【完結】『からくり長屋の事件帖 ~変わり発明家甚兵衛と江戸人情お助け娘お絹~』

月影 朔

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第二部:深まる人間関係と事件の広がり

第十五話:氷雨(ひさめ)の策

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 森厳寺での一件から一夜明け、長屋の朝日はいつものように穏やかだった。しかし、甚兵衛とお絹の心には、深い闇が落とされている。「影」の幹部らしき男、「氷雨」。甚兵衛がかつて名を耳にした、冷酷な知略家。そして、彼が受け取った「鍵」と呼ばれる何か。

 甚兵衛は、いつものように工房でからくりに向き合っていたが、その目は遠い過去を見ているようだ。お絹は、そんな甚兵衛の隣に静かに寄り添う。
「甚兵衛さん…『氷雨』って、どんな人だったんですい?」

 お絹が尋ねると、甚兵衛は作業を止めた。彼の表情は険しい。
「…奴は、私がいた世界でも、恐れられていた男だ。自らは手を汚さず、人の心と状況を読み、複雑な『からくり』のように計画を組み立てる。奴が動く時は、常に大きな目的がある」

 甚兵衛は、過去の記憶を辿りながら語った。氷雨が関わったとされる事件、その冷酷な手口。それは、個人の恨みや金銭のためではなく、組織や権力を裏から操るための、大規模な策謀だったという。
「奴が『鍵』と呼んだもの…それが何なのか、そして何のために使うのか。それが分かれば、奴らの計画の核心が見えてくる」

 甚兵衛は、工房の奥から古びた地図と、いくつもの書き込みがある手帳を取り出した。それは、彼が過去に集めた情報、そして「影」やそれに類する組織の手法について記した、危険な手掛かりだ。
「『影』…特に氷雨のような策士が『鍵』と呼ぶもの…それは、特定の場所への『扉』を開くものかもしれん。単なる物理的な鍵ではないだろう。情報への鍵、人の心への鍵、あるいは…町全体の流れを操るための、中枢への鍵だ」

 甚兵衛は、過去の手帳を捲りながら考えを巡らせた。氷雨が過去に狙った場所、利用した手口、彼の得意とした「からくり」。それは、情報の伝達網、金融の中心地、あるいは人の動きを司る場所…江戸の町を動かす「要」となる場所に関わっていることが多い。
「神田明神の裏手…寺…あそこは、特定の組織が連絡に使う場所だったことがある」甚兵衛は地図を指差した。「そして、奴らが盗んだもの…玄造さんの鋳型(錠前)、伊勢屋の帳面(金融/情報)、証文(幕府/情報)、染物屋の染料(物流/技術)…これらは全て、江戸の町を動かす『流れ』に関わるものだ」
「流れ…ですか?」お絹が尋ねる。
「ああ。人、物、金、情報…これらが滞りなく流れることで、町は成り立っている。氷雨は、その流れのどこかを『鍵』で掌握し、町に混乱をもたらすつもりだろう」

 甚兵衛は、いくつかの可能性のある場所を地図上に示した。札差が集まる地域、主要な船着き場、大きな問屋街、あるいは…目安箱が設置される奉行所の周辺。これらの場所には、それぞれ独自の「流れ」と、それを管理する「鍵」がある。
「これらの場所で、氷雨が手に入れた『鍵』が使われる可能性がある」

 甚兵衛は、特定の地域を示しながら、お絹に情報収集を依頼した。これらの場所で、最近不審な動きはないか、見慣れない人間やからくり道具の出入りがないか、あるいは「影」や「烏」という言葉に関する噂はないか。お絹は、彼の過去の知識と、自身のネットワークが、「影」の計画を暴くための重要な両輪であることを理解していた。

 お絹は、指定された場所の一つ、札差が集まる地域へ向かった。そこは、武士が俸禄を受け取る際、手形を現金化する場所であり、江戸の金融の一端を担っている。お絹は、馴染みの呉服屋や飲食店を訪ね、さりげなく近況や変わったことについて尋ねる。
「最近、この辺りでも妙な噂がありましてねえ…夜中に、見慣れない荷が出入りしてるとか、人の気配がしないはずの蔵から物音がするとか…」

 お絹は、集めた情報を甚兵衛に報告した。札差が集まる地域での不審な動き。それは、「鍵」が金融の流れを操るものである可能性を示唆していた。甚兵衛は、その情報を受けて、ある可能性に思い至った。
「札差の蔵…彼らは、手形や金品を保管している。そこへの『鍵』…あるいは、札差たちの信頼を操作する『鍵』か」

 甚兵衛は、過去の手帳から、氷雨が金融に関わる「からくり」を使った事例を思い出した。それは、偽の手形、あるいは帳簿の改ざん…そして、人々を信用させる、あるいは欺くための巧妙な「からくり」だった。氷雨の「鍵」は、物理的な鍵ではなく、金融システムそのものを欺くための「鍵」かもしれない。

 甚兵衛は、その可能性を検証するための、新たな「からくり」を考案し始めた。それは、紙幣や手形の真贋を見分けるための、光の透過率や繊維の密度を測るような道具、あるいは、特定の墨の成分に反応する薬剤(当時の知識で可能な範囲)を使った分析装置だ。氷雨の「鍵」が、偽の手形を生み出す技術や、帳簿を不正に操作する仕組みに関わるものならば、その「からくり」を見破るための「からくり」が必要になる。

 しかし、調査は危険を伴う。札差の地域も、「影」にとって重要な場所である可能性が高い。お絹が情報収集している最中にも、「影」の者が見張っているかもしれない。甚兵衛は、お絹に、いつも以上に警戒するように、そして少しでも危険を感じたらすぐに引き返すように厳命した。お絹もまた、緊張感を胸に秘めながら、甚兵衛の力になるべく、情報収集を続けた。

 甚兵衛の過去の知識、お絹の情報網、そして新たな「からくり」。これらが三位一体となって、「氷雨」と「鍵」の謎に迫る。札差の地域での不審な動きは、「影」の次の標的が江戸の金融システムである可能性を示唆していた。そして、「鍵」は、そのシステムを操作するための、物理的ではない「からくり」である可能性が高まる。

 長屋の灯りが、夜闇に揺れる。甚兵衛とお絹は、まだ見えぬ敵の手に握られた「鍵」の正体を追い、その背後にある「氷雨」の巨大な策謀を暴こうとしていた。物語は、江戸の経済をも揺るがす可能性のある、新たな局面へと進む。
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