盲目の令嬢にも愛は降り注ぐ

川原にゃこ

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本編

006.夜はお静かに

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「イグナティオス・オンティベロスねえ……特に悪い噂は聞かないような気がするな」
「最近、手当たり次第に有力貴族におべっか使ってる感じだね。よっぽど人脈を作りたいんだろうなあ」

 王宮のゲストハウスの一室で、アスヴァルは上質なソファに身を沈め、友人の言葉を静かに聞いていた。
 同じ辺境伯であるヴェルスル・ヴォルークと、クローハイト・アビジアーナはアスヴァルの数少ない友人たちである。三人は普段、王宮から遠い辺境の領地を任されているのだが、今日は揃って舞踏会に招待されており、このゲストハウスに宿泊しているのだ。学生時代からの友人であるそんな二人は他人に興味のないアスヴァルと違い、人懐っこく顔が広いのでアスヴァルはイグナティオスのことを尋ねていた。特に平民出身であるヴェルスルは誰とでも気さくに接するため、交友関係が広く、社交界の噂を網羅しているからだ。

 ヴェルスルは、そういえば、と逞しい顎に手をやりながら、考え込むような仕草をした。

「普段つるんでいる連中が皆オンティベロスより格上だから、オンティベロス自身は周囲には割と下に見られている感じはするな」

 ヴェルスル・ヴォルークは西の辺境を任されている屈強な男で、元々は地方の豪商の出らしい。恵まれたたくましい体躯、短く切りそろえた金髪を持ち、意志の強そうな太い眉が印象的だ。すらりと背の高いアスヴァルよりも、更に背が高くてがっしりしていた。ゲストハウスのソファも、この男が座るとなんだか小さく見えてくる。

「そういえばディディエとかいうおっさんが最近オンティベロスを第二王子の側近に、ってすっごく推挙してる。何かあるな、きっと。ヴィレウス様から何か聞いてない?」

 クローハイトは手元の本から目を離し、アスヴァルを見やる。
 クローハイト・アビジアーナは東の辺境を任されているのだが、ヴェルスルと違ってかなり小柄な男だ。子爵家出身の彼はあっさりした顔立ちで、薄いあんず色の髪は几帳面に整えられてはいるものの、ややふんわりとしたシルエットにセットされていて彼自身の性格をも象徴しているように見える。クローハイトはずば抜けた知能の持ち主であり、学生時代から突出していたその知的好奇心は辺境伯となった今もとどまるところを知らない。

「特に」

 アスヴァルは、カップの紅茶を一口飲んだ。社交界の駆け引きに興味はないものの、ディディエ伯爵の妙な動きが少しだけ気にかかる。どうせろくでもないことを画策しているのだろう、とアスヴァルはため息をついた。
 ふうん、と言いながらクローハイトは手元の本にまた視線を落とした。アスヴァルは王太子であるヴィレウスと主君と臣下の枠組みを超えて懇意にしているため何か聞いていないかと思ったのであろうが、クローハイトの考えは外れてしまった。まあ、いくら懇意にしているアスヴァル相手であってもヴィレウス殿下は軽々しく内情を話すような浅慮な王太子でもないから、当たり前といえば当たり前か、と納得する。

「ま、俺から言わせたらただの小物だよ。それがどうしたの」
「第二王子の側近に、と推挙されている割には少々行動に問題があるように見えたから気になっただけだ」
「問題って、たとえば?」

 興味をひかれたのか、クローハイトは手元の本を閉じてサイドテーブルに置き、少し身を乗り出した。少し考えてから、アスヴァルは「目の不自由な婚約者に冷たく当たっている……ように見える」と答えた。それを聞いて、クローハイトは「うわ、ひっどい」と言った。

「婚約者というか、女の子には優しくしないと。けしからん奴だね」
「一度注意したが、今日も婚約者を放置して自分はごますりに奔走していたな」
「あ、そういやあの噂、オンティベロスのことだったかもしれん」
「なにが」

 しばらく黙っていたヴェルスルが突然ぽんと膝を叩いたので、アスヴァルは短く問う。ヴェルスルは少しの逡巡ののちに「こいつの婚約者は目が見えないから、初夜に数人交代で女を抱こうぜ、なんて言われて、断りも怒りもせずへらへらしてるだけの奴がいたって話」と苦虫を噛み潰したような顔で言った。
 それを聞いてクローハイトはおえっ、と吐くような表情をして「言う方も言う方だよ」と吐き捨てた。ヴェルスルは大きな拳を握り固めながら「俺、自分の奥さんにそんなこと言われたらそいつらの顔が変形するまでぶん殴っちゃうかも」と真顔で言う。それを聞いたクローハイトも「俺はそんな気持ちがもう一生起きないように去勢してあげちゃうかも」と真面目な表情でそう言った。
 二人とも筋金入りの愛妻家なので、愛しい女性をそんな風に侮辱されることを想像しただけで怒りがこみあげてくるようだ。

「あ、アスヴァルもめちゃくちゃ怒ってるじゃん……」

 ふと、アスヴァルを横目で見たクローハイトは思わず顔を引きつらせる。アスヴァルはその美しくも鋭い目を細め、不快感露わに口元を歪めていた。

「まあまあ。夜風でも当たって落ち着こうよ」

 そう言って、クローハイトは立ち上がりバルコニーに面した大窓を開けた。その途端、少し湿ったような、独特のにおいを孕んだ夜の風が部屋の中に吹き込んでくる。

「ほらほら、星も綺麗だよ。アスヴァルもヴェルスルも、ちょっとバルコニーに出て気分転換しよう」

 そう促されたアスヴァルは無言で立ち上がり、バルコニーに出る。大人しく外に出てくれたアスヴァルを見て、クローハイトとヴェルスルは胸を撫でおろした。この三人の中で、意外にも一番気性が荒いのはアスヴァルなのである。彼は美しさの裏に誰よりも苛烈な心を隠し持っているのだ。そのアスヴァルの逆鱗に触れてしまったであろうイグナティオスを少しだけ哀れみながら、二人もバルコニーに出た。

 しばらくの間、無言で夜風に当たっていた三人であったが、バルコニーの手すりにもたれかかって外を眺めていたヴェルスルが「あ」と声を出した。

「あれ、オンティベロスじゃないか?」

 その名前を聞いて、アスヴァルとクローハイトもすぐさまヴェルスルの太い指がさす方向を見る。ゲストハウスの裏にある庭園の、薔薇の茂み近くの噴水脇で、ランタンを持った男がドレスの女と話しているのがかろうじて見える。月の光があるとはいえ、この暗闇と距離では身体強化魔術を使えるヴェルスルの増強された視力と夜目でないとうまく見えないのだ。
 案の定、はっきりと彼らの姿を視認出来なかったのであろうアスヴァルはすぐさまクローハイトの方を一瞥して、たった一言「やれ」と言った。

「やるよ!やるけど、言い方おかしくない?お願いじゃなくて命令じゃん」
「やれ」
「ああもう、今やりますう。俺に怒らないでちゃんとオンティベロスに怒ってよ……」

 クローハイトはぶつぶつ言いながら室内に戻っていって、部屋の灯りを全て消した。アスヴァルとヴェルスルも部屋に戻りソファにもう一度腰かける。

「あっちの媒体が噴水の水鏡だから、ちょっと声聞き取りにくいかも。“繋がった”ら、こっちの声も向こうに聞こえるから、いつも通り静かにしててよ」

 そう断りを入れてから、部屋の壁にかかっている大鏡にまじないを囁いて魔力を吹き込んだ。クローハイトは三人の中でも特に魔術の才能に秀でており、高等な情報収集魔術が使えるのだ。だが、クローハイトは特にその才をひけらかすことはしなかったので、付き合いの長い者しかそれを知らなかったが。

 先ほどまで室内を反射して映し出していた大鏡の鏡面は、しゃがかかったようにぼんやりしたかと思うと、次第にその向こうにわずかな光が見えてくる。ぼそぼそと話し声が聞こえ、やがて水中から外をのぞき込むようなアングルで二人の姿が大鏡に映った。
 部屋の鏡と、庭園の水鏡が繋がった瞬間だった。

『……もう限界なんだ、ルイーズ。あれから婚約破棄を持ち出されるのを待っている余裕なんてぼくにはない。今すぐにでも婚約破棄を申し出たいくらいだよ……』
『でも、立場が悪くなるんじゃなかったの?』
『第二王子の側近になれたら、推挙してくれたディディエ伯爵の恩義に報いるため娘のルイーズと婚姻することになった、とでもでっちあげたらいい。もう、周囲がぼくをさげすむ視線に耐えられないんだ……』
『第二王子は選り好みが激しいみたいだから、側近選びが難航しているそうよ。そういえば、アスヴァル様は王太子殿下と懇意にしてらっしゃったわよね?』

 ルイーズの口からアスヴァルの名前が出た瞬間、アスヴァルの眉毛が神経質にぴくりと動いた。クローハイトもヴェルスルも、アスヴァルの静かな怒りに気付いていながらも触らぬ神に祟りなしで無視を決め込む。

『あの子、目が見えないくせに必死でアスヴァル様に取り入っているようだから、この際あの子を利用してアスヴァル様からも推挙してもらったらどうかしら?』
『……だめだよ。バルジミールはぼくなんか相手にしていない。フィロメナがいくら憐れぶってバルジミールにすり寄っていたって、バルジミールが聞き入れてくれるはずがない……』
『あら、あなたの野心はそんなものだったの?がっかりだわ』
『そんな……きみまでそんな風に言うのか?』
『悔しいなら、明日の舞踏会でアスヴァル様にお願いするくらい、やってみたらいいじゃない。私はね、あなたが優しい顔をして内心ぎらぎらした野心に満ちていたから、いいなと思ったの。そうじゃなかったら婚約者がいるような男に手を出したりしないわよ、そこまで私はおばかさんじゃないわ。私だって、あなたにすべてを賭けているんだから、しっかりして。アスヴァル様はともかく、王太子殿下は気さくなお方らしいから少しでもお耳に入ったら、良くしてくださるかもよ……』

 アスヴァルは眉間に深い皺を寄せて目を瞑り、こめかみに手をやっていた。「もういい」と言わんばかりにもう片方の手をクローハイトに向ける。クローハイトはすぐさま水鏡とのつながりを断った。

「いやあ、想像以上の馬鹿だったね。見てごらんヴェルスル。アスヴァルなんて、怒り心頭すぎて言葉もないようだよ」

 部屋の灯りを一緒に灯しなおしてくれているヴェルスルと目配せをしながら、クローハイトは苦笑いを浮かべつつも他人事のようにそう言った。ヴェルスルもうんうんと頷いていたが、アスヴァルだけが押し黙ったままだ。

「それにしても、アスヴァルに取り入ったら重用してもらえると思ってるなんて、オンティベロスって本物の馬鹿だね」
「そういうのをアスヴァルが一番嫌いそうだってわからんもんかね」

 呆れた二人は肩をすくめて顔を見合わせた。
 そんな折、控えめにドアがノックされる。

「お話中、失礼いたします。ヴェルスル様?そろそろお部屋にお戻りになられませんか?」
「ああ、カテリーナ!」

 ドアの向こうから、愛しい妻の控えめな声が聞こえてきたので、ヴェルスルは感極まったような声でそれに応えた。気付けば、もう時計の短針は11の文字盤をさしていて、ずいぶん話し込んでしまったとヴェルスルは慌てていた。

「可愛い奥さんが迎えにきたから、俺はもう部屋に戻るよ。二人ともおやすみ」
「俺も戻ろうかな。うちの可愛いリズベットは、もう先に寝てるかもしれないけど……。アスヴァル、お先に」

 やや幼さの残る天真爛漫な自身の妻の行動を予想しながら、クローハイトもひらひらと手を振りながら部屋から出て行った。

 しばらくすると、アスヴァルはふと顔を上げた。聞き慣れた足音が近づいてきたかと思うと、突然部屋の扉が開かれたのでアスヴァルはため息をつきながら「ノックはしてください」とぶっきらぼうに言った。

「きっともうアスヴァルしかいないだろうから、いいかなと思った」

 そう笑いながら入室してきたのは、金糸のような髪、切れ長の目にアレキサンドライトのような瞳を持ち、上品ながらも精悍な顔立ちをした──ヴィレウス王太子、その人であった。ヴィレウス王子は、流し目で咎めるように自分を見るアスヴァルの向かいのソファの背もたれにゆったりともたれかかり、「じゃあ今日の報告を聞こうかな」と片肘を無造作に肘掛けに置いたまま、顎に手を添えた。半ば気だるげにも見えるその姿勢とは裏腹に、目だけは鋭くアスヴァルを見据えている。

「やはり、イグナティオス・オンティベロスは婚約者のある身でありながらルイーズ・ディディエと密通しているようです」
「まあそうだろうね、推挙の仕方が強引すぎたし。そういう奴が側近になったらうちの可愛い弟にも悪影響だろうから困るね。ちゃんと父上に告げ口しておかないと」

 さして困ったような顔もしていないが、明るくヴィレウス王子は笑った。ヴィレウス王子は王太子の身分でありながら、気さくで臣下の言葉もきちんと聞き入れる聡い人物であった。そもそも、ヴォワティール王家は皆そのような性質を持つ人たちばかりであったが。

「前に、うちの可愛い可愛い末っ子のディタルの誘拐事件があっただろう?そこから母上の過保護が加速してしまって、身元確認をしっかりしろ、とうるさくてね。あの事件以来、可愛い四人の息子たちと一緒の寝室で寝ないと気が済まないらしいが、まだ4つのディタルならまだしも勘弁してほしいよ。少なくとも俺とすぐ下の弟はもう妻もいる成人男性なのにさ」
「では奥方ごと一緒にお休みになられたらよろしいでしょう」
「新婚なんだ。勘弁してくれ」

 ヴィレウス王子は苦虫を噛み潰したような顔でそう答えたので、アスヴァルもようやくふっと口元を緩める。

「それにしても、ベッサリオン家のフィロメナは盲目だといったっけ。うちの可愛いディタルも誘拐されたときに片目を潰されてしまっただろう?片目が不自由になっただけでもよっぽど大変そうで、見ているほうが心配になる。ディタルは果敢に色んなことに挑戦しているけどね。フィロメナも苦労しているんだろうなあ」
「彼女は周囲が思っている以上に強い女性ですので、そんなことはおくびにも出してはいませんがね」

 普段、人を滅多に褒めることのないアスヴァルがフィロメナを褒めたので、おや、とヴィレウス王子は片眉を上げた。しかし、それを指摘するとアスヴァルが不機嫌になることは目に見えていたので、あえて何も言わないでおいた。
 ヴィレウス王子は困ったように肩をすくめると、思案げな顔をする。

「まあ、それにしても婚約者の方はだめだなあ。立身出世欲がすごそうだから、ちょっとやそっとじゃ諦めないだろうし。ちょっとだけお灸をすえてやりたいな。野放しにしておいたら風紀が乱れる」
「では、早速明日にでも」
「明日?さすがアスヴァル、早いね。そのときはよろしく」
「かしこまりました」

 早くベッドに帰らないと母上が喚き倒しそうだから、ぼくはそろそろ部屋に戻るよ、と言いながらヴィレウス王子はソファから立ち上がって、部屋を後にした。
 一人、部屋に残されたアスヴァルは暫く物思いにふける。

 アスヴァルは、自分でも意外なほどにイグナティオスへの嫌悪が募っているのを感じた。
 努力するふりをしながら、実際には周囲の権力を頼り、こともあろうに女を利用して己の地位を築こうとする男──それをまるで自身の才覚で成し遂げたかのように装う人間を、アスヴァルは最も忌み嫌う。
 ましてや、盲目の婚約者を顧みず、彼女を蔑ろにすることで自らの優位性を保とうとするなど、到底看過できるものではない。
 弱者を弄び、他者を踏み台にすることでしか立身出世を望めぬ男に、何の価値があるというのか。
 冷静にそう結論づけたとき、アスヴァルの目にわずかに冷ややかな色が宿った。

 それから、アスヴァルはようやく立ち上がって部屋の灯りを吹き消し、部屋から出て行った。その目には、静かな怒りが確かにあった。
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