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後日談:羽根の代わりに、蛇の足
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★後日談:羽根の代わりに、蛇の足
これは、羽根をもいだ男の子と羽根をもがれた女の子が、それでも愛し合った少し未来のお話。
『好き』の言葉を手に入れて、少し大人になった二人が正式に同棲なんてものを始めた、そんな取るに足らない、ただの恋の小話だ。
◆
私が姿見の前で明日着ていくお洋服をいくつか合わせていると、お風呂から上がったばかりの桜弥くんが後ろからぎゅっと抱きついてきた。
「愛海ちゃん、明日どっか行くの?」
「うん、友達とショッピング」
「……友達……」
桜弥くんは少し険しい顔をする。
さてはこれは良くないことを考えてるな? と姿見越しに目を見たら桜弥くんはぎゅ、とより強く私のお腹に両腕を回してきた。
「……友達って、男?」
「そんなわけないでしょ……女の子です」
「ならいーけど」
桜弥くんはちゅっと私のつむじにキスをして、すり、と顔を擦り寄せる。
そして私をぎゅーっと抱きしめたまま肩口に顎を乗せてきた。
「……ね、俺にも構ってよ」
なんて可愛くねだる桜弥くんにどきりとしてしまった。
私の恋心をこういう風に利用してくるなんて、いつからそんなにずるくなったの。
衝動的な感情を私にぶつけてきた男の子が、男のひとになっている。それを突きつけられて顔が熱くなる自分に、何だか笑えてきてしまった。
明日のお洋服を選ぶ作業を中断して桜弥くんに向き直って抱き締め返すと、桜弥くんは嬉しそうに私の慎ましやかな胸に顔を埋めた。
「こら、セクハラだよ?」
「彼氏の特権だって。愛海ちゃんに甘えてーの」
悪びれもしない桜弥くんに苦笑いする。
本当に、あれだけ甘え方を間違っていた男の子だったのに。
私も私で、桜弥くんを咎める言葉も持たないくらい弱かったのに。
遠回りしながら縮めてきた距離が、密着するような触れ合いに変わって。
それはきっと、心の距離も。
私は桜弥くんの、男の子にしては少し長い髪を撫でながら、ちゅっと彼の額にキスをした。
桜弥くんは少し照れたように笑ってから、また私をぎゅーっと抱き締める力を強める。
くるしいはずなのに、なんだろう。胸がいっぱいなのに、つらくないよ。
このいっぱいは、満たされているからだよ。
幸せがこぼれちゃう。笑顔があふれちゃう。
「……愛海ちゃん……」
「なぁに?」
「……あいしてるよ」
「……っ、わ、私も……愛してる、よ……」
桜弥くんにとってはそれが生来のものであろうおちゃらけている雰囲気から一変して、真剣な声でそう呟かれる。
それを聞いて私は悲しくもないのに泣きそうになった。
照れたふりで、涙を誤魔化す。
だけど、贈られた最上級の愛の言葉に、私は目を潤ませる。
嬉しいと、幸せだと涙が出るんだ、そっか。
満たされるとこうなるんだ。ずっと空っぽだったから私、びっくりしちゃうよ。
そのままくっついて、二人の体温を分け合うだけの、取り留めもない話で笑い合うだけの穏やかな時間を過ごした。
やがて時計の針が頂点に近付く頃になるとお互い同時にくあっと欠伸が出て、また同じタイミングで笑った。
就寝の準備を始めて、この一瞬一瞬が幸せだなぁって実感しつつ桜弥くんにぎゅっと抱き締められたまま一緒に寝室で目を閉じる時間がたまらなく幸せで、むにゃりと顔がほころぶのを感じながら優しくおやすみを言い合った。
今の私たちは、笑いながらおやすみを言える。
手を繋いで、仲良く明日に行ける。
◆
翌朝、友人とのお出かけの準備を整えて鞄を持った私に、桜弥くんが近寄ってきた。
どうしたのかと思って戸惑う私に彼はむすっとして見せたが、すぐに優しい笑みを浮かべた。そしてぎゅっと強く私を抱き締める。
厚い胸板の感触を感じて心臓が跳ねた私を知ってか知らずか、桜弥くんは何気ない口調で言った。
「さみしいなー、せっかく家帰ったら可愛い愛海ちゃんがいて疲れも癒やされてた日々なわけだけど……今日はオトモダチに愛海ちゃん取られちゃうんでしょ?」
「と、とられるって言うかね……?」
「……な~んて! 冗談だよ」
そう言って笑う桜弥くんだけど、本音も混ざっていることを私は知っている。
昨日後ろから私に抱きついた彼は、構ってほしいと甘えた彼は、寂しそうだったから。
隠すものがなくなった剥き出しの好意と独占欲には未だに慣れない、のに。
桜弥くんはちゅっと私の頬にキスしてきた。
「オトモダチに俺のこといーっぱい惚気けてきてね♡ 彼氏とラブラブで幸せですって♡」
「は、はずかしいよ……」
「ええ? 俺の方は友達にだいぶ惚気けてんのになー? よくうざがられる」
「じゃあ言いたくないなあ……友達に迷惑かけたくないよ」
「えー」
いきなり頬っぺたにちゅっとされたことの驚きがまだ抜けずにぱちぱちと瞬きを繰り返す私の頭を、桜弥くんはくしゃっと撫でた。
「夕飯作っとくから、楽しみにしててな」
「……うん、ありがとう。えへへ……嬉しい」
慣れてないから戸惑いはする。
戸惑いはするけど、分かり合う為の彼の明朗が愛しくて、私も笑えるのが嬉しい。
笑顔って、こんなに特別な表情で感情だったんだ。
今度は反対側の頬に柔らかい感触を感じてびっくりしてしまう。そのままおでこにもちゅっちゅっと口づけされてしまい思わず俯いてしまった。
「愛海ちゃん、行ってきますのちゅーして?」
「……もう。桜弥くん、子供みたい」
「いーじゃん、同棲中なんだし。いちゃいちゃしよ?」
「……うう」
桜弥くんの言葉に顔が熱くなりながらも頷いて、私は背伸びする為に桜弥くんにしがみついた。身長差を懸命に埋める為に。
彼の唇にちゅっと触れるだけのキスをする。
桜弥くんは、愛しくてたまらないとでも言いたげな顔で私を見ていた。
そんな瞳のまま私の頭をゆるりと撫でてくれたので、私まで、赤くなった顔を緩ませてしまう。
「じゃ、じゃあ行ってきます!」
「おう! 気をつけてな!」
玄関先でそんなやり取りをしてから、桜弥くんに見送られながらパンプスを履いて外に出た。
友達と会うまでに、この顔の熱が引けばいいなと思いながら。
◆
陽が沈みかけてぐらぐらと夜が近付く時間に帰宅すると、約束通り夕食の支度ができていた。
「愛海ちゃんおかえりっ! 楽しかった? パスタ作ったから食べよーぜ」
桜弥くんはニコニコしながらキッチンの方から声をかけてくれる。
ぴょこりと、結んだ彼の髪がしっぽみたいに揺れた。
私とお揃いがいいから伸ばしてたんだ、と照れ臭そうに打ち明けられた時の胸がきゅうっとなる感覚が、また甦る。
「ありがとう、桜弥くん……わ、美味しそう……」
「へへ、パスタだけなら料理の腕、愛海ちゃんに勝てるかも。ほら、手洗ってきな?」
桜弥くんに言われるまま洗面所に赴いて、逸る気持ちで一連の支度を済ませる。リラックスできる大切な時間を、めいっぱい楽しめるように。
私はテーブルの前にちょこんと座った。
目の前にはふわっと湯気を立てた魚介のパスタが置いてある。あたたかい、誰かの、ううん、あなたの手料理。
一人で感じた閉塞でも、あの頃のあなたと過ごした閉塞でも考えられなかった温かさ。
空っぽじゃない日々のこの幸せを、どう抱き締めればいいのか、私はまだ答えを探している。
ついつい動きが鈍ってしまっていると、桜弥くんが向かいの席に座り込んで『いただきます』と言いながら食べ始めたので、慌てて私も手を合わせて挨拶をした。
その後一口パスタを口に入れて、幸せすぎる時間も噛み締めつつ食べ進める。
「桜弥くん、すごく美味しい……ありがとう……」
「だしょー? 愛海ちゃん、俺のパスタ大好物だもんな! お礼は明日の朝ごはんの愛海ちゃん特製ホットケーキがいいなあ」
「あれ、ホットケーキミックスまだあったっけ?」
「今日の買い出しで欲が出て買ってきちゃったんだなこれが~」
嬉しそうに、幸せを隠さず笑う桜弥くんが、愛しいと思った。
もう私が一番近くで支えなくても歩けるくらいには彼も前に進んでるのに、私との未来をずっと見つめてくれる桜弥くんが、私は、ずっと、ずっと。
◆
食器を片付けると桜弥くんがソファに腰掛けて待っていてくれたので隣に座ることにした。
恐る恐る桜弥くんの方へ近づくと、優しく頭を撫でられる。
「……おいで」
桜弥くんにそう言われ、私は素直に従った。
桜弥くんの膝の上に向かい合うように座り、彼にぎゅっと抱きつき見つめ合うと、桜弥くんからも強く抱き締められた。
「……今日はオトモダチに愛海ちゃんとられちゃったから、今からは俺の番。俺だけ見て、俺に構って。……俺を、愛して」
「……桜弥くん……」
桜弥くんの瞳は切実に私を求めていた。
切なげな色をした熱に、心臓が騒ぎ出す。
そっと頬に手を添えられてゆっくりと顔を近づけられて、そのまま唇同士が触れ合う。
啄むようなキスだった。
桜弥くんが一瞬離れたのを機に、今度は私の方からキスを仕掛けてみると桜弥くんは少し驚いたように目を見開いたもののすぐに微笑んで、私の背中を抱き込んでくれた。
大きな愛で、抱き締められる。
こんなにも『私』を見つめてくれる桜弥くんが、私は、ずっと、ずっと、好き。
いま私たちは、矛盾と上手く渡り合っている。
私を独占したい気持ちと、私とただただ幸せでありたい気持ちを抱える桜弥くんも。
慣れない満ち足りた幸せに戸惑いながらも、それでも桜弥くんとずっと共に在りたい私も。
飛びたい気持ちと飛べない今の、折り合いをつけて私たちは隣り合って生きている。
見つめ合えば、お互いの瞳が、それが、今の私たちにとっての世界。
出会って恋をして、空に焦がれて、海に溺れて。
大人に近付いた私たちは、ゆっくり書き足したもの一つ一つで、そこにある大地を歩いていた。
手を繋いで絡めて、ずっと傍で生きる為に。
「……すきだよ、桜弥くん。だいすき。……あいしてる」
「……俺も……ううん、俺は、最初から君を愛してるよ」
こんなことで変に張り合う桜弥くんがおかしくて、額を合わせて笑い合う。
――『愛してる』を手に入れた私たちは、他愛もなく、でもかけがえのない、そんな日々を生きていく。
これは、そんな小さな小さな恋の小品集の一片。
きっと私たちはこれからも、キスで呪いを解き続ける。二人で目覚める、その為に。
空を捨てた私たちは、それでも二人で、新しい朝に辿り着くことを諦めていない。
――それだけの、いっぱいの愛で満ちているだけの話。
◆
後日談:完
◆
これは、羽根をもいだ男の子と羽根をもがれた女の子が、それでも愛し合った少し未来のお話。
『好き』の言葉を手に入れて、少し大人になった二人が正式に同棲なんてものを始めた、そんな取るに足らない、ただの恋の小話だ。
◆
私が姿見の前で明日着ていくお洋服をいくつか合わせていると、お風呂から上がったばかりの桜弥くんが後ろからぎゅっと抱きついてきた。
「愛海ちゃん、明日どっか行くの?」
「うん、友達とショッピング」
「……友達……」
桜弥くんは少し険しい顔をする。
さてはこれは良くないことを考えてるな? と姿見越しに目を見たら桜弥くんはぎゅ、とより強く私のお腹に両腕を回してきた。
「……友達って、男?」
「そんなわけないでしょ……女の子です」
「ならいーけど」
桜弥くんはちゅっと私のつむじにキスをして、すり、と顔を擦り寄せる。
そして私をぎゅーっと抱きしめたまま肩口に顎を乗せてきた。
「……ね、俺にも構ってよ」
なんて可愛くねだる桜弥くんにどきりとしてしまった。
私の恋心をこういう風に利用してくるなんて、いつからそんなにずるくなったの。
衝動的な感情を私にぶつけてきた男の子が、男のひとになっている。それを突きつけられて顔が熱くなる自分に、何だか笑えてきてしまった。
明日のお洋服を選ぶ作業を中断して桜弥くんに向き直って抱き締め返すと、桜弥くんは嬉しそうに私の慎ましやかな胸に顔を埋めた。
「こら、セクハラだよ?」
「彼氏の特権だって。愛海ちゃんに甘えてーの」
悪びれもしない桜弥くんに苦笑いする。
本当に、あれだけ甘え方を間違っていた男の子だったのに。
私も私で、桜弥くんを咎める言葉も持たないくらい弱かったのに。
遠回りしながら縮めてきた距離が、密着するような触れ合いに変わって。
それはきっと、心の距離も。
私は桜弥くんの、男の子にしては少し長い髪を撫でながら、ちゅっと彼の額にキスをした。
桜弥くんは少し照れたように笑ってから、また私をぎゅーっと抱き締める力を強める。
くるしいはずなのに、なんだろう。胸がいっぱいなのに、つらくないよ。
このいっぱいは、満たされているからだよ。
幸せがこぼれちゃう。笑顔があふれちゃう。
「……愛海ちゃん……」
「なぁに?」
「……あいしてるよ」
「……っ、わ、私も……愛してる、よ……」
桜弥くんにとってはそれが生来のものであろうおちゃらけている雰囲気から一変して、真剣な声でそう呟かれる。
それを聞いて私は悲しくもないのに泣きそうになった。
照れたふりで、涙を誤魔化す。
だけど、贈られた最上級の愛の言葉に、私は目を潤ませる。
嬉しいと、幸せだと涙が出るんだ、そっか。
満たされるとこうなるんだ。ずっと空っぽだったから私、びっくりしちゃうよ。
そのままくっついて、二人の体温を分け合うだけの、取り留めもない話で笑い合うだけの穏やかな時間を過ごした。
やがて時計の針が頂点に近付く頃になるとお互い同時にくあっと欠伸が出て、また同じタイミングで笑った。
就寝の準備を始めて、この一瞬一瞬が幸せだなぁって実感しつつ桜弥くんにぎゅっと抱き締められたまま一緒に寝室で目を閉じる時間がたまらなく幸せで、むにゃりと顔がほころぶのを感じながら優しくおやすみを言い合った。
今の私たちは、笑いながらおやすみを言える。
手を繋いで、仲良く明日に行ける。
◆
翌朝、友人とのお出かけの準備を整えて鞄を持った私に、桜弥くんが近寄ってきた。
どうしたのかと思って戸惑う私に彼はむすっとして見せたが、すぐに優しい笑みを浮かべた。そしてぎゅっと強く私を抱き締める。
厚い胸板の感触を感じて心臓が跳ねた私を知ってか知らずか、桜弥くんは何気ない口調で言った。
「さみしいなー、せっかく家帰ったら可愛い愛海ちゃんがいて疲れも癒やされてた日々なわけだけど……今日はオトモダチに愛海ちゃん取られちゃうんでしょ?」
「と、とられるって言うかね……?」
「……な~んて! 冗談だよ」
そう言って笑う桜弥くんだけど、本音も混ざっていることを私は知っている。
昨日後ろから私に抱きついた彼は、構ってほしいと甘えた彼は、寂しそうだったから。
隠すものがなくなった剥き出しの好意と独占欲には未だに慣れない、のに。
桜弥くんはちゅっと私の頬にキスしてきた。
「オトモダチに俺のこといーっぱい惚気けてきてね♡ 彼氏とラブラブで幸せですって♡」
「は、はずかしいよ……」
「ええ? 俺の方は友達にだいぶ惚気けてんのになー? よくうざがられる」
「じゃあ言いたくないなあ……友達に迷惑かけたくないよ」
「えー」
いきなり頬っぺたにちゅっとされたことの驚きがまだ抜けずにぱちぱちと瞬きを繰り返す私の頭を、桜弥くんはくしゃっと撫でた。
「夕飯作っとくから、楽しみにしててな」
「……うん、ありがとう。えへへ……嬉しい」
慣れてないから戸惑いはする。
戸惑いはするけど、分かり合う為の彼の明朗が愛しくて、私も笑えるのが嬉しい。
笑顔って、こんなに特別な表情で感情だったんだ。
今度は反対側の頬に柔らかい感触を感じてびっくりしてしまう。そのままおでこにもちゅっちゅっと口づけされてしまい思わず俯いてしまった。
「愛海ちゃん、行ってきますのちゅーして?」
「……もう。桜弥くん、子供みたい」
「いーじゃん、同棲中なんだし。いちゃいちゃしよ?」
「……うう」
桜弥くんの言葉に顔が熱くなりながらも頷いて、私は背伸びする為に桜弥くんにしがみついた。身長差を懸命に埋める為に。
彼の唇にちゅっと触れるだけのキスをする。
桜弥くんは、愛しくてたまらないとでも言いたげな顔で私を見ていた。
そんな瞳のまま私の頭をゆるりと撫でてくれたので、私まで、赤くなった顔を緩ませてしまう。
「じゃ、じゃあ行ってきます!」
「おう! 気をつけてな!」
玄関先でそんなやり取りをしてから、桜弥くんに見送られながらパンプスを履いて外に出た。
友達と会うまでに、この顔の熱が引けばいいなと思いながら。
◆
陽が沈みかけてぐらぐらと夜が近付く時間に帰宅すると、約束通り夕食の支度ができていた。
「愛海ちゃんおかえりっ! 楽しかった? パスタ作ったから食べよーぜ」
桜弥くんはニコニコしながらキッチンの方から声をかけてくれる。
ぴょこりと、結んだ彼の髪がしっぽみたいに揺れた。
私とお揃いがいいから伸ばしてたんだ、と照れ臭そうに打ち明けられた時の胸がきゅうっとなる感覚が、また甦る。
「ありがとう、桜弥くん……わ、美味しそう……」
「へへ、パスタだけなら料理の腕、愛海ちゃんに勝てるかも。ほら、手洗ってきな?」
桜弥くんに言われるまま洗面所に赴いて、逸る気持ちで一連の支度を済ませる。リラックスできる大切な時間を、めいっぱい楽しめるように。
私はテーブルの前にちょこんと座った。
目の前にはふわっと湯気を立てた魚介のパスタが置いてある。あたたかい、誰かの、ううん、あなたの手料理。
一人で感じた閉塞でも、あの頃のあなたと過ごした閉塞でも考えられなかった温かさ。
空っぽじゃない日々のこの幸せを、どう抱き締めればいいのか、私はまだ答えを探している。
ついつい動きが鈍ってしまっていると、桜弥くんが向かいの席に座り込んで『いただきます』と言いながら食べ始めたので、慌てて私も手を合わせて挨拶をした。
その後一口パスタを口に入れて、幸せすぎる時間も噛み締めつつ食べ進める。
「桜弥くん、すごく美味しい……ありがとう……」
「だしょー? 愛海ちゃん、俺のパスタ大好物だもんな! お礼は明日の朝ごはんの愛海ちゃん特製ホットケーキがいいなあ」
「あれ、ホットケーキミックスまだあったっけ?」
「今日の買い出しで欲が出て買ってきちゃったんだなこれが~」
嬉しそうに、幸せを隠さず笑う桜弥くんが、愛しいと思った。
もう私が一番近くで支えなくても歩けるくらいには彼も前に進んでるのに、私との未来をずっと見つめてくれる桜弥くんが、私は、ずっと、ずっと。
◆
食器を片付けると桜弥くんがソファに腰掛けて待っていてくれたので隣に座ることにした。
恐る恐る桜弥くんの方へ近づくと、優しく頭を撫でられる。
「……おいで」
桜弥くんにそう言われ、私は素直に従った。
桜弥くんの膝の上に向かい合うように座り、彼にぎゅっと抱きつき見つめ合うと、桜弥くんからも強く抱き締められた。
「……今日はオトモダチに愛海ちゃんとられちゃったから、今からは俺の番。俺だけ見て、俺に構って。……俺を、愛して」
「……桜弥くん……」
桜弥くんの瞳は切実に私を求めていた。
切なげな色をした熱に、心臓が騒ぎ出す。
そっと頬に手を添えられてゆっくりと顔を近づけられて、そのまま唇同士が触れ合う。
啄むようなキスだった。
桜弥くんが一瞬離れたのを機に、今度は私の方からキスを仕掛けてみると桜弥くんは少し驚いたように目を見開いたもののすぐに微笑んで、私の背中を抱き込んでくれた。
大きな愛で、抱き締められる。
こんなにも『私』を見つめてくれる桜弥くんが、私は、ずっと、ずっと、好き。
いま私たちは、矛盾と上手く渡り合っている。
私を独占したい気持ちと、私とただただ幸せでありたい気持ちを抱える桜弥くんも。
慣れない満ち足りた幸せに戸惑いながらも、それでも桜弥くんとずっと共に在りたい私も。
飛びたい気持ちと飛べない今の、折り合いをつけて私たちは隣り合って生きている。
見つめ合えば、お互いの瞳が、それが、今の私たちにとっての世界。
出会って恋をして、空に焦がれて、海に溺れて。
大人に近付いた私たちは、ゆっくり書き足したもの一つ一つで、そこにある大地を歩いていた。
手を繋いで絡めて、ずっと傍で生きる為に。
「……すきだよ、桜弥くん。だいすき。……あいしてる」
「……俺も……ううん、俺は、最初から君を愛してるよ」
こんなことで変に張り合う桜弥くんがおかしくて、額を合わせて笑い合う。
――『愛してる』を手に入れた私たちは、他愛もなく、でもかけがえのない、そんな日々を生きていく。
これは、そんな小さな小さな恋の小品集の一片。
きっと私たちはこれからも、キスで呪いを解き続ける。二人で目覚める、その為に。
空を捨てた私たちは、それでも二人で、新しい朝に辿り着くことを諦めていない。
――それだけの、いっぱいの愛で満ちているだけの話。
◆
後日談:完
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