13 / 13
ミーシェのとても長い一日
戻りましょう
しおりを挟む
「ごきげんよう、ミーシェ様」
「ごきげんよう」
学院の外へ逃げ出すタイミングを逸した僕は、急に機嫌を崩して威嚇モードに切り替わったハナと同じ部屋にいるのはいたたまれず、かといって生徒会室に行けば取り乱したシモーヌと鉢合わせるかもしれないので、追手から逃れる罪人のように、広大な裏庭をあてもなく散歩していた。まだ九時過ぎだというのに、学院で花嫁修業に励む大貴族の子女たちは、すでに東屋の下や木陰に集っておしゃべりに興じたり、数人組になって野を散策したりしていた。僕より三倍遅い時間を生きる彼女たちの表情は青空がごとく澄み渡っていて、心にどんよりとした重たい雲が立ち込める僕と挨拶を交わすことで汚してしまうのではないかと、こちらが気を遣ってしまうほどであった。
僕は人を避けて、池のほとりの、高い草木に囲まれたまだ誰もいないベンチに腰をかけた。風が吹くと、生い茂る草がざわざわと体を揺らしていた。髪をまとめ上げて露出した首元をヒュウと風が吹き抜けて、僕は肩をすくめた。小さな雲の欠片が太陽を遮り、世界に影が落ちた。まるでアポカリプスの始まりのような気分だった、一人でいるにはあまりにも心細いと感じた。馬鹿にされても、罵倒されてもいいから、ハナに話を聞いてもらいたい――心細い胸中に浮かんでくるのは、性悪田舎娘のハナ・ピウスキの顔であった。「やっぱり部屋に戻ろう」、そう決心して立ち上がろうとしたそのとき、濃い髪色の少女がベンチの前を横切った。
「あ、先輩……」
「……クラリエ?」
後輩クラリエは僕を見るや否や、なにやらまごついていた。その様子を見て思い出した、そうだ、昨晩から今朝にかけての大事件のせいですっかり忘れていたが、僕は昨日、彼女ともトラブル……というか、微妙なわだかまりを抱えていたのだった。僕は暗澹と濁った感情のプールに詫びの気持ちを流し込んで、焦点の合わない後輩の碧眼をじっと見つめた。
「クラリエ、昨日はごめんなさい!貴女の気持ちを全く考えずなれなれしい真似をして不快にさせてしまって……。本当にごめんなさい!!」
「えっ……?え?い、い、いえいえいえそんな!!!あれはその、突然のことで驚いただけというか、あれしきのことで驚いてしまう私の方が、悪いんです……。私こそ、先輩にいらぬ心配をかけて、も、申し訳なかった……です……」
頭を下げた僕に対して、クラリエはベンチに座る僕よりも低く頭を下げた。
「あっ、でもその……い、今はそんなことより……!」ひらひらと揺れる前髪からのぞく碧眼が輝く。「か、会長が先輩のことを探しているんです……!先輩、一緒に生徒会室まで来てくださ……」
「えっ!?ちょ、ちょっと待ってくださる!?」
彼女が差し出した手を僕は握らなかった。拒絶されることが予想外だったのか、クラリエは少し怯えたような目をしていた。
「ごめんなさい、別にクラリエを困らせようとしたのではなくって、その、シモーヌと……ケンカしてしまったの!だからちょっと、今は合わせる顔が無くて……」
「ならなおさら、アカデミーの皆様が来る前に仲直りした方がいいのでは……?学院のトップ二人の間にわだかまりがあることを悟られてしまうのは、正直、とても良くないことだと……」
「もちろんクラリエの言う通りよ。でもね、今回はちょっといろいろ事情が複雑で」
「事情があるならなおさら、話し合いは早く持つべきです。先送りにすればするほどそういうものって、どんどん悪い方向にいってしまうものですから……」
前髪の隙間からちらりとのぞく真珠のような瞳は、至極まっとうに僕のわがままを律しようとする。
「で、でも……」
「このままだと、会長が学院全体に先輩捜索の話を広めて、一大事になってしまいますよ……!」
「!!」
僕は息をのんだ。
「今はまだ、私と、アデーレさんとカロリーナさんを含めた生徒会の内で話が収まっていますが、会長のあの性格です……どんな手を使ってでも先輩を探し出そうとします。ことが大きくなって、学院内でいろんな憶測が飛ぶのは先輩にとって……好ましくないはずです」
彼女は状況を大局的に分析して、僕が最も恐れる展開を的確に提示した。ああその通りだ、まったくもってクラリエの言う通りだ。逃げ出すこと、ふさぎ込むことで頭が一杯で、自分が何をすべきなのか、僕は完全に見失っていたけれど、シモーヌに僕が男ということがばれてしまった以上、次善の策はただ一つ、どうにかしてこの事実を内々に留めてもらえるよう、シモーヌと交渉することのはずなのだ。それはまさに昨年、ハナに正体がばれてしまったときと同じように(たとえ交渉の結果何らかのペナルティを背負うことになったとしても、勘当されるよりはよっぽどましなはず……だ)。
幸い状況はまだ明るいということに気が付いた。シモーヌが僕のことを探しているということはつまり、なんらかの話し合いを彼女も望んでいるということだ。そんな単純な事実さえ見落としてしまうなんて、まったく、僕はどれだけ冷静さを失ってしまっていたのだろう。
「だから先輩……戻りましょう?」
後輩クラリエはか細い小さな指で、僕の手を、やさしく、キュッとつかんだ。彼女の手は暖かかった――いや、春の冷気にさらされた僕の手が、思いのほか冷えてしまっていたのかもしれない。繊細で美しい水晶彫刻のように澄んだ彼女の手を一度は無下にした僕へ再度手を差し伸べてくれる彼女は、いつだって僕を突き放すハナとは真逆の、まさに救いの女神であった。
「ごめんなさい、クラリエ。さっきは貴女の好意を不躾にはねつけるようなことをしてしまって、本当にごめんなさい」誠意を示すため、僕はもう片方の手を彼女の手の上に重ねた。「貴女の言う通り、私、シモーヌとちゃんとお話しするわ。まったく、子どもみたいにいつまでも拗ねてへこんでいるようじゃ、学院副会長として失格よね」
「全然失格なんかじゃない……です。副会長が務まるのは、先輩しか、い、いませんから……」
「ふふっ、クラリエは優しいね」ベンチから立ち上がり、僕は彼女の髪をそっと撫でた。「ありがとう、クラリエ」
「せ、せんぱっ……!」か弱い力でクラリエは僕の胸をトンと押した。「そ、そういうのは、よ、よ、よ……良くない……です……」
「あっ、そうだった!クラリエはこういうことはあまり好きじゃなかったのよね。ごめんなさい」
「好きとか嫌いとかじゃなくて、その……良くないんです!」
クラリエは池の方を向いて、僕から顔をそらした。濃い色の髪の毛と対照的な白い頬が、今はほんのり赤く染まっていた。
「早くいきましょう……。こ、事が大きくなるよりも前に、会長を見つけないと……」
「そうね」
彼女が速足で校舎へと歩きだしたので、遅れないよう、僕もそれについていった。
「ごきげんよう」
学院の外へ逃げ出すタイミングを逸した僕は、急に機嫌を崩して威嚇モードに切り替わったハナと同じ部屋にいるのはいたたまれず、かといって生徒会室に行けば取り乱したシモーヌと鉢合わせるかもしれないので、追手から逃れる罪人のように、広大な裏庭をあてもなく散歩していた。まだ九時過ぎだというのに、学院で花嫁修業に励む大貴族の子女たちは、すでに東屋の下や木陰に集っておしゃべりに興じたり、数人組になって野を散策したりしていた。僕より三倍遅い時間を生きる彼女たちの表情は青空がごとく澄み渡っていて、心にどんよりとした重たい雲が立ち込める僕と挨拶を交わすことで汚してしまうのではないかと、こちらが気を遣ってしまうほどであった。
僕は人を避けて、池のほとりの、高い草木に囲まれたまだ誰もいないベンチに腰をかけた。風が吹くと、生い茂る草がざわざわと体を揺らしていた。髪をまとめ上げて露出した首元をヒュウと風が吹き抜けて、僕は肩をすくめた。小さな雲の欠片が太陽を遮り、世界に影が落ちた。まるでアポカリプスの始まりのような気分だった、一人でいるにはあまりにも心細いと感じた。馬鹿にされても、罵倒されてもいいから、ハナに話を聞いてもらいたい――心細い胸中に浮かんでくるのは、性悪田舎娘のハナ・ピウスキの顔であった。「やっぱり部屋に戻ろう」、そう決心して立ち上がろうとしたそのとき、濃い髪色の少女がベンチの前を横切った。
「あ、先輩……」
「……クラリエ?」
後輩クラリエは僕を見るや否や、なにやらまごついていた。その様子を見て思い出した、そうだ、昨晩から今朝にかけての大事件のせいですっかり忘れていたが、僕は昨日、彼女ともトラブル……というか、微妙なわだかまりを抱えていたのだった。僕は暗澹と濁った感情のプールに詫びの気持ちを流し込んで、焦点の合わない後輩の碧眼をじっと見つめた。
「クラリエ、昨日はごめんなさい!貴女の気持ちを全く考えずなれなれしい真似をして不快にさせてしまって……。本当にごめんなさい!!」
「えっ……?え?い、い、いえいえいえそんな!!!あれはその、突然のことで驚いただけというか、あれしきのことで驚いてしまう私の方が、悪いんです……。私こそ、先輩にいらぬ心配をかけて、も、申し訳なかった……です……」
頭を下げた僕に対して、クラリエはベンチに座る僕よりも低く頭を下げた。
「あっ、でもその……い、今はそんなことより……!」ひらひらと揺れる前髪からのぞく碧眼が輝く。「か、会長が先輩のことを探しているんです……!先輩、一緒に生徒会室まで来てくださ……」
「えっ!?ちょ、ちょっと待ってくださる!?」
彼女が差し出した手を僕は握らなかった。拒絶されることが予想外だったのか、クラリエは少し怯えたような目をしていた。
「ごめんなさい、別にクラリエを困らせようとしたのではなくって、その、シモーヌと……ケンカしてしまったの!だからちょっと、今は合わせる顔が無くて……」
「ならなおさら、アカデミーの皆様が来る前に仲直りした方がいいのでは……?学院のトップ二人の間にわだかまりがあることを悟られてしまうのは、正直、とても良くないことだと……」
「もちろんクラリエの言う通りよ。でもね、今回はちょっといろいろ事情が複雑で」
「事情があるならなおさら、話し合いは早く持つべきです。先送りにすればするほどそういうものって、どんどん悪い方向にいってしまうものですから……」
前髪の隙間からちらりとのぞく真珠のような瞳は、至極まっとうに僕のわがままを律しようとする。
「で、でも……」
「このままだと、会長が学院全体に先輩捜索の話を広めて、一大事になってしまいますよ……!」
「!!」
僕は息をのんだ。
「今はまだ、私と、アデーレさんとカロリーナさんを含めた生徒会の内で話が収まっていますが、会長のあの性格です……どんな手を使ってでも先輩を探し出そうとします。ことが大きくなって、学院内でいろんな憶測が飛ぶのは先輩にとって……好ましくないはずです」
彼女は状況を大局的に分析して、僕が最も恐れる展開を的確に提示した。ああその通りだ、まったくもってクラリエの言う通りだ。逃げ出すこと、ふさぎ込むことで頭が一杯で、自分が何をすべきなのか、僕は完全に見失っていたけれど、シモーヌに僕が男ということがばれてしまった以上、次善の策はただ一つ、どうにかしてこの事実を内々に留めてもらえるよう、シモーヌと交渉することのはずなのだ。それはまさに昨年、ハナに正体がばれてしまったときと同じように(たとえ交渉の結果何らかのペナルティを背負うことになったとしても、勘当されるよりはよっぽどましなはず……だ)。
幸い状況はまだ明るいということに気が付いた。シモーヌが僕のことを探しているということはつまり、なんらかの話し合いを彼女も望んでいるということだ。そんな単純な事実さえ見落としてしまうなんて、まったく、僕はどれだけ冷静さを失ってしまっていたのだろう。
「だから先輩……戻りましょう?」
後輩クラリエはか細い小さな指で、僕の手を、やさしく、キュッとつかんだ。彼女の手は暖かかった――いや、春の冷気にさらされた僕の手が、思いのほか冷えてしまっていたのかもしれない。繊細で美しい水晶彫刻のように澄んだ彼女の手を一度は無下にした僕へ再度手を差し伸べてくれる彼女は、いつだって僕を突き放すハナとは真逆の、まさに救いの女神であった。
「ごめんなさい、クラリエ。さっきは貴女の好意を不躾にはねつけるようなことをしてしまって、本当にごめんなさい」誠意を示すため、僕はもう片方の手を彼女の手の上に重ねた。「貴女の言う通り、私、シモーヌとちゃんとお話しするわ。まったく、子どもみたいにいつまでも拗ねてへこんでいるようじゃ、学院副会長として失格よね」
「全然失格なんかじゃない……です。副会長が務まるのは、先輩しか、い、いませんから……」
「ふふっ、クラリエは優しいね」ベンチから立ち上がり、僕は彼女の髪をそっと撫でた。「ありがとう、クラリエ」
「せ、せんぱっ……!」か弱い力でクラリエは僕の胸をトンと押した。「そ、そういうのは、よ、よ、よ……良くない……です……」
「あっ、そうだった!クラリエはこういうことはあまり好きじゃなかったのよね。ごめんなさい」
「好きとか嫌いとかじゃなくて、その……良くないんです!」
クラリエは池の方を向いて、僕から顔をそらした。濃い色の髪の毛と対照的な白い頬が、今はほんのり赤く染まっていた。
「早くいきましょう……。こ、事が大きくなるよりも前に、会長を見つけないと……」
「そうね」
彼女が速足で校舎へと歩きだしたので、遅れないよう、僕もそれについていった。
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
天才天然天使様こと『三天美女』の汐崎真凜に勝手に婚姻届を出され、いつの間にか天使の旦那になったのだが...。【動画投稿】
田中又雄
恋愛
18の誕生日を迎えたその翌日のこと。
俺は分籍届を出すべく役所に来ていた...のだが。
「えっと...結論から申し上げますと...こちらの手続きは不要ですね」「...え?どういうことですか?」「昨日、婚姻届を出されているので親御様とは別の戸籍が作られていますので...」「...はい?」
そうやら俺は知らないうちに結婚していたようだった。
「あの...相手の人の名前は?」
「...汐崎真凛様...という方ですね」
その名前には心当たりがあった。
天才的な頭脳、マイペースで天然な性格、天使のような見た目から『三天美女』なんて呼ばれているうちの高校のアイドル的存在。
こうして俺は天使との-1日婚がスタートしたのだった。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
クラスのマドンナがなぜか俺のメイドになっていた件について
沢田美
恋愛
名家の御曹司として何不自由ない生活を送りながらも、内気で陰気な性格のせいで孤独に生きてきた裕貴真一郎(ゆうき しんいちろう)。
かつてのいじめが原因で、彼は1年間も学校から遠ざかっていた。
しかし、久しぶりに登校したその日――彼は運命の出会いを果たす。
現れたのは、まるで絵から飛び出してきたかのような美少女。
その瞳にはどこかミステリアスな輝きが宿り、真一郎の心をかき乱していく。
「今日から私、あなたのメイドになります!」
なんと彼女は、突然メイドとして彼の家で働くことに!?
謎めいた美少女と陰キャ御曹司の、予測不能な主従ラブコメが幕を開ける!
カクヨム、小説家になろうの方でも連載しています!
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる