『古民家カフェ月見草と、記憶を繋ぐ猫のレシピ』

月影 朔

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第2章:記憶のレシピと訪れる人々

第16話:失恋のチョコレートケーキ

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 美咲さん親子が帰った後も、カフェには、どこか優しい余韻が残っていた。

 拭き掃除をしながら、私は何度も、ひかりちゃんの弾けるような笑顔と、美咲さんの安堵に満ちた表情を思い出した。

 心が通じ合った瞬間の温かさが、私の胸の奥に、じんわりと広がっていく。

 お菓子が持つ力、このカフェが持つ力――それが、私自身の心の傷も癒してくれるのだと、改めて実感した。

 閉店時間も過ぎ、店内は静寂に包まれていた。

 カラン、コロン。

 ――突然、ドアベルの音が響き、私は驚いて顔を上げた。

 そこに立っていたのは、若い女性だった。

 ロングヘアは乱れ、目元は赤く腫れ上がっている。
薄手のワンピースの肩は、はらはらと震えていた。

 その女性は、何かを言おうと口を開いたけれど、言葉にならない嗚咽が漏れるばかりで、ついには、その場にへたり込むようにして泣き崩れてしまった。

「……あの、大丈夫ですか?」

 私は駆け寄り、そっと肩に触れた。
女性の身体は、ひどく熱を持っていた。

 彼女は、顔を上げて私を見た。
その瞳は、深い悲しみと絶望に染まっている。

「私……」

 かすれた声で、彼女は言った。

「フラれて……
もう、どうしたらいいか、分からなくて……」

 堰を切ったように、再び涙が溢れ出した。
大粒の雫が、次から次へと頬を伝う。

 私は、彼女をそっとテーブル席へと促し、温かいお茶を淹れた。

 どうすればいいのか、私には分からなかった。
祖母のレシピノートを手に取ってみても、そこに「失恋した人に効くレシピ」などというものは見当たらない。

 みたらしは、カウンターの上から、じっとその女性を見つめていた。
その目は、いつもより少しだけ、物憂げな光を宿しているように見えた。

 温かいお茶を差し出すと、女性は震える手でカップを握りしめた。
しかし、口にする様子はない。

 ただ、ただ、涙を流し続けている。

 このままでは、彼女の心が壊れてしまう。

 何か、何か私にできることはないだろうか。

 私は、無意識のうちにキッチンへと向かっていた。

 レシピノートにはない。
けれど、私の心の中に、一つだけ、今、彼女のために作りたいものがあった。

 それは、都会のパティスリーで、誰にも認められず、一人で泣いていた夜に、こっそり作って食べていたチョコレートケーキ。

 あの頃、その濃厚な甘さが、私の心を少しだけ慰めてくれた。

「……チョコレート、ケーキ」

 呟くように、私は呟いた。

 カカオのほろ苦さが、涙のしょっぱさを忘れさせてくれるかもしれない。

 そして、その深い甘さが、心の奥底に染み渡り、張り裂けそうな心を、そっと包み込んでくれるかもしれない。

 私はすぐに材料を揃え、黙々と作業に取りかかった。

 卵を割り、チョコレートを湯煎にかける。
バターを練り、小麦粉とココアパウダーをふるい入れる。

 焦げ付かないように、慎重に混ぜ合わせる。
泡立て器の音が、静かな店内に響く。

 チョコレートが溶け、甘く、少しビターな香りが、キッチンに満ちていく。

 その香りは、涙に暮れる女性の元へと、ゆっくりと、けれど確実に届いているようだった。

「……いい匂い」

 女性が、かすれた声でそう呟いた。

 私は振り返り、彼女が、少しだけ顔を上げて、厨房の方を見つめていることに気づいた。

 その瞳には、まだ涙が浮かんでいるけれど、ほんの少しだけ、好奇心のような光が宿っている。

 オーブンから取り出したチョコレートケーキは、ふっくらと膨らみ、表面には艶やかな光沢があった。

 熱気を帯びた甘い香りが、カフェ全体を包み込む。

 冷ましている間に、私は女性の前に座った。

「あの……
お待たせしてすみません。
少し、焼いてみました」

 ケーキが冷めるのを待つ間、女性は、まるで赤子のように泣き続けていた。

 私はただ、その傍らに座り、静かに彼女の背中をさすり続けた。

 言葉は何もかけなかった。
かけるべき言葉が、見つからなかったから。

 ケーキがちょうどいい温度に冷めたところで、私は丁寧に切り分け、皿に盛り付けた。

 濃厚なチョコレートの色が、皿の上で深く輝いている。

 それを、彼女の前にそっと差し出した。

「よければ、どうぞ」

 女性は、ゆっくりと顔を上げた。

 その目は、まだ赤く腫れているけれど、先ほどのような絶望の色は消え、どこか茫然とした光を宿している。

 彼女は、震える手でフォークを取り、小さく切り分けたケーキを口に運んだ。

 ――次の瞬間、彼女の顔に、目を見張るほどの変化が訪れた。

 最初に、その瞳が大きく見開かれる。

 そして、目から溢れていた涙が、ぴたりと止まった。

 ゆっくりと、ゆっくりと、口元が弛緩し、その表情に、ほんのわずかながら、安堵の光が灯っていく。

「……おいしい」

 絞り出すような、掠れた声。
けれど、その声には、確かに驚きと、そして、深い感動が込められていた。

 彼女は、まるで夢でも見ているかのように、もう一口、ケーキを口にした。

 今度は、一口一口、味わうように、ゆっくりと咀嚼する。

 口の中に広がる、濃厚なチョコレートの深い甘み。

 それは、ただ甘いだけではない。

 カカオのほろ苦さが、確かに心を落ち着かせ、彼女の心を、静かに、確実に癒していくのが分かった。

 目の前で、女性の表情が、少しずつ、少しずつ、柔らかくなっていく。

 張り詰めていた肩の力が抜け、強張っていた頬の筋肉が緩んでいく。

 そして、その目には、再び涙が浮かんだ。
しかし、それは、先ほどまでの悲しみの涙とは違う。

 温かく、優しい、そして、どこか希望を秘めたような涙だった。

「……こんなに、美味しいものを食べたのは、初めてです」

 彼女は、そう言って、私に深く頭を下げた。
その声は、もう震えてはいなかった。

 私は、ただ、彼女の言葉に、静かに頷いた。

 レシピノートにはない、私自身の「記憶のレシピ」。

 それが、目の前の誰かの心を、少しでも救えたのなら。

 そう思うと、私の胸の奥に、また一つ、温かい光が灯った気がした。
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