超一流のアクションスターが目の前に突然現れれば、間違いなくハイジャック犯も怖気づくだろうから。
 しかしそんな奇跡、そうそうタイミングよくは起こらない。

「だから、俺が警察官であることはいっそのこと忘れて、殺されないように祈りながら黙って座ってろ。もしくは働け」

「ふーん、警官か……。公務員、夢はなくとも安定感はどの職よりも抜群。それによく見れば顔も申し分ない。ふむふむ」

 浅井の顔を勝手に見定めた舞子は、先程とは打って変わり少し照れた顔で、そして遠慮気味に問いかける。

「あの……急にこんなこと訊いちゃったら失礼かもしれませんが、浅井さん、彼女とかは?」

「いない」

「あ、やっぱり」

「お前、本当に失礼なやつだな」

「えーっと……この際ですね、私なら構いませんよ?」

「は?」

「私もいないんですよ、その……彼氏」

「だろうな」

「ですから、よければ私と結婚して――」

「嫌だ」

「……ああ! 結婚は早い、婚約からってことですね?」

「断る」

「二人で人生を共に――」

「断固拒否させてもらう」

 舞子の気持ちを汲んだうえで、食い気味に拒否する浅井。
 想定外だった浅井の返答に一瞬思考が停止する舞子だが、しかしこの程度で挫ける舞子ではない。日々嫌味な先輩CAの訓練に耐え抜いた舞子の心は既に鋼鉄そのもの。何事もなかったかのように顔を赤らめる舞子は、不都合を全てシャットアウトした。

「ウエディングドレス、一緒に選びましょうね」

「聞けよ! 俺は嫌だって言っただろ。大体、何で急に俺なんだ?」

「安泰の警察官だし。格好はちょっとだらしないけど、よく見ると顔は格好いいし。私ここで働くの、もう嫌だし」

「最後のはお前の勝手な都合だろうが。それに俺は一応警察官だが、エリートでも何でもないからろくな出世はしないぞ。大半の警官と同じ、ノンキャリアだ」

「それで構いません」

「公務員の癖に、土日祝日が必ず休めるわけでもないんだぞ」

「金だけ稼いで帰ってこない夫。たまに夫が尋ねてきたときだけ家事する妻。寧ろそれでいい、楽で」

「俺も定期的に家に帰ってはくるからな。俺の家なんだから」

 まるでお節介なおばさんが進める見合い話の如く、相手の気持ちを置き去りにして進められる舞子の結婚願望は止まらない。

「平均平凡平穏。平々凡々な日常。そして平々淡々な人生。これからの時代、安定こそが最大の魅力!! そして結婚相手を選ぶ最大の武器は、妥協!!」

「夢も希望も、魅力も愛もない人生だな」

「いいんです。私なら構いませんよ? 浅井さんの赤ちゃん産んでも」

「お前はいいかもな。でも俺は絶対に無理だ」

「えっ、何でですか!? 私CAですよ!? 友達に恋人を紹介するときにも、『お前の彼女何やってんの?』『ん、俺の彼女? スッチー』『おおー』ってな感じで、このネームバリューは世間の男共からも需要ありますよ。顔は人類の上位ランクに振り分けられるほど可愛いですし、胸はそれほど大きくありませんけどスタイルはいいですよ、ほら。CAのコスプレさせれば本物の領域ですよ。私が結婚相手なら、浅井さんにとっては妥協どころか、お釣りまで貰えちゃうレベルの女なんですよ!?」

「本当にいい女が、自分可愛いとか言うか? 普通」

「何でですか!? どうしてですか!? 婚期逃しますよ!!」

「婚期ねぇ……。じゃ、俺には関係のない話だな」

「何を言ってるんですか。男性も年取ってからじゃ遅いんですよ。男も年取ると生殖機能や精子も衰えますし、不妊の原因は男性にも多いって聞きますからね。俺はまだ大丈夫なんだ、なんて独身を謳歌していると後々痛い目見ますよ」

「違うんだ。そういう問題じゃない。そもそもが無理なんだよ。お前の頭の中の俺と、現実の俺とで、ちょっとした差異があるから気付き難いけどな」

「……はい?」

 浅井の要領の掴めない言い回しに、ちっとも理解のできなかった舞子は、ようやく浅井への畳みかける猛アピールを中断して、首をかしげての聞き手に回る。
 すると浅井は、ようやく黙って人の話を聞く舞子に、こんなに間近で可愛い女の子が自分から口説きにかかって、挙句の果てに子供を欲しがっていても、迷惑がる以外顔色一つ変えなかった理由を口にした。

「悪いな。俺は――ゲイだ」

「へぇ、何だそんなことですか。私の愛の前ではそんな些細な問題、私の胸よりも小さい小さい。ってか、胸が小さいって余計なお世話――ええっ!? ゲイ!?」

「一人乗りツッコミご苦労様。でも大きな声で叫ぶのはよしてくれるか? ハイジャック犯の件もそうだが、性癖の暴露は内容がどうであれ場所を選ぶものだから」

 結婚への計画があっさり破綻した。驚きのあまり叫んだ舞子の声は、コックピットのハイジャック犯に届いてしまうのではないだろうかと不安にさせるほど、見事に機内を響き渡った。
 それでも舞子の叫び声も、その内容も、この緊迫した状況下では気に留める乗客もいない。
 一人を除いては――。



          ◇◇



「……ったく、仕事中に何を話しこんでんだ、あの女」

 客室乗務員の女は、隣に座っている無精髭の男と何かを話して時折叫び、一向にその席から立ち上がろうとはしなかった。
 津田とは違い、吾妻としてはその客室乗務員に興味も関心もないので、とっととその席から退いてくれさえすればいいのだが、彼女は自らの業務をまるできれいさっぱり忘れたように、本来乗客のものである座席を我が物顔で独占していた。

「津田にあの女を呼ばせるか。そして女が席を立った隙に俺が……っ、そうなると、隣の無精髭の男も邪魔だが、ハイジャックされているにも拘らず無関心そうな男のようだし、何とかなりそうか……?」

 できるだけ目立ちたくはない。あの席の近くには例の議員、金泉もいる。
 それでもハイジャック犯の荷物や座席に拳銃を忍ばすには、一度周囲の乗客を巻き込みながら、ハイジャック犯の荷物を探るしかない。吾妻が単独でハイジャック犯の荷物を探って、後々ハイジャック犯の鞄から拳銃が発見され、それをハイジャック犯が自分たちのではないと証言すると、次に疑われるのは吾妻だ。一度は吾妻以外の乗客にもハイジャック犯の鞄を触らせるのが理想。仮に乗客が荷物の方に気を取られていれば、吾妻は座席の方に拳銃を隠すことができる。
 どちらにしろ、客室乗務員にあの席を一度空けてもらわなければ邪魔でならないのだが、動けと何度念じても吾妻の想いは伝わらない。

「畜生……どうすりゃいいんだ」

「大丈夫か? 何か飲み物頼んでやろうか? ハイジャックなんて面倒な事態に巻き込まれちまったけど、大丈夫だよ。生きて帰れるさ。だから落ちつけよ吾妻」

 呑気なのは確かにこの男の専売特許ともいえるだろう。昔からそれは変わっちゃいない。
 それでも吾妻にだって許容範囲がある。既にボーダーライン擦れ擦れのそこに、今向けられたくもない笑顔と的外れな言葉を遠慮なく注がれれば、心の器から怒りが溢れ出てくるのは避けられない。

「……俺が面倒なことで頭悩ませてるのはなぁ、津田、テメェの所為だろうがァ!!」

 抑えられない怒声と共に、吾妻は津田への不満をとうとうぶつけ始めた。
 しかしその声もまた、この緊迫した異常な状況下では、些細な出来事の一つに過ぎない。



          ◇◇



 元秘書の伊梨花は、元雇い主に噛み付いていた。
 それは比喩だったが、本当に頸動脈にでも噛み付いてしまいそうな剣幕には違いない。

「私がクビってどういうことですか!? きちんと説明してください!!」

「まあまあ、落ち着きなさい、伊梨花君」

 伊梨花の目に裏切り者として映る金泉の言葉では、伊梨花を宥めることなんてできない。
 それどころか今の伊梨花相手では、例えハイジャック犯でも制するのは難しいかもしれない。

「落ち着けませんよ! だっておかしいですよ!」

「今その話しをするかね? 生きるか死ぬかの瀬戸際だぞ。死ねば仕事もできんぞ」

「それでも納得できません。不当解雇です。長年大きなミスもなくやってきたじゃないですか?」

「思い返せば、小さなミズは多々あったがな。今日のこの座席とか」

「それなのに、突然解雇ですよ……この歳で」

「君も、もう所謂アラフォーだな」

「再就職どうするんですか……」

「嫁にでもいったらどうだ? 年齢的にもタイミングは悪くないと思うが」

「古い考え方ですね。それにそもそもそれができるのなら、とっくの昔に結婚してますよ!」

「しないのではなく、できないのだな。情けない」

「あなたのために働いてきた私に、嫁としてのスキルは一つもありません! それを覚えている間に、もう四十です! 人生終わりです!」

 ハイジャックに巻き込まれている今は、来年の誕生日を迎えられるかどうかの瀬戸際なのだが、ハイジャックなど頭から吹き飛んでいる伊梨花にそこまでの余裕はない。
 目の前の現実よりも、未来の孤独に恐怖する六場伊梨花、三十うん歳。人生のターニングポイントは生死ではなく、婚期なのだ。
 狭い機内と勝手に立ち上がれない状況で、伊梨花の隣から逃げ出すことも叶わない金泉は、落胆と絶望する伊梨花の項垂れる姿に見兼ねたらしい。罪悪感なんて人間らしい感情を、面の皮が足の裏の皮よりも厚い金泉が持ち合わせているわけなどないが、面倒なことを引き起こしてしまったという自覚はあるらしく、伊梨花のためか、はたまた自分のためか、優しく語りかけてきた。

「そもそも私が、三流大学に目的や将来の目標もなくただただ通い、愚かな大学生として日々を過ごして青春を食いつぶしていた伊梨花君を、何で雇ったと思う?」

「……そんなの知りませんよ。コネじゃなかったでしたっけ?」

「まあそうだったが、コネは所詮、伊梨花君と出会う切っ掛けに過ぎない。私はコネ如きで不必要な人材を押し付けられてしまうほど愚かではないのでね。私はそれでも伊梨花君を雇った。経験もない、資格も持っていない、大した能力があるわけでもない、おまけに周りに合わせて取り敢えず就職しただけの中身は子供の若者なんて要領が悪い悪い」

「……酷い言われ様ですね。では何故、私を雇ったんですか?」

「それはね――ルックスだよ」

「ルックス? 大学生の私、全然モテませんでしたけど……?」

「いやいやそんなことはない。垢抜けず美に疎い当時の君は、一見大したことないように見えるが、磨けば光る女だと私は確信していたんだよ。地味子の隠し持つエロさは私のナニ……ああいや、仕事への意欲を奮い立たせるスパイスだったし、更に垢抜けたあとのギャップも楽しめる。それに当時は私専用の美人秘書兼愛人にでもできるかなと思ったんだ。ちょうど都合のいいのが一人不祥事で辞めて人手も欲しかったし、だから秘書として君を雇ったんだよ」

「……私は愛人になった覚えはありませんが」

「ま、結果的には伊梨花君が愛人向きではない性格だと悟って愛人にはしなかったんだが、私の目に狂いはなく、その証拠に今でも君は綺麗だ。だが……大学を卒業して直ぐの君を拾ってやってから早十数年。あの頃の君は本当に可愛かった。……若くて」

「若い……」

「いやいや、今でももちろん君は綺麗だよ。歳の割に若く見えるし、その年代ではトップクラスに美しい。皺も少ない、スタイルも崩れてはいない、パッと見では何とか二十代に見えなく……なくもない」

「では先生、やっぱり解雇の件は、なかったことに!?」

「でも私はやっぱり若い娘の方がいい。仕事が満足にできなくとも、あの初々しい皺のない笑顔を見るだけで心が安らぐ。そしてキュッと上がったお尻に指を食い込ませることを想像すると――うん、秘書はやはりぴちぴちの若い子がいいいいいいいいいいいいい!?」

 伊梨花は金泉のその憎ったらしい頬を抓る。
 感情の一切が失せた真顔で、力の限り抓る。
 四十間近の指で、肉を引き千切ってやるつもりで抓る。

「っっっ――な、なにほしゅる!?」

「可愛くありませんので頬を抓られたまま話さないでください」

「ふん、結婚もできない年増の癖に」

「黙れッ!!」

「ごぶぐッぅ――!?」

 抓られた頬を痛そうに抑えながら伊梨花の方を振り向いた金泉の鼻っ面目がけで突き出される伊梨花の拳は、伊梨花自身も驚くほど見事にヒット。初めて人を殴って痛む拳が、殴られた瞬間に拉げた金泉の鼻にかかる衝撃を伝えてきた。
 人を殴れば殴った本人の手も痛いからお互いに傷付くんだと誰かは言うが、実際は殴られた人物の方が数十倍痛い。それを自らの拳で証明してしまった伊梨花の隣では、金泉が二つの鼻の孔の両方から血を流し、座席に深く体を預けて白目を向いたまま、まるで死体のようにピクリとも反応を示さなくなる。
 憎まれ口も叩けなくなった金泉の変わり果てた姿に、伊梨花はサスペンスドラマで勢い余ってやっちまった殺人犯のように、震える指で金泉の脈を取る。そして伊梨花はほっと溜息をついた。幸運にも脈に反応はあった。呼吸もしている。

「よかった……取り敢えず死んではいないみたいですね。あの、すみません、毛布頂けます? お疲れだったみたいで、ぐっすり眠ってしまわれたみたいなんですよ」

 伊梨花は、客室乗務員の制服を着ていながら何故か近くの座席で寛いでいた客室乗務員の女性に声をかけた。

「……え? ああっ! はいはい、少々お待ちください」

 一瞬、自分が呼ばれたことを心底不思議がって戸惑った客室乗務員の彼女は、自分の格好に視線を落としてようやくハッとする。まるで自分が客室乗務員だったことを思い出したかのように立ち上がる彼女は、反射的に口からついて出た模範解答の口調とは裏腹に、エコノミークラスの座席が余程お気に入りなのか、渋々重い腰を上げる。それも、お仕事中の客室乗務員が絶対にしてはならないだろう不機嫌な顔で。

「チッ……面倒臭い」

「それがお前の仕事だ。悪態吐く前に仕事しろ」

「じゃあ、ちゃんと働いたらご褒美に私と赤ちゃんを――」

「生理的に無理だ」

「酷っ!? 私、男の人にそこまで拒否されたの人生初めてですよ! 私が誘ってエッチしない男なんて、この世で浅井さんだけですからね!」

「猿山をこの世界の中心にするなよ」

 隣のスーツを着た無精髭の男性は恋人……ではなさそうだ。仲は良さそうだが。
 キレのない動きで立ち上がる客室乗務員だが、口はともかく客室乗務員の端くれとして最低限の仕事はしてくれるだろうと、同じ働く女性として伊梨花は彼女のまだ見ぬプライドを信じたのだが、気怠そうに背中を少し丸める客室乗務員は座席の前に立ったまま、歩き出す様子もなく辺りをきょろきょろと見回して、ハイジャックという緊迫した環境の中でも乗客のためにせっせと働く別の客室乗務員を見付けると、居酒屋での注文のように、大きな声ではっきりとこう告げた。

「あっ、先輩。あちらのお客様に毛布お願いしまーす!」

「お前なぁ……」

 先輩と呼んでおきながら、先輩に対する敬意どころか、自らの仕事もプライドと一緒にどこかへ置き去りにしているらしい堂々なまでの図々しさに、隣の無精髭の男性も呆れを隠せず、更にはエコノミークラス前方の座席からもヤジが飛ぶ。

「糞ッ! 何で仕事しねえんだ、お前はよ!!」

 無精髭の男性は、響き渡ってきた怠惰な客室乗務員への罵声を示して注意する。

「ほら、あんな遠くに座る客も、お前のあんまりな仕事振りにキレてるぞ」

「えー。どれどれ、そんなこと言うのは誰ですか? ああー。いいや、あの人は私のファンですね。離陸前、あの人の隣に座るお友達らしい男性が、私に声かけてきましたもん。二人して私に惚れたな」

「どっから湧いてくるんだ……その自信は」

 せめて悪びれる素振りの一つでもして見せれば可愛げもあるものの、確固たる自信しか感じさせない客室乗務員の返答に、無精髭の男性は疲れた様子で項垂れる。
 そしてこちらも同様。やはり若さ故か、伊梨花は客室乗務員の横顔に窺えた揺るぎない自信と潤いに満ちた肌に、二十代と三十代の壁の厚さを実感して項垂れながら、金泉の言葉も世の男性の一般論からは大きく外れていないのだろうと落胆した。

「あの傲慢さが若さ……恐ろしい、二十代」

 男はやはり、若い女に手を出したくなる生き物なのだろうか。

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