【完結】『夕映えの寺子屋 - 寅次郎先生、明治を照らす最後の授業 -』

月影 朔

文字の大きさ
66 / 80
第六章:「最後の授業」の予感

第六十六話:病状の急変

しおりを挟む
 穏やかな碁の対局を終え、勝海舟が帰路についた後、寅次郎の容態は急変した。

 夕食も喉を通らず、夜に入ると、突然の激しい悪寒と、燃えるような高熱が彼の体を襲った。荒い息遣いが、静かな塾舎に響き渡る。

 まるで、彼の体内で何かが決壊したかのように、病魔が最後の猛威を振るい始めたのだ。

 「先生、先生…!」

 美和子の悲痛な声が響く。彼女は、冷たい手ぬぐいを絞り、兄の額に何度も何度も当てた。しかし、熱は一向に下がる気配がない。額から首筋へ、そして全身へと、汗がとめどなく流れ落ちる。

 楫取素彦もまた、心配そうに兄の傍らに付き添い、その浅く、しかし激しい呼吸を不安げに見守っていた。寅次郎の顔は紅潮し、苦悶に歪んでいた。

 「文…苦しい…」

 掠れる声で絞り出された兄の言葉に、美和子の目から止めどなく涙が溢れた。どれほど苦しいのだろうか。代われるものなら、今すぐにでも代わってやりたい。

 しかし、美和子にできるのは、ただ兄の手を握り、その体をさすってやることでしかなかった。美和子は、兄の痩せ細った手を両手で包み込み、懸命にその温もりを感じようとした。

 その頃、塾舎の周りには、子供たちが静かに集まっていた。明かりが灯る塾舎の窓から漏れ聞こえる、先生の苦しそうな咳と、美和子のすすり泣く声に、彼らの心は激しく揺さぶられていた。

 日が暮れても、いつもなら賑やかな笑い声が響く塾舎から、ただただ重苦しい空気が漂っている。健太は、塾舎の壁にそっと寄りかかり、その耳を澄ませた。耳を塞ぎたくなるような、先生の辛そうな声が、彼らの心を締め付けた。

 「先生、大丈夫かな…」

 最年少の小さな子が、健太の袖を引いて問いかけた。その顔は、不安と恐怖に歪んでいた。他の子供たちもまた、暗闇の中で互いに顔を見合わせ、その小さな手をぎゅっと握りしめていた。

 彼らは、先生がどれほど大切な存在であるかを知っていた。先生は、彼らに文字を教え、歴史を語り、そして何よりも、生きる知恵と希望を与えてくれたのだ。健太は、以前先生のために探しに行った薬草の束を、手のひらでそっと握りしめた。
それが、今、何の役にも立たないことが、彼の胸を締め付けた。

 「大丈夫だ…先生は、きっと良くなる…」

 健太は、震える声でそう言い聞かせたが、彼の心の中には、冷たい不安が広がり始めていた。つい先日まで、穏やかに講義をしていた先生が、今、あんなにも苦しんでいる。

 先生がもし、このままいなくなってしまったら、自分たちはどうなってしまうのだろう。彼らの心には、そんな根源的な恐怖が募り始めていた。

 塾舎の中では、寅次郎の意識が朦朧とし始めていた。熱にうなされながら、彼の脳裏には、松下村塾の賑わい、若き弟子たちの顔、そして血と炎に染まった幕末の光景が、再び鮮明に浮かび上がっていた。

 あの日の血の匂い、銃声、そして倒れていく若者たちの姿が、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。

 「晋作…玄瑞…稔麿…」

 かすかな呻き声が、美和子の耳に届く。兄は、最期の時が迫る中で、かつての教え子たちの名を呼んでいる。美和子は、兄の胸に顔を埋め、ただただ涙を流すことしかできなかった。
家族として、兄を支えてきた美和子にとって、この苦しみは、過去の全ての辛さと重なって、彼女の魂を揺さぶった。

 夜は更け、月明かりが塾舎の屋根を照らしていた。しかし、その静かな夜の闇の中で、寅次郎の命の灯火は、今にも消え入りそうに、激しく揺れていた。子供たちの祈りだけが、その小さな灯火を、かすかに支えているかのようだった。

 彼らは、夜空に輝く星を見上げ、ただひたすらに、先生の回復を願い続けていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【完結】ふたつ星、輝いて 〜あやし兄弟と町娘の江戸捕物抄〜

上杉
歴史・時代
■歴史小説大賞奨励賞受賞しました!■ おりんは江戸のとある武家屋敷で下女として働く14歳の少女。ある日、突然屋敷で母の急死を告げられ、自分が花街へ売られることを知った彼女はその場から逃げだした。 母は殺されたのかもしれない――そんな絶望のどん底にいたおりんに声をかけたのは、奉行所で同心として働く有島惣次郎だった。 今も刺客の手が迫る彼女を守るため、彼の屋敷で住み込みで働くことが決まる。そこで彼の兄――有島清之進とともに生活を始めるのだが、病弱という噂とはかけ離れた腕っぷしのよさに、おりんは驚きを隠せない。 そうしてともに生活しながら少しづつ心を開いていった――その矢先のことだった。 母の命を奪った犯人が発覚すると同時に、何故か兄清之進に凶刃が迫り――。 とある秘密を抱えた兄弟と町娘おりんの紡ぐ江戸捕物抄です!お楽しみください! ※フィクションです。 ※周辺の歴史事件などは、史実を踏んでいます。 皆さまご評価頂きありがとうございました。大変嬉しいです! 今後も精進してまいります!

【戦国時代小説】 甲斐の虎•武田信玄と軍師•山本勘助

蔵屋
歴史・時代
 わたしは、以前、甲斐国を観光旅行したことがある。  何故、甲斐国なのか?  それは、日本を象徴する富士山があるからだ。     さて、今回のわたしが小説の題材にした『甲斐の虎•武田信玄と軍師•山本勘助』はこの甲斐国で殆どの戦国乱世の時代を生き抜いた。そして越後の雄•上杉謙信との死闘は武田信玄、山本勘助にとっては人生そのものであったことだろう。  そんな彼らにわたしはスポットライトを当て読者の皆さんに彼らの素顔を知って頂く為に物語として執筆したものである。  なお、この小説の執筆に当たり『甲陽軍鑑』を参考にしていることを申し述べておく。  それでは、わたしが執筆した小説を最後までお楽しみ下さい。  読者の皆さんの人生において、お役に立てれば幸いです。  

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

滝川家の人びと

卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。 生きるために走る者は、 傷を負いながらも、歩みを止めない。 戦国という時代の只中で、 彼らは何を失い、 走り続けたのか。 滝川一益と、その郎党。 これは、勝者の物語ではない。 生き延びた者たちの記録である。

石榴(ざくろ)の月~愛され求められ奪われて~

めぐみ
歴史・時代
お民は江戸は町外れ徳平店(とくべいだな)に夫源治と二人暮らし。  源治はお民より年下で、お民は再婚である。前の亭主との間には一人息子がいたが、川に落ちて夭折してしまった。その後、どれだけ望んでも、子どもは授からなかった。  長屋暮らしは慎ましいものだが、お民は夫に愛されて、女としても満ち足りた日々を過ごしている。  そんなある日、徳平店が近々、取り壊されるという話が持ちあがる。徳平店の土地をもっているのは大身旗本の石澤嘉門(いしざわかもん)だ。その嘉門、実はお民をふとしたことから見初め、お民を期間限定の側室として差し出すなら、長屋取り壊しの話も考え直しても良いという。  明らかにお民を手に入れんがための策略、しかし、お民は長屋に住む皆のことを考えて、殿様の取引に応じるのだった。 〝行くな!〟と懸命に止める夫に哀しく微笑み、〝約束の1年が過ぎたから、きっとお前さんの元に帰ってくるよ〟と残して―。

 【最新版】  日月神示

蔵屋
歴史・時代
 最近日月神示の予言本に不安を抱いている方もあると思うがまったく心配いらない。  何故なら日月神示では「取り越し苦労や過ぎ越し苦労はするな!」 「今に生きよ!」  「善一筋で生きよ!」  「身魂磨きをせよ!」  「人間の正しい生き方」  「人間の正しい食生活」  「人間の正しい夫婦のあり方」  「身も心も神さまからお借りしているのじゃから夜になって寝る前に神さまに一旦お返しするのじゃ。そうしたら身と心をどのようにしたらよいか、分かるじゃろ!」  たったのこれだけを守れば良いということだ。  根拠のない書籍や情報源等に惑わされてはダメだ。  日月神示も出口王仁三郎もそのようなことは一切言っていない。  これらの書籍や情報源は「日月神示」が警告する「臣民を惑わすものが出てくるから気をつけよ!」 という言葉に注目して欲しい。  今回、私は読者の皆さんに間違った解釈をされている日月神示を分かりやすく解説していくことにしました。  どうか、最後までお読み下さい。  日月神示の予言については、私が執筆中の「神典日月神示の真実」をお読み下さい。    

影武者の天下盗り

井上シオ
歴史・時代
「影武者が、本物を超えてしまった——」 百姓の男が“信長”を演じ続けた。 やがて彼は、歴史さえ書き換える“もう一人の信長”になる。 貧しい百姓・十兵衛は、織田信長の影武者として拾われた。 戦場で命を賭け、演じ続けた先に待っていたのは――本能寺の変。 炎の中、信長は死に、十兵衛だけが生き残った。 家臣たちは彼を“信長”と信じ、十兵衛もまた“信長として生きる”ことを選ぶ。 偽物だった男が、やがて本物を凌ぐ采配で天下を動かしていく。 「俺が、信長だ」 虚構と真実が交差するとき、“天下を盗る”のは誰か。 時は戦国。 貧しい百姓の青年・十兵衛は、戦火に焼かれた村で家も家族も失い、彷徨っていた。 そんな彼を拾ったのは、天下人・織田信長の家臣団だった。 その驚くべき理由は——「あまりにも、信長様に似ている」から。 歴史そのものを塗り替える——“影武者が本物を超える”成り上がり戦国譚。 (このドラマは史実を基にしたフィクションです)

江戸『古道具 藍凪屋 〜再生と縁結いの物語〜』

藍舟めいな
歴史・時代
捨てられた道具に命を吹き込め。算盤娘と天才職人が贈る、痛快再生譚! 大坂の商才 × 長崎の技術 × 庄内の祈り。 神田お玉が池の古道具屋『藍凪屋(あいなぎや)』、本日開店。 文化十四年、江戸。 泥にまみれ、捨てられたガラクタを、異国の技で「勝色(かちいろ)」へと蘇らせる天才職人・徳三。 その価値を冷徹に見抜き、江戸の「粋」へとプロデュースする算盤娘・おめい。 吹き溜まりの裏長屋から、二人の「余所者」が江戸の価値観をひっくり返す! 捨てられた道具に新しい命を吹き込み、絶たれた「縁」を再び結ぶ、再生の物語。 「うちが売ってるんは物やなくて、職人の執念と、それを持つ人の『格』なんですわ」 どん底から江戸の頂点を目指す、痛快・職人再生サクセスストーリー! ※カクヨムで先読み可能です

処理中です...