ロストパートナーズ

篠宮璃紅

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第5話「望ミハタダヒトツ」

4.天使病

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「天使病は正確に言うと病ではない。感染症のように認知されていたけれど、あれだ、病は気から。あれなんだよ」


男はこの現場に似つかわしくない声で言った。こつこつと靴で硬い地面を踏み鳴らしつつ、人差し指を立てて。ふと、今日受けるべきはずだった授業の教師を思い出した。

天使病についてはほとんど解明されていなかった。ただ『天使に触れた者は侵され、天使に変わる』という噂程度の内容が、戦を知らない子供にまで広がっていた。それを聞いて怖がる子供の様子を見て「だからいい子にしようね」「悪いことをすれば天使が来てしまう」など、躾で使われるような。

ただ、城の中では認識が少し違っていた。一般国民が知っている天使は、変質してしまった人間。狂って暴れる化け物のこと。天使という種族が別にいるとは考えたこともないほど。それだけ長い時間、天使は姿を現すことはなかったし、世界は歪んでいた。


「本来天使は人間に強く共感して、その願いを叶える存在だった。それがいつしか捻じ曲げられ、歪みが重なってしまった末に起きたのが天使と人の戦争。お互いの存在をかけて争った結果、願いのシステムは呪いになった」


ユウが図書室に籠っていた時、歴史書を読み漁っていた時期があった。無駄に豪華な造りだが、中身は現代の評論ほど纏まっておらず持論ばかりで妄想じみた内容が多く含まれていた。あいつはそれを小説のように楽しんでいた。その中でほぼ共通して書かれてた内容が、天使の役目、性質についてだ。

一番面白いと感じた内容。過去、天使と人は共存し、ある程度の文化を築いていた。発展を助けていたのは天使の能力。人間と心を交わし、その望みを叶える。その当時は互いを助け合っていたというが、いつしか人間は力だけを利用するために天使たちを使役し始める。

望みを叶える機能上、ある程度人間という存在に依存してしまった天使たちの敗北。尊厳などもなく踏みにじられる歴史を重ねた結果、天使は自分たちの願いを叶えてしまった。虐げられ、消費される運命から逃れたい。不死である自分たちの運命を変えたいと願った。


「願いを叶えなければ死ねない。死にたければ願いを叶えろ。そんな呪い」


歴史書と同じ内容。しかし、あれには別の願いが記述されていた。

ただ死にたい、と。だけどその願いは歪んでしまった。天使が、天使の願いを叶えてしまったから。

この男の話や歴史書の内容が全くのでたらめだとしても、天使が願いを叶える上での絶対ルールは城の中でも共通の認識であった。天使は自分たちで願いを叶えられないからこそ、人に近づくのだと。そして天使に触れることで、病に侵される。御伽噺の域は越えなかったが。


「何を間違ったか、天使を殺せば願いが叶うって形で人間たちに噂が広まってしまった。違うのにね。正確に言うと、天使たちは死ぬために願いを叶えるんだ。天使だって痛みは感じる。だから抵抗したんだよ」


男は事実かのように話す。何もかも、わかっているかのように。

最初は天使の命を狙う種族間の戦。次は天使病患者の増加による第三勢力の鎮圧。その次は長期間の戦で枯渇した資源の奪い合い。事実として語り継がれていたのはそれだけ。それ以前のものは、全て想像の範囲。

それなのに、この男は淡々と昔話のように語る。


「……あんたは」

「ボク?」


くすくすと笑う。癪に障る笑い方。しかし悪びれてはいない。寧ろ、どこか思いつめているようにも見える。それを誤魔化すように、あはっと声をあげて笑顔を重ねる。


「始まりの患者。ユウ達から見れば遠い過去、東と西がまだ争っていなかった頃。一人の天使が自らの命を犠牲にして願った結果、天使として生まれ変わった元人間。最初の天使病患者」


両手を広げ、背中に隠していた白い翼を広げ、男は言った。

美しかった。視界に広がった白が眩しく輝いて見えた。赤に侵されていない、本物の天使。

ユウの記憶の中には存在しない、白だけの存在。瞳に熱を感じるほど、美しかった。

男はまた、私の背後に手を伸ばす。同じ色のはずなのに、背後から見える白は酷く濁って見える。悔しい、惨め、拒絶、絶望。それらを通り越して無すら感じる。もう、どう苦しめばいいのか、わからない。また、わからないことが増えた。


「とある天使が願いを抱いた。その願いから天使病なんてものが生まれてしまった。結果的に今、キミを苦しめている」


ごめん、と呟いた。顔は笑っているが、そうではない。似た感情を、よく知っている。


「天使に欲はない。感情がないんだ。それを知ろうとして人と関わり、欲を得て、侵されて、過ちを犯した。純粋すぎたんだよ」


男はこちらを見つめる。澄んだ、赤い瞳で。


「天使病によって人から変化した天使という存在は不完全だ。あれはただの抜け殻のようなもの。天使の貪欲さと、人の強欲が入り混じったもの。欲に塗れた人間本来の姿とも言えるかな。人だったからこそ、感情を持っている。そこに天使の純粋な探求心が現れたことで、一番知りたい欲望、感情が溢れ出して止められなくなる。理性が働かないまま知ろうとして暴走してしまう。天使とも人とも言えない、なんとも不細工な存在だよ」


苦笑が漏れた。一番知りたい欲望、感情を追い求める。それが事実なら、私はユウのことがもっと嫌いになる。


「天使の探求心を得た人間がどうなってしまうかは思い出してごらん。あれはもはや獣だよ」


あいつが欲しかったものは、あんなにも醜いものだったのか。惨く、悲惨な光景と引き換えになるものを欲したのか。周りの存在を全て傷つけて、壊してまで。

幼い頃の記憶から、無欲を演じる欲しがりだとは思っていた。欲しいものを欲しいと言えない臆病さが嫌いだった。優柔不断で、人に頼ってばかりで、自分一人じゃ逃げ出すようなあいつが嫌いだったのに。

天使病が悪い。そんな逃げ方は許さない。あればあいつの中にあった欲望だ。肉や骨を潰す瞬間、血を浴びた時の高揚感。壊れたおもちゃのように屍をあしらい、積み上げ、笑った。

それに飽き足らず、欲してはいけないと思った彼女も傷つけて、興奮した。自分の好きな色に染まるシャラ。その熱を、血を、肉を感じたいと。狂いそうになっていた。

純粋な感情なんかじゃない。人でもない。獣だ。まさに、そうだ。

でも、その欲する気持ちに飲まれている私だって、もう―――

「ま、キミもその獣に変わろうとしてるわけだけど」


失笑。まさにその通り。

利紅が恐れていたことを思いだした。夢と同じになってしまったらという恐怖。私だって怖かった。だから毎日、毎朝、鏡で自分の存在を確かめた。ユウのようにはならないと、儀式めいたことをしていたのに。

赤はそんなに好きな色ではない。私はどちらかと言うと青のほうが好きだ。ユウに対する反抗的な意識からそうなったのかもしれない。それなのに、掌に残った乾いた赤を見て、がっかりした。鮮明な赤じゃなくて、がっかりしたんだ。

あぁ。声が漏れだす。顔を覆う。前髪をぐしゃぐしゃにして、手にこびり付いたものがぽろぽろと剥がれる。乾いたペンキのように。

笑える。心のどこかでまだ、男の瞳の色のような、赤を浴びたいと欲している。もう、笑うしかない。


「ボクは始まりの患者。不完全な天使の記憶を受け継ぐ。全ての原因」


男はまた近づいて、しゃがみ、顔を覗き込んだ。

見たくない、美しい輝きで見つめてくる。


「自己紹介が遅れたね。ボクの名前は月島悠莉。キミを救いたくて、ここにいる」


つきしま、ゆうり。そいつは手を取って、優しく包んだ。

受け入れてほしいを言わんばかりに。救いたいと。暖かい両手で、冷え切って汚れた手を包み込んで。


「…………どうでもいい」


心の底から。そう思った。我ながら、なんて救いのない人間なんだろうか。

涙を流して救われたいと縋ることもできるだろうに。助けてくださいと懇願することも。絵に描いたように、天から現れた神秘の存在に奇跡を願う素直さが残っていても良かったのに。どうやら、そんな人間らしさはないらしい。


「全部、どうでもいい。天使病とか、欲とか。あんたが何者なのかも、自分がどうなるのかも」


救われたいとか、助けてほしいとか。そんなことは散々願った。苦しんだ。夢の中ですら、どうにもならなかった。

夢なのだから、幸せでいてもいいだろうと。何度、何度思ったことか。欠落している記憶があんなにもあったのに、まだそれを望んだ。十分幸せな夢だったんだろう。ユウが忘れていたおかげで。

それでも、あいつは救われなかった。助けてほしいと心が叫んでいたのに。口に出せなかっただけ。そんな勇気はなかった。救われるならユウであるべきだ。そうすれば、私だって。

苛立ちは消えない。あいつが苦しむことになったのは周りに甘えることができなかっただけ。もうすでに甘えすぎた結果、本当に助けてほしい時に頼ることができず、自滅した。あんな奴、ああなって当然だ。そう思っていたのに。

ユウが救われるべきだ。私はもう、どうでもいい。あいつの痛みを、叫びをどうにかしてくれるなら。


「ボクを殺せば、変えられるよ」


ユウを助けて、と。望めば叶うのか。嘘だ。天使の願いは万能ではない。そんなうまい話があるものか。

夢を変えてどうなる。今の状況が変わるのか。そんなことはどうでもいい。何事もなかったように家に帰りたい。着替えたい。眠りにつきたい。ぐるぐるとする思考が、とにかく鬱陶しい。今更、人間ぶろうとするな。こんなに大きな翼を抱えて、どうすればいい。日常は返ってこない。ユウだってそうだった。

あいつみたいに、全部忘れていく。溶けて、思い出せなくなる。その核心はあった。救われるなんて曖昧なものより、信じられる。私は忘れる。親の顔も、友人の顔も。もう見たくない、咲姫の悲しむ顔も。全部、なくなる。

全て解決なんていう夢物語よりも、全てを失う恐怖が寄り添っている。


「自殺はおすすめしないかなぁ。今のキミはまだ人間寄りだけど、天使病の進行が速すぎる。今はもう簡単には死ねないかも」


ガラス片を目で探していたことがばれた。目ざといやつだ。

そんなもので死ねないこともうっすら、気が付いていた。きっともう、まともな痛みは感じない。痛みがあるうちに傷が消える。それはもう人間としての痛みとは言えない。


「時間をかけるのもおすすめしないよ。期限は明日まで。キミが完全な天使になってしまえば、願いが正しい形で叶えられなくなってしまう。天使同士で願いを叶えると必ずその願いは歪んでしまう」


迷う暇すら与えられない。酷い押し売りのようだと笑った。

完全な天使。それが月島のような美しい「本物の天使」なのか、夢の中で山のように屠った醜い獣なのか。汚れた手を見る限り、私は後者だろう。それは嫌だ、と思える心はまだ残っている。


「結局、あいつと同じ選択しか……」


ユウもきっと、同じだったんだ。大切な存在を傷つけるくらいなら。忘れるくらいなら。全部、終わらせたかった。肉塊の中に紛れても気が付かずに踏みにじってしまうのを、わかっていたから。

まだ天使じゃない。まだ死ねる。もう人間ではなくなっているけど、それでも方法は残っている。ユウもそうした。同じやり方なら。ガラス片なんかじゃ足りない。もっと長くて、丈夫で、体を貫ける何か。

傷つくのは怖い。傷つけるのはもっと恐ろしい。なら、答えはひとつ。

だけど、そうだけど、ユウと同じ結末。私が否定してきた答え。




―――同じじゃない。違う、全然違う。だって、私は。


「違う、ちがう。ユウと私じゃ、違う」


ちがう、違う。ちがう、ちがう、違う。


「ユウは、誰も傷つけなかった……そうなる前に……私は」


涙が止まらない。そんな資格ないのに。

零れ落ちた涙を受けた手。乾いた色に鮮やかさが戻った。ほんの少し。

知ってる。この色、暖かい色。

欲しかったから、どうしても、欲しいと思ってしまったから。






真樹を、刺したんだ。

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