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トウヒの森Ⅰ
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ぴらり、ぴらり、そしてまた、ぴらり。本棚という名の檻から解放された喜びのあまり、彼の足元の百科事典は軽快な音を奏でていく。今は何時だろう?
「ねえ、見つかった?」
僕はただでさえぱっちりした目をさらにぱっちりさせながら彼にそう尋ねた。自分の容姿を敢えて愛らしく表現したのは、僕らが小さな妖精だということを強調したかったから。
「うーむ」と彼は低い声で唸った。「なのはな開拓団か……。あ! 見つかったぞ」
今度は急テンポで百科事典が捲られる。左前脚を忙しなく動かすことによって僕の問いの答えを見つけ出すと、彼は僕の体をすっぽり包むほど広々としたページを見せてくれた。視界の下側が砂色と黒色。古びたパピルス紙とそこに綴られるインクの文字が凝縮された木の香りを漂わせている。「わあ!」と感嘆の声を漏らす僕を見て、彼は顔を綻ばせた。黄檗色の複眼の奥の方にある瞳がぱっと輝いた。
彼の名はテコマイ。キアゲハの妖精。黄檗色の体と、葉脈のような模様をもつ鮮やかな翅が特徴的だ。
疑似的な体験。目の前に開かれた百科事典は僕の心を広漠たる花畑へと誘う。暗い暗い森の中にいるのに、まるで森の外の世界へやって来たかのように感じさせてくれる。だから僕とテコマイおじさんは本が好き。その証拠に、彼の背後にある本棚──大きめの木屑を組み立てて作ったもの──には、くたびれた老兵のような百科事典が軍隊の規律を維持しようと整列していた。
ひっそりとした書斎。外の森とは別の時間を歩み続ける一室。
ここは大樹のうろの中。僕らの家だ。トウヒの森と呼ばれるこの薄暗い森には、果てしなく大きなトウヒの木々が繁茂しており、それらが多くの妖精たちの住処になっている。マダニからヘラクレスオオカブトまで、この星には様々な種類の虫の妖精たちが息づいているのだ。僕は物心ついたときからこの家でテコマイおじさんと一緒に暮らしていた。
最近では、寝る前に彼が僕に百科事典を読み聞かせてあげるというのが日課になっていた。とりわけ僕の興味を惹いたのは『世界の草花』と題されたもの。なにせ僕はこの森──トウヒの森以外の場所へ行ったことがなかったものだから、数ページごとに掲載されている図表には心を踊らされた。
大樹のうろの中は真っ暗なはずだから、本を読むことなんかできっこない。そう思われるのは百も承知だ。でも、僕とテコマイおじさんにはちゃんと文字が見える。さらざらした木の皮の床の上には、光る砂粒が散りばめられているから。一体どういう仕組みなのかはわからないけれど、それが照明の役割を果たしているのだ。
彼が示してくれたページでは菜の花について書かれており、本文のすぐ下にはコラムが載っている。これだ。今夜はこのコラムを読んでと彼にせがんでいたのだ。僕がまだ青虫だった頃、まさに同じページを目にしたことがあったのだけれど、もう一度聞きたいとかねて思っていた。
くるりと百科事典を動かして僕の方に背表紙を向けると、テコマイおじさんはコラムを音読し始めた。一文一文、一語一句、大切に味わうようにして。
「──『なのはな開拓団とは、星の開拓や妖精たちの救助を目的として結成された団体である。菜の花の国に居を構えており、その活動範囲は世界中にまたがっている……』──
だってよ」
「やっぱりかっこいいなあ! 僕もいつか、なのはな開拓団みたいに色々な場所に行って、世界の草花についてもっと知りたい!」
僕が思い切り声を張り上げたので、その振動でおじさんの触覚の先端は小刻みに揺れていた。今は何時なのだろうと気になったのか、彼は僕の左側──家の入り口側──を一瞥する。でも、それはあまり意味のないこと。トウヒの森には木漏れ日も月明かりも遮断するほど背の高い樹木が密生しているから、うろの外の明るさによって時間帯を判別するのは難しいのだ。僕と同じくこの森で生まれ育ったというテコマイおじさんでも、実際に外に出てみないとわからないだろう。
胸の内側から泉のように沸き立つ憧憬。僕の眼差しが彼の双眸を捉えた。僕が外の世界に咲く花々に憧れていること、そしていつかはこの森から飛び出すつもりでいることくらい、おじさんも知っているはずだ。彼に訴えかけるかのようにじっとしたまま、僕は樹洞から伸びる葉っぱの表面に張り付いていた。
「ふふっ」と彼は楽しげに微笑した。「行きたいんだろう? 菜の花の国へ。あの国はお前にとって楽園みたいな所だからな、私は止めないよ。菜の花畑に根を下ろし、開拓団の仲間に入れてもらうことはお前の知見を広めるのに大いに役立つだろう。だがな、それはお前が一人前になってからの話。お前は頭の良い子だ、ヨハク。私の言うことがわかるだろう?」
ヨハクと呼ばれた僕は黙って首肯するほかなかった。僕はモンシロチョウの妖精。今は蛹だから、動くことができないのだ。いつも変わらぬ景色、いつも味気なく紡がれる日々。外の世界では菜の花たちが空に向かって競い合うように成長しているのに、僕はずっと薄暗いうろの中。それが心の空隙に土砂降りの雨を降らせるようで。自然の世界で自分だけがただ一人、お天道様から見捨てられたようで。僕は寂しかった。
おじさんみたいに立派な翅が生えたら、開拓団に入団して世界の色々な場所を見て回る。それが僕の夢。今は成虫になるための準備をする時期だし、おじさんも一緒にいてくれるのだから、頑張ってこの姿のまま生き抜くしかない。硬い殻の中で自分にそう言い聞かせていた。それでもやっぱり自分を惨めに思い、目を閉じるのだった。
──────
いつの間にか眠っていた。家の中にテコマイおじさんの姿はなく、あの百科事典も本棚の元々あった場所に置かれている。明け方だ。お天道様の光がここまで届いてくることはないのだけれど、彼は明け方になると決まって森の方へ飛んでいくから、今の時間帯を特定することができたのだ。一体いつも何をしに行くのだろう?
家の外へと少し耳を傾けてみる。びちゃびちゃ、じとじと、ぽったぽた。そんな音が聞こえる。大地を打ち付けるたびに規則的に上下する旋律と、葉から葉へと滴り落ちる雫たちの調和のとれた響き。雨だ。外では大粒の雨が降っているのだ。
《ねえ、君》
どこからともなく声がした。谷の湧き水のように澄んだ声。いや、厳密には波動としての音声ではない。心の中に直接響き渡るような声が聞こえた気がした。
「誰?」と僕は恐る恐る尋ねた。「ここは僕とテコマイおじさんのおうちだよ? どこに隠れているの?」
《あなたから見てすぐ左。勝手にお邪魔して申し訳ないのだけれど、親切なキアゲハさんが私を助けてくれたの》
僕の視線が左に移る。石ころほどの大きさしかない球根が一つ、無造作に横たわっていた。表面は少し濡れているので、床の上の砂粒から発せられる光が球根についた水滴に反射して煌めいていた。
《私はクロッカスの球根。ねえ、君。よく聞いて。あなたのおじさんがピンチなの!》
僕は目を丸くした。話によると、仲間とともに森で暮らしていたクロッカスの球根は俄かに雨に打たれたのだが、通りかかったテコマイおじさんが彼女をうろの中まで運んでくれたのだという。雨を浴びすぎると球根は腐るから。しかし、おじさんは彼女の仲間を助ける途中で鱗粉を落としすぎてしまい、飛ぶ力を失って地に倒れ込んだのだ。僕はここまで聞いて初めて、妖精でもない球根と当たり前のように会話をしていることに違和感を覚えた。
《私は妖精さんのように自由に動き回ることができないの。だから、私に代わって仲間たちや君のおじさんを助けてほしい。そのことを君に伝えるためにこうやってメッセージを送ったのよ》
なぜ球根が言葉を発することができるのか。さしずめそれはどうでもいいことだろう。生まれてこの方、ミイラ取りがミイラになるという状況に直面したことはなかったのだから。おじさんを助けに行かないと!
蛹の姿とはいえ、意志さえあれば動くことだってできるはず。頭の先端に力をこめ、前屈みになってみる。僕は胸にかかった帯糸という糸によって葉っぱの表面に固定されているので、これを切ってしまえば自由に動き回れると思ったのだ。おいしょ、おいしょ。もう少しだ。胸のあたりがズキズキ痛むけれど、それは帯糸が張って千切れそうだということを示しているのにほかならないのだから。
ぷつん
見える景色が葉っぱだけになった。一瞬脱力感を覚えた後に頭がぶらんと下がったので、帯糸が切れたことは間違いないだろう。逆立ちのような姿勢を保っていられるのは、お腹の先端がまだ葉っぱの表面にくっついているためか。考える間もなく、僕は重力に逆らえず床の上に頭から落下してしまった。
僕の蛹の体はすっかり硬くなっていたので、地面に衝突したときの痛みは尋常ではなかった。でも、前に進まなきゃ。左向け左。陸軍兵士のように匍匐前進して外を目指すことに決めた。なんだか懐かしい歩き方だ。床の上に散りばめられた砂粒でお腹をチクチクさせつつ、一瞬だけ視線を左に走らせてみる。クロッカスの球根が相変わらず僕らの家で寝転がっている。先程とは違って、声が聞こえてくる気配はない。あれは一体何だったのだろう? 不可解な現象に疑念を抱きながらも、おもむろに這って進んでいくのだった。
やがて家の入口が一番大きく見えた。うろの中から外を覗いてみると、雨が思いのほか小降りだったのがわかった。雨音も断続的にしか聞こえないから、入り口までやって来るうちに勢いが弱まっていったのだろう。ふと視線を真下へ下ろす。信じがたい光景が映った。黄檗色の体と大きな翅を持つ一匹の妖精が泥んこになって仰向けに倒れており、その周りをいくつかの胡桃色の球体が囲んでいる。テコマイおじさんとクロッカスの球根だ。僕の体は無意識のうちに樹洞から外に乗り出していた。だが、ちょっと待ってほしい。
何を隠そう、僕らの家は大樹の幹の高いところにある。青虫だった頃はよくトウヒの森を散策していたのだが、それはテコマイおじさんが僕を背中に乗せてくれたからこそできたことなのだ。彼の力なしに家の中と外を行き来することはできない。それなのに、今や僕のお腹の先端は地を離れていた。
どうして僕は墜落の決意を固めたのだろう? この高さから落ちてしまえば、体は木っ端微塵なのに。おじさんの体が段々と大きく見えてきた。頭からお尻にかけては相変わらず黄檗色だけれど、翅は昨晩よりも透き通っている。
ふと思えば、うろの中から出たのは一ヶ月ぶりくらいだろうか。ずっと前におじさんと一緒に食べに行ったインゲンの葉は格別だった。しゃきしゃきしていて、ずっとしがみついていたいくらい美味しかったのだ。僕が葉っぱを遮二無二むしゃむしゃしている傍ら、彼はツツジの花の蜜を吸っていた。「僕も蜜を吸いたい」と言ったら、「お前にはまだ早い」と笑って返されるのがお約束だった。もし成虫になることができたら、おじさんのように花の蜜を味わいながら愉快に飛び回っていたのだろうか。大粒の冷たい雫が背中を伝った。僕はそっと瞳を閉じた。
これまでの楽しかった思い出を胸いっぱいに詰めて落下していたとき、またしても奇妙なことが起こった。あんなに動かしづらかった自分の体が急に軽くなったのだ。ハッとなって瞼を開けると、地面から数センチ上の所で宙にふわふわ浮かんでいたのだ。泥水の水溜まりに自分の姿が映る。黒い斑点のついた白銀色の翅が4枚生えていた。僕が完全に羽化したときには、雨はもう止みかけていた。
目の前で仰向けに寝そべっているテコマイおじさんが小さく見える。僕は長い前脚を使って彼の複眼にこびりついた泥を拭ってあげた。
「おじさん、しっかりしてよ」
「ヨハクか……。随分と立派になったな」
むくりと起き上がり出したので、泥が黄檗色の頬を伝ってぼろぼろ流れていく。
「心配かけてすまなかった。私は大丈夫だ。少し疲れていただけさ。元気に飛んでいるお前の姿を見て安心したよ」
「おじさん、無理しちゃ駄目だよ。蝶々は多少の雨くらいならへっちゃらだけれど、雨を浴びすぎると鱗粉が落ちてしまうんでしょう?」
「ああ。だが、私の鱗粉はまだ残っているから、飛ぶことはできる。それよりも、彼らをどうにかしてあげないとな……」
言葉尻を濁し、視線を横に逸らす。僕らの周りに横たわっている胡桃色の球根は湿気を含みすぎたために痛んでおり、所々黒ずんでいた。僕とテコマイおじさんはクロッカスの球根を家の中まで運ぶことにした。
──────
「これは酷い。だいぶ雨にやられてしまったようだな」
おじさんは顔をしかめた。黄檗色の細長い前脚は泥塗れの球根を抱えているために湿っており、それらを一列に並べていくのにひどく難儀している。一つ一つが木の皮でできた床の上に置かれるたびに、クロッカスの球根はそれまで乾いていた樹洞の中を濃い雨の匂いでいっぱいに満たすのだった。モンシロチョウの成虫へと変態を遂げてから1時間後、僕らは10個ほどあった球根を無事に避難させることができた。
安堵のため息をつく僕を横目に、おじさんは突如として舞い上がった。体全体を回転させながら天井の方まで飛び上がったので、黄檗色の鱗粉が少しだけ床の上に落ちた。フィギュアスケートのアクセルジャンプのような華麗な跳躍だった。
「おじさん?」と僕は尋ねた。「何をするつもりなの?」
「見ればわかるさ」
いつになく優しい口調で答えるや否や、波を描くように球根の上を飛び回る。空中をひらひら漂う彼の翅からはますます多くの鱗粉が零れ落ちていく。驚いたことに、煌びやかな粉をかぶった球根の黒ずみはたちどころに消えてしまった。目を凝らして球根を観察すると、頭の部分からはぴんと伸びた芽が天井に向かってまっすぐ生えていた。
「おじさんの鱗粉は」
くるりと僕の方を振り返る。複眼の奥の瞳が薄闇の中で一瞬煌めく。
「草花を元気にすることができるのさ」
このとき僕は悟った。彼は自分の命を削ってクロッカスの球根に生きる力を与えているのだということを。鱗粉は雨をはじいたり、羽ばたくのを助けたりする役割を持っていて、僕たち蝶々にとってなくてはならないものだということを知っていたから。命を捧げて華やかに踊り続けるテコマイおじさんの姿は、格好いいようで何だか切なかった。
「ねえ、見つかった?」
僕はただでさえぱっちりした目をさらにぱっちりさせながら彼にそう尋ねた。自分の容姿を敢えて愛らしく表現したのは、僕らが小さな妖精だということを強調したかったから。
「うーむ」と彼は低い声で唸った。「なのはな開拓団か……。あ! 見つかったぞ」
今度は急テンポで百科事典が捲られる。左前脚を忙しなく動かすことによって僕の問いの答えを見つけ出すと、彼は僕の体をすっぽり包むほど広々としたページを見せてくれた。視界の下側が砂色と黒色。古びたパピルス紙とそこに綴られるインクの文字が凝縮された木の香りを漂わせている。「わあ!」と感嘆の声を漏らす僕を見て、彼は顔を綻ばせた。黄檗色の複眼の奥の方にある瞳がぱっと輝いた。
彼の名はテコマイ。キアゲハの妖精。黄檗色の体と、葉脈のような模様をもつ鮮やかな翅が特徴的だ。
疑似的な体験。目の前に開かれた百科事典は僕の心を広漠たる花畑へと誘う。暗い暗い森の中にいるのに、まるで森の外の世界へやって来たかのように感じさせてくれる。だから僕とテコマイおじさんは本が好き。その証拠に、彼の背後にある本棚──大きめの木屑を組み立てて作ったもの──には、くたびれた老兵のような百科事典が軍隊の規律を維持しようと整列していた。
ひっそりとした書斎。外の森とは別の時間を歩み続ける一室。
ここは大樹のうろの中。僕らの家だ。トウヒの森と呼ばれるこの薄暗い森には、果てしなく大きなトウヒの木々が繁茂しており、それらが多くの妖精たちの住処になっている。マダニからヘラクレスオオカブトまで、この星には様々な種類の虫の妖精たちが息づいているのだ。僕は物心ついたときからこの家でテコマイおじさんと一緒に暮らしていた。
最近では、寝る前に彼が僕に百科事典を読み聞かせてあげるというのが日課になっていた。とりわけ僕の興味を惹いたのは『世界の草花』と題されたもの。なにせ僕はこの森──トウヒの森以外の場所へ行ったことがなかったものだから、数ページごとに掲載されている図表には心を踊らされた。
大樹のうろの中は真っ暗なはずだから、本を読むことなんかできっこない。そう思われるのは百も承知だ。でも、僕とテコマイおじさんにはちゃんと文字が見える。さらざらした木の皮の床の上には、光る砂粒が散りばめられているから。一体どういう仕組みなのかはわからないけれど、それが照明の役割を果たしているのだ。
彼が示してくれたページでは菜の花について書かれており、本文のすぐ下にはコラムが載っている。これだ。今夜はこのコラムを読んでと彼にせがんでいたのだ。僕がまだ青虫だった頃、まさに同じページを目にしたことがあったのだけれど、もう一度聞きたいとかねて思っていた。
くるりと百科事典を動かして僕の方に背表紙を向けると、テコマイおじさんはコラムを音読し始めた。一文一文、一語一句、大切に味わうようにして。
「──『なのはな開拓団とは、星の開拓や妖精たちの救助を目的として結成された団体である。菜の花の国に居を構えており、その活動範囲は世界中にまたがっている……』──
だってよ」
「やっぱりかっこいいなあ! 僕もいつか、なのはな開拓団みたいに色々な場所に行って、世界の草花についてもっと知りたい!」
僕が思い切り声を張り上げたので、その振動でおじさんの触覚の先端は小刻みに揺れていた。今は何時なのだろうと気になったのか、彼は僕の左側──家の入り口側──を一瞥する。でも、それはあまり意味のないこと。トウヒの森には木漏れ日も月明かりも遮断するほど背の高い樹木が密生しているから、うろの外の明るさによって時間帯を判別するのは難しいのだ。僕と同じくこの森で生まれ育ったというテコマイおじさんでも、実際に外に出てみないとわからないだろう。
胸の内側から泉のように沸き立つ憧憬。僕の眼差しが彼の双眸を捉えた。僕が外の世界に咲く花々に憧れていること、そしていつかはこの森から飛び出すつもりでいることくらい、おじさんも知っているはずだ。彼に訴えかけるかのようにじっとしたまま、僕は樹洞から伸びる葉っぱの表面に張り付いていた。
「ふふっ」と彼は楽しげに微笑した。「行きたいんだろう? 菜の花の国へ。あの国はお前にとって楽園みたいな所だからな、私は止めないよ。菜の花畑に根を下ろし、開拓団の仲間に入れてもらうことはお前の知見を広めるのに大いに役立つだろう。だがな、それはお前が一人前になってからの話。お前は頭の良い子だ、ヨハク。私の言うことがわかるだろう?」
ヨハクと呼ばれた僕は黙って首肯するほかなかった。僕はモンシロチョウの妖精。今は蛹だから、動くことができないのだ。いつも変わらぬ景色、いつも味気なく紡がれる日々。外の世界では菜の花たちが空に向かって競い合うように成長しているのに、僕はずっと薄暗いうろの中。それが心の空隙に土砂降りの雨を降らせるようで。自然の世界で自分だけがただ一人、お天道様から見捨てられたようで。僕は寂しかった。
おじさんみたいに立派な翅が生えたら、開拓団に入団して世界の色々な場所を見て回る。それが僕の夢。今は成虫になるための準備をする時期だし、おじさんも一緒にいてくれるのだから、頑張ってこの姿のまま生き抜くしかない。硬い殻の中で自分にそう言い聞かせていた。それでもやっぱり自分を惨めに思い、目を閉じるのだった。
──────
いつの間にか眠っていた。家の中にテコマイおじさんの姿はなく、あの百科事典も本棚の元々あった場所に置かれている。明け方だ。お天道様の光がここまで届いてくることはないのだけれど、彼は明け方になると決まって森の方へ飛んでいくから、今の時間帯を特定することができたのだ。一体いつも何をしに行くのだろう?
家の外へと少し耳を傾けてみる。びちゃびちゃ、じとじと、ぽったぽた。そんな音が聞こえる。大地を打ち付けるたびに規則的に上下する旋律と、葉から葉へと滴り落ちる雫たちの調和のとれた響き。雨だ。外では大粒の雨が降っているのだ。
《ねえ、君》
どこからともなく声がした。谷の湧き水のように澄んだ声。いや、厳密には波動としての音声ではない。心の中に直接響き渡るような声が聞こえた気がした。
「誰?」と僕は恐る恐る尋ねた。「ここは僕とテコマイおじさんのおうちだよ? どこに隠れているの?」
《あなたから見てすぐ左。勝手にお邪魔して申し訳ないのだけれど、親切なキアゲハさんが私を助けてくれたの》
僕の視線が左に移る。石ころほどの大きさしかない球根が一つ、無造作に横たわっていた。表面は少し濡れているので、床の上の砂粒から発せられる光が球根についた水滴に反射して煌めいていた。
《私はクロッカスの球根。ねえ、君。よく聞いて。あなたのおじさんがピンチなの!》
僕は目を丸くした。話によると、仲間とともに森で暮らしていたクロッカスの球根は俄かに雨に打たれたのだが、通りかかったテコマイおじさんが彼女をうろの中まで運んでくれたのだという。雨を浴びすぎると球根は腐るから。しかし、おじさんは彼女の仲間を助ける途中で鱗粉を落としすぎてしまい、飛ぶ力を失って地に倒れ込んだのだ。僕はここまで聞いて初めて、妖精でもない球根と当たり前のように会話をしていることに違和感を覚えた。
《私は妖精さんのように自由に動き回ることができないの。だから、私に代わって仲間たちや君のおじさんを助けてほしい。そのことを君に伝えるためにこうやってメッセージを送ったのよ》
なぜ球根が言葉を発することができるのか。さしずめそれはどうでもいいことだろう。生まれてこの方、ミイラ取りがミイラになるという状況に直面したことはなかったのだから。おじさんを助けに行かないと!
蛹の姿とはいえ、意志さえあれば動くことだってできるはず。頭の先端に力をこめ、前屈みになってみる。僕は胸にかかった帯糸という糸によって葉っぱの表面に固定されているので、これを切ってしまえば自由に動き回れると思ったのだ。おいしょ、おいしょ。もう少しだ。胸のあたりがズキズキ痛むけれど、それは帯糸が張って千切れそうだということを示しているのにほかならないのだから。
ぷつん
見える景色が葉っぱだけになった。一瞬脱力感を覚えた後に頭がぶらんと下がったので、帯糸が切れたことは間違いないだろう。逆立ちのような姿勢を保っていられるのは、お腹の先端がまだ葉っぱの表面にくっついているためか。考える間もなく、僕は重力に逆らえず床の上に頭から落下してしまった。
僕の蛹の体はすっかり硬くなっていたので、地面に衝突したときの痛みは尋常ではなかった。でも、前に進まなきゃ。左向け左。陸軍兵士のように匍匐前進して外を目指すことに決めた。なんだか懐かしい歩き方だ。床の上に散りばめられた砂粒でお腹をチクチクさせつつ、一瞬だけ視線を左に走らせてみる。クロッカスの球根が相変わらず僕らの家で寝転がっている。先程とは違って、声が聞こえてくる気配はない。あれは一体何だったのだろう? 不可解な現象に疑念を抱きながらも、おもむろに這って進んでいくのだった。
やがて家の入口が一番大きく見えた。うろの中から外を覗いてみると、雨が思いのほか小降りだったのがわかった。雨音も断続的にしか聞こえないから、入り口までやって来るうちに勢いが弱まっていったのだろう。ふと視線を真下へ下ろす。信じがたい光景が映った。黄檗色の体と大きな翅を持つ一匹の妖精が泥んこになって仰向けに倒れており、その周りをいくつかの胡桃色の球体が囲んでいる。テコマイおじさんとクロッカスの球根だ。僕の体は無意識のうちに樹洞から外に乗り出していた。だが、ちょっと待ってほしい。
何を隠そう、僕らの家は大樹の幹の高いところにある。青虫だった頃はよくトウヒの森を散策していたのだが、それはテコマイおじさんが僕を背中に乗せてくれたからこそできたことなのだ。彼の力なしに家の中と外を行き来することはできない。それなのに、今や僕のお腹の先端は地を離れていた。
どうして僕は墜落の決意を固めたのだろう? この高さから落ちてしまえば、体は木っ端微塵なのに。おじさんの体が段々と大きく見えてきた。頭からお尻にかけては相変わらず黄檗色だけれど、翅は昨晩よりも透き通っている。
ふと思えば、うろの中から出たのは一ヶ月ぶりくらいだろうか。ずっと前におじさんと一緒に食べに行ったインゲンの葉は格別だった。しゃきしゃきしていて、ずっとしがみついていたいくらい美味しかったのだ。僕が葉っぱを遮二無二むしゃむしゃしている傍ら、彼はツツジの花の蜜を吸っていた。「僕も蜜を吸いたい」と言ったら、「お前にはまだ早い」と笑って返されるのがお約束だった。もし成虫になることができたら、おじさんのように花の蜜を味わいながら愉快に飛び回っていたのだろうか。大粒の冷たい雫が背中を伝った。僕はそっと瞳を閉じた。
これまでの楽しかった思い出を胸いっぱいに詰めて落下していたとき、またしても奇妙なことが起こった。あんなに動かしづらかった自分の体が急に軽くなったのだ。ハッとなって瞼を開けると、地面から数センチ上の所で宙にふわふわ浮かんでいたのだ。泥水の水溜まりに自分の姿が映る。黒い斑点のついた白銀色の翅が4枚生えていた。僕が完全に羽化したときには、雨はもう止みかけていた。
目の前で仰向けに寝そべっているテコマイおじさんが小さく見える。僕は長い前脚を使って彼の複眼にこびりついた泥を拭ってあげた。
「おじさん、しっかりしてよ」
「ヨハクか……。随分と立派になったな」
むくりと起き上がり出したので、泥が黄檗色の頬を伝ってぼろぼろ流れていく。
「心配かけてすまなかった。私は大丈夫だ。少し疲れていただけさ。元気に飛んでいるお前の姿を見て安心したよ」
「おじさん、無理しちゃ駄目だよ。蝶々は多少の雨くらいならへっちゃらだけれど、雨を浴びすぎると鱗粉が落ちてしまうんでしょう?」
「ああ。だが、私の鱗粉はまだ残っているから、飛ぶことはできる。それよりも、彼らをどうにかしてあげないとな……」
言葉尻を濁し、視線を横に逸らす。僕らの周りに横たわっている胡桃色の球根は湿気を含みすぎたために痛んでおり、所々黒ずんでいた。僕とテコマイおじさんはクロッカスの球根を家の中まで運ぶことにした。
──────
「これは酷い。だいぶ雨にやられてしまったようだな」
おじさんは顔をしかめた。黄檗色の細長い前脚は泥塗れの球根を抱えているために湿っており、それらを一列に並べていくのにひどく難儀している。一つ一つが木の皮でできた床の上に置かれるたびに、クロッカスの球根はそれまで乾いていた樹洞の中を濃い雨の匂いでいっぱいに満たすのだった。モンシロチョウの成虫へと変態を遂げてから1時間後、僕らは10個ほどあった球根を無事に避難させることができた。
安堵のため息をつく僕を横目に、おじさんは突如として舞い上がった。体全体を回転させながら天井の方まで飛び上がったので、黄檗色の鱗粉が少しだけ床の上に落ちた。フィギュアスケートのアクセルジャンプのような華麗な跳躍だった。
「おじさん?」と僕は尋ねた。「何をするつもりなの?」
「見ればわかるさ」
いつになく優しい口調で答えるや否や、波を描くように球根の上を飛び回る。空中をひらひら漂う彼の翅からはますます多くの鱗粉が零れ落ちていく。驚いたことに、煌びやかな粉をかぶった球根の黒ずみはたちどころに消えてしまった。目を凝らして球根を観察すると、頭の部分からはぴんと伸びた芽が天井に向かってまっすぐ生えていた。
「おじさんの鱗粉は」
くるりと僕の方を振り返る。複眼の奥の瞳が薄闇の中で一瞬煌めく。
「草花を元気にすることができるのさ」
このとき僕は悟った。彼は自分の命を削ってクロッカスの球根に生きる力を与えているのだということを。鱗粉は雨をはじいたり、羽ばたくのを助けたりする役割を持っていて、僕たち蝶々にとってなくてはならないものだということを知っていたから。命を捧げて華やかに踊り続けるテコマイおじさんの姿は、格好いいようで何だか切なかった。
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