40 / 64
第四部:大団円 ~からくりと人情が結ぶ未来~
第四十話:地上へ
しおりを挟む
排水路の出口の鉄格子を押し開ける力は、残っているだろうか。甚兵衛とお絹は、最後の力を振り絞り、からくり道具の先端を格子の隙間に差し込み、重い鉄格子を僅かに持ち上げた。ギィ…という鈍い音と共に、隙間ができる。二人分の身体が通れるほどではないが、這い出るには十分だ。
汚れた水に浸かりながら、甚兵衛が先にお絹を押し出す。泥と悪臭にまみれた身体が、鉄格子の隙間から外へ。お絹は、地上に出ると、咳き込みながら脇の草むらに倒れ込んだ。続いて甚兵衛も這い出る。全身ずぶ濡れで、力が入らない。
地上に出た瞬間、肺いっぱいに吸い込んだ空気は、地下の悪臭に比べれば格段に清々しい。遠くで、鳥の声や、朝早くから動き出した人々のざわめきが聞こえる。夜は明け始めている。空は薄明かりに染まり、江戸の町並みが朧げに見える。
「…出られた…」
甚兵衛が、枯れた声で呟いた。お絹は、涙を浮かべながら頷く。地獄のような地下からの脱出は、成功したのだ。
しかし、安心するのは早かった。いつ「影」の追跡者が地上に現れるか分からない。彼らは、全身泥まみれで、とても人前に出られる格好ではない。
二人は、川岸の草むらを這うように移動し、近くの橋の下に身を隠した。ひんやりとした石の下は、一時的な隠れ場所としては申し分ない。
息を整え、お互いの無事を確認する。小さな擦り傷や、からくりを使った際にできた火傷の痕はあるが、大きな怪我はない。体力は消耗しきっている。残ったからくり道具も、多くは地下で失われたか、泥にまみれて使い物にならない。
橋の下から、外の様子を窺う。早朝の川岸には、漁師や船頭たちが動き始めている。町の通りからも、人の気配や音が聞こえてくる。
江戸の様子は…どうだ? 彼らが「鍵」に一撃を加えたことで、「影」の計画は阻止できたのか。あの巨大なからくりが、あの「期日」に発動していたとしたら、江戸は今頃、混乱の渦中にあるはずだ。
しかし、外から聞こえてくる音は、普段の朝の賑わいだ。騒ぎや、非常を告げる鐘の音は聞こえない。人々は、普通に生活を始めているようだ。
甚兵衛とお絹は、顔を見合わせた。
「…止まったんだ…」甚兵衛が、掠れた声で言った。
「ええ…あのからくりに、ダメージを与えられたんですいね…」お絹も、安堵と、そして驚きを込めて答えた。
彼らの命がけの行動は、報われたのだ。あの巨大な「鍵」を完全に破壊することはできなかったかもしれない。しかし、期日に正確に作動させるための連動やタイミングを狂わせる、致命的なダメージを与えたのだろう。江戸全体を麻痺させるという「影」の最終計画は、阻止された。
しかし、勝利を祝う気分にはなれない。彼らの身体は限界だ。そして、問題は何も解決していない。氷雨は、あの地下拠点にいるのか、それとも別の脱出ルートで逃げたのか。辰五郎は…あの地下迷宮に囚われたままだ。
「甚兵衛さん…これから…どうしますい?」お絹が尋ねた。
甚兵衛は、疲労に歪んだ顔で、しかししっかりと前を見つめた。
「長屋に戻る。体勢を立て直す」
今は、それしか考えられない。役所に知らせるにしても、泥まみれの自分たちの話など、信じてもらえるだろうか。証拠となる「影」の道具も、ほとんどが失われた。
「そして…もう一度、辰五郎さんを…」
お絹が呟いた。甚兵衛は、静かに頷く。辰五郎を救い出すことは、まだ終わっていない。そして、氷雨も…奴の野望は一時的に阻止できたが、奴自身はまだ捕らえていない。
橋の下で、二人は身体を休めた。冷たい水と泥にまみれて、寒さが身に染みる。しかし、互いの傍らにいることで、ほんの僅かだが心が安らぐ。彼らの絆は、この地獄のような経験を通して、以前にも増して強く固くなった。
空の色が、オレンジ色に変わり始める。江戸の町が、本格的に目覚める時間だ。
「帰りましょう、甚兵衛さん」
お絹に促され、甚兵衛は重い身体を起こした。人目を避けながら、長屋へ向かう。彼らの顔には、勝利の喜びよりも、疲労と、そしてこれから待つであろう新たな戦いへの覚悟が浮かんでいた。地下での戦いは終わった。しかし、「影」を巡る物語は、地上で、新たな局面を迎える。
汚れた水に浸かりながら、甚兵衛が先にお絹を押し出す。泥と悪臭にまみれた身体が、鉄格子の隙間から外へ。お絹は、地上に出ると、咳き込みながら脇の草むらに倒れ込んだ。続いて甚兵衛も這い出る。全身ずぶ濡れで、力が入らない。
地上に出た瞬間、肺いっぱいに吸い込んだ空気は、地下の悪臭に比べれば格段に清々しい。遠くで、鳥の声や、朝早くから動き出した人々のざわめきが聞こえる。夜は明け始めている。空は薄明かりに染まり、江戸の町並みが朧げに見える。
「…出られた…」
甚兵衛が、枯れた声で呟いた。お絹は、涙を浮かべながら頷く。地獄のような地下からの脱出は、成功したのだ。
しかし、安心するのは早かった。いつ「影」の追跡者が地上に現れるか分からない。彼らは、全身泥まみれで、とても人前に出られる格好ではない。
二人は、川岸の草むらを這うように移動し、近くの橋の下に身を隠した。ひんやりとした石の下は、一時的な隠れ場所としては申し分ない。
息を整え、お互いの無事を確認する。小さな擦り傷や、からくりを使った際にできた火傷の痕はあるが、大きな怪我はない。体力は消耗しきっている。残ったからくり道具も、多くは地下で失われたか、泥にまみれて使い物にならない。
橋の下から、外の様子を窺う。早朝の川岸には、漁師や船頭たちが動き始めている。町の通りからも、人の気配や音が聞こえてくる。
江戸の様子は…どうだ? 彼らが「鍵」に一撃を加えたことで、「影」の計画は阻止できたのか。あの巨大なからくりが、あの「期日」に発動していたとしたら、江戸は今頃、混乱の渦中にあるはずだ。
しかし、外から聞こえてくる音は、普段の朝の賑わいだ。騒ぎや、非常を告げる鐘の音は聞こえない。人々は、普通に生活を始めているようだ。
甚兵衛とお絹は、顔を見合わせた。
「…止まったんだ…」甚兵衛が、掠れた声で言った。
「ええ…あのからくりに、ダメージを与えられたんですいね…」お絹も、安堵と、そして驚きを込めて答えた。
彼らの命がけの行動は、報われたのだ。あの巨大な「鍵」を完全に破壊することはできなかったかもしれない。しかし、期日に正確に作動させるための連動やタイミングを狂わせる、致命的なダメージを与えたのだろう。江戸全体を麻痺させるという「影」の最終計画は、阻止された。
しかし、勝利を祝う気分にはなれない。彼らの身体は限界だ。そして、問題は何も解決していない。氷雨は、あの地下拠点にいるのか、それとも別の脱出ルートで逃げたのか。辰五郎は…あの地下迷宮に囚われたままだ。
「甚兵衛さん…これから…どうしますい?」お絹が尋ねた。
甚兵衛は、疲労に歪んだ顔で、しかししっかりと前を見つめた。
「長屋に戻る。体勢を立て直す」
今は、それしか考えられない。役所に知らせるにしても、泥まみれの自分たちの話など、信じてもらえるだろうか。証拠となる「影」の道具も、ほとんどが失われた。
「そして…もう一度、辰五郎さんを…」
お絹が呟いた。甚兵衛は、静かに頷く。辰五郎を救い出すことは、まだ終わっていない。そして、氷雨も…奴の野望は一時的に阻止できたが、奴自身はまだ捕らえていない。
橋の下で、二人は身体を休めた。冷たい水と泥にまみれて、寒さが身に染みる。しかし、互いの傍らにいることで、ほんの僅かだが心が安らぐ。彼らの絆は、この地獄のような経験を通して、以前にも増して強く固くなった。
空の色が、オレンジ色に変わり始める。江戸の町が、本格的に目覚める時間だ。
「帰りましょう、甚兵衛さん」
お絹に促され、甚兵衛は重い身体を起こした。人目を避けながら、長屋へ向かう。彼らの顔には、勝利の喜びよりも、疲労と、そしてこれから待つであろう新たな戦いへの覚悟が浮かんでいた。地下での戦いは終わった。しかし、「影」を巡る物語は、地上で、新たな局面を迎える。
10
あなたにおすすめの小説
剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末
松風勇水(松 勇)
歴史・時代
旧題:剣客居酒屋 草間の陰
第9回歴史・時代小説大賞「読めばお腹がすく江戸グルメ賞」受賞作。
本作は『剣客居酒屋 草間の陰』から『剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末』と改題いたしました。
2025年11月28書籍刊行。
なお、レンタル部分は修正した書籍と同様のものとなっておりますが、一部の描写が割愛されたため、後続の話とは繋がりが悪くなっております。ご了承ください。
酒と肴と剣と闇
江戸情緒を添えて
江戸は本所にある居酒屋『草間』。
美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。
自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。
多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。
その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。
店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。
江戸の夕映え
大麦 ふみ
歴史・時代
江戸時代にはたくさんの随筆が書かれました。
「のどやかな気分が漲っていて、読んでいると、己れもその時代に生きているような気持ちになる」(森 銑三)
そういったものを選んで、小説としてお届けしたく思います。
同じ江戸時代を生きていても、その暮らしぶり、境遇、ライフコース、そして考え方には、たいへんな幅、違いがあったことでしょう。
しかし、夕焼けがみなにひとしく差し込んでくるような、そんな目線であの時代の人々を描ければと存じます。
高遠の翁の物語
本広 昌
歴史・時代
時は戦国、信州諏方郡を支配する諏方惣領家が敵に滅ぼされた。
伊那郡高遠の主、諏方頼継は惣領家家族のうち、齢十一歳の姫君を、ひょんなことから保護できた。
頼継は豪傑でもなければ知将でもない。その辺の凡将だろう。
それでも若き姫を守りながら、滅びた惣領家の再興を叶えるため、死に物狂いで強大な敵に立ち向かっていく歴史物語。
十二輝の忍神 ーシノビガミ― 第一部
陵月夜白(りょうづきやしろ)
歴史・時代
天明三年――浅間山が火を噴いた。
神の怒りに触れたかのように、黒い灰は空を塞ぎ、郷も田畑も人の営みも、容赦なく呑み込んでいく。噴火と飢饉が藩を蝕み、救いを求める声の裏で、名もなき影が蠢いた。灰の夜を踏むのは、血も温もりも失った“黒屍人”。誰が、何のために――。
その災厄に呼応するように、忍びの郷に封じられていた「十二輝の干支の珠」が、ひとつ、またひとつと眠りから解かれる。
珠は器を選び、器は力に喰われ、力は人を裏返す。
伊賀と甲賀の長い因縁、奪われる珠、引き裂かれる同胞。
そして、灰の国で拾い集められていく十二の輝きが揃う時、世界の秩序そのものが――動き出す。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)
三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。
佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。
幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。
ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。
又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。
海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。
一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。
事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。
果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。
シロの鼻が真実を追い詰める!
別サイトで発表した作品のR15版です。
江戸情話 てる吉の女観音道
藤原 てるてる
歴史・時代
この物語の主人公は、越後の百姓の倅である。
本当は跡を継いで百姓をするところ、父の後釜に邪険にされ家を出たのであった。
江戸に出て、深川で飛脚をして渡世を送っている。
歳は十九、取り柄はすけべ魂である。女体道から女観音道へ至る物語である。
慶応元年五月、あと何年かしたら明治という激動期である。
その頃は、奇妙な踊りが流行るは、辻斬りがあるはで庶民はてんやわんや。
これは、次に来る、新しい世を感じていたのではないのか。
日本の性文化が、最も乱れ咲きしていたと思われるころの話。
このてる吉は、飛脚であちこち街中をまわって、女を見ては喜んでいる。
生来の女好きではあるが、遊び狂っているうちに、ある思いに至ったのである。
女は観音様なのに、救われていない女衆が多すぎるのではないのか。
遊女たちの流した涙、流せなかった涙、声に出せない叫びを知った。
これは、なんとかならないものか。何か、出来ないかと。
……(オラが、遊女屋をやればええでねえか)
てる吉は、そう思ったのである。
生きるのに、本当に困窮しとる女から来てもらう。
歳、容姿、人となり、借金の過多、子連れなど、なんちゃない。
いつまでも、居てくれていい。みんなが付いているから。
女衆が、安寧に過ごせる場を作ろうと思った。
そこで置屋で知り合った土佐の女衒に弟子入りし、女体道のイロハを教わる。
あてがって来る闇の女らに、研がれまくられるという、ありがた修行を重ねる。
相模の国に女仕入れに行かされ、三人連れ帰り、褒美に小判を頂き元手を得る。
四ツ谷の岡場所の外れに、掘っ立て小屋みたいな置屋を作る。
なんとか四人集めて来て、さあ、これからだという時に……
てる吉は、闇に消えたのであった。
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる