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シルシ
しおりを挟む地面の振動を感じ、身支度を進めていたニコは手を止めた。ここではないどこか、距離は遥か遠くに感じた。
窓を開け、町を見渡す。低い位置からは建物に阻まれ視界が遮られたが、町の外に煙が上がっているのが見えた。揺れる大地と舞い上がる煙。住民もその様子に異変を感じ始めていた。
不安に煽られた住民達は互いの顔を見て声を上げる。ニコは最初に聞こえた声へ目を向けた。
二人の人間の頬には見覚えのある印があった。形は違ったが、ヴァルーの体にある文様と似た印が、外を歩く全ての人間に刻まれていた。
突然のことに驚く住民。一人の女が悲鳴と共に鏡に映った自分へ近づく。頬の印をかき消すように何度も拭う。傍にいた獣人は主人の女の異変を心配し近づくが、気が動転した女は手を払いのける。
ニコは次の音を拾う。水しぶきが上がったような音は、旅の中でも聞いたことがあった。
胸騒ぎの中、眠るヴァルーの様子を確認する。ベッドに備え付けられていた布を剥がし、髪に隠れた顔を晒す。
「そ、そんな……ヴァルー様……」
毛に覆われ、爪を隠した指で何度もヴァルーの頬を撫でる。そこにあったはずの印は無く、違う顔だと錯覚を起こすほど、印は跡形もなく消えていた。
ニコは眠ったままのヴァルーを大きく揺らす。起きてください、と叫ぶ声は窓の外まで届くほど。だが、人々の動乱の声にかき消されていた。
必死の呼びかけにヴァルーはゆっくりと目を開く。
「ニコ……どうしたの」
「ヴァルー様、見てください。印が……」
促されたヴァルーはニコが掴んだ手を見る。印の無い、何の変哲もない手。まだ眠っている意識の中、ヴァルーは素肌を眺めた。
頬の印も消えている、と手鏡を向ける。手と同様、ヴァルーは鏡の中を見つめる。
「一体何が起こっているんですか。過去にあれほど消そうとしていた印が消え、その印が町の人間に……ヴァルー様、何か心当たりは」
慌てるニコの言葉を遮るように、ヴァルーは腕を伸ばし抱き付く。
突然のことに驚いたが、ヴァルーの体が震えているのを感じ、ニコはその小さく怯える体を抱きしめた。
何かあったんですか。ニコは自分を落ちつけながら問いかける。
「怖い、夢を見てた」
「夢ですか?」
「何も思い出せないけど、怖い夢」
怖かった、と繰り返すヴァルー。ニコはそんな彼を優しく包む。
「ニコ、僕の印なくなったんだよね」
「はい、今見た限りでは」
「じゃあ、もう旅も終わりだね」
「それは」
「だって、もう心が強くなくてもいいんだから」
印の力を制御するための旅。それはもう終わりだ、とヴァルーは呟く。
「もう帰ろう。またあの家で二人で暮らそうよ。あそこは僕たちしかいない静かな場所だから、怖いことも嫌なこともない」
村から離れた森の奥に建つ小さな家。穏やかで孤独な家をニコは思い出す。
「もう嫌だ。疲れた。何もしたくない何もいらない。ニコさえいてくれれば、それでいい」
ニコは普段とは違うヴァルーの様子に戸惑いながらも、家に帰るという提案に頷く。
いくつもの振動。人間には感知できないほどの小さな振動が増えているのを感じ、ニコは危険だと判断していた。何かが起こっている。その程度の認識だったが、力を失ったヴァルーにはそれを回避する術がない。
家に戻るのが果たして最善なのか。戸惑いながらもヴァルーを支える。今までにないほど怯え震える彼が安心するなら、とニコは手を離した。
「わかりました。あの家に帰りましょう。道のりは遠いですが」
また地面が震え始めた。それは一瞬だったが、近隣の山からのものだった。爆発音にも聞こえる振動は支度の手を速めた。
ヴァルーの荷物もまとめ出発の準備を終えたニコは、壁に掛けられたフード付きの上着をヴァルーに着せる。
ニコは旅立ちの日を思い出した。旅に出ようと準備を進め眠った日の夜、ヴァルーの力に気付いた村の住民が森に火を放った。放火した男はヴァルーの実の叔父。願いによって自分の家族が奪われたのだと知った叔父が復讐のために森を焼いた。
いち早く異変に気付き、手元にあった布にヴァルーを包み、森を走った。朝に目覚めた彼は記憶にない森の外で何があったんだ、と尋ねた。真実を伝えられず、驚かせようと思って眠っている間に移動した、と嘘をついた。幼いヴァルーはそれを聞き、すごいねと喜びの中旅を始めた。
帰る場所はもうない。ニコはヴァルーの手を引き、騒ぎだした人込みをすり抜けていく。力なく歩くヴァルーは何度も障害物にぶつかり、相手は罵声を浴びせたが、ニコは止まることなく町の外を目指した。
不安を隠し、震える手を抑え、外へ飛び出すための道を歩く。ニコは、誰もいない静かな場所を求めた。ヴァルーと共に平穏に過ごせる場所。そこに家を建て新たな生活を始めよう。そんなことを考えながら、自分の中に溢れそうになる感情を押し殺す。
門が見えた頃、ニコはヴァルーの様子を確認した。獣人のペースで突破してしまい、ヴァルーは息を荒げていた。だが、その顔には恐怖は無く、安心した笑顔に変わっていた。
家に帰れる。その希望だけがヴァルーの足を動かし、彼に活力を与えていた。
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