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第二部:深まる人間関係と事件の広がり
第十話:路地に消えた男
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江戸の町には、大通りから一本入っただけで、まるで時間が止まったかのような静かな路地がある。昼間でも人通りが少なく、物乞いや迷い猫がひっそりと身を寄せるような場所だ。そこで、またしても「あり得ない」出来事が起きた。
町の片隅で小さな古物店を営む辰五郎という男が、店の裏の路地で誰かと立ち話をしていた。辰五郎は物静かだが、目元に知的な光を宿した、どこか只者ではない雰囲気を纏った人物だった。立ち話の相手が帰り、辰五郎が路地の奥へ向かって歩き出した、その刹那――彼の姿が、目の前から、文字通り「かき消えるように」消え失せたのだ。
立ち去り際に偶然振り返った通行人が、その一部始終を目撃していた。男が路地の角を曲がる直前まで確かにいた。だが、一瞬目を離し、再び見ると、もうどこにもいない。音も、悲鳴も、争う気配も一切なし。まるで、地面に吸い込まれたか、煙になったかのようだ。
この話はすぐに町の噂になった。「神隠しだ」「路地に潜む化け物に喰われた」「見えない壁にぶつかって消えた」など、荒唐無稽な憶測が飛び交う。しかし、お絹はこの話を聞いて、身震いした。またしても、「影」の仕業だ。あの「影」が使う、人間を忽然と消し去る「からくり」に違いない。
お絹は、この辰五郎という男について調べているうちに、彼の経歴が一切不明であること、しかし時折、妙に世情に詳しい一面を見せることを知った。そして、彼の消え方が、以前甚兵衛が「影」の使う手口に似ていると話していた「消失のからくり」に酷似していることに気づき、甚兵衛の元へ急いだ。
甚兵衛は、その日、音を立てずに物を切断する奇妙な振動からくりを試作していた。お絹から辰五郎の話を聞くと、彼の顔からいつもの発明家然とした表情が消え、氷のように冷たい、武士時代の顔になった。
「辰五郎が…消えた、と?」甚兵衛は低い声で繰り返した。辰五郎は、甚兵衛がかつて身を置いていた世界の人間だ。情報収集や潜入の専門家で、甚兵衛も何度か協力を得たことがあった。彼が「影」の使う消失のからくりで消えたということは、恐らく「影」は辰五郎の持つ情報、あるいは彼の技術を狙ったのだ。そして、甚兵衛が「影」の事件を追っていることに気づき、辰五郎を狙うことで甚兵衛に圧力をかけようとした可能性もある。
二人は、辰五郎が消えた路地へ向かった。甚兵衛は周囲の騒ぎや野次馬には目もくれず、路地の地面、壁、周囲の建物、そして辰五郎が最後に目撃された場所を、まるで何かがそこに「隠されている」と確信しているかのように調べ始めた。
彼は、路地の地面の石畳を、手に持った振動からくり(今は探査機として使っているらしい)で叩きながら、音の反響を聞き分ける。壁の表面を指先でなぞり、僅かな段差や違和感がないか確かめる。彼の動きは、長屋の発明家のものではなく、かつて危険な場所に潜入する訓練を受けた者のそれだった。お絹は、そんな甚兵衛の姿を見て、胸が締め付けられる思いだった。
甚兵衛は、路地の奥の、一見行き止まりに見える壁際で立ち止まった。彼は地面の一枚の石畳に目を留め、そこに他の石畳とは違う、極めて微細な傷があることに気づいた。そして、壁の隅に、これもまた注意深く見なければ分からない、小さな金属片が埋め込まれているのを見つけた。
「ここだ…ここに『からくり』が仕掛けられていた」甚兵衛は低い声で言った。「この石畳が、踏み板になっている。そして壁の金属片は、仕掛けの一部だ」
甚兵衛は、自身の知識と、発見した痕跡から、辰五郎が消えた「からくり」を解き明かした。それは、路地の奥に隠された地下通路への入り口(恐らく地下の隠し部屋や通路に繋がっている)だ。地面の特定の石畳を踏むと、壁に隠された仕掛けが作動し、石畳の一部が沈み込むと同時に、周囲の壁の一部が滑るように開く。瞬時に人を落とし込み、再び閉じる。音を立てず、痕跡も残しにくい、隠密 abduction のための高度な「からくり」だ。
「これは…『奈落』の仕掛けだ」甚兵衛は、そのからくりの名称を呟いた。それは、「影」の中でも、要人の拉致や情報屋の消去を専門とする一団が使う、悪名高い「からくり」だった。
お絹は、目撃者の証言、辰五郎の素性に関する情報、そして「影」が彼を狙う動機(辰五郎が持つ情報網や、甚兵衛との繋がり)を甚兵衛の推理と組み合わせた。辰五郎は、「影」にとって危険な存在だったか、あるいは彼らが求める情報を持っていたのだ。
甚兵衛は、自身の持つ、壁の厚みや内部構造を探る「透過観測器」のようなからくりを使い、壁の向こうに空間があることを確認した。しかし、簡単に入れるような構造ではない。
「この仕掛けは、外部から簡単に開けられるようには作られていない。『影』の者たちが、内部から操作して辰五郎を引きずり込んだのだろう」甚兵衛は言った。「彼らは、辰五郎を生かしたまま連れ去った。情報目当てか、あるいは…利用するためか」
事件そのものは、辰五郎が「影」に拉致された、という形で明らかになった。犯人である「影」は、この場所から既に痕跡を消して去った後だ。役人が来ても、この巧妙な隠し「からくり」を見つけることは困難だろう。
長屋に戻る道、甚兵衛は沈黙していた。辰五郎の拉致は、彼にとって個人的な警告であり、そして「影」が容赦なく邪魔者を排除する存在であることを改めて突きつけられた事件だった。
「甚兵衛さん…辰五郎さん、無事だといいんですけど…」お絹は、不安げに甚兵衛の顔を見た。
甚兵衛は立ち止まり、深く息を吐いた。その目には、悲しみと、そして燃えるような決意が宿っていた。
「奴らの『奈落』は、一度落ちれば生きては戻れないと言われている…だが」
彼は、お絹の手を取った。「辰五郎は、容易く口を割る男ではない。時間を稼いでくれるだろう」
甚兵衛は、お絹の手を握りしめた。「彼を助け出す。そして、『影』の本体を突き止める。奴らは、私の大切な人々を、この長屋を脅かそうとしている。もう、隠れているわけにはいかない」
甚兵衛の言葉には、迷いはなかった。辰五郎の拉致は、彼が「影」との戦いにおいて、傍観者ではいられない、完全に当事者となったことを意味する。お絹は、その決意を受け止め、静かに頷いた。彼女の目にも、恐怖と共に、甚兵衛と共に戦う覚悟が宿っていた。路地に仕掛けられた「奈落」は、「影」の力の恐ろしさを見せつけると共に、甚兵衛とお絹を、物語の核心へと引き込む、決定的な事件となった。長屋を取り巻く闇は深まり、二人の戦いは新たな段階へと突入する。
町の片隅で小さな古物店を営む辰五郎という男が、店の裏の路地で誰かと立ち話をしていた。辰五郎は物静かだが、目元に知的な光を宿した、どこか只者ではない雰囲気を纏った人物だった。立ち話の相手が帰り、辰五郎が路地の奥へ向かって歩き出した、その刹那――彼の姿が、目の前から、文字通り「かき消えるように」消え失せたのだ。
立ち去り際に偶然振り返った通行人が、その一部始終を目撃していた。男が路地の角を曲がる直前まで確かにいた。だが、一瞬目を離し、再び見ると、もうどこにもいない。音も、悲鳴も、争う気配も一切なし。まるで、地面に吸い込まれたか、煙になったかのようだ。
この話はすぐに町の噂になった。「神隠しだ」「路地に潜む化け物に喰われた」「見えない壁にぶつかって消えた」など、荒唐無稽な憶測が飛び交う。しかし、お絹はこの話を聞いて、身震いした。またしても、「影」の仕業だ。あの「影」が使う、人間を忽然と消し去る「からくり」に違いない。
お絹は、この辰五郎という男について調べているうちに、彼の経歴が一切不明であること、しかし時折、妙に世情に詳しい一面を見せることを知った。そして、彼の消え方が、以前甚兵衛が「影」の使う手口に似ていると話していた「消失のからくり」に酷似していることに気づき、甚兵衛の元へ急いだ。
甚兵衛は、その日、音を立てずに物を切断する奇妙な振動からくりを試作していた。お絹から辰五郎の話を聞くと、彼の顔からいつもの発明家然とした表情が消え、氷のように冷たい、武士時代の顔になった。
「辰五郎が…消えた、と?」甚兵衛は低い声で繰り返した。辰五郎は、甚兵衛がかつて身を置いていた世界の人間だ。情報収集や潜入の専門家で、甚兵衛も何度か協力を得たことがあった。彼が「影」の使う消失のからくりで消えたということは、恐らく「影」は辰五郎の持つ情報、あるいは彼の技術を狙ったのだ。そして、甚兵衛が「影」の事件を追っていることに気づき、辰五郎を狙うことで甚兵衛に圧力をかけようとした可能性もある。
二人は、辰五郎が消えた路地へ向かった。甚兵衛は周囲の騒ぎや野次馬には目もくれず、路地の地面、壁、周囲の建物、そして辰五郎が最後に目撃された場所を、まるで何かがそこに「隠されている」と確信しているかのように調べ始めた。
彼は、路地の地面の石畳を、手に持った振動からくり(今は探査機として使っているらしい)で叩きながら、音の反響を聞き分ける。壁の表面を指先でなぞり、僅かな段差や違和感がないか確かめる。彼の動きは、長屋の発明家のものではなく、かつて危険な場所に潜入する訓練を受けた者のそれだった。お絹は、そんな甚兵衛の姿を見て、胸が締め付けられる思いだった。
甚兵衛は、路地の奥の、一見行き止まりに見える壁際で立ち止まった。彼は地面の一枚の石畳に目を留め、そこに他の石畳とは違う、極めて微細な傷があることに気づいた。そして、壁の隅に、これもまた注意深く見なければ分からない、小さな金属片が埋め込まれているのを見つけた。
「ここだ…ここに『からくり』が仕掛けられていた」甚兵衛は低い声で言った。「この石畳が、踏み板になっている。そして壁の金属片は、仕掛けの一部だ」
甚兵衛は、自身の知識と、発見した痕跡から、辰五郎が消えた「からくり」を解き明かした。それは、路地の奥に隠された地下通路への入り口(恐らく地下の隠し部屋や通路に繋がっている)だ。地面の特定の石畳を踏むと、壁に隠された仕掛けが作動し、石畳の一部が沈み込むと同時に、周囲の壁の一部が滑るように開く。瞬時に人を落とし込み、再び閉じる。音を立てず、痕跡も残しにくい、隠密 abduction のための高度な「からくり」だ。
「これは…『奈落』の仕掛けだ」甚兵衛は、そのからくりの名称を呟いた。それは、「影」の中でも、要人の拉致や情報屋の消去を専門とする一団が使う、悪名高い「からくり」だった。
お絹は、目撃者の証言、辰五郎の素性に関する情報、そして「影」が彼を狙う動機(辰五郎が持つ情報網や、甚兵衛との繋がり)を甚兵衛の推理と組み合わせた。辰五郎は、「影」にとって危険な存在だったか、あるいは彼らが求める情報を持っていたのだ。
甚兵衛は、自身の持つ、壁の厚みや内部構造を探る「透過観測器」のようなからくりを使い、壁の向こうに空間があることを確認した。しかし、簡単に入れるような構造ではない。
「この仕掛けは、外部から簡単に開けられるようには作られていない。『影』の者たちが、内部から操作して辰五郎を引きずり込んだのだろう」甚兵衛は言った。「彼らは、辰五郎を生かしたまま連れ去った。情報目当てか、あるいは…利用するためか」
事件そのものは、辰五郎が「影」に拉致された、という形で明らかになった。犯人である「影」は、この場所から既に痕跡を消して去った後だ。役人が来ても、この巧妙な隠し「からくり」を見つけることは困難だろう。
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