『土の記憶〜左官 龍吉捕物控〜』

第三章：影の足跡

第九話：左官の見立て

　堀田将監襲撃事件の後も、龍吉は堀田屋敷での蔵の改修作業を続けていた。

　昼間は他の職人たちと共に壁を塗り、夜になると、密かに持ち帰った金属片と血染めの図面、そして現場で見た痕跡と向き合った。

　奉行所の捜査が手詰まりになっている今、この事件の真実を追えるのは、壁のすべてを知る自分だけだと、龍吉は確信していた。

　血染めの図面には、堀田屋敷のあらゆる秘密が描かれているようだった。

　壁に隠された扉、床下の抜け道、そして壁の厚みや構造のわずかな違いまで、まるで壁が透けて見えているかのような精緻さだ。龍吉は図面が示す場所を、脳裏に描かれる屋敷の構造と照らし合わせた。

　将監が襲われた部屋、蔵、そして屋敷の裏手。それらはすべて、図面に描かれた隠し通路や抜け道で繋がっているように見えた。

「この壁は…音を吸収するように作られている」

　将監の部屋の壁に残された微かな痕跡と、図面に記された特定の壁の描写を見て、龍吉は呟いた。通常の壁土に、音を吸収しやすい材料が混ぜられている。あるいは、壁の内部に特殊な構造が施されている。

　それは、壁の向こうにいる者に、部屋の中の音を聞かせないため、あるいは、部屋から出る音を外部に漏らさないための工夫だ。

　左官でなければ気づけない、壁の「耳」を塞ぐ技術。

　蔵の壁の一部が意図的に弱められていた箇所も、図面と照らし合わせると納得がいく。そこは、図面に「〇」印がつけられた場所だった。

　おそらく、そこが隠し通路の入口か、あるいは壁を破って侵入するための足がかりとなる場所なのだろう。壁を破る際に出る音を最小限にするために、壁が薄く、脆く作られている。

　そして、将監の部屋から見つかった、壁を伝ったような微かな擦過痕。

　あれは、壁をよじ登る、あるいは壁を滑り降りる際にできたものだろう。図面に描かれた隠し通路は、壁の中に垂直に伸びている箇所もある。そこを、音もなく移動するためには、壁の凹凸を掴み、あるいは特殊な道具を使って壁面を移動する高度な技が必要となる。

　これらの手口は、単なる盗賊や強盗のそれとは明らかに異質だった。建物の構造に関する深い知識、壁を音もなく扱い、壁の中に身を隠し、壁を通り抜ける特殊な技能。

それは、まるで…
「忍び…」

　龍吉の中に、一つの言葉が浮かび上がった。壁を越え、闇に紛れ、人知れず任務を遂行する者たち。町場の噂話で聞く、壁の中に隠れる、天井裏を這う、音もなく人々の暮らしに忍び込む存在。あの金属片の奇妙な紋様も、もしかすると、特定の忍びの里や流派に伝わる印なのではないか。

　血染めの図面は、まさに忍びが使う「屋敷の見取り図」、あるいは侵入計画図だったのだ。そして、堀田将監を襲った犯人は、その図面を手に、壁と闇を味方につけた、精鋭の忍び。

　あの不審火も、蔵の秘密を暴くための陽動か、あるいは証拠隠滅のための「忍びの術」の一つだったのかもしれない。

　龍吉は確信した。この事件の背後にいる「影」の組織は、訓練された忍びの集団だ。

　彼らが何のために堀田将監を襲ったのか、蔵の秘密とは何なのか、その目的はまだ闇の中だが、敵の正体が明らかになったことで、龍吉の胸には新たな緊張感が走った。忍びは、人並み外れた体術を持ち、様々な道具や術を使うという。彼らに対抗するには、生半可な覚悟では挑めない。

　しかし、敵が「忍び」であると分かったことで、龍吉の職人としての血が騒いだ。

　忍びは壁を利用する。壁を破り、壁の中に隠れ、壁を移動する。ならば、左官として壁のすべてを知る自分が、彼らの壁を利用する手口を封じ、あるいは逆手に取ることができるのではないか。
　
　壁の構造、材質、音の響き方、隠し場所を作る技術。これらすべてが、忍びに対抗するための、龍吉の唯一無二の武器となる。

　金属片の紋様。これが、影の組織に繋がる重要な手がかりだ。この紋様の意味を知る必要がある。誰に聞けば分かるのか。町には、様々な情報が流れ込んでいる場所がある。あるいは、裏社会に通じた人物に頼るべきか。

　龍吉は、改修作業の手を止め、遠くを見つめた。江戸の空は広く、平穏に見える。だが、その下には、「影」と化した忍びたちが潜み、自らが作り上げてきた「壁」をも脅かそうとしている。

　龍吉は心に誓った。あの血染めの図面が示す真実を暴き、金属片の紋様の意味を知る。そして、「影」の組織が何を企んでいるのか、その目的を突き止める。壁に潜む闇を払い、大切なものを守るために。

　まず、金属片の紋様について、詳しい者を探さなければならない。龍吉は、ある人物の顔を思い浮かべた。

　物語は、龍吉が「影」の正体に迫るため、本格的な情報収集に乗り出す。