『五感の調べ〜女按摩師異聞帖〜』

月影 朔

文字の大きさ
22 / 36
第二部 江戸闇聴聞 ~絡繰りの音~

第二十二話 蔵の澱み、江戸を嗅ぐ

しおりを挟む
 古寺の蔵の中には、激しい対決の爪痕と、そして、影の組織が残した忌まわしい澱みが色濃く漂っていた。

 破壊された作業台、飛び散った金属片、そして、血と絡繰りの匂いを発する、非人道的な製造物。市は、その製造物に触れることはなかったが、そこから発せられる不自然な「気配」を肌で感じ取り、影の組織の企みの非道さに戦慄していた。

 木暮同心と奉行所の者たちは、蔵の内部を慎重に調べていた。蔵の中には、影の組織が使用していた道具や材料、そして、暗号のようなものが書き記された紙片がいくつか残されていた。

「これは… 一体何を造ろうとしていたのだ…」

 木暮同心の声が震える。蔵で発見された製造物は、人間の体の一部と、精巧な絡繰りが組み合わさった、まさに生命を弄ぶような代物だった。奉行所の者たちも、その非道さに言葉を失っていた。

 市は、蔵に残された手掛かりを、自身の五感で丁寧に探った。破壊された「絡繰り」の道具の破片。あの忌まわしい製造物から漂う匂い。影の組織が使用していた香りの元の種類。そして、壁や地面に微かに残る、足跡とは違う、何かが引きずられたような痕跡。

 円盤の符号も、改めて指先で辿る。あの古寺、そして蔵に関わる符号だったはずだ。しかし、それが具体的に何を意味するのかは、まだ分からない。

「影の組織は、この蔵で、生体を利用した絡繰りを製造していた… そして、それは、『江戸全体を舞台とする』彼らの計画の一部だ…」

 市は、影の組織の主要メンバーが逃走する際に残した言葉を思い出した。彼らは、単なる財産強奪や権力掌握を目的としているのではない。人間の生命、そして社会の秩序そのものを、彼らが仕掛ける「絡繰り」によって根本から変えようとしているのだ。

 蔵に残された紙片には、円盤の符号と似た、しかし異なる符号や図形が書き記されていた。それは、あの非人道的な製造物の設計図の一部なのか、あるいは、影の組織の次の計画に関する暗号なのか。

 木暮同心は、持ち帰った手掛かりを奉行所で詳しく分析させた。非道な製造物については、医師や蘭学者に協力を仰ぎ、その構造や、何のために作られようとしていたのかを調べた。それは、特定の能力を持った人間を作り出すための、あるいは、人間を操るための「絡繰り」の一部である可能性が示唆された。

 香りの元の分析も進んだ。それは、この地域の薬草畑で栽培されていた珍しい薬草と、特定の動物性の分泌物、そして、人体の成分の一部を組み合わせたものであることが判明した。影の組織は、人をも素材として、非道な香りを製造しているのだ。

 影の組織の逃走経路も追跡した。古寺の裏手から、街道へと繋がる道に、微かにあの甘く淀んだ香りの痕跡が残っていた。しかし、香りは途中で途切れており、彼らがどこへ向かったのか、正確な追跡は困難だった。

「奴らは、江戸のどこかに潜んでいる。そして、『江戸全体を舞台とする』次の計画を進めている。この円盤の符号と、蔵に残された情報が、奴らの次の狙いを示すはずだ」

 木暮同心は、市と向き合い、厳しい表情で言った。影の組織の企みの規模は、奉行所単独で対処できるものではない。江戸全体の警戒を強める必要があった。

 市は、円盤の符号を指先で繰り返し辿った。そして、蔵に残されていた他の符号や図形との関連性を探る。それは、単なる暗号ではない。それは、影の組織が仕掛ける「絡繰り」の構造、彼らの思考、そして彼らの非道な目的そのものを表しているかのようだ。

 師・源七爺さんが命を懸けて追っていた闇は、想像以上に深く、そして非人道的なものだった。人間の生命を弄び、「絡繰り」によって社会を支配しようとする。そのような企みを、江戸から根絶しなければならない。

 市は、木暮同心との連携をさらに強化した。市の五感による情報収集と推理、そして木暮同心の奉行所としての権限と情報網。互いの強みを活かし、影の組織が仕掛ける「絡繰り」の糸を断ち切るのだ。

 江戸の町に戻った市は、改めて町の匂いを嗅いだ。人々の活気ある匂い、美味しい料理の匂い、四季折々の花の香り。それらは、影の組織が企む非道な世界とは対極にあるものだ。

 夕暮れ時、市は庵で簡単な養生食を作った。疲れた心身を癒すための、優しい味の粥。それを口にしながら、市の耳は、江戸の町の様々な音に耳を澄ませていた。人々の話し声、子供たちの笑い声、そして、遠くで鳴る寺の鐘の音。これらの音の中に、影の組織が仕掛ける新たな「絡繰り」の音が紛れ込んでくるかもしれない。
あの「ピィー」という音に似た、あるいは全く異なる、不自然な音。

 市は、円盤の符号を握りしめた。この符号が示す次の場所はどこなのか? 影の組織が次に何を企むのか? 江戸全体を舞台とする、彼らの次の「絡繰り」とは?

 謎は深まるばかりだ。しかし、市は恐れない。師の遺志を継ぎ、江戸の闇に潜む影の組織を追い詰める。

 自身の五感を信じ、あの忌まわしい「絡繰り」の音を聴き分ける。江戸の闇を嗅ぎ分け、真実の糸口を見つけ出すために。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

【完結】『紅蓮の算盤〜天明飢饉、米問屋女房の戦い〜』

月影 朔
歴史・時代
江戸、天明三年。未曽有の大飢饉が、大坂を地獄に変えた――。 飢え死にする民を嘲笑うかのように、権力と結託した悪徳商人は、米を買い占め私腹を肥やす。 大坂の米問屋「稲穂屋」の女房、お凛は、天才的な算術の才と、決して諦めない胆力を持つ女だった。 愛する夫と店を守るため、算盤を武器に立ち向かうが、悪徳商人の罠と権力の横暴により、稲穂屋は全てを失う。米蔵は空、夫は獄へ、裏切りにも遭い、お凛は絶望の淵へ。 だが、彼女は、立ち上がる! 人々の絆と夫からの希望を胸に、お凛は紅蓮の炎を宿した算盤を手に、たった一人で巨大な悪へ挑むことを決意する。 奪われた命綱を、踏みにじられた正義を、算盤で奪い返せ! これは、絶望から奇跡を起こした、一人の女房の壮絶な歴史活劇!知略と勇気で巨悪を討つ、圧巻の大逆転ドラマ!  ――今、紅蓮の算盤が、不正を断罪する鉄槌となる!

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

花嫁

一ノ瀬亮太郎
歴史・時代
征之進は小さい頃から市松人形が欲しかった。しかし大身旗本の嫡男が女の子のように人形遊びをするなど許されるはずもない。他人からも自分からもそんな気持を隠すように征之進は武芸に励み、今では道場の師範代を務めるまでになっていた。そんな征之進に結婚話が持ち込まれる。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末

松風勇水(松 勇)
歴史・時代
旧題:剣客居酒屋 草間の陰 第9回歴史・時代小説大賞「読めばお腹がすく江戸グルメ賞」受賞作。 本作は『剣客居酒屋 草間の陰』から『剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末』と改題いたしました。 2025年11月28書籍刊行。 なお、レンタル部分は修正した書籍と同様のものとなっておりますが、一部の描写が割愛されたため、後続の話とは繋がりが悪くなっております。ご了承ください。 酒と肴と剣と闇 江戸情緒を添えて 江戸は本所にある居酒屋『草間』。 美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。 自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。 多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。 その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。 店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

屈辱と愛情

守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。

処理中です...