バッドラック ――ハイジャック騒ぎの中、個人的な問題に慌てふためくエコノミークラスの乗客たち――

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拳銃の行方

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「全く……やってらんないわ」

 気絶してしまった金泉に毛布を深くかけて睡眠中に見えるよう偽装すると、推理ドラマでアリバイの為にトリックを使う殺人犯の気持ちをちょっとだけ理解した伊梨花は、これもまた殺人犯の心境に似ているのだろう、全てが終わった気がして深い溜息をついた。

 伊梨花と金泉の関係性は長い。親の知人で会った金泉に縁故採用で秘書にしてもらってから幾十数年、自分が表立っての政治の道に進むことは考えていなかったが、拾ってもらった恩義は感じて人生の大半を仕事に尽くして頑張ってきたつもりだった。

 しかし、その結果がこれだ。
 金泉は所詮、四十間際の女を若くないからという理由で切り捨てる人でなし。自分では教養があると思い込んだ馬鹿で高いところが好きだから議員に担ぎ上げられている、利用できるために人が離れていかないだけの屑である。

 金泉の下で長年働き続けている伊梨花はそのことを重々理解していたはずなのに、まさか自分が金泉に切り捨てられるとは想定しておらず、このありさま。これがあと十年若ければ、伊梨花にも様々な選択肢が思い描けていただろうが、四十間近の伊梨花には安定と普遍こそが唯一の将来像だった。

 閉じきっていない瞼から白目を覗かせて気を失っている金泉は、離陸からずっと眠りこけている隣のお爺さんと並んでいると、どちらも本当に生きているのかちょっと疑ってしまう。それでも金泉の方は確かに死んではおらず、更に伊梨花が彼を殴ったのが原因で気絶したことも事実。金泉が目を覚ましたところでクビは回避できそうになく、今更足掻いたところで無駄だろう。こうなれば伊梨花に怖いものなど、毎年重ねる年齢以外は何もない。

 解雇を受け入れた伊梨花は席から立ち上がると、客室乗務員だけが入ることを許された、客席間にあるカーテンで仕切られた空間に断りもなく入る。普段であればここには、給仕に勤しむ客室乗務員の姿があったのだろうが、ハイジャックなどという非常事態に陥っているためか、今は誰もいなかった。
 機内で提供される飲み物や食事などが保管されている棚を、伊梨花は漁る。

「どこだ、どこだーっと……お、あった!」

 それはワインボトル。既にコルクは抜かれているが、まだ中身はたっぷりと残っている。

「どうせ死ぬなら、酔っぱらって死んでやる。――っお!?」

 ワインボトルとカップを掴んで席に戻ろうとすると、トイレの前で男と出くわした。
 こんな状況にもかからず、女をトイレに連れ込んで一体何をしてたんだか。
 しかも冴えない男に対して、相手の女は随分な美女である。それに伊梨花より若い。

「どいつもこいつも……若い女の尻ばっかり追い駆けやがって」

 自棄酒だ。座席に戻った伊梨花は金泉の隣にドカッと腰を下ろして、自酌でたっぷりとワインを注ぐ。

「かんぱーい!!」

 気を失った元雇い主の隣で、衣梨花の一人送別会が始まった。



          ◇◇



「津田、どこ行ってたんだ?」

「便所だよ。便所」

 いつの間に席を立ったのだろう、客室乗務員ばかり気にしていたせいか吾妻はすっかり津田のことなど視界と意識の端に追いやっていたらしく、目の前の通路を通って津田が戻ってきてちょっと驚いてしまう。
 津田が隣に腰掛けると、仕事をする気配のない客室乗務員の馬鹿女を見張るのを中断した吾妻は、希望的な考えは切り捨てて現実だけを見据える。

「津田、お前の持ち込んだ例の物の件だが」

「ああ」

「客室乗務員の女が席から動く気配がないが、少々目立ってもハイジャック犯の持ち込んだ手荷物を調べる振りして、何とか拳銃を忍ばせるしかないだろうな。多少のリスクは仕方がない。拳銃を持って飛行機から降りる方が厄介だ」

 ハイジャック犯も確かに厄介だが、津田の隠し持つ拳銃もかなりのお荷物だ。使うこともできなければ、持っていても邪魔なだけ。となれば他の乗客に多少怪しまれてでも、ハイジャック犯が大人しい今が、この厄介な問題を解決する最大のチャンスかもしれない。
 考えれば考えるほど神妙な面持ちになる吾妻に対し、自分が悩みの種だと自覚していないだろう呑気な顔の津田だが、一応は彼なりに対処法を考えていたらしく、どこから取り出したのかは知らないが、自信なんてものを声に乗せながらこう提案する。

「トイレに隠しておくって案はどうだ? 見付かってもハイジャック犯のものだってことにできるし、色んな人間がトイレに入るんだから、万が一ハイジャック犯のものじゃないって証言されても、俺たちの拳銃だなんて見当もつかない。ほら、どうよ? なかなかの名案だとは思うんだけどさ」

「駄目だ」

「……悪い」

「……おい、何でそこで謝る?」

「あー……いや、ほらだって、吾妻って直ぐに怒るから」

「俺が怒るようなことを……したんだな?」

「うん。持ち込んだあの拳銃、さっき後ろのトイレに隠してきたばっかりだ」

「――っ!? 何やってんだ馬鹿野郎!!」

「だから悪かったって言ってるだろ……。でも指紋は拭き取ったし、大丈夫じゃないかな?」

「こんな状況で万が一、乗客の誰かに拾われでもしたらどうすんだ? ハイジャック犯のものだとは乗客に推測してもらえるかもしれないが、誰かがこれでハイジャック犯と戦うって言い出すかもしれないし、それが失敗すれば今度は、ハイジャック犯が出所不明の拳銃を持ち込んだ犯人探しを始めるぞ。他にも武器があるかもしれないと言ってハイジャック犯は乗客を疑うが、拳銃を持ち込んだ犯人は名乗り出ない。そうなれば苛立つハイジャック犯は、手にした拳銃で乗客を順番に撃ち殺すだろうよ。そのときは津田、お前が責任もって名乗り出るんだろうな?」

「わかったよ……取りにいけばいいんだろ。取りにいけば」

 怒られたから渋々動く、まるで小学生のような津田の生意気な態度に、足でも引っかけて転ばせてやろうかと吾妻が考えた直後、立ち上がりトイレに向かおうとした津田は通路に立っていた何者かに胸を強く押されて後ろによろめいた。
 誰にやられたのかも確認せず咄嗟に食ってかかるのは、チンピラとしては一流の津田らしい。

「テメェ……何しやがんだよ!」

「黙れ。動くな。座ってろ」

 津田も一般人相手ならそれなりに怖がられる(厄介者扱いされる)のだが、その男は津田に怯むことなく命令口調で一方的に告げた。
 逆に男の顔を見て不味いと感じたのは、チンピラから市民に昇格する津田の方だ。

「あ……あんたハイジャックの……」

 津田のことを押したのは、三度目のご登場、ハイジャック犯である金髪の男だった。
 金髪の男は何の用なのか、コックピットに籠っていればいいのに客席を練り歩いてここに辿り着いたらしい。
 先程は反射的に怒鳴りつけた津田も、ハイジャック犯に逆らうのは得策ではないと判断して直ぐに大人しくなる。それでも拳銃を取り戻しにいかなねばならない津田は、ハイジャック犯を挑発しないギリギリの態度で言い返す。

「ト……トイレだよ。いいだろ、トイレくらい。ここで漏らすよりはさ」

「お前、たった今そのトイレから戻ってきたところだろ。何度行く気だ? 我慢しろ」

 さっきまでこの場所にハイジャック犯は立っていなかった。となると通路の向こう側、ビジネスクラスの通路を歩いていたときから、トイレから戻る津田の姿を金髪の男は確認していたらしい。金髪の男に膀胱の矛盾を指摘されると、これ以上は逆らえないと津田も黙って席に座り直した。

 けれどまあこの場はそれでも構わない。金髪の男が吾妻の側を通り過ぎれば、もう一度立ち上がりトイレに向かえばいいだけのこと。吾妻も津田もそう考えて、この場は穏便に収めようと言い返さずにいた。
 しかし金髪の男は津田が大人しく座ってからも一向にこの場を動こうとはせず、このエコノミークラスの客席を険しい顔つきで観察し始めた。その所作は乗客の誰かを見張っているようにも思われ、歩き出す気配は暫く感じられない。

 金髪の男の行動理由がさっぱりわからない。金髪の男が津田の持ち込んだ拳銃の存在に気付いたなどありえるはずもないが、金髪の男の行動は結果的に吾妻と津田の動きを封じてしまう。
 一度トイレに立った津田の代わりに吾妻が動くことも可能だが、小競り合いを起こした直後に吾妻が立ち上がるのは、ハイジャック犯を無駄に刺激しそうで躊躇われる。

(チッ……どうすればいいんだよ!?)

 心の中で叫ぶ吾妻の問いかけに、答えてくれる人間は当然いなかった。



          ◇◇



「あなた! 一体これはどういうことなの!? 何よこのプリクラは!?」

「これは、だな……その、色々あって……偶然、仕事の関係でプリクラを取る流れに――」

「馬鹿言わないで! そんな見え透いた言い逃れはさせないわよ。こんなものを偶然で済ませられるなんて、本気で思ってないでしょうね!?」

 エコノミーの客室にハイジャック犯である金髪の男が姿を現そうが、松代の追及が弱まることはない。
 何とか誤魔化してみようとはしたのだけれど、プリクラの小さな写真の画質が荒いからといって松代が佐賀男の顔を見間違えるはずもなく、その上キスをしている最中を写されているだなんて、証拠が決定的過ぎてやっぱり脱出の方法は見いだせない。
 惚けるのも不可能、言い訳は通用しない。もうこうなれば、記憶にございませんという政治家が好んで使用する台詞を、機械のように淡々と口にし続けるくらいしか佐賀男にはこの場を収める手段が思い浮かばなかった。

 他人事ではない隣の琴美はというと、言い訳を並べる素振りどころか焦った様子すらなく、松代にプリクラが見つかる前と変わらぬ涼しい顔。それは開き直っているようにも窺えた。
 そんな琴美の平然とした様子が気に食わないらしい松代は、煮えくり返る思いを言葉に乗せて、暴力的に佐賀男に叩き付ける。

「一体どれだけ、私があなたのために尽くしてきたと思ってるの? 信じられない……このろくでなし! 裏切者! 大馬鹿男! それに、妻との旅行に向かう飛行機の座席で、あなたは妻と愛人に挟まれてるだなんて、どういうつもり!? どういうことなのよこの状況は!?」

「それは俺にもわからないよ……」

 回避できることならば、今日の朝に戻って腹痛でも起こして便を変更したいと心の底から考える佐賀男にとっても、この状況は未だに信じられない。
 松代に不満げに睨み返されても佐賀男にそれ以上の答えは導き出せず、ようやく助け舟でも出す気になったのか、このタイミングで果敢にも会話に割って入る琴美だったが、佐賀男の期待とは裏腹に、琴美の言葉は亀裂の生じた夫婦間の溝を悪戯に広げる。

「ごめんなさい、この便に乗り込んだのは私が勝手にやったことです。佐賀男さんに悪気はなかったの。それに、私との関係にしても佐賀男さんに悪気なんてありませんよ。ただ……あなたではちっとも満足できないんですって。おば様」

「おばっ!? ……あなたね、ちょっと可愛いからって下心出した男に褒められて、好い気になってるんじゃないの?」

「男は掃いて捨てるほどいるんです。そんな幸せにしてくれない男なんて早めに捨てて下さい。そうしたら私が、その捨てられた男を幸せにしますから。ねー? 佐賀男さん」

 琴美は松代に言われた台詞を覚えていたらしく、ここぞとばかりにそれを松代に付き返した。
 更に琴美は戸惑う佐賀男を引き寄せながら腕に体を密着させると、若くて皺のない綺麗な顔立ちで、世の男共を虜にしてきた微笑みを、佐賀男ではなく松代に向けて厭味ったらしく振舞った。
 全ての女に与えられた武器である若さだが、それを疾うの昔に失っていた松代は、目障りな琴美のそれに苛立ちと更には嫉妬まで憶えたらしく、松代の尖りに尖った怒りの矛先は佐賀男に向けられながらも、言葉の裏で琴美に女としての恨みと対抗心を孕んで突き付けられる。

「くっ……!? ……あなた、出来心なの? それともこの女に本気なの? そこだけは白黒つけましょう。答えがどちらでも許す気はありませんけど、はっきりさせましょう。一体あなたは誰のどこにどの程度惹かれて、浮気だなんてそんな下らない衝動に走ったのかを!」

「本気です。佐賀男さんは私と幸せになるんです。あなたみたいなそこらのおばさんではなく、可愛い私と結婚して幸せになるんです」

「あんたには訊いてないわよ! このふしだら女!!」

「なんとでもどうぞ、好き勝手に仰って下さい。でもその小皺が刻まれた醜い顔が、もっともーっと醜くなりますよ? ……あ、もう手遅れか。ごめんなさーい」

 琴美の挑発と嘲りは続き、松代のボルテージは上がり続ける。
 もう駄目だ。左右からの圧力に耐え切れなくなった佐賀男は、気が狂いそうになって立ち上がる。
 いざこざの張本人である佐賀男が立ち上がると、二人の女は同時に佐賀男を見上げ、カツアゲのカモを逃がさないようにするときの不良学生よりも厳しい目つきで、貫くように睨み付けてきた。
 けれど佐賀男の行動に口を出したのは、意外にも二人の女ではない。
 松代と琴美が佐賀男の膝を蹴って座らせるよりも先に、ハイジャック犯である金髪の男が、先程から目立つ騒ぎを起こしている佐賀男を注意してきたのだ。

「おい、そこの男、何を立ち上がってるんだ。どこへ行く気だ?」

「トイレだよ!! 俺は逃げたくても、もうどこへも行けねぇんだよ馬鹿野郎!!」

 隠すべき秘密と、安泰の未来が消え去った佐賀男に、もう怖いものなど何もない。死んだも同然の男は、ハイジャック犯だってへっちゃらだ。
 金髪の男にしてみれば、拳銃という圧倒的な驚異を一度見せつけているので、まさか自分に逆らう乗客が現れるなどと予想もしていなかったのだろう。佐賀男に怒鳴りつけられた金髪の男は驚き、言い返すどころか呆然としていた。
 目を血走らせながら極度の疲労を浮かべる佐賀男には、金髪の男も警戒してそれ以上は命令してこない。松代と琴美も佐賀男の逃げられないという発言に納得したのか、佐賀男がトイレに立つのを休戦して見送る。
 それでも、佐賀男は渦中から一時的に逃げたに過ぎない。
 二人の女は佐賀男の座席を挟んで待っているのだ。

「……あなた、早く帰ってきなさいよ」

「佐賀男さん、今まで散々待たされ続けてきた私は、トイレくらい何時間でも待ってるからね。ごゆっくり」

 この逃げ場のない旅客機の中で、いつまでも。



          ◇◇



 延々と話を続ける舞子に、浅井は若干辟易していた。
 働く気はないが、口だけは休みなく働かせ続ける舞子はきっと、何かを話していないと緊迫したこの状況に不安になるのだろう。などと舞子を健気な女に置き換えて考えてみたのだが、やっぱり無理だった。舞子はそんな保護欲掻き立てる性格ではなく、ただ単に鬱陶しい女に過ぎやしない。

「刑事なんですよね? ちょっとはハイジャック犯と交渉とかできないんですか。ほら、ちょうどハイジャック犯もそこにきてるじゃないですか。頑張ってください、プロでしょ、プロ」

「だからお前にだけは言われたくないんだよな……。それに俺は刑事じゃない、お巡りさんだ。刑事だとしても交渉を専門に勉強してるやつがこういった事件の場合には交渉に当たるんだよ。だから俺には無理無理だ。もう死ぬしかないな」

「諦め早っ!? 最低です! 諦めたら浅井さんの人生ゲームはここで終了ですよ!?」

「仕方ないだろ。普段救急車を運転している男に、お前が心臓移植の手術をしろって迫ってるようなもんなんだからな」

「……で、でも少しくらい頑張ってもみてもいいんじゃ? 事件を解決したらヒーローですよ。例えば腕っぷしだけじゃなくて、犯人の目的とか推理して、最後の最後に犯人の思惑を当てて言葉巧みに諭しつつ、事件は無事解決とか」

「警察の捜査なんて基本的に科学捜査と人海戦術、優秀な刑事一人が劇的に活躍して事件解決なんてドラマの中だけだよ。古畑任三郎なんて天才はいないんだよ。雑事を解決する市民の味方、交番勤務のお巡りさん万歳」

「一時間で事件は解決しないと!?」

「それに、この機の乗員乗客全員の命に対する責任は俺には背負えない。一介の巡査長がハイジャック犯を一人で鎮圧できるような訓練受けてると思うのか? 主な訓練に想定される相手はナイフを持った男がいいところだ。拳銃と爆弾で武装した不特定多数の人間が相手なら、まずは行動を起こす前に上に報告しろって教えられるんだよ普通は。それにお前は気付いてたか? 少し前に、この機が大きく旋回したこと」

「え!? 嘘? ……いや、いやいやわかってましたよ。私、現役バリバリのCAですし」

「嘘吐きCAめ、ぺちゃくちゃお喋りに夢中だった癖に」

「でも、それがどうしたんですか?」

「だからどうってことじゃないんだけどな。ただ、お前はどうせ気付いてないだろうな、って悪戯心が湧き上がって馬鹿にしたんだよ。ああ俺って少年の心を忘れない、なんて清らかな心の持ち主なんだろうか」

「へっ、笑わせてくれますね。清らかからはほど遠い真っ黒な心で、正義感もへったくれもない癖に」

「なんとでも言え。お前こそこんなときだからこそ、きちんとと業務を全うしてみたらどうなんだ? お前だってこの仕事を志したときは、もっと身も心も清らかだったんだろ。それがどうした、今のお前の心はどす黒いぞ」

「……言いますね。でも私は働きません!!」

「ない胸を張って言うことじゃないぞ」

「胸のことは余計です。脱ぐと思いのほか、それなりに凄いんです。……見たいですか?」

「全然」

「興味持ってくださいよぉ! ほらほら、寄せると作れるこの谷間に指を突っ込んでも、今なら怒りませんよ?」

「近寄るな給料泥棒」

「そもそも、その給料も貰えるかどうか怪しいですけどね」

「心配するな、給料の代わりに労災と多額の生命保険金が両親に入るだろう。人生最後の親孝行だな」

「マイナス思考の中にプラス思考を織り交ぜないでください。そもそもそんな方法は親孝行に換算されません。私は両親に可愛い孫の顔を見せなくてはいけないのです。だから浅井さんはとっととハイジャック犯を説得してきてください!」

「説得ねぇ……。一体何を説得してほしいんだ? あのハイジャック犯は」

 間抜けなハイジャック犯の最初の機内アナウンスでも、動機を推測させる言葉は聞かれず、意図不明なフライトを乗客に強いる中、浅井は隣の舞子に急かされてしかたなく、記憶にあった刑事ドラマの主役の面構えを模して決め顔を作ると、服装には政治的な主張の現れは見受けられないハイジャック犯である金髪の男を眺めながら、それらしく呟いた。

「おお、格好いいですよ。惚れました」

「じゃ、止めるわ」



          ◇◇



 ハイジャック犯というこの機内で最大権力を握った金髪の男に、逆切れしながら叫んでトイレに向かった勇敢な男が、長い長い糞を終えて女に挟まれる元の座席に戻ると、それを確認して吾妻は立ち上がる。
 するとやはり金髪の男は吾妻の動きに反応して睨みつけてきた。

「おい、動くな」

「俺もトイレ」

「座ってろ」

「え? そうか、それは残念。生憎大きくて特別臭い方なんだが。まあハイジャック犯様がここで漏らして構わないってんなら、俺はそうするけど……他の乗客はどう思う? 言っておくが、きっと俺のはテメェのよりも臭いぞ」

「チッ……汚い野郎だな。……直ぐに済ませよ」

「キレが良かったら」

 汚物を想像しての不快な表情を浮かべるのは、舌打ちして吾妻を見逃した金髪の男だけではなく、その周囲の乗客も同様だが、その中の誰よりも津田が馬鹿にしたように鼻を摘まんだのが鬱陶しくあった。津田は吾妻が本当に大きい方をしたいと思っているのだろう。誰かさんがトイレに隠した拳銃の件もすっかり忘れて。

 小学校時代、五年生のときに腹の不調で漏らして以来、ゲイリー・オールドマンのあだ名で通った吾妻の経験がこんなところで生きようとは……。因みに吾妻をゲイリーと最初に呼んだのは津田だ。腐れ縁はそのときからで、怒りに任せた吾妻が、初めて人を殴ったのもそのときだ。

 吾妻がトイレへ向かうと、金髪の男はコックピットの方向へと戻って行く。逆らう人間が立て続けに現れて、ここに立っていてもハイジャック犯としての脅威が乗客の印象から薄れていくばかりだと判断したのだろう。
 吾妻はトイレに入ると、美味くもない空気を吸い込んで一息ついた。

「ふう……何とかトイレには辿り着けたか」

 他人が糞するそこは、決して空気が美味しいわけではないが、何故か言い知れぬ安心感がある。思い返せば強盗からここまでずっと何かと気を張っていた吾妻は、少しだけだがようやく自分を落ち着かせることに成功すると、拳銃の捜索を開始する。
 金髪の男に対してブチ切れていた男が先に、津田が拳銃を隠したと証言したトイレに入ってしまったために、吾妻は随分と待たされてしまった。このトイレ内の脇にある棚に押し込んだとか何とか、津田は言っていたのだが――。

「……ない。どこにも……ねぇぞ」

 トイレの中は拳銃を隠せそうな場所は殆どなく、隠せそうな場所は便器の陰まで念入りに全てを調べ尽くしたのだが、拳銃の影も形もない。落としたイアリングやコンタクトレンズを捜すのとはわけが違う。あんな鉄塊がそう簡単に紛失するなんてありえないのだけれど、どういうわけか見当たらないのだ。

「拳銃が、消えちまった……?」

 自分たちの置かれた状況が、坂を頭から転げ落ちるように止めどなく悪くなっていくのを、ひしひしと感じる吾妻の顔色は、トイレに駆け込み損ねた小学校五年生のときよりも具合が悪く、大きいのを漏らした瞬間よりも真っ青になっていた。



          ◇◇



 自分の座席に戻った佐賀男は、また戦場のど真ん中に割りこむことを思うと気が重くなるのだが、戦火の中心が自分なのだから仕方がないと諦め、火種として大人しく座り直した。

「――あなた、聞いてるの? 話しはまだ終わってませんよ」

「ああ……聞いてる」

 だけれども、トイレに駆け込んだ十数分前と今の佐賀男とでは、決定的に異なる点が一つあった。そのお蔭でV字回復を果たした気分は高揚しており、松代の嫌味な言葉も半分以上は耳に入らずに、平然と聞き流せる。
 佐賀男は、気分高揚の原因を、腕を組みながら上着に突っ込んだ右手で、これは夢ではないと確かに握り締める。

(思わず持ってきてしまったが……)

 佐賀男の右手に重く凶暴な感触を伝えるそれは、拳銃。
 どうしてかトイレの棚に隠してあった拳銃を偶然見つけた佐賀男は、思わず手に取り懐に忍ばせると、そのままトイレから出て平然を装い座席に戻っていたのだ。

 浮気がばれて気が動転していた佐賀男は、実は機内のトイレには、ウンコを空に排出するための穴がどこかに開いており、そこから海へ飛び降りられるのではないだろうかという、現実逃避の妄想に囚われてトイレに駆け込んでいた。けれど衝動に駆られるままトイレの隅々まで調べ尽くしていたのだが都合のよい穴は見付からず、代わりに棚の奥に隠されるように置かれていた拳銃を見付けてしまった佐賀男は、とんでもないものを見付けたショックで我に返るどころか、高揚感でいっぱいになってしまったのだ。
 このまま頭に銃口を突き付けて、この機内から一人脱出しようかとも一度は考えた。それでも直ぐに引き金を引かなかったのは、高揚感と共に、ある気持ちが沸々と湧き上がったから。

(この機内で、俺だけがやつらと対等……なんだよな)

 対等なのはハイジャック犯とだけじゃない。松代と琴美とだって、今なら対等に戦える。
 武器という凶悪な勇気、それが浮気発覚により自殺願望が生まれていた佐賀男に、生への執着を取り戻させたのだ。
 トイレで見つけた拳銃が偽物には思えない。銃器全般を扱ったことなどないので不確かだが、ハイジャック犯が手にしていた拳銃と同じだけの暴力的な重い輝きがある。流石にこれがモデルガンだということはないだろう。それくらいは佐賀男にも理解できる。
 そして暴力での優位性は、簡単に人を変えてしまう。

「――ちょっとあなた、ちゃんと聞いてるの? あなた!!」

「うるせえよ!! ちょっと黙ってろババア!!」

「バ、ババアっ……!?」

 結婚当初から自然と構築されてしまっていた力関係をひっくり返す言葉遣いで、佐賀男は生まれて初めて松代を罵る。それがこんなにも気分がスッキリするものだとは、罵った佐賀男は怒りよりも、快感に全身を擽られていた。
 面と向かって初めした佐賀男の反抗に、目を見開いて静止する松代も驚きを隠せていない。
 逆に琴美は目を輝かせ、佐賀男にすり寄ってきた。

「あはっ! 佐賀男さんったら男らしい。やっぱり、オバサンより私を選んでくれたの――」

「お前も黙ってろ尻軽女。全く……お前は尻だけじゃなく、口も軽いんだな」

「尻ッ――!? ……さ、佐賀男さん?」

 今なら関白宣言も強気のロック調で歌えそうな佐賀男は、自分には不釣り合いで若くて綺麗な愛人だからと気を使い、ずーっとご機嫌を窺い続けてきた琴美さえも、強気にあしらう。
 いつでもハイジャック犯をねじ伏せられると思うと、佐賀男にもう怖いものなどなかった。

(懐に忍ばせたこいつのおかげだ……)

 閉口しながらも、零すように思わずにやけた佐賀男。
 だが彼の脳裏に一つの疑問が過る。

(でも……こんなもの、一体誰が置いたんだ?)

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