【完結】『残照の蛍火―名もなき愛の墓標―』

月影 朔

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第七章:池田屋炎上、死出の旅路

第七十話:飢えと渇き、人の貌(かお)

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 京を後にした雪の旅は、想像を絶するほど過酷なものだった。

 女将から渡されたわずかな路銀は、すぐに底をついた。
宿に泊まることもできず、夜は野宿を強いられた。
凍えるような夜風が肌を刺し、心細さが雪の心を締め付ける。

 昼間は、人の目を避けるように藪の中を這い、獣道を進んだため、衣類は破れ、身体のあちこちには擦り傷が絶えなかった。

 何よりも雪を苦しめたのは、飢えと渇きだった。
最初のうちは、少しずつ路銀を崩して食べ物を買っていたが、それもすぐに尽きた。

 喉が渇き、舌が乾ききって、声も出なくなるほどだった。
道端に生えている草や、見慣れない木の実を口にすることもあったが、それらは腹を満たすにはあまりに心許ないものだった。

 ある日、あまりの空腹に耐えかねた雪は、道沿いの小さな農家を訪ねた。
戸口から顔を出すと、白髪混じりの老婆が不審そうな目で雪を見つめた。

 「あの……何か、食べるものはございませんか……」

 雪の口から出た声は、震えていた。
痩せこけた頬、生気のない瞳。老婆は、雪の姿をじろじろと見回し、警戒心をあらわにした。

 「あんた、どこの者だい。
こんなところで物乞いかい。厄介事はごめんだよ」

 老婆の言葉は、まるで氷のように冷たかった。

 雪は、全身から力が抜けるのを感じた。
飢えと疲労で限界に達していた雪の心は、人の心の冷たさに打ちのめされた。

 「すみません……」

 雪は、力なく頭を下げ、その場を立ち去った。
老婆の背中には、人の心の冷酷さというものが、剥き出しのまま張り付いているように見えた。

 俊太郎が信じた「人の心」は、こんなにも残酷なものなのか。
雪の胸に、絶望の影が差した。

 しかし、人の世には、冷酷さばかりが存在するわけではなかった。

 数日後、再び空腹に耐えかねて、小さな村の軒先で座り込んでいた雪に、一人の老婆が近づいてきた。

 顔には深く皺が刻まれ、その目は優しさに満ちていた。
老婆は、何も言わず、雪の前に一つ、握り飯を黙って差し出した。

 雪は、その握り飯を呆然と見つめた。
ほんの少し前まで、冷たくあしらわれたばかりだった。

 今、目の前にある温かい握り飯が、まるで幻のように思えた。

 「……ありがとうございます」

 絞り出すような声で礼を言うと、雪は震える手で握り飯を受け取った。

一口食べると、米の甘みが口いっぱいに広がり、雪の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
それは、空腹が満たされる喜びだけではなく、人の温かさに触れた感動の涙だった。

 老婆は、ただ静かに雪を見守っていた。
何も語らず、ただそこにいるだけで、雪の心は少しずつ解き放たれていくのを感じた。

 人の悪意と善意。
その両方に触れる中で、雪は俊太郎が信じた「人の心」を必死に信じようとした。

 憎しみや絶望ばかりではない。
この世には、確かに温かい心が存在する。
俊太郎は、きっとそういう人の心を信じて、未来を語ったに違いない。

 しかし、追っ手の影は、依然として雪の背後に迫っていた。
新選組の監察方の執拗な追跡は、雪の神経をすり減らしていった。

 時には、村の井戸端で、不審な男たちが雪の似顔絵のようなものを見せ合っているのを見かけた。
その度に、雪は身を震わせ、さらに奥深い道へと足を進めた。

 飢えと渇き、そしていつ襲われるか分からない恐怖。
極限の状態の中で、雪の身体はやつれ、その顔には生気が失われていった。

 鏡に映る自分の姿は、かつての可憐な奉公人の面影はどこにもない。
しかし、その瞳の奥には、俊太郎から託された使命という、決して消えることのない炎が宿っていた。

 それが、雪がこの苦難の旅を続ける、唯一の理由だった。
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