ここは奈落の凝り

川原にゃこ

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野に晒された雨と傷

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  お前もそろそろ嫁さんを貰ったほうがええじゃろう、と近所の婆さんに言われ、たつみの元に女房が来ることとなった。
 勝気な女だったが、切れ長の目が涼やかで、こざっぱりとした美人だった。
 巽は物事に頓着しない性格で、一人で気ままに暮らすのが性分に合っていたらしく、女房なんざ面倒なだけだと常々言っていたものの、いざ女房が家に入るとさすがの巽もしっかりせねばという気になるらしい。
 巽は不精しがちだった仕事にも精を出し、一緒になってから一年後には子供も生まれた。

 あるとき、仕事の合間に煙管を吸って休憩を取っていた巽に話しかけて来た人物がいた。
 一見、男だか女だかわからない風貌をしていたものの、男のようだ。
 燃えるような髪の毛が印象的だったことは覚えているのに、何故か巽は男の顔をよく覚えていない。
 二、三、世間話をして、巽は今の仕事に満足しているのかといった風なことを聞かれたことを覚えている。
 収入はあまり多くはないが、仲間は気の良いやつらばかりだし、まあ満足していると答えたものの、男は懐から藺草いぐさのようなものを取り出して巽に手渡した。

 訝しんでいると、それに火を焚けば蟲を駆除出来るという。

 うちにゃあ蜈蚣むかで油虫ごきぶり、蜘蛛ぐらいしか出ねえよと笑ったが、男はそうじゃないと至極真面目な顔で言う。

 本来なら、皆見えるものであったのに、見ようとしない者が増えたせいで、本当は見えるのに見えないのだ、と男は笑って、そら、と足元を指さした。

 何もないじゃないか、と笑おうと思ったが、何かが蠢いている。

 目を凝らすと、そこには、今まで見たことも聞いたこともないような、ぐちゃぐちゃした、線虫のような、しかし蜘蛛のような、よくわからない生き物が蠢いていた。

 巽はワッと声を出して飛びのいたが、男は笑って「こいつらはそこまで害はない」と言い、懐から上等な煙管を取り出し藺草を詰めて火をつけた。
 男はその煙を暫し吸い込んだあと、その蟲に煙を吹付ける。
 そうすると、蟲は暫くぶるぶると震えて、そうして煙とともに立ち消えた。


「なんだ、あんた奇術師か。見世物料……手持ちがあったかな」


 財布を漁ろうとする巽の手に男は自分の手を添え制止させ、先ほどの出来事は全て紛れもない真実のことである、と言った。
 巽は目を白黒させながら、訝しんだものの、男は涼しい顔をしている。
 頭がおかしいのかとも思ったが、先ほどのものは確かに自分もこの目で見た。


気狂きぐるいだとか、精神薄弱の者は、十中八九、蟲に憑かれている。他にもたくさん蟲がおる。わしは、蟲を駆除して回っている。お前も、きっと目がいいと踏んだが、やはりそうだったようだな。なあ、お前、お前も蟲を駆除してくれまいか?もちろん礼はする。危険な蟲は触らなくていい。なに、その煙管にこの蟲殺しの草を詰めて、煙を吸って、蟲に煙を吹付けてくれるだけでいい。簡単だろうが?」


 そう言いながら、男は巽の手に大判の金貨を三枚持たせた。
 巽は驚いて、こんなものは受け取れないとそれを突き返したが、男も頑としてそれを受け取らない。

「草はここに置いておくから。なくなった頃に、また来る」

 呆気に取られた巽を置き去りにして、男はさっさとどこかへ行ってしまった。
 なんだよ、最初から選択肢なんかなかったんじゃねえかと巽は憮然としつつ、草を手に取ってまじまじと見つめた。
 くん、と匂いを嗅いでみるものの、別段異臭がするわけでもなく。
 幻覚剤の類じゃないだろうなと疑いつつも、そのままに捨て置くのも気が引けて、巽はそれを懐に入れた。

 夜、親子三人で川の字になって寝ていたが、巽は昼間の出来事を思い返していたためなかなか寝付けなかった
 。
 月明かりに照らされ幾分明るい部屋の隅がふと気になる。
 巽は、目を凝らして部屋の隅を見た。

 すると、暗闇に蠢く蟲を見た。

 思わず声を出しそうになったが、ようやく寝付いた赤ん坊と女房を起こすわけにもいくまいと必死で声を押し殺し、ゆっくりと身体を起こして部屋の隅に近付く。
 聞いたこともない、荒涼とした風の音のような、金釘で硝子を引っ掻くような、微かな音も聞こえる。

 その音を聞いていると、心がどん底まで落ち込み、巽はがっくりと肩を落とした。

 自分のような人間が、女房なんてもらうべきじゃなかったのに……。

 そういうような、悲観的な思考が巽の頭を占める。
 次々と自己否定の感情が沸き起こる中で、巽の頭にふと昼間の男の言葉が浮かんだ。

 ――気狂いだとか、精神薄弱の者は、十中八九、蟲に憑かれている――…

 はっと意識を取り戻し、巽は慌てて枕元に置いてあった煙管に昼間の草を詰め込み、火を付けた。
 もわ、と煙が立って、それを肺に吸い込み、息を止めたまま部屋の隅に近付く。
 心なしか薄気味の悪い音が大きくなったので、気休めに巽は空いている方の手で片耳のみを抑えつつ、それにフウッと煙を吐きかけた。

 それはぶるぶるっと大きくわなないて、まるで断末魔のような音を出して消え失せた。
 巽は力が抜けて、どすんとその場に座り込んだ。
 女房が目をこすりながら起き上って、なあに、寝ぼけてるの、と言ったが、巽は何も答えることが出来なかった。

 男と会ってから、巽の目には不可解なものが多く映るようになった。
 気付いて見れば、町のあちらこちらに人知れず蠢いている。
 町中で気狂いだと噂されている娘の上半身に、びっしりと黒い靄が蠢いていたのを見たときは、そのあまりの悍ましさに嘔吐する程であった。

 巽は常に煙管に男から渡された草を詰めるようになっていて、寄ってくる蟲をそのたびに吹き消していた。
 それでも、巽の精神はもう限界に近くなっていた。
 何しろ、四六時中、視界の端に悍ましいものが目に入るのだ。
 巽はそれにはほとほと困っていて、うんざりしていた。

「おう、しっかり働いてくれているようじゃないか」

 後ろからそんな声が聞こえて、巽が勢いよく声の方を振り向くと、案の定、あの男がいた。
 巽は本来喧嘩っ早いわけではないが、このときばかりはむかっ腹が収まらず、男の胸倉をぐいと掴んで一体どういう了見だと凄んだ。

 だが男は相変わらず飄飄ひょうひょうとした表情のまま、巽の手にそっと自らの手を重ねる。
 一発ぶん殴ってやろうかと思っていたのに、巽は凍り付いたように動けなくなってしまった。これは愈々ただごとではないと思った巽は、不安と恐怖の入り混じった瞳で男を見た。

「おまえ、わしが妖術使いじゃないかと、お前に幻術でもかけたのではないかと思っているだろう。わしは何もしていない。全部現実に起こっていることだ。この世には人間以外の生き物がいて、時に人間を狂わせる。わしはそれに我慢がならずに調伏ちょうぶくしているだけだ。おまえは蟲が見える体質だからな、遅かれ早かれ蟲に憑かれて狂って死んだことだろう。感謝するんだな」

 男はくつくつと笑って、巽の手を弾き落とした。
 力が入らず、がっくりとうなだれる巽を見下ろして、男は金と、草を巽の足元に放り投げた。

「金ならやる。草もやる。なあ、おまえ、よもや戻れるとは思うまいな?これからは蟲退治を生業とするほかないぞ」

 有無を言わさぬ声色と、実際に怪異に触れ合った巽は、断ることも出来ずに力なく頷くほかなかった。
 幸いなことに、怪異は巽の身にだけ起こったわけではなかった。
 町の人々も、隣町のどこそこで妖怪が出ただの、真っ黒い何かに襲われかけただの、怪異に関する噂話が多く流布し始めた。
 はじめはそんな馬鹿なと一笑に伏していた奉行所のお役人たちの中にも、怪異に直面した者がちらほら現れたらしく、誰もがそれを認めざるを得なかった。

 そんな中、巽が怪異を退治出来るらしいという噂が何故かどこからか立って、巽は蟲退治に奔走するはめになった。
 仕事中でも引っ切り無しに蟲退治を頼まれるし、男からの報酬と、町人たちからのお礼とで、十分な収入を得ていた巽は仕事を辞めた、というより、日に何度も連れ出されるので仕事が身に入らず辞めざるを得なかった。

 巽は今やちょっとした陰陽師のごとく扱われ、賞賛の的であった。
 礼の赤髪の男は度々巽の元へ現れ、金と草を置いていったが、ある日「ここから遠い彼の地へ行く」と言い残し、一年の収入に筆頭する額の金と、たくさんの草と、足りなくなった分は自分で栽培するようにと、草の種と苗とを置いていった。
 かくして巽は、怪異の正体も原因もわからぬままに、本格的な蟲退治を始めざるを得なかったのである。

 かつて、“危険だから触らなくていい”と言われていた蟲も、経験則により駆除出来るようにまでなっていた。
 巽は元来怖がりではなかったので、最初こそその悍ましさに慄いたがすぐに慣れた。

 ある日、巽は右目が酷く痛むことに気付いた。
 目が覚めてからというもの、じくじくと目の裏が痛む。
 原因として思い当たる節もなく、疲れたのか、ものもらいの変なやつだろうと、至極楽観的に考えていた。
 お天道さんの下に行くと随分痛んだので、巽はそれこそものもらいのときのように、布きれを右目に充てて、光を見ないようにした。
 不思議と、蟲駆除の煙草を吸っていたときだけ痛みはいくらか和らいだので、一瞬これも蟲のせいかと思ったが、鏡研ぎに磨いでもらったばかりのぴかぴかの鏡で何度目を見ても、何の変哲もないので、やはり疲れているだけだと結論した。

 そんな或る日、いつぶりかにあの男が顔を出した。
 今までのものとは違う草を巽に渡して、にんまりと笑っている。
 まだ目の痛みは続いていたので、巽はその男に相談することにした。

「なあ、最近、目が酷く痛いんだが、これも蟲の仕業なのか?」

 すると男は飄飄とした顔つきのまま、「それはおまえ、蟲を見過ぎたせいで、お前の目がだけのこと」とあっさりと言ってのけた。
「じゃあ治らないのか」と問えば、「ああ、治らん」と云う。それはあんまりじゃないのかと抗議したところで、男は聞かなかった。

「どのみち、お前はいくらも生き永らえないほどの、蟲を引き寄せる体質だったんだから、どうせ何もしなくても、すぐに死んでいたろうよ。むしろ、この煙草さえ吸っていれば、蟲はお前に悪さは出来んのだし、痛むくらいで、その目玉が腐り落ちることもなかろうよ。我慢しろ」

 溜飲の下がらぬも、無理矢理納得するしかなかった。


 妻が一時帰省した。
 何でも、妹が家で子供を産むということで、実家に帰って手伝うとのことだった。
 俺も一緒に帰ってやろうか、と言ったものの、男が何の役に立つんだいと笑われ、子どもと一緒に留守を預かることとなった。
 想えば、子どもが生まれてから、ひっきりなしに蟲の駆除で家を空けていたので、こうして二人きりになるのは初めてかもしれない。
 もう四つになった子供に、何か感慨深いものを感じながら、巽はその姿をじっと見ていた。
 子どもは何もない空を見つめて、それをはた、と指さして、

「とうちゃん、あそこに、がいるよ」

 そう言ったっきり、巽の記憶はふつりと途切れた。






 目が覚めたら、隣の家の内儀かみさんが、しっかりしなさいと巽を揺すっていた。
 一体全体何がどうしたのかと、何も状況が呑み込めず、巽は辺りをゆっくりと見回す。
 嫁さんには、飛脚をやったからなァと云う同心の言葉にも、あんたがしっかりしないとという隣の内儀ないぎの言葉にも、巽はどうもぴんと来なくてああとだけ言った。

 何が、どうした、俺は、家にいたはずだが。
 どうしてこんな、貯水池の近くにいるんだ。

 人だかりの脚の隙間から、小さなものがむしろに覆われているのが見える。
 巽はふらふらと立ち上がって、そちらに歩き出した。

 見ねェほうがいいぞという同心の言葉も無視し、その傍らに膝をついて、放心しながら筵をめくった。

 可哀想になぁ、まだ小さいのによぉ、というささやき声を聞きながら、巽は何も考えられなくなって、びしょぬれの冷たい躯に泣き縋った。

 目撃者の話によると、裏口から子どもが一人で出ていくのを見たという。
 貯水池のほうへ一人で走っていくのを見たという。
 貯水池のほとりで一人しゃがみ込むのを見たという。

 あんな奇行は蟲の仕業だろう、巽を責めてやるなという周囲の言葉に耳も貸さず、あんたが着いていたくせにどうしてどうしてと妻は狂乱した。蟲の仕業ならどうしていつもみたいに駆除せなんだ、どうしてだと妻は馬乗りになって巽を力の限り殴って、どうしてよぉと泣いた。巽はただただその怒りと悲しみを受け止めて、そうして謝るしかなかった。

 お互い辛いだろうということで、妻とは離縁した。
 このころになると、巽の右目は常に涙を零すようになっていたので、巽は右目を塞ぐようになっていた。

 お互いの間に、言葉はなかった。
 じゃあね、と妻が言うと、巽も、おう、とだけ応えた。
 妻が出て行ったあと、子どもがまだ乳飲み子だったとき、あやしてやるのに使ったでんでん太鼓が押入れの隅から出てきて、巽はそれを握りしめ、また泣いた。


 数か月ほどして、長屋に移った巽の元に、一通の手紙が届いた。
 それは真っ赤な蝋で封をしてあって、見たことのない印が押してある。
 不思議に思いながらも、それを開けると、不気味に美しい字で、こう書かれていた。

 ――鬼といふ存在が何時頃から存在るのかは解りませんが、どうも、奴等は異形で、或る意味それは畸形きけいとも云ふべき、角だとか、長耳だとかを持つてゐるので、それが人外の、畜生にも劣る存在であることはようく解るのであります。
 ですので、もしも鬼を見付けてしまったら、お言いなさい。
 たまに、うまく人間に化けてゐる者もいますけれども、あれらは人を食べるので、息が腐つてゐるから、話をすればよくわかる。
 赤い舌がちらちらと蠢き、腐臭の息を吐く、悍ましい、不愉快な存在であるので、わたくしは此の世から鬼といふものを消してしまいたいのだと思ふ。
 人間は何時も異形なるものどもに、虐げられ、捕食される側でありました。
 わたくしはそれが我慢ならないのであります、わたくしも、あれらには随分煮え湯を飲まされたものであります。
 異形の者たちに、性根の好い物は存在しませんので、容赦することなく、駆除するが好いことは自明の理。
 気違ひ染みた行ひをする者は、人間ならざる異形の者に狂わされておる、可哀想な被害者であるので、彼等が悪い訳ありません。
 少しでも、そのような、可哀想な気違いを無くすために、我々は日夜奔走し、異形たちを殺すべく、日々刻苦してゐるのであります。
 ですから、どうか、異形の者に憐憫の情を感じないでください。
 奴等は狡猾でありますので、そうやって、人間の同情をひき、親切さうなふうの人間を惑はし、そのまゝ喰つてしまふのです。
 奴らにとつては、我等は唯の食べ物でしかありません。だからこそ、窮鼠猫を噛む、の如く、奴等の喉笛を、引き裂いてやろうではありませんか。


 そうして、巽は、自分の運命の行く末を案じつつ、塞いでいない目の瞼もそっと閉じた。
 かさり、と部屋の隅で、厭な音が少しだけ響いた。
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