『君は、未来で僕を見つける。』

月影 朔

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第一章:止まった時間と不思議なレシート

第二話:彼の香り

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 灰色の朝をやり過ごし、遥は重い体を起こした。

 仕事のメールをいくつか確認するも、集中力は続かない。
返事を書く気力もなく、遥はそっとノートパソコンを閉じた。

 昼食の時間もとうに過ぎているのに、空腹を感じない。喉の奥がカラカラに乾いていることだけは感じた。

 キッチンへと向かう足取りは、鉛のように重い。

 流し台には、洗い残されたマグカップが一つ。
その隣には、圭が料理に使っていたスパイスの小瓶が、きっちりと並べられている。
クミン、コリアンダー、ターメリック。どれも圭がカレーを作る時に愛用していたものだ。

 圭は料理が得意だった。

 特に凝ったスパイスカレーを作るのが好きで、休日になると、遥のためにキッチンに立ってくれた。
フライパンでスパイスを炒める香ばしい匂いが、部屋いっぱいに広がり、遥はいつもその匂いにつられてキッチンを覗きに行ったものだ。

 圭が満足そうに、あるいは少し照れくさそうに笑う顔が、遥の目に焼き付いている。

 そっと、クミンの小瓶を手に取った。

 ずっしりとしたガラスの感触。
蓋を開けると、乾燥したスパイス特有の、埃っぽいような、しかし奥深い香りがふわりと立ち上った。

 その香りを嗅ぐと、圭が隣に立って、慣れた手つきで野菜を切っていた光景が鮮やかに蘇る。

 圭の指先、まな板を叩く小気味よい音、そして
「遥、今日の隠し味は何だと思う?」
と、いたずらっぽく尋ねる声。

 温かい記憶が、冷え切った遥の心にじんわりと染み渡る。
だが、それと同時に、もう二度とあのカレーを味わえないという現実が、胸に突き刺さる。

 指先でそっと瓶の縁を撫でる。
そこに、圭の指紋が残っているような気がして、遥はぎゅっと目を閉じた。

 視線を移すと、戸棚の奥に、見慣れたコーヒー豆の袋が置いてあるのが目に入った。

 圭がいつも、遥のために欠かさずストックしてくれていた、遥のお気に入りの銘柄だ。

 「遥は朝、機嫌が悪いから、せめて美味しいコーヒーで目覚めてほしいんだ」
そう言って、毎朝淹れてくれた圭の優しい心遣いを思い出す。

 そのコーヒー豆も、もう半年以上、手つかずのままだ。

 圭がいなくなってから、遥はインスタントコーヒーしか飲んでいない。
あの頃は、圭が淹れてくれるコーヒーの香りで一日が始まり、その香りが遥の心を穏やかにしてくれた。
今は、朝からコーヒーを淹れる気力もない。

 遥は、ゆっくりとコーヒー豆の袋を手に取った。
袋の口は、丁寧にクリップで閉じられている。

 圭が几帳面に空気を抜いて保存していたのだろう。
そっとクリップを外し、袋の口を開けた。

 途端に、深煎りされた豆の、芳醇な香りが鼻腔をくすぐる。
甘く、苦く、そしてどこか懐かしい香り。

 それは、圭の香りだった。

 温かいコーヒーの香りに、遥の瞳から、一筋の雫がこぼれ落ちた。
ポツリ、とシンクに落ちる水の音。

 それは、遥がずっと止めていた涙の始まりだった。
圭の匂いが、まだこの部屋に残っている。
圭が、まだここにいるような気がした。

 だが、それは幻想だ。

 どんなに強く願っても、圭はもうここにいない。
温かいコーヒーも、香ばしいカレーも、もう二度と作られることはない。
その事実に、遥の胸は締め付けられた。

 膝から力が抜け、遥はシンクに手をつき、むせび泣いた。

 泣き疲れて顔を上げると、目に映るのは、やはり淀んだ空気と、止まったままの時が流れる部屋の光景だった。

 それでも、遥の心の中には、微かに圭の香りが残っている。
その香りが、遥の心をじんわりと温めるような、不思議な感覚がした。

 同時に、このままではいけないという、小さな焦りのようなものが、遥の心の奥底で芽生え始めていた。
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