『古民家カフェ月見草と、記憶を繋ぐ猫のレシピ』

月影 朔

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第4章:月見草の未来

第56話:みたらしと縁側、過ぎし日々

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「思い出のレシピフェア」が終わり、カフェ「月見草」は春の穏やかな賑わいに包まれていた。

 縁側から見える桜の木は、いつの間にか満開になり、淡い桃色の花びらが風に舞い、店内の床にそっと落ちていた。

 木漏れ日が畳の上に温かい模様を描き、穏やかな時間が流れていく。

 私は営業を終えたばかりのカフェで、縁側に座り、温かい日差しを全身に浴びていた。

 膝の上には、いつものようにみたらしが丸くなっている。

 春の陽気に誘われたのか、彼は気持ちよさそうに目を閉じ、規則正しい寝息を立てていた。

 柔らかな毛並みが手のひらに心地よく、その温もりが私の心を深く落ち着かせてくれる。

 この一年を、私はゆっくりと振り返る。

 都会での挫折、夢を諦め、故郷に戻ってきたあの日。

 荒れ果てた古民家カフェの前に立ち尽くし、途方に暮れていた私の足元に、一匹の三毛猫が現れた。

 それが、みたらしとの出会いだった。

 そして、聞こえるはずのない彼の声に耳を疑いながらも、私はこの場所で、もう一度、お菓子を作ることを決意した。

 最初の客、藤堂さん。

 亡き奥様の思い出とレモンパイの味を探し求める彼の姿は、失われた自信に打ちひしがれていた私に、かすかな光を見せてくれた。

 完璧ではないけれど、心を込めて作ったレモンパイが、彼の目から涙を零させた時、私のお菓子が誰かの心を確かに揺り動かしたという初めての手応えを感じた。

 あの時の胸の震えは、今でも鮮明に覚えている。

 美咲さんとひかりちゃん。

 すれ違う親子の心を繋ぐきっかけとなった夏野菜のキッシュと二人で作ったフルーツポンチ。

 ひかりちゃんの素直な涙と、美咲さんの優しい眼差し。

 私自身も、かつて母親に素直になれなかった苦い過去を抱えていたからこそ、二人の姿はまるで自分を見ているようだった。

 二人が抱きしめ合う姿を見て、私の中にあった凍りついていた何かが、少しだけ溶けていくのを感じた。

 引っ込み思案な学生の舞ちゃんには勇気のアップルパイを。

 老夫婦の茂さんと千代子さんには絆を紡ぐブランデーケーキを。

 夢を諦めかけていた画家の冬真さんには色彩のフルーツタルトを。

 それぞれのお菓子が、それぞれの心に寄り添い、小さな希望や温かい繋がりを生み出していく。

 あの時、厨房の影でそっとガッツポーズをした私の手のひらには、確かな喜びの感触が残っている。

 そして、ずっと目を背けてきた、父との和解。

 健太くんから聞いた父の不器用な愛情。

 祖母が残してくれた手紙と、父への想いを込めて焼いたパウンドケーキ。

 何年も途絶えていた家族の絆が、雪降るクリスマスイブの夜、温かい涙と共に再び結び直された。

 あの時、父が流した大粒の涙は、私自身の心を縛っていた鎖を解き放ってくれた。

 家族の温かい団欒は、私にとって何よりも甘い記憶となった。

 みたらしは、その間ずっと、私のそばにいた。

 時に辛辣な言葉で核心を突き、時に静かに寄り添い、私の成長を促してくれた。

 彼がいなければ、私はきっと、今も都会の片隅で、自信を失ったまま、立ち尽くしていたことだろう。

「やれやれ、随分と遠回りをしたものだな、人間」

 瞼を閉じたまま、みたらしが心の声で呟いた。

 彼の言葉に、私の口元に自然と笑みがこぼれる。

「そうね……
でも、その遠回りがあったからこそ、ここにたどり着けた」

 私にとって、このカフェ「月見草」は、単なる仕事場ではない。

 挫折から立ち上がり、自分を取り戻し、そして多くの人々と心を繋ぐことができた、かけがえのない私の「居場所」だ。

 みたらしがゆっくりと目を開けた。

 琥珀色の瞳が、桜色の庭を見つめている。

 その瞳の奥には、相変わらずのふてぶてしさと、同時に確かな愛情、そして私の未来への静かな期待が宿っているように感じられた。

 新たな春が訪れ、この場所から、また新しい物語が始まろうとしている。

 私は、深く息を吸い込んだ。

 桜の甘い香りと、土の匂い。

 すべてが、愛おしい。
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