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#FINAL 綻ばない二人へ
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私は病院にいた。
左腕を骨折して、ベッドの上に。
外ではセミがけたたましく鳴いて、今が夏であると盛んに告げる。
元いた世界には戻れなかった。
家族も友だちも、みんな私を心配してくれた。誰も、私が自分の意志で階段から転げ落ちようとしたなんてふうには思っていなかった。
涼真も来てくれたけど、顔を合わせる気分には到底なれなくて、追い返してしまった。
どうして帰れなかったのかは分からない。あの程度の階段ではダメだったのか、私が自発的にしようとするのはNGだったのか、はたまた全く異なる理由なのか。
いずれにせよ、もうあんな馬鹿げた方法は使いたいとも思えない。いや、ひょっとしたら、私の思っていたこと全部、嘘だったのかもしれない。私は救いがたいほど頭をやられていて、元いた世界とかいうのが嘘で、こここそが唯一の本当なのかもしれない。
涼真を好きだというのも、私の独りよがりで……。
考えれば考えるほど、シーツが灰色になるばかりで、もうやめようと思った。
ノックの音と共に「桜木さん」と声がした。
「どうぞ」
私の声はか細くて、枯れていた。
ドアを開けて入ってきたのは、まどか先生だった。
「具合はどう?」
その顔を見ると、少しだけ心が穏やかになった。美しいというのは、それだけで尊いことだと思った。
「見ての通りです。骨折したところ以外は、大したことはないって先生も」
「そう。利き手じゃ、ないのよね」
「はい」
まどか先生はこくこくと小さく頷きながら、丸椅子をベッドの近くまで持ってきて腰を下ろした。
「桜木さん、何か思い詰めてることがあるんじゃない?」
「へ?」
「わざと階段を踏み外した、んでしょ」
「なんで、それを……」
先生の顔は真剣で、カマをかけているようにも思えなかった。本当に最初から知っていた、そんな感じだ。
「柳君がね、自分と話してたら急に桜木さんが走り出して、それでああなったから、きっと、自分が桜木さんを追い詰めたんだ、って言ってくれたの」
私は目を伏せた。そっか、別の世界に逃げられなかったら、私がやったことは全部、事実として残るんだもんね。今までは全部、別の世界に飛んで何事もなかったかのようになってきたから、全く意識してなかったけど。
「やっぱり先生には、こういうこと話しにくい?」
私は答えなかった。まどか先生を信頼してないわけじゃない。でもこのことは、誰かに話して信じてもらえるような話じゃない。
「そうよね。でも、友だちにはもっと言いづらかったりしない? こうやってちょっと距離が空いてる関係だから、言えてしまったりすることもあるものよ。もちろん、嫌なことは言わなくて良いし、話しててもこれは言えない、って気付いたらそこまでで止めても良いの」
ちょうど私が顔を上げたのと、まどか先生が微笑みかけてくれたのは同時だった。
「溜め込んだら、いつか思いは大きな塊になってしまって、喉を通れなくなるものよ。だからって、なんでもかんでも人に頼って聞いてもらうのが正義だとも思わないけど、自分がどうかなってしまわない程度には、ちゃんと口にした方が良いっていうのは、きっと正しいことよ」
まどか先生の優しさに寄りかかって良いのか、私はまだ不安だった。そもそもの発端、逃げ続けてきたそれを、果たして人に聞かせて良いものか、と。結局は自分次第でしかないことを、わざわざ他人に聞かせる意味はどこにあるのかと。
「どうせ言っても同じ、なら、どうせ言わなくても同じ、じゃない?」
またまどか先生は微笑みかけてくれた。それが、私の背中を押してくれた。
「絶対、笑わないでくださいね」
「ええ」
「絶対ですよ」
「わざわざ生徒を笑いにはるばる学校から来たりしないわよ」
私は唾を飲み込んでから、ここに至るまでの全てを語って聞かせた。本当に、洗いざらい、何もかも。
もし、私が再び元の世界に戻れるなら、ここで話したことだってありはしなくなるのだから、どれだけ滑稽な話だとしても、構いやしない、そう自分に言い聞かせた。
「本当は、ただ、ずっと涼真といたかっただけ、なんです。ただ、これからも」
それ自体は、もう何度も思っていたことなのに。
口にしたことで、思いが色を帯びて、鮮やかに形を伴っていく気がした。
「その気持ち、どうして彼に伝えなかったの?」
どうして。
それは――
「怖かったんです……涼真の気持ちが、私と違ったら、って。もう涼真は私のことなんてどうだって良いって、思ってるんじゃないかって」
だから、顔を合わせる度に下手な笑いを浮かべるだけだった。
「そして、二人の距離はどんどん開いていってしまったのね」
私は力なく頷いた。
「確かに、怖いわよね。相手の気持ちを確かめるのって。でも、どんな恋も始まりは相手の気持ちを確かめることからでしょ。私と付き合ってください、って伝えて、そこに了承をもらうの。でも、恋愛っていうのはきっと、ずっとそうやって確かめ続けることなんじゃないかしら。私は今日もあなたを愛してます。あなたも同じ気持ちですか、って確かめ合うの」
そう言うと、まどか先生は私の手の上に自分の手を重ねた。白くて細いのに、ぬくもりに満ちたそれは、力強さを湛えていた。
「恋人なんて、こんな言い方をしたらあれだけど、赤の他人なのよ。ちゃんと確かめ合わなきゃ、綻んでしまうの」
まどか先生の目元には、微かな悲しみが乗っているように見えた。先生にもいつか、そんなことがあったんだろうか。
「本当に大切な人だからこそ、逃げちゃダメなのよ」
私はもう、シーツが灰色になるのをためらわなかった。ただ心が空っぽになるまで、そうしようと決めた。
そうして涙が枯れた時、私はまっすぐまどか先生の顔を見つめ返すことができるようになった。
「もう、大丈夫そうね」
まどか先生がそう言った瞬間、強い風が吹いた。
窓なんて、開けてなかったはずなのに。
白いカーテンがふわりと私の視界の全てを覆う。
夕闇の中、私はあの階段の前に立っていた。
後ろからはしゃぐ子どもたちの声がして、私はすっとそこから離れた。
ちょうど私が立っていた辺りに、よろめいた男の子が尻もちをつく。
「何やってんだよー、もー。ほら、立てるか?」
もう一人が手を差し伸ばすと、男の子はへへっと笑いながらその手を取って立ち上がった。
そしてまた、はしゃぎながら二人は私の脇をすり抜けていった。
帰ってきたんだ。
もうその不可思議さに、私の意識は向かなかった。
ただ、来るべき瞬間のことだけを、大切に大切に思うだけだった。
私は鞄からスマホを取り出――そうとして、あるものが入っていることに気付いた。
文庫本だった。
向こうの世界で、涼真が貸してくれた本だ。あの時、私はもっと涼真のことを知るべきだったと思った。
一瞬の昂ぶりは、私たちを恋人という形にするに留まって、それ以上のものをくれはしなかった。
私は涼真をほとんど知らないし、私もまた、涼真に私のことをほとんど教えてこなかった。
この本だけがどうしてついてきたのかは知らない。
でも、そのことを忘れるな、というもう一人の彼からの戒めのように感じた。
私は唇をきつく結ぶと、今度こそスマホを取り出して、涼真に電話をかけた。
もう迷わない――なんてことは、ない。今この瞬間も、自分の行いが正しいのか問い続ける自分はいる。それでも、未来を過度に恐れて、何もしないことだけはやめようという確かな意思があった。それは、きっと何もかもを失うことを意味するから。
呼び出し音が繰り返される度、呼吸は浅くなる。そろそろ、〝応答がありませんでした〟と表示されてもおかしくない頃だ。それでも、私は耳元からスマホを遠ざけることはしなかった。
伝えたい想いがあるなら、今伝えなきゃ。何もかもがどうしようもなくなる、その前に。
「……菜緒?」
涼真の声。この声で私の名前を呼ぶのは、どんな世界にも、きっとこの涼真ただ一人だ。
「今から会える?」
一言一言を発するのが、もうとても怖い。震えるのを抑えたくて、もう片方の手でスカートをぎゅっと握った。
「今、どうしても会いたいの」
ずっと、明日に、明日にと丸投げしてきた。でも、きっと明日が来たら、私はまた明日を望む。そうしていつか、明日が来なくなった時になって、今度は後ろを向いてしまうのだ。
「分かった。どこに行けば良い?」
「私の家で良い?」
「ああ、すぐ行くから」
「待ってるね」
通話が終わった途端、私は溜め込んでいた息を全て吐ききった。これだけのことでもどっと疲れを感じる。首と肩の辺りにハリを感じるけど、真の闘いは、これからだと言い聞かせて、私は自宅へ足を向けた。
一歩一歩、足を踏み出す度に鼓動が速まっていく。その内張り裂けてしまうんじゃないだろうかというほどで、私は襟元を掴んで深呼吸を心がけた。
ものの数分で外は真っ暗になって、電灯が照らす世界に変わった。
家が見えたかと思えば、涼真がもうそこにいることに気付いた。
「涼真!」
私は恥も外聞もなく、大声で呼んで駆け寄った。
「お前も外にいたのか」
「会いたいって思ってすぐ、電話かけてたから」
「そっか」
涼真は軽く首を傾げると、口角をほんの少し上げて、微笑んだ。
いつ以来だろう。現実で、そうやって笑ってくれるのは。ずっと、ずっとその顔が見たかったんだ、私は。
その表情を見れたことが、私の緊張を取り去ってくれたような気がして、私の覚悟をより強固にした。
「あのね、涼真、私、このまま涼真との関係が冷えきっていくのなんて、嫌。もっとちゃんと、一緒にいたい」
たったそれだけの、儚くて小さな願い。
「ダメなところがあったら直すから、涼真が好きな女の子になれるように頑張るから」
伝えてしまったら、こんなにも簡単なことだったのに。
あんなにも、遠回りして、私は――
一瞬の内に、私は涼真の腕の中にいた。
「ごめん。本当、ごめん。こんなになるまで、何もしてやれなくて」
「涼、真……?」
震えていた。涼真はきっと、泣いていた。
「気が付いたら、もう、どうやって話しかけたら良いか分からないほど、遠くなってたんだ。何とかしなきゃ、そう思っても、菜緒はもう冷めちまったんじゃないかって気がして、目を合わせるのも怖くなって」
「同じ、同じだよ、涼真。私も、そうだった。こうやって確かめ合うだけで良かったのに、それが、とてもできなくて、あと一歩で別れてしまいそうなほど、距離が空いちゃったの」
私は涼真の肩に頭を乗せた。このぬくもりを再び感じられるなんて。涙を流さずにいられるわけがなかった。
「俺、夢を見たんだ。出逢った頃に戻る夢を。俺は、そこで菜緒ともう一度やり直せるんじゃないか、って思った。だけど、違ったんだ。あれは、菜緒にすごく似てたけど、菜緒じゃなかった。俺が好きな菜緒は、ここにしかいない、俺の想いを受け容れてくれた菜緒は、ここにしかいない、そんな大切なことを、俺はすっかり忘れてたんだ」
私の背に回された腕に、もっと力がこもった。
「行かないでくれ、どこにも。俺も、どこにも行かないから」
「行かないよ、絶対。私も同じ夢を見て、同じように思ったから。涼真と、一緒にいたいと思ったから。だから、一緒にいられるこの時間を、絶対に手放したりしないよ」
私たちの間には、それ以上の言葉は要らなかった。
ただ、もう一度一つになったという事実を、お互いのぬくもりの中に確かめ合っていた。
時計の針が動く音だけが聞こえる。
改まってしまったような私たちは、どんな会話をしたら良いか分からなかった。
付き合い始めのような恥じらいと、すぐそこまで迫っていた崩壊への恐れとが混ざり合って、すぐ近くに座ってはいても、指先を僅かに触れ合わせることくらいしかできないでいた。
「最初はきっと――」
口を開いたのは、涼真だった。私はその方に顔を向けることなく、俯いたままで聞いた。
「付き合いたての頃みたいな浮かれ具合が恥ずかしくなってきて、少しずつ普通の感じに戻してた、それくらいのものだったと思う。でも、それが続く内、恋人らしいことがどんどん減っていって、恋人だっていう自覚まで薄れていったんだろうな。それが極まりすぎて、全然話さなくなった友だちみたく、どう話しかけたら良いかさえ、思い出せなくなっちまったんだ」
私はその言葉の中に、まどか先生の言っていたのと同じ意味を見つけた。
〝恋人なんて、こんな言い方をしたらあれだけど、赤の他人なのよ。ちゃんと確かめ合わなきゃ、綻んでしまうの〟
私はほんの少し手を伸ばして、触れ合う部分を増やした。
「もっと恋人として、俺は努力しなきゃならなかったんだ」
「私も、甘えてたと思う。付き合うまでとか、付き合ってすぐは、あんなに頑張ってたのに、最近じゃもう、ほとんど何もしてなかった。それで好きで居続けて欲しいなんて、わがまますぎるよね」
今度は、涼真の手が近付いてきて、私たちはそっと手を繋いだ。
それが合図だったみたいに、私たちはどちらかともなく、お互いの方を向いた。
「こんな俺を、許してくれるか。失いかけないように、ちゃんと、向き合うから」
「悪いのは、私もだから。私も、もうこんな思いさせたり、しなくて済むように、頑張るね」
いつから触れてなかったか分からない、その唇に。
私はそっと、今の気持ちを重ねた。
涼真――ここにしかいない、私を愛してくれる人。そんなあなたを、私は絶対、失いたくない。
再び心が一つになってゆくのを感じながら、私はあの世界のことを考えた。
きっとあの世界は、私を試していた。
答えは何通りにも出せて、これとは違う未来も、いくらでも選べただろう。
でも、この答えだけが正しくて。それを選ばなかった私は、永遠にあの世界に留められて、もう二度と、この愛を感じられなくなっていたに違いない。
「涼真、私――」
本当に、良かった。正しい答えを選べて、良かった。
「やっぱりあなたのことが、好き」
この心を、あなたに伝えられて、良かった。
左腕を骨折して、ベッドの上に。
外ではセミがけたたましく鳴いて、今が夏であると盛んに告げる。
元いた世界には戻れなかった。
家族も友だちも、みんな私を心配してくれた。誰も、私が自分の意志で階段から転げ落ちようとしたなんてふうには思っていなかった。
涼真も来てくれたけど、顔を合わせる気分には到底なれなくて、追い返してしまった。
どうして帰れなかったのかは分からない。あの程度の階段ではダメだったのか、私が自発的にしようとするのはNGだったのか、はたまた全く異なる理由なのか。
いずれにせよ、もうあんな馬鹿げた方法は使いたいとも思えない。いや、ひょっとしたら、私の思っていたこと全部、嘘だったのかもしれない。私は救いがたいほど頭をやられていて、元いた世界とかいうのが嘘で、こここそが唯一の本当なのかもしれない。
涼真を好きだというのも、私の独りよがりで……。
考えれば考えるほど、シーツが灰色になるばかりで、もうやめようと思った。
ノックの音と共に「桜木さん」と声がした。
「どうぞ」
私の声はか細くて、枯れていた。
ドアを開けて入ってきたのは、まどか先生だった。
「具合はどう?」
その顔を見ると、少しだけ心が穏やかになった。美しいというのは、それだけで尊いことだと思った。
「見ての通りです。骨折したところ以外は、大したことはないって先生も」
「そう。利き手じゃ、ないのよね」
「はい」
まどか先生はこくこくと小さく頷きながら、丸椅子をベッドの近くまで持ってきて腰を下ろした。
「桜木さん、何か思い詰めてることがあるんじゃない?」
「へ?」
「わざと階段を踏み外した、んでしょ」
「なんで、それを……」
先生の顔は真剣で、カマをかけているようにも思えなかった。本当に最初から知っていた、そんな感じだ。
「柳君がね、自分と話してたら急に桜木さんが走り出して、それでああなったから、きっと、自分が桜木さんを追い詰めたんだ、って言ってくれたの」
私は目を伏せた。そっか、別の世界に逃げられなかったら、私がやったことは全部、事実として残るんだもんね。今までは全部、別の世界に飛んで何事もなかったかのようになってきたから、全く意識してなかったけど。
「やっぱり先生には、こういうこと話しにくい?」
私は答えなかった。まどか先生を信頼してないわけじゃない。でもこのことは、誰かに話して信じてもらえるような話じゃない。
「そうよね。でも、友だちにはもっと言いづらかったりしない? こうやってちょっと距離が空いてる関係だから、言えてしまったりすることもあるものよ。もちろん、嫌なことは言わなくて良いし、話しててもこれは言えない、って気付いたらそこまでで止めても良いの」
ちょうど私が顔を上げたのと、まどか先生が微笑みかけてくれたのは同時だった。
「溜め込んだら、いつか思いは大きな塊になってしまって、喉を通れなくなるものよ。だからって、なんでもかんでも人に頼って聞いてもらうのが正義だとも思わないけど、自分がどうかなってしまわない程度には、ちゃんと口にした方が良いっていうのは、きっと正しいことよ」
まどか先生の優しさに寄りかかって良いのか、私はまだ不安だった。そもそもの発端、逃げ続けてきたそれを、果たして人に聞かせて良いものか、と。結局は自分次第でしかないことを、わざわざ他人に聞かせる意味はどこにあるのかと。
「どうせ言っても同じ、なら、どうせ言わなくても同じ、じゃない?」
またまどか先生は微笑みかけてくれた。それが、私の背中を押してくれた。
「絶対、笑わないでくださいね」
「ええ」
「絶対ですよ」
「わざわざ生徒を笑いにはるばる学校から来たりしないわよ」
私は唾を飲み込んでから、ここに至るまでの全てを語って聞かせた。本当に、洗いざらい、何もかも。
もし、私が再び元の世界に戻れるなら、ここで話したことだってありはしなくなるのだから、どれだけ滑稽な話だとしても、構いやしない、そう自分に言い聞かせた。
「本当は、ただ、ずっと涼真といたかっただけ、なんです。ただ、これからも」
それ自体は、もう何度も思っていたことなのに。
口にしたことで、思いが色を帯びて、鮮やかに形を伴っていく気がした。
「その気持ち、どうして彼に伝えなかったの?」
どうして。
それは――
「怖かったんです……涼真の気持ちが、私と違ったら、って。もう涼真は私のことなんてどうだって良いって、思ってるんじゃないかって」
だから、顔を合わせる度に下手な笑いを浮かべるだけだった。
「そして、二人の距離はどんどん開いていってしまったのね」
私は力なく頷いた。
「確かに、怖いわよね。相手の気持ちを確かめるのって。でも、どんな恋も始まりは相手の気持ちを確かめることからでしょ。私と付き合ってください、って伝えて、そこに了承をもらうの。でも、恋愛っていうのはきっと、ずっとそうやって確かめ続けることなんじゃないかしら。私は今日もあなたを愛してます。あなたも同じ気持ちですか、って確かめ合うの」
そう言うと、まどか先生は私の手の上に自分の手を重ねた。白くて細いのに、ぬくもりに満ちたそれは、力強さを湛えていた。
「恋人なんて、こんな言い方をしたらあれだけど、赤の他人なのよ。ちゃんと確かめ合わなきゃ、綻んでしまうの」
まどか先生の目元には、微かな悲しみが乗っているように見えた。先生にもいつか、そんなことがあったんだろうか。
「本当に大切な人だからこそ、逃げちゃダメなのよ」
私はもう、シーツが灰色になるのをためらわなかった。ただ心が空っぽになるまで、そうしようと決めた。
そうして涙が枯れた時、私はまっすぐまどか先生の顔を見つめ返すことができるようになった。
「もう、大丈夫そうね」
まどか先生がそう言った瞬間、強い風が吹いた。
窓なんて、開けてなかったはずなのに。
白いカーテンがふわりと私の視界の全てを覆う。
夕闇の中、私はあの階段の前に立っていた。
後ろからはしゃぐ子どもたちの声がして、私はすっとそこから離れた。
ちょうど私が立っていた辺りに、よろめいた男の子が尻もちをつく。
「何やってんだよー、もー。ほら、立てるか?」
もう一人が手を差し伸ばすと、男の子はへへっと笑いながらその手を取って立ち上がった。
そしてまた、はしゃぎながら二人は私の脇をすり抜けていった。
帰ってきたんだ。
もうその不可思議さに、私の意識は向かなかった。
ただ、来るべき瞬間のことだけを、大切に大切に思うだけだった。
私は鞄からスマホを取り出――そうとして、あるものが入っていることに気付いた。
文庫本だった。
向こうの世界で、涼真が貸してくれた本だ。あの時、私はもっと涼真のことを知るべきだったと思った。
一瞬の昂ぶりは、私たちを恋人という形にするに留まって、それ以上のものをくれはしなかった。
私は涼真をほとんど知らないし、私もまた、涼真に私のことをほとんど教えてこなかった。
この本だけがどうしてついてきたのかは知らない。
でも、そのことを忘れるな、というもう一人の彼からの戒めのように感じた。
私は唇をきつく結ぶと、今度こそスマホを取り出して、涼真に電話をかけた。
もう迷わない――なんてことは、ない。今この瞬間も、自分の行いが正しいのか問い続ける自分はいる。それでも、未来を過度に恐れて、何もしないことだけはやめようという確かな意思があった。それは、きっと何もかもを失うことを意味するから。
呼び出し音が繰り返される度、呼吸は浅くなる。そろそろ、〝応答がありませんでした〟と表示されてもおかしくない頃だ。それでも、私は耳元からスマホを遠ざけることはしなかった。
伝えたい想いがあるなら、今伝えなきゃ。何もかもがどうしようもなくなる、その前に。
「……菜緒?」
涼真の声。この声で私の名前を呼ぶのは、どんな世界にも、きっとこの涼真ただ一人だ。
「今から会える?」
一言一言を発するのが、もうとても怖い。震えるのを抑えたくて、もう片方の手でスカートをぎゅっと握った。
「今、どうしても会いたいの」
ずっと、明日に、明日にと丸投げしてきた。でも、きっと明日が来たら、私はまた明日を望む。そうしていつか、明日が来なくなった時になって、今度は後ろを向いてしまうのだ。
「分かった。どこに行けば良い?」
「私の家で良い?」
「ああ、すぐ行くから」
「待ってるね」
通話が終わった途端、私は溜め込んでいた息を全て吐ききった。これだけのことでもどっと疲れを感じる。首と肩の辺りにハリを感じるけど、真の闘いは、これからだと言い聞かせて、私は自宅へ足を向けた。
一歩一歩、足を踏み出す度に鼓動が速まっていく。その内張り裂けてしまうんじゃないだろうかというほどで、私は襟元を掴んで深呼吸を心がけた。
ものの数分で外は真っ暗になって、電灯が照らす世界に変わった。
家が見えたかと思えば、涼真がもうそこにいることに気付いた。
「涼真!」
私は恥も外聞もなく、大声で呼んで駆け寄った。
「お前も外にいたのか」
「会いたいって思ってすぐ、電話かけてたから」
「そっか」
涼真は軽く首を傾げると、口角をほんの少し上げて、微笑んだ。
いつ以来だろう。現実で、そうやって笑ってくれるのは。ずっと、ずっとその顔が見たかったんだ、私は。
その表情を見れたことが、私の緊張を取り去ってくれたような気がして、私の覚悟をより強固にした。
「あのね、涼真、私、このまま涼真との関係が冷えきっていくのなんて、嫌。もっとちゃんと、一緒にいたい」
たったそれだけの、儚くて小さな願い。
「ダメなところがあったら直すから、涼真が好きな女の子になれるように頑張るから」
伝えてしまったら、こんなにも簡単なことだったのに。
あんなにも、遠回りして、私は――
一瞬の内に、私は涼真の腕の中にいた。
「ごめん。本当、ごめん。こんなになるまで、何もしてやれなくて」
「涼、真……?」
震えていた。涼真はきっと、泣いていた。
「気が付いたら、もう、どうやって話しかけたら良いか分からないほど、遠くなってたんだ。何とかしなきゃ、そう思っても、菜緒はもう冷めちまったんじゃないかって気がして、目を合わせるのも怖くなって」
「同じ、同じだよ、涼真。私も、そうだった。こうやって確かめ合うだけで良かったのに、それが、とてもできなくて、あと一歩で別れてしまいそうなほど、距離が空いちゃったの」
私は涼真の肩に頭を乗せた。このぬくもりを再び感じられるなんて。涙を流さずにいられるわけがなかった。
「俺、夢を見たんだ。出逢った頃に戻る夢を。俺は、そこで菜緒ともう一度やり直せるんじゃないか、って思った。だけど、違ったんだ。あれは、菜緒にすごく似てたけど、菜緒じゃなかった。俺が好きな菜緒は、ここにしかいない、俺の想いを受け容れてくれた菜緒は、ここにしかいない、そんな大切なことを、俺はすっかり忘れてたんだ」
私の背に回された腕に、もっと力がこもった。
「行かないでくれ、どこにも。俺も、どこにも行かないから」
「行かないよ、絶対。私も同じ夢を見て、同じように思ったから。涼真と、一緒にいたいと思ったから。だから、一緒にいられるこの時間を、絶対に手放したりしないよ」
私たちの間には、それ以上の言葉は要らなかった。
ただ、もう一度一つになったという事実を、お互いのぬくもりの中に確かめ合っていた。
時計の針が動く音だけが聞こえる。
改まってしまったような私たちは、どんな会話をしたら良いか分からなかった。
付き合い始めのような恥じらいと、すぐそこまで迫っていた崩壊への恐れとが混ざり合って、すぐ近くに座ってはいても、指先を僅かに触れ合わせることくらいしかできないでいた。
「最初はきっと――」
口を開いたのは、涼真だった。私はその方に顔を向けることなく、俯いたままで聞いた。
「付き合いたての頃みたいな浮かれ具合が恥ずかしくなってきて、少しずつ普通の感じに戻してた、それくらいのものだったと思う。でも、それが続く内、恋人らしいことがどんどん減っていって、恋人だっていう自覚まで薄れていったんだろうな。それが極まりすぎて、全然話さなくなった友だちみたく、どう話しかけたら良いかさえ、思い出せなくなっちまったんだ」
私はその言葉の中に、まどか先生の言っていたのと同じ意味を見つけた。
〝恋人なんて、こんな言い方をしたらあれだけど、赤の他人なのよ。ちゃんと確かめ合わなきゃ、綻んでしまうの〟
私はほんの少し手を伸ばして、触れ合う部分を増やした。
「もっと恋人として、俺は努力しなきゃならなかったんだ」
「私も、甘えてたと思う。付き合うまでとか、付き合ってすぐは、あんなに頑張ってたのに、最近じゃもう、ほとんど何もしてなかった。それで好きで居続けて欲しいなんて、わがまますぎるよね」
今度は、涼真の手が近付いてきて、私たちはそっと手を繋いだ。
それが合図だったみたいに、私たちはどちらかともなく、お互いの方を向いた。
「こんな俺を、許してくれるか。失いかけないように、ちゃんと、向き合うから」
「悪いのは、私もだから。私も、もうこんな思いさせたり、しなくて済むように、頑張るね」
いつから触れてなかったか分からない、その唇に。
私はそっと、今の気持ちを重ねた。
涼真――ここにしかいない、私を愛してくれる人。そんなあなたを、私は絶対、失いたくない。
再び心が一つになってゆくのを感じながら、私はあの世界のことを考えた。
きっとあの世界は、私を試していた。
答えは何通りにも出せて、これとは違う未来も、いくらでも選べただろう。
でも、この答えだけが正しくて。それを選ばなかった私は、永遠にあの世界に留められて、もう二度と、この愛を感じられなくなっていたに違いない。
「涼真、私――」
本当に、良かった。正しい答えを選べて、良かった。
「やっぱりあなたのことが、好き」
この心を、あなたに伝えられて、良かった。
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それから二十年。
第三王妃はとある事故で亡くなり、夫は反省したらしい。だからといって――今さら夫婦関係をやり直したいと言われても遅すぎる。
なのに王は諦めない。毎日の手紙。花を一輪。夜食の差し入れ。
不器用すぎる求愛に振り回されるうち、マリアの中で止まっていた感情が少しずつ動き始める。
これは、冷えきった政略夫婦が「文通」からやり直す恋の話。
※本作は「存在されていないことにされていた管理ギフトの少女王宮で真の家族に出会う」のスピンオフですが、単体で読めます。
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