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前日の
シモーヌのお願い
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口を濯ぎ、厠で下半身の汚れを手早くふき取った僕は、寮の長い廊下の先、階段を挟んで僕の部屋の反対側の端にある、彼女の個室へと向かった。
廊下の片側に並ぶランプの明かりが、弱弱しく点々と空間を照らし出していた。高い天井は闇に埋もれ、足元もところどころに闇が居ついていた。既に生徒は部屋に隠れ、呼吸の音すら響くほどに、廊下は静まりかえっていた。不思議なことに、どの扉からも音が漏れ出てくることはなかった。明るい時間の壮麗な雰囲気とは打って変わって、陰鬱な空気がこの場を支配していた。
どうやら彼女は本当に虫を恐れているようで、月明かりが注ぐ窓際に、僕を待つシモーヌの姿が見えた。ゴシック小説のヒロインのように、そのシルエットはおぼろげに、青白く輝いていた。小説の世界ならば、しとしとと足音を立てて彼女に迫る僕は、さしずめ女の姿に化けた幽霊か怪物だろう。しかしそんな恐怖じみた状況とは裏腹に、シモーヌは救いの騎士様を目にしたかのように、闇の中から現れた僕の胸にしおらしく飛び込んできた。
「もう、遅いですわ!なかなか来てくれないから、見捨てられてしまったのかと……」
珍しく彼女が感情的に不満をあらわにした。
「そんなに待たせてないでしょう。多分、五分とかそれくらいよ」
「でも……でも!本当に怖かったんですから!だって私は、ミーシェみたいに強くはないから……」
彼女はしゅんと沈んだ。しまった、そんなつもりは全くないのに、彼女を責めたような感じになってしまった。僕は目を潤ませて俯く彼女の見目麗しい横顔をそっと撫で、僕の方を振り向かせた。
「そんな顔しないの。大丈夫よ、虫なんてすぐに追い出してあげるから」
「ミーシェ……ありがとう」
シモーヌは僕の右腕に抱き着き、身体を委ねてきた。ふんわりとした、瑞々しい身体が惜しげもなく僕の腕に押し付けられる。そのぬくもりはあまりにも――だめだ、この感覚に集中してはいけない。彼女は怯えているんだ。彼女は僕を頼っているんだ。そんな彼女の心模様を冒涜するような考えを抱いてはならない。僕は頭を振って迷いを振り切り、彼女の部屋のドアノブに手を触れた。
「ひゃっ!?」
「えぇっ!?」
僕がドアノブに触れた瞬間、彼女が甲高い声を上げたので、僕も咄嗟に声を上げてしまった。長い廊下に声が吸い込まれていく。
「ど、どうしたのよ、シモーヌ!」
「ご、ごめんなさい。開けたらまた出てきてしまうかもと思ったら、なんだか、恐ろしくて……」
「もう、脅かさないでよ!」
他の生徒に騒ぎを聞きつけられるのはあまり好ましいことではない。僕はシモーヌを安心させようと、彼女の手に自分の手を重ねた。ちょっぴり汗ばんだ柔らかな手が、僕の手を握り返してきた。
「いくよ」
「え、ええ……」
再度、僕はシモーヌの部屋のドアノブに手を置き、扉を開いた。
寮の一室とは思えない、サロンのような調度が施された部屋を、橙色のランプの灯がゆらゆらと照らしていた。中央にある重々しい光沢のローテーブルを囲んで一対のソファー、窓際のカーテンはレース付きで、そのそばには、綺麗に本が積まれランプの置かれた書き物机、もう一方の壁際にはクローゼット、本棚、食器棚、花瓶と並び、壁には美しい田園風景を描いた絵画が額に入って飾られている。部屋の隅に置かれた、各部屋に備え付けのものより一回り大きなベッドが、唯一私室らしさをこの部屋に担保していた。
「で?その虫ってのはどこで出たの?」
「私がソファーでお茶を飲みながら本を読んでいたら、その、真ん中の机の上を……」
「なるほどねぇ」
ローテーブルの上に置かれた飲みかけのティーカップと、ソファー上に投げ捨てられた本が、彼女が慌てて僕の部屋を訪ねてきたことを物語っていた。とりあえず様子を見ようと、僕はソファーへ歩み出す。
「ま、待ってミーシェ!」
シモーヌが僕の腕を引き寄せて引き留めた。
「あの、そうされると虫を退治するにもできないのだけど……」
「そ、そうよね、ごめんなさい。でも……キャァ!!!!」
「ちょっと!?」
シモーヌが勢いよく腕を引っ張ったものだから、僕は床に倒れかけた。
「そ、ソファーに!います、いますわ!!」
「ソファー?」
背けた顔と反対方向を差す指の先、小説が置かれていたのとは反対側のソファーの上に、なんてことはない、小指の先の大きさ程の小さな蜘蛛がちょこまかと動いていた。
「え?あれのことを言っているの?」
「は、早く!お願いミーシェ!この部屋からあれを追い出して!!」
「じゃあ、手を離してもらえるかな……?」
「いや!!わ、私を一人にしないで!」
暗い森の中に置き去りされた娘のように心を乱すシモーヌに、僕は少々困り果ててしまう。
「うーん……じゃあせめて、背中とか、そういう所に隠れてもらえるかしら?両手が使えないことには捕まえられないわ」
「ううぅぅ……。逃げないですわよね?いきなり離れたりしないですわよね!?」
「しない、しないから!だからお願い。じゃないと取り逃がしちゃうわよ!」
「わ、わかりました。信じましたわよ、ミーシェ!」
彼女は僕の背中の布を掴み、僕に半分体を預けてきた。たしかに両手は自由になったが、これじゃあ動きづらい。とはいえ今の取り乱した彼女にこれ以上のものを求めることは難しい気がしたので、僕はゆっくりと、小さな蜘蛛の這うソファーへと向かって行った。幸い、麗人の私室に迷い込んだ蜘蛛はおとなしく、震える彼女に自由を制限された僕の腕でも難なく捕まえることができた。僕は窓を開けると、拳の中に閉じ込めたそいつを外へと放り出した。あとになって「蜘蛛がかわいそう」なんて彼女は言い出すかもしれないが、蜘蛛は風にのって空を飛ぶという話を昔に聞いたことがあるので、四階の窓から放り出しても大丈夫だろう。
「ほらシモーヌ、もう大丈夫よ。外に出したから」
「ほ、ほんとうに?」
「ええ、本当よ」
「もういない?」
「いないわ」
「ミーシェ!!」
おずおずと震えていた彼女が、背後から思いっきり僕のことを抱きしめた。やっぱり不安だったのだろう、彼女の体はいつもよりも熱っぽく、さらには湿り気を帯びていた。
「ああもう、どうなることかと思いましたわ!ミーシェがいなかったら、明日は大事な打ち合わせだというのに今夜は眠れぬ夜を過ごすところでした。本当にありがとう!」
彼女は手加減無しに思い切り僕の体を抱きしめる。そうも密着され続けるとこちらもへんな気分になってしまうので、話にキリをつけようと、僕は首をひねって後ろの彼女に話しかける。
「じゃあ、もう用も済んだことだし、もう部屋に戻っても大丈夫かしら?」
「ま、まってくださいまし!?」
「え?」
扉の方へ動き出そうとした僕を、シモーヌはキュっと引き寄せた。
「あの、その……一つお願いがあるのですけど」彼女は顔を赤らめた。「明日の朝まで、このままお部屋に居てくれないかしら?」
このままお部屋に居てくれないかしら――僕が夜通し、シモーヌの部屋で過ごすということ?
「え……ええええぇぇ!?」
彼女の提案に驚くあまり、男の自分が出てきてしまいそうになった。なんてことを言っているんだ彼女は。未婚の貴女と僕のような小男が――今は女の子だけども――一夜を共に過ごすなんて、小説の中でさえありえないことだぞ。そんな話を書いただけでも公序良俗を犯した罪によって牢獄行きだ。いや、仮に女の子だとしても、齢が十にも満たない少女同士じゃあるまいし……。
「私、怖いの。さっきの虫はミーシャが追い出してくれたけど、もしもう一匹どこかに隠れていたらなんて思うと不安でたまらないわ!」
「大丈夫よ、気に病むことなんてないわ。別にさっきの蜘蛛だって、シモーヌに何か悪いことをするような虫じゃないし」
僕は彼女を安心させようと、丸い頭を抱き寄せて、豊かな栗色の髪をそっと撫でた。しかし彼女は引き下がろうとはせず、甘えるように僕に身体を寄せる。
「お願いミーシェ。このままじゃ私、一睡もできないわ。だって明日は大事な会議でしょう?睡眠不足でフラフラのままアカデミーの方たちと顔合わせをするなんて、学院の威信に関わりますし、私、恥ずかしくて死んでしまうわ」
「で、でもね……」
彼女の不安は痛いほど伝わってくるし、なんとかしてやりたいのもやまやまだけれど、情に流されていいような状況ではない。これは僕のモラルだけの問題でなく、シモーヌの女性としての品格に関わることだ。例えば、裕福なご婦人が孤児院に寄付をすることは善である。これに疑いはない。しかし、ただかわいそうだからという理由で、その子たちを養子として迎え入れることは果たして善といえるのだろうか?責任から目を逸らした憐れみというのは、一時の幸せをもたらすことはあるかもしれないが、必ず悲劇的な結末を迎えるものである。
「ミーシェは私のこと、きらい?」
「……そんなわけないでしょ」
「じゃあ、どうしてそんなに嫌がるの?」
彼女が僕の手を握った。名画の中のどの聖女よりも光ある彼女(どんなにも優れた宮廷画家であっても現実のシモーヌを額に押し込めることなどできない)に手を握られて、その願いをはねつけることができる人物などこの世にいるのだろうか?ああ、シモーヌ。君は本当に――
「それは、その……。ほら、この部屋ベッドが一つしかないから、寝る場所とかないし……」
「一緒に寝ましょう?広いベッドだから女の子二人くらい入れるわ」
彼女は引かない。しかし、僕も引けない。
「で、でも!まだ今日はお風呂に入ってないから、もしかすると臭ってしまうかもしれないし……」
「ならこれから一緒に湯浴みしましょう?」
「それはダメ!」
僕は彼女の肩を掴んで引っぺがした。困った、今のシモーヌは、何を言っても引き下がらないときの頑固なシモーヌだ。彼女は基本的に物分かりの良い女性であるが、プライベートにおいて時折、こうやって石のように動かなくなることがある。たとえばこの前、市内の劇場にお出かけするとき、出発時間になって馬車を待たせているというのに、彼女はあれやこれや身支度に時間をかけてなかなか部屋から出てこず、ノックして扉越しに尋ねてみても、まだ髪の巻き具合が良くないやら、帽子が決まらないやらいろいろと駄々をこねて、結局部屋から出てきたのは一時間が過ぎてからだったし、そうだ真冬のある休日、「今度家でパーティがあるから、ドレスを注文しに行く」と町のブティックに連れていかれたときだって、採寸が終わった後、日が暮れて「もう帰ろう」と僕が言うにもかかわらず、あそこに行きたい、ここに行きたいと耳を貸さず、結局門限を破って夜遅くに大量の荷物と共に帰ったこともあった(教師に色々小言は言われたが、彼女の日ごろの行いによって罰則は免れた)。
そんな感じで、シモーヌが頑固モードになったときはこちらがどうこう言ったところで甲斐なく、彼女のしたいようにさせる他ないのである。こうなったらもう、あとは折衷案を引き出すしかない。
「分かったわ、シモーヌ。アナタがそこまで言うのなら、今夜この部屋に居てあげる」
「ミーシェ!」
感激した彼女がまた僕に抱き着こうとしたので、僕は肩を掴んだまま距離を保った。前からまともに抱きつかれるのは……よろしくない。
「でも!私はソファーに寝るわ。やっぱり二人一緒のベッドで眠るのは……うん、止めておきましょう?」
「どうして?女の子同士なんだから何の問題もないでしょう?」
「いや、その……」シモーヌは僕と同じベッドで寝ることをご所望のようだが、それだけは絶対に回避しなければならない。「恥ずかしいのだけど……その、私、寝相が良くないの」
「あら、寝相が?」
「そ、そうなのよ!ここだけの話にしておいてほしいのだけど、私ってば本当に寝相が悪くて、よく部屋のベッドから転げ落ちて早朝にハナを起こして迷惑をかけてしまっているし、なにより一緒に寝たらシモーヌのことを蹴飛ばしてしまうかもしれないし……」
「だったらなおのこと、私のベッドで寝た方が良いのではなくて?ソファーだと狭いから落ちてしまいますわ」
「でもそうするとシモーヌがソファーで寝るというの?家主を追い出してベッドで寝るなんて、私できないわ」
「だから一緒に寝ればいいのよ。私、自慢じゃないけど、一度寝てしまえば多少のことでは起きたりしませんわよ」
「で、でも」
「決まりね!」
「……」
「かまわないですわよね?」
「でも」
「いいですわよね!!」
「……うん」
丸々とした琥珀の瞳の嬉々とした輝きに気後れしてしまい、僕は何も言い返すことが出来なかった。
廊下の片側に並ぶランプの明かりが、弱弱しく点々と空間を照らし出していた。高い天井は闇に埋もれ、足元もところどころに闇が居ついていた。既に生徒は部屋に隠れ、呼吸の音すら響くほどに、廊下は静まりかえっていた。不思議なことに、どの扉からも音が漏れ出てくることはなかった。明るい時間の壮麗な雰囲気とは打って変わって、陰鬱な空気がこの場を支配していた。
どうやら彼女は本当に虫を恐れているようで、月明かりが注ぐ窓際に、僕を待つシモーヌの姿が見えた。ゴシック小説のヒロインのように、そのシルエットはおぼろげに、青白く輝いていた。小説の世界ならば、しとしとと足音を立てて彼女に迫る僕は、さしずめ女の姿に化けた幽霊か怪物だろう。しかしそんな恐怖じみた状況とは裏腹に、シモーヌは救いの騎士様を目にしたかのように、闇の中から現れた僕の胸にしおらしく飛び込んできた。
「もう、遅いですわ!なかなか来てくれないから、見捨てられてしまったのかと……」
珍しく彼女が感情的に不満をあらわにした。
「そんなに待たせてないでしょう。多分、五分とかそれくらいよ」
「でも……でも!本当に怖かったんですから!だって私は、ミーシェみたいに強くはないから……」
彼女はしゅんと沈んだ。しまった、そんなつもりは全くないのに、彼女を責めたような感じになってしまった。僕は目を潤ませて俯く彼女の見目麗しい横顔をそっと撫で、僕の方を振り向かせた。
「そんな顔しないの。大丈夫よ、虫なんてすぐに追い出してあげるから」
「ミーシェ……ありがとう」
シモーヌは僕の右腕に抱き着き、身体を委ねてきた。ふんわりとした、瑞々しい身体が惜しげもなく僕の腕に押し付けられる。そのぬくもりはあまりにも――だめだ、この感覚に集中してはいけない。彼女は怯えているんだ。彼女は僕を頼っているんだ。そんな彼女の心模様を冒涜するような考えを抱いてはならない。僕は頭を振って迷いを振り切り、彼女の部屋のドアノブに手を触れた。
「ひゃっ!?」
「えぇっ!?」
僕がドアノブに触れた瞬間、彼女が甲高い声を上げたので、僕も咄嗟に声を上げてしまった。長い廊下に声が吸い込まれていく。
「ど、どうしたのよ、シモーヌ!」
「ご、ごめんなさい。開けたらまた出てきてしまうかもと思ったら、なんだか、恐ろしくて……」
「もう、脅かさないでよ!」
他の生徒に騒ぎを聞きつけられるのはあまり好ましいことではない。僕はシモーヌを安心させようと、彼女の手に自分の手を重ねた。ちょっぴり汗ばんだ柔らかな手が、僕の手を握り返してきた。
「いくよ」
「え、ええ……」
再度、僕はシモーヌの部屋のドアノブに手を置き、扉を開いた。
寮の一室とは思えない、サロンのような調度が施された部屋を、橙色のランプの灯がゆらゆらと照らしていた。中央にある重々しい光沢のローテーブルを囲んで一対のソファー、窓際のカーテンはレース付きで、そのそばには、綺麗に本が積まれランプの置かれた書き物机、もう一方の壁際にはクローゼット、本棚、食器棚、花瓶と並び、壁には美しい田園風景を描いた絵画が額に入って飾られている。部屋の隅に置かれた、各部屋に備え付けのものより一回り大きなベッドが、唯一私室らしさをこの部屋に担保していた。
「で?その虫ってのはどこで出たの?」
「私がソファーでお茶を飲みながら本を読んでいたら、その、真ん中の机の上を……」
「なるほどねぇ」
ローテーブルの上に置かれた飲みかけのティーカップと、ソファー上に投げ捨てられた本が、彼女が慌てて僕の部屋を訪ねてきたことを物語っていた。とりあえず様子を見ようと、僕はソファーへ歩み出す。
「ま、待ってミーシェ!」
シモーヌが僕の腕を引き寄せて引き留めた。
「あの、そうされると虫を退治するにもできないのだけど……」
「そ、そうよね、ごめんなさい。でも……キャァ!!!!」
「ちょっと!?」
シモーヌが勢いよく腕を引っ張ったものだから、僕は床に倒れかけた。
「そ、ソファーに!います、いますわ!!」
「ソファー?」
背けた顔と反対方向を差す指の先、小説が置かれていたのとは反対側のソファーの上に、なんてことはない、小指の先の大きさ程の小さな蜘蛛がちょこまかと動いていた。
「え?あれのことを言っているの?」
「は、早く!お願いミーシェ!この部屋からあれを追い出して!!」
「じゃあ、手を離してもらえるかな……?」
「いや!!わ、私を一人にしないで!」
暗い森の中に置き去りされた娘のように心を乱すシモーヌに、僕は少々困り果ててしまう。
「うーん……じゃあせめて、背中とか、そういう所に隠れてもらえるかしら?両手が使えないことには捕まえられないわ」
「ううぅぅ……。逃げないですわよね?いきなり離れたりしないですわよね!?」
「しない、しないから!だからお願い。じゃないと取り逃がしちゃうわよ!」
「わ、わかりました。信じましたわよ、ミーシェ!」
彼女は僕の背中の布を掴み、僕に半分体を預けてきた。たしかに両手は自由になったが、これじゃあ動きづらい。とはいえ今の取り乱した彼女にこれ以上のものを求めることは難しい気がしたので、僕はゆっくりと、小さな蜘蛛の這うソファーへと向かって行った。幸い、麗人の私室に迷い込んだ蜘蛛はおとなしく、震える彼女に自由を制限された僕の腕でも難なく捕まえることができた。僕は窓を開けると、拳の中に閉じ込めたそいつを外へと放り出した。あとになって「蜘蛛がかわいそう」なんて彼女は言い出すかもしれないが、蜘蛛は風にのって空を飛ぶという話を昔に聞いたことがあるので、四階の窓から放り出しても大丈夫だろう。
「ほらシモーヌ、もう大丈夫よ。外に出したから」
「ほ、ほんとうに?」
「ええ、本当よ」
「もういない?」
「いないわ」
「ミーシェ!!」
おずおずと震えていた彼女が、背後から思いっきり僕のことを抱きしめた。やっぱり不安だったのだろう、彼女の体はいつもよりも熱っぽく、さらには湿り気を帯びていた。
「ああもう、どうなることかと思いましたわ!ミーシェがいなかったら、明日は大事な打ち合わせだというのに今夜は眠れぬ夜を過ごすところでした。本当にありがとう!」
彼女は手加減無しに思い切り僕の体を抱きしめる。そうも密着され続けるとこちらもへんな気分になってしまうので、話にキリをつけようと、僕は首をひねって後ろの彼女に話しかける。
「じゃあ、もう用も済んだことだし、もう部屋に戻っても大丈夫かしら?」
「ま、まってくださいまし!?」
「え?」
扉の方へ動き出そうとした僕を、シモーヌはキュっと引き寄せた。
「あの、その……一つお願いがあるのですけど」彼女は顔を赤らめた。「明日の朝まで、このままお部屋に居てくれないかしら?」
このままお部屋に居てくれないかしら――僕が夜通し、シモーヌの部屋で過ごすということ?
「え……ええええぇぇ!?」
彼女の提案に驚くあまり、男の自分が出てきてしまいそうになった。なんてことを言っているんだ彼女は。未婚の貴女と僕のような小男が――今は女の子だけども――一夜を共に過ごすなんて、小説の中でさえありえないことだぞ。そんな話を書いただけでも公序良俗を犯した罪によって牢獄行きだ。いや、仮に女の子だとしても、齢が十にも満たない少女同士じゃあるまいし……。
「私、怖いの。さっきの虫はミーシャが追い出してくれたけど、もしもう一匹どこかに隠れていたらなんて思うと不安でたまらないわ!」
「大丈夫よ、気に病むことなんてないわ。別にさっきの蜘蛛だって、シモーヌに何か悪いことをするような虫じゃないし」
僕は彼女を安心させようと、丸い頭を抱き寄せて、豊かな栗色の髪をそっと撫でた。しかし彼女は引き下がろうとはせず、甘えるように僕に身体を寄せる。
「お願いミーシェ。このままじゃ私、一睡もできないわ。だって明日は大事な会議でしょう?睡眠不足でフラフラのままアカデミーの方たちと顔合わせをするなんて、学院の威信に関わりますし、私、恥ずかしくて死んでしまうわ」
「で、でもね……」
彼女の不安は痛いほど伝わってくるし、なんとかしてやりたいのもやまやまだけれど、情に流されていいような状況ではない。これは僕のモラルだけの問題でなく、シモーヌの女性としての品格に関わることだ。例えば、裕福なご婦人が孤児院に寄付をすることは善である。これに疑いはない。しかし、ただかわいそうだからという理由で、その子たちを養子として迎え入れることは果たして善といえるのだろうか?責任から目を逸らした憐れみというのは、一時の幸せをもたらすことはあるかもしれないが、必ず悲劇的な結末を迎えるものである。
「ミーシェは私のこと、きらい?」
「……そんなわけないでしょ」
「じゃあ、どうしてそんなに嫌がるの?」
彼女が僕の手を握った。名画の中のどの聖女よりも光ある彼女(どんなにも優れた宮廷画家であっても現実のシモーヌを額に押し込めることなどできない)に手を握られて、その願いをはねつけることができる人物などこの世にいるのだろうか?ああ、シモーヌ。君は本当に――
「それは、その……。ほら、この部屋ベッドが一つしかないから、寝る場所とかないし……」
「一緒に寝ましょう?広いベッドだから女の子二人くらい入れるわ」
彼女は引かない。しかし、僕も引けない。
「で、でも!まだ今日はお風呂に入ってないから、もしかすると臭ってしまうかもしれないし……」
「ならこれから一緒に湯浴みしましょう?」
「それはダメ!」
僕は彼女の肩を掴んで引っぺがした。困った、今のシモーヌは、何を言っても引き下がらないときの頑固なシモーヌだ。彼女は基本的に物分かりの良い女性であるが、プライベートにおいて時折、こうやって石のように動かなくなることがある。たとえばこの前、市内の劇場にお出かけするとき、出発時間になって馬車を待たせているというのに、彼女はあれやこれや身支度に時間をかけてなかなか部屋から出てこず、ノックして扉越しに尋ねてみても、まだ髪の巻き具合が良くないやら、帽子が決まらないやらいろいろと駄々をこねて、結局部屋から出てきたのは一時間が過ぎてからだったし、そうだ真冬のある休日、「今度家でパーティがあるから、ドレスを注文しに行く」と町のブティックに連れていかれたときだって、採寸が終わった後、日が暮れて「もう帰ろう」と僕が言うにもかかわらず、あそこに行きたい、ここに行きたいと耳を貸さず、結局門限を破って夜遅くに大量の荷物と共に帰ったこともあった(教師に色々小言は言われたが、彼女の日ごろの行いによって罰則は免れた)。
そんな感じで、シモーヌが頑固モードになったときはこちらがどうこう言ったところで甲斐なく、彼女のしたいようにさせる他ないのである。こうなったらもう、あとは折衷案を引き出すしかない。
「分かったわ、シモーヌ。アナタがそこまで言うのなら、今夜この部屋に居てあげる」
「ミーシェ!」
感激した彼女がまた僕に抱き着こうとしたので、僕は肩を掴んだまま距離を保った。前からまともに抱きつかれるのは……よろしくない。
「でも!私はソファーに寝るわ。やっぱり二人一緒のベッドで眠るのは……うん、止めておきましょう?」
「どうして?女の子同士なんだから何の問題もないでしょう?」
「いや、その……」シモーヌは僕と同じベッドで寝ることをご所望のようだが、それだけは絶対に回避しなければならない。「恥ずかしいのだけど……その、私、寝相が良くないの」
「あら、寝相が?」
「そ、そうなのよ!ここだけの話にしておいてほしいのだけど、私ってば本当に寝相が悪くて、よく部屋のベッドから転げ落ちて早朝にハナを起こして迷惑をかけてしまっているし、なにより一緒に寝たらシモーヌのことを蹴飛ばしてしまうかもしれないし……」
「だったらなおのこと、私のベッドで寝た方が良いのではなくて?ソファーだと狭いから落ちてしまいますわ」
「でもそうするとシモーヌがソファーで寝るというの?家主を追い出してベッドで寝るなんて、私できないわ」
「だから一緒に寝ればいいのよ。私、自慢じゃないけど、一度寝てしまえば多少のことでは起きたりしませんわよ」
「で、でも」
「決まりね!」
「……」
「かまわないですわよね?」
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