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修羅場
しおりを挟む夫婦での楽しい旅行が一転、修羅場目前、地獄の三者面談に切り替わった小野佐賀男の心中は、やはりハイジャックどころではなかった。
佐賀男にとっては存在不確かなハイジャック犯の爆弾よりも、両隣の女共の交わす、いつ炸裂するかわからない言葉の方がよっぽど爆弾らしくて、ハイジャックがちんけな出来事に思えてしまうのだ。
それでもハイジャック犯らしき金髪の男が拳銃を見せびらかし脅したお蔭で、暫くは松代も琴美も大人しかったのだけれど、ハイジャック犯が消えた客室である程度の言動の自由が許されると、松代は不安がっているらしく、佐賀男に体を寄せる。
「……ねえ、大丈夫かしら?」
「大丈夫だ。ハイジャック犯も自分諸共爆弾を爆発させるつもりはないだろうし、捨て身じゃなければ、いつか地上に降りて解放されるときがくるさ。それに、俺がいるだろ。お前のことはちゃんと守るから安心しろ」
「ええ、頼りにしていますよ」
体を寄せてきた松代の手に、佐賀男がそっと手を重ねて包み込み握ってやると、不安も幾らか軽減されたのか、松代は小さな笑顔を浮かべていた。
それを傍から怖い目で眺めていた琴美は実に白々しく、佐賀男のもう片方の手にそっと自分の手を重ねる。
「ああ、私も怖い」
「……おい琴美、離れろよ」
「……あら、奥様には優しいのね。奥様だけには」
佐賀男が琴美の耳元で注意すると、不満を口にしながらも、まるでこの状況を楽しんでいるかのような、悪魔に似た笑みを琴美は浮かべて佐賀男に囁き返す。
琴美を蔑ろにして、悪魔に似た笑みが悪魔そのものに変わるのではないかと恐怖しながらも、松代が怒ったときの厄介さを天秤にかけて妻を優先する佐賀男は、松代に悟られないように琴美の手をこっそり振り払う。
それでも琴美は悪びれる素振りも、ちょっかいを出すことを止める気配もなく、佐賀男に構ってもらえないことが琴美をまるで子供のようにさせてしまったのか、今度は松代に向かって小さな悪戯心を向ける。
「いいですね、夫婦って。どんなときでも手を取り互いに励まし助け合う。小野さん夫妻は私の理想です。それなのに私の彼ときたら……」
「結婚するならね、あなたを幸せにしてくれる人じゃなくちゃ駄目よ。男は掃いて捨てるほどいるんだから、そんな女の子一人も幸せにできないろくでなしの男なんて、あなたから見切って捨てちゃいなさい。そしてまともな恋愛をしなさい。人生なんていつ終わるかわかんないんだから、生きて帰れたらこれが転機だって割り切って、ね?」
「掃いて捨てるほど……その中で私が好きになって付き合える人は、果たして何人いるのでしょう? もしかすると人生でたった一人しか愛せないかもしれませんよ?」
「百人だって千人だって愛せる可能性もあるわよ。人類の半分は男なんだから」
「その人類半分の男の内、何割が既婚者なんでしょう。私に独身の男性は残ってるんでしょうか」
「何を言ってるの、独身に限れば若い子の方が多いじゃない、若い男の子なんて日々どんどんいい男になって成人してるのよ。選びたい放題じゃない。この際だから若い子にしておきなさいな。あなたの美貌なら、年下のイケメン君も簡単に落とせるでしょう? 年上なんて我が儘で傲慢で、その上先に老けてオジサン臭くなっていくだけ。付き合っているときならともかく、結婚となると後々面倒なだけなんだから」
「……そうですね、考えてみます」
どうということはない。笑顔で交わされる琴美と松代の会話は、相手への悪意も、不自然に際立つワードも含まれてはいないはずだ。
しかし直接的に浮気を松代に感付かせる会話でないにも拘らず、琴美の言葉はどれをとっても佐賀男には不穏に聞こえ、いつ琴美が口を滑らすかと不安で気が気ではない。
「あなた、私ちょっとお手洗いに」
「……えっ? ああ! そうかそうか、ゆっくりな。座ってばかりだと気が滅入るだろう、リラックスしてこい。ゆっくり行って、ゆっくりと戻ってくればいいからな。俺に気を遣うなよ。何ならハイジャック犯にもだ。機内のトイレは快適だろうな。ははは」
「ええ……? そうするわね」
松代が席を立つと知った途端に気が楽になったせいか、解放された心が少々口を滑らかにし過ぎた。松代には戸惑われてしまったが、佐賀男もこのハイジャックされた環境の所為で疲れているとでも判断されたらしい。追及は受けなかった。
松代がトイレに向かって座席から十分離れると、佐賀男は気になりつつも触れることのできなかった、佐賀男のストレスの原因である琴美をようやく問い詰める。
「……琴美、どういうつもりだ? 何でお前がここにいるんだよ!?」
「だって、佐賀男さんが奥様との旅行をあんなにも楽しそうに自慢するから、私も行きたいなーって思って。運が良ければ向こうで会えるかなとは思っていたけれど、まさか同じ便、それも隣の席に座ることになるなんてこんな偶然、私も想像してなかったわ。ああ驚いた」
「自慢なんかしてないだろう。ただ俺は、妻と旅行に出かけなくちゃならないから、暫くお前とは連絡が取れないって言っただけのはずだぞ。なのにこんなところにまでついてきて……」
「へー、奥様想いでいらっしゃること。でも、佐賀男さんが飛行機のチケットを買ったその足で私に会いにきてくれていたなんて、あの奥様が知ればさぞお喜びになることでしょうね」
「……そのときに確認したのか、俺の座席番号を」
「あら? そうだったかしら」
「……とにかくだ、妻に関係をばらす気はないんだよな? だったら頼むから大人しくしていてくれよ。琴美、お前のためにも俺は言ってるんだぞ」
「はーい。気を付けまーす」
琴美のあまりにも呑気な返事に、佐賀男は問い詰める前よりも不安を大きくしてしまうが、ゆっくりしてこいと念を押したはずの松代が早々にトイレから戻ってきて、強制的に話は切り上げられた。
琴美とは偶然居合わせているだけの他人で、話しかけるのも躊躇われているような微妙な距離感を演出しつつ、何食わぬ顔で出迎える佐賀男の隣に松代が座り直して暫くすると、松代は再びぽつりと呟く。
「……やっぱり不安だわ」
「大丈夫だ。ハイジャック犯も今に説得されて地上に――」
「旅行、どうなるかしら?」
「……心配はそっちか」
「出張の多いあなたは、日頃から色んな場所へ出かけているからいいでしょうね」
「それは仕事だろ。遊ぶ時間なんてないさ」
「はいはい、仕事仕事。ハイジャックに巻き込まれたからって、休みを一日余分に貰えるわけじゃないでしょうね。きっと私が死んであなただけが生き残っても、出社しなさいと言ってくるでしょうね、あなたの会社は。だって仕事ですもの。だから私は、今のこの旅行がどうなるか心配なのよ」
この状況に対する不満に加え、佐賀男の日頃の行いに対する不満にまで松代の愚痴は飛び火してしまい、佐賀男は息を呑む。
出張、と松代には伝えていたが、実際は出張になど殆ど行っていない。松代に聞かせた出張話は、琴美と一緒にいる時間を作るための常套手段だ。
琴美と行った温泉旅行の際も、松代には出張だと嘘を吐いて家を出ている。嘘の出張をいかにそれらしく見立てるかは重要で、赴いてもいない各地のお土産を取り揃えた、駅やデパ地下にある店には、偽装工作のために何度もお世話になっている。
「あーあ。私も三か月前に、温泉旅行へ彼と一緒に行って以来、久々の旅行だったのに。あのときは楽しかったなぁ……月の頭から三泊四日」
「あら、いいじゃない。私なんて子供が大きくなってからはさっぱり。折角子供に手がかからなくなったんだから誘ってくれればいいのに、この人ったら全然。ご機嫌取りでもいいから、私もそうやってたまには旅行にでも誘ってもらいたいものね。……あ、でも三か月前って言えば、あなたも一日から出張だったわよね?」
「え? ああ、ぅん? そうだった……かな?」
目の前の男が浮気相手の当人なのだからスケジュールが丸被りなのは当然。疑惑こそ持っていないらしいが、何気ない松代の言葉に佐賀男は酷く動揺しつつも、表情にだけは出してなるものかと必死に努め、肯定とも否定とも取れる言葉で白を切る。
「全く……呆れたわね。甲斐性なしはこれだから……。私はちゃんと覚えてるわよ、休日にも拘らず、あなたが私を家に置いて仕事を優先した日くらい。そんなことじゃ、あなたには到底無理ね、不倫なんて」
「あっ、当たり前だろ!?」
「ちょっと……何でそんなに声を張るほど自信満々なの……? そう言ってくれて私は嬉しいけど……今日のあなた、ちょっと変よ?」
「そうか? いつもと同じだろ。変なところなんて微塵もないさ。あははは」
松代の疑い混じった視線に、佐賀男の鼓動は速くなり、作り笑いが増える。
隣の松代の目を直視できていない佐賀男の挙動を流石に見兼ねたが、琴美が口を挿んで松代の視線を佐賀男から逸らした。
「ねえ奥様、ご主人、出張が多いんですか?」
「そう。先月も先々月もその前の月も、出張出張出張、仕事仕事仕事――」
「ああもう、わかったわかった。俺が悪かったって。だから今回、こうやってお前への旅行をプレゼントしたんだろ?」
「ハイジャック付きのサプライズまでね。ああ嬉しい」
「それは俺の所為じゃないからな。文句は直接自分で犯人に言ってやれ」
いっそのことそのまま殺されてしまえは気が楽なのに。と、不穏な考えが過ったのは、一時の気の迷いに違いない。決して心の底から願っているわけではないはずだと、佐賀男は自分に対して首を振る。
「実は、私の彼も旅行に連れて行ってくれたのはそんなに頻繁でもなくって、なかなか会ってくれないんですよ。私の彼の場合仕事ではなく、とってもこわーい奥様がいるから、なんですけどね。はぁ……いつになったら毎日会えるのかな。早く離婚しないかな、さがぉ――」
松代の感の悪さに気が緩んだのか、呆気なく不倫相手である佐賀男の名前を口走りかけた琴美は、慌てて口を閉じると無理やり話を戻すことで取り繕った。
「――妻とは別れるって言ってるのに、その男、全然離婚してくれないんですよ」
今まで佐賀男をからかうことに専念していた琴美は、自身の失言にようやく動揺を見せた。
しかし琴美以上に焦ったのは佐賀男自身だ。琴美の失態を笑ってなどいられない。口から飛び出しそうなほど強く脈打つ心臓の音を松代に聞かれないように口をぎゅっと一文字に閉じながら、松代の顔を恐る恐る窺う。
怪しげな新興宗教や教祖様にはまる信者よりもよっぽど強く、いるはずもないと今日まで足蹴にしてきた神に、この日だけは死に物狂いで助けを求めながら。
「うーん……話しを聞く限り、その男は離婚しないわね。そもそも、その男に奥さんと別れる気なんて更々ないのよ。今の状況を楽しんで、自分の快楽だけを満たしてるの。その男にはどちらの女も幸せになんてできないわよ。浮気という手段を選んだ時点で、奥さんと愛人両方に傷付く道を選ばせて、自分だけは傷付かないようにしているんだから。最低の男よ。こっ酷く振って、捨ててやりなさい」
「……そ、そうですよね。参考になります」
相槌を打ちながら作り笑いを塗り固める琴美と、佐賀男の心中は同じ言葉で独占される。
よかった気付かれていない。と。
しかしホッとするのも束の間、会話の中に幾度となく現れる浮気の証拠に焦る佐賀男は、いつの間にか全身汗だくになっており、鈍感な松代も流石にこの異変には気が付いた。
「ねえ……あなた、どうしたの? 顔色悪いわよ。それに汗びっしょり」
「えっ……? いや、ほら、こんな状況だからかな。緊張しちゃって……」
こんな状況。ハイジャックとは限定しない、この緊迫した状況。
佐賀男は、ボディブローを受け続けダメージが蓄積し足元の覚束なくなったボクサーのようにダウン寸前だ。松代と琴美が発する言葉の重みは、筋肉の塊みたいなヘビー級ボクサーのパンチと同等。そんな言葉の拳を今まで逃げることなく受け止め続けてきた佐賀男は、ボクシンググローブさえ重く感じて防御すら危うく、次の一撃どころか、息を吹きかけられただけでもダウンしかねない。
次に聞こえた言葉が再び緊張を強いるワードならば、飛行機の中とはいえ逃走しかねないと、佐賀男が自らの精神の限界点を見てしまったその瞬間、ダウン間際で救いのゴングを鳴らしたのは、機転を利かせる琴美だった。
「あ、喉渇きません? ねえ奥様」
「そうね。でも今って客室乗務員に用事を頼んでもいいのかしら……?」
「……じゃ、じゃあ俺が取ってくるよ。コーヒーでいいか?」
「ええ、お願い」
「私も手伝いますね。ちょうどお手洗いにも行きたかったところですし」
ここぞとばかりに進んで働く佐賀男は、松代から逃げるように座席後方へ向かう。その後ろを琴美が付いてきた。
客室間に設けられたトイレの前に辿り着くと、松代がこちらを窺っていないことを確認した佐賀男は、トイレに入る琴美の後に続いてするりとそこへ潜り込み、後ろ手に鍵を閉めて、琴美の肩を掴んで無理やりこちらを振り向かせた。
「あらやだ、佐賀男さんったら積極的。奥様がいるのに大胆ね。それとも、奥様が近くにいるからこそ、燃え上がっちゃったのかしら? ……いいわよ、キスくらいなら」
「違うよ。この状況でそんなことできるわけないだろう。じゃなくて琴美、さっきはなんてこと口走りかけてくれてんだよ。よりにもよって、俺の名前を言いそうになるなんて……」
「えー、ごめんなさい」
「危うくばれるところだったじゃないか」
松代に感付かれないように上手く隠し通してきたのに、琴美の一言で台無しになるところだったと、佐賀男は怒りを静かにぶつける。
佐賀男が松代に琴美のことを隠し続けてきたのは、この日に限ったことではない。積み上げてきた嘘の数と、失う物の大きさは、比例して膨らみ続けている。
既に後には引けない浮気男には、一つのミスも許されない。
「いいか琴美、お前は口数が多いんだよ。必要のないことをべらべらべらべらと。お前だって俺との関係がばれると都合が悪いだろ? 得することなんて一つもないはずだ。だから人には言えない関係だってことをもっと自覚して、できるだけ会話を少なくだな――おい、俺の話をちゃんと聞いてるのか? さっきから何してるんだよ?」
「んー? ちょっと探しものが……」
大半は保身のために、けれど建て前は琴美のためにと説教を垂れる佐賀男の言葉を聞き流し、琴美はハンドバッグを漁りだした。
説教中なのに他のことに気を取られるなど、これが会社の部下や実の子供なら間違いなく説教の時間が倍以上に伸びるところだが、目の前の女はそのどの立場にもない愛人。つまり愛する人であり、叱りつける対象ではない。そもそも佐賀男との秘密を共有する琴美は、佐賀男が松代に次いで怒らせてはいけない人物で、機嫌を損なわせないようにすべき相手でもある。
佐賀男が仕方なく苛立ちを置いて、諦め交じりで優しく問いかけると、バッグの底から服のポケットに至るまで全てを調べ尽くした琴美は、自身の失態に確信を得た苦い顔をしてみせた。
「……あっ、やっぱりだ。ここにないってことは……座席に携帯電話、忘れてきちゃったかも」
「そんなこと、今はどうでもいいだろ。どうせ飛行機の中で携帯電話なんて使えないんだから」
「どうでもいいってそんな……まさか忘れちゃったの? 佐賀男さんと撮ったプリクラのこと」
「プリクラ? ……お前、まさか!?」
それは先月のこと。最近の流行りだからと、琴美にどうしてもとせがまれて年甲斐もなくプリクラなんてものをゲームセンターで撮らされていた。こんな写真シールのどこがいいんだと思いながらも、始めて撮ったプリクラに写る琴美の嬉しそうな顔に、まあこれくらいなら構わないかと放置していた、佐賀男の浮気を示す唯一の物的証拠。
随分と長い間、浮気が松代に気付かれていなかったことで、佐賀男自身の警戒心が薄れ始めていたのだろう。琴美に指摘されるまですっかり忘れてしまっていたのだが、佐賀男は必要ないとプリクラを受け取らず私物のどこにもシールを貼らせなかったが、琴美は自分の携帯電話の裏に張り付けていたと、佐賀男は思い出す。
「お前、あれをまだ剥がしてなかったのか!?」
「ええ、もちろん。だって佐賀男さんとの大切な思い出ですもの」
焦りや後悔の欠片もなく当然と言ってのける琴美の言葉を聞き終わるより早く、佐賀男は慌ててトイレを出た。
扉の外にいた女性が、トイレから出てきた佐賀男と、その後ろに琴美の姿を確認して驚いていたが、佐賀男は顔を隠すこともなく、それどころではないと一目散に自分の座席へと戻る。
席に戻って真っ先に窺うのは、松代の様子だ。
けれど、松代は何とも呑気に一人窓の外を眺めており、肝心の琴美の携帯電話は、琴美の座席の隅にぽつりと転がっていた。松代からでは肘掛けの陰にでもなって携帯電話が見えなかったのだろう。
崖っぷちで背中を押されて何とか踏み止まれたような心境の佐賀男はホッと一安心すると、全身から力が抜ける感覚に陥り、立っていられないと覚束ない足取りで自分の席に座る。腰を下ろすと、琴美との燃え上がった夜の燃えカスを思い出させる虚脱感が襲った。
プリクラを携帯電話の表に貼る物好きは滅多にいない。琴美の二つ折りの携帯電話も、確か裏側のバッテリーパックの蓋にプリクラのシールを貼ってあったはず、プリクラの面を下に向けて携帯電話が座席に転がっていたのも、幸いしたのかもしれない。
佐賀男は松代が窓の外に注目している隙に、視線は前の座席に向けたまま、左手の感覚だけで手早く琴美の携帯電話を拾い上げると、自らの太股と肘掛けの間に滑り込ませた。
そこでようやく松代が佐賀男の存在に気が付いたらしく、窓の外をぼんやりと眺めたまま声をかけてくる。
「……あなた、飲み物は?」
「え? 飲み物? あっ、ああ、いや、こんな事態だし、客室乗務員の皆さんも忙しそうだったんだ。だから今回は諦めたよ。またあとで取りに行ってみようかな」
「ふーん……そう」
素っ気ない一言でブツンと途切れる会話。これが普段の食卓で繰り広げられていれば気まずく辛かったが、今は無駄に続く会話が一番の不安材料。ぼろを出さないようにするには、佐賀男自身が黙っているのが一番いいに決まっている。
なのだけれど……なんだろう。とても何かが気になり、引っかかる。
違和感の原因が何なのかは自分でもハッキリとしない。けれど佐賀男の中で、直感的に何かが引っかかったのだ。
佐賀男が言い知れない不快な引っかかりに、原因を求めて考えを巡らせていると、そこへ琴美が遅れて戻ってくる。隣の座席に腰を下ろす琴美に、佐賀男は隠していた携帯電話を、琴美の方は振り向かずに左手でこっそりと返した。
しかし、携帯電話を無事受けとったはずの琴美は、手の中で携帯電話をくるりと裏返すと不審そうに佐賀男を見詰める。
「……ねえ、ちょっと」
「……話しかけるな」
最低限の気遣いとして琴美は小声を使うが、できることなら話しかけないのがこの場での最善のマナーだと眉をしかめる佐賀男は、煩わしいと琴美を突き放す。
それでも引くことのない琴美は、不満げにもう一度声をかけてきた。
「これ、どういうこと?」
言いながら琴美が佐賀男に見せてくるのは、たった今、佐賀男が手渡した携帯電話。
二つ折りの携帯電話の裏側を佐賀男に突き付ける琴美は、ここにあるはずのものがないと、不満を頬に含みながら示す。
「そんなにプリクラが嫌だったからって、剥がすなんて酷い。佐賀男さんの意地悪」
「え? ……いや、俺は携帯電話を触っただけで、プリクラを剥がしてなんて――ッ!?」
喉の奥に刺さる小骨のようなチクチクとした不快な違和感。座席に戻ってからずっと気になっていたその理由に、ようやく佐賀男は気が付いた。
佐賀男が座席に戻ってからずっと、松代が窓の外を眺めている。佐賀男の方を振り返ろうともせず、ずっと。けれどよくよく考えてみれば、太平洋上の高度一万メートルから眺める景色の殆どは空と雲、そして海。地上からでは見られない美しい光景ではあるだろうが、代わり映えしない窓の外など、離陸直後ならともかく今更眺めて目新しい景色ではないはずだ。例えば窓の外でエンジンから煙でも噴き上がっているのなら話は別だが、乱気流もなく、ハイジャック犯すらも爆弾のスイッチを押していない機内は揺れもなく、飛行機としては順調そのもの。
だからこそおかしいなと、窓に食いつく松代の背中に違和感を見付けた佐賀男は、体をずらして松代の後頭部に隠れていた窓を自分も覗き込んで、絶句した。
松代の眺めていたのは、窓の外の景色などではなかった。佐賀男が窓の外を眺めていると思い込んでいただけで、松代の視線は窓ガラスそのものに焦点が合わさっている。
更に正確には、窓に貼られた一枚のシール。
例の、佐賀男と琴美が写ったプリクラが、いつの間にか松代の眺める窓に張られており、松代はじーっと、プリクラが貼られたその一点を凝視し続けていたのだ。
佐賀男の頬にキスをした瞬間を捉えた琴美お気に入りのプリクラが、松代の目の前にある。他人の振りを貫き通してきた男に、もう言い訳の余地はない。
松代がプリクラから視線を外さずに、平坦な声で言葉を紡ぐ。
「あなた……これ、どういうことなの?」
「いや、それは……」
「説明、できるわよね?」
「……もういっそここで爆破して、海に落っことしてくれ……」
妻との銀婚式を祝う幸せな旅行だったはずなのに、気が付けば乗員乗客、更には爆弾のスイッチを押したくはないと語っていたハイジャック犯を含め、現状の機内で唯一飛行機の墜落を強く望んでいた男は、人生のどん底に向けて急転直下、頭から真っ逆さまの墜落を始めた。
◇◇
パイロット二名を見張っていた兄の初司は、客室を回ってコックピットへ戻ってきた弟の育矢を出迎える。
「乗客はどうだった?」
「問題ない。当分逆らう野郎は現れないはずだ」
育矢がそのためにどのような方法を使ったか、それはずっとコックピットに籠っていた初司にも予想がつく。何度か聞こえてきた乗客の短い悲鳴が、育矢の行動を想像させるのを容易にさせた。
初司は内側から鍵をかけた扉の近くに体を寄せると、パイロット二名には聞かれないよう小声で育矢だけに話す。
「そうか。よくやった。で……あの男の様子は?」
「ちゃんとあの席で大人しくしてるよ。太々しい顔は相変わらずだな。隣の女が不機嫌なのも、あいつが原因だろうよ、可哀想に」
「……そうか」
兄弟二人が同じ顔を思い浮かべて語るあの男。その男こそが、初司たちの目的であった。自分たちでも馬鹿げた手段であるとは理解しているハイジャックを起こさなければならないその理由、それがこの機内にいるのだ。
初司がその男の憎たらしい顔を思い出して、爪が手の平に食い込むのも構わず拳を握り込んでいると、怒りに呑まれそうになる初司に気を使ったのか、自分たちの悪事の大きさを忘れたかのような顔に加え、まるで友人とでも話す気軽さで育矢が口を開いた。
「――でもさ、それより兄貴も凄いよな」
「……何がだ?」
「コックピットに入って直ぐの、あれだよ。女に拳銃突き付けて、生意気なパイロットを黙らせただろ? 悲鳴を聞きたいだとか何とか言って。あんなに兄貴がイカれてるなんて、初めて知ったぜ」
「ああ……あれか。俺は別に女の悲鳴で興奮するような性質じゃねえよ。ましてや人を殺して快楽を得られやしないし、だとしたら俺に爆弾のスイッチなんて持たせてるのはお前のミスだ。目的忘れてうっかり押しちまうだろうが。あんな狂ったこと、俺にできるわけがないだろう」
「いや、でもさっきは、あんなにそれらしく言ってただろ?」
「俺はこの日のために準備してきた。脅しくらい嘘でも何とでも言える。それに――」
「それに?」
「――俺はドM、根っからのマゾだ。一本鞭の女王様万歳」
「えっ……? ちょ、ちょっと兄貴、おい! ええっ!?」
「育矢、お前は適当に乗客を見張ってろ。反撃しようと考えた乗客に徒党を組まれるのが一番厄介だからな。それとあの男の様子もな」
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「……どういうことだ?」
「聞こえなかったのか? 成田の空港に引き返すんだ。本来の目的地まで半分も飛んでないんだから、燃料はまだまだ残ってんだろ」
「それはもちろんできるが……」
「できるかできないかを訊いているんじゃない。やれ。命令だ」
拒否権はない。利口な機長は直ぐに理解してくれたようで、初司の指示通り操縦桿を握った。
機体は徐々に旋回を始める。
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「テロなんかじゃない……これは個人的な、復讐だ……」
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