少女時代にさようなら~大嫌いな婚約者が死ぬまで私は死ねない~

川原にゃこ

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ひとりよがりはおしまいにして

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 イヴェット・リゴは貴族の令嬢であるにも関わらず、ミーハーな性格をしていて、近頃は麗人の辺境伯、アスヴァル・バルジミールに大変お熱であった。
 イヴェットは今日のランチタイムでも、友人のセリーヌ・ボーヴォワールにアスヴァルの美を讃える言葉を連ねる。

「アスヴァル様は、この世のことわりを超えた美の化身。その瞳は凍てつく冬の夜空に瞬く星々よりも輝き、その長くしなやかな睫毛は、まるで高貴な黒羽くろはねの扇のよう。艶やかな黒髪は月光すらも閉じ込める漆黒の絹のごとく、冷徹な微笑みさえも甘美な毒のように私の心を蝕む……。アスヴァル様の一瞥を受けた者は、逃れられぬ魅惑の呪縛に囚われ、ただその魅力の前にひれ伏すのみ……」
「その気でも狂ったような文章って、下品な大衆娯楽雑誌か何かで見たの?」

 セリーヌはイヴェットの方をちらりとも見ることなく、今日も好物のサンドイッチを食べている。そんなセリーヌの言葉を聞いて、イヴェットは憤慨した。

「失敬な。私が考えたアスヴァル様への賛美の言葉よ」
「へえ……」

 そこでようやくセリーヌはイヴェットの方をちらりと見たが、彼女は若干瞳孔が開いているくらいで平素と変わらない様子だ。
 彼女の平常運転に付き合うのはなかなか骨が折れるが、そんな様子のおかしい少女でも数少ない友人の一人なのだ、大切にしなければ──とセリーヌは自分に言い聞かせるようにうんうん、と一人頷く。

「でも、そんなにアスヴァル様に夢中でいいの?婚約者はほったらかしで、いいの?」

 いきなりセリーヌが現実を突きつけてきたので、イヴェットは怨嗟の眼差しを彼女に向けた。

「婚約者なんて!親が勝手に決めた婚約者だもの。あんな粗野な男、本当に大嫌い。豪商らしいけど、平民だし。ああ、平民が悪いとは言わないわよ?でも、あの男ってめちゃくちゃに野蛮人なの!それに比べてアスヴァル様といったら……。その端整な顔立ちは、神々の彫刻すら及ばぬほどの完全なる造形。研ぎ澄まされた理知の光を宿した双眸そうぼうは、見る者の魂を見透かし、妖艶で神秘的。冷ややかに紡がれるその声音は、絶対者の威厳を備え、同時に誰をも惑わせる美酒のよう……。完璧とは彼のためにある言葉なのでは?」

 イヴェットは早口でそう言ってのけたが、セリーヌはその半分ほども聞き取れなかった。聞き取れなかったところで何も支障はないのであえて聞き返したりはしなかったが、それにしたって彼女は本当に頭と口の回転が早いなあと変なところで感心する。
 うっとりと虚空を見つめて祈るようなポーズを取るイヴェットは、見た目だけならすてきな貴族の令嬢である。可愛い栗色の髪に、くるんと上向きの豊かなまつ毛。夢見がちな大きな瞳は見事な翡翠色だ。鼻は小さいけれどつんと高く、形のいい唇はふっくらしている。
 そんなイヴェットの婚約者であるユーグ・ヴォルチエは、背が高くがっしりとした体つきで、日に焼けた健康的な肌色が特徴だ。暗い色の髪の毛を短く刈り込み、大型の猫科の獣のような鋭い目つきが特に印象的である。
 アスヴァルのような線の細い美形の男が好きなイヴェットにとって、まるっきり好みとは正反対なのだった。

「でも、ユーグだって男らしくてかっこいいじゃない」
「違うの!見た目じゃないの!見た目といえば、アスヴァル様は、ただ美しいだけじゃない。あの均整の取れた体躯と、気品と威厳を兼ね備えた佇まいは貴族の中の貴族そのもの。冷ややかな微笑みの裏に秘められた知略。そして気高く、冷酷で、恐ろしいほどに魅力的。嗚呼、アスヴァル様……!」

 なんのこっちゃ、と思いながらセリーヌはもはやイヴェットと正常な会話をすることを諦めてしまった。

「あの男はね、乙女心をなんにもわかってない!私がこんなに努力して可愛くあろうとしているのに、この巻いた髪を見て何て言ったと思う?「それ、毎朝やってるの?めんどくさそう」よ!?」
「実際、髪を巻くのってめんどくさいもの」
「その上このまつ毛!一生懸命カールさせて、すっごく丹念にマスカラだってつけているのよ!少しでも可愛くなるために。それなのに、「ゲジゲジがついてるのかと思った」って笑うのよ。信じられない!」

 イヴェットには悪いと思ったが、セリーヌは思わず吹き出した。セリーヌはユーグの性格が嫌いではないので彼の着眼点を責める気にはなれなかったものの、ぷりぷり怒る友人の手前、彼を弁護するのは気が引けた。しかし、あまりにも彼が不憫なのでつい助け舟を出してしまう。

「イヴェットはそんなことしなくても、ありのままですてきだよ、っていう感情の裏返しじゃないの?」
「それならストレートに私に伝えるべきよ!どうしてそんなに回りくどいことを言うの?アスヴァル様ならきっと……」
「ああ、はいはい。アスヴァル様ならそんなこと言わないわよね」

 そう言いながら、セリーヌは懐中時計を取り出すと「もうそろそろ行かなきゃ。じゃあ、また明日ね」と席を立った。今日の午後からは、それぞれ別の授業を取っているからだ。イヴェットもランチボックスを片付けて、その代わり鞄から教科書を取り出す。そして、手帳も。イヴェットはそっと手帳を開き、そこに挟んだアスヴァルのブロマイドをうっとりと見る。
 夢見がちだってことくらいわかっているけど、どうしても現実逃避をしたかったのだ。


 ***

「ひい!」

 その日の夜、食卓につこうとしたイヴェットは小さく悲鳴を上げた。すでに席についていたユーグの頬が青黒くはれ上がっていて、口の横にもガーゼを貼り付けている。目の上にも、切れたような生々しい痕があった。

「なあに、その顔!」
「ああ、これ?昼間、うちの若い衆に絡んできたごろつきと殴り合いした」

 そう言いながら、いて、とユーグは顔を歪ませる。口の端が切れているので話しにくいようだ。イヴェットは真っ青になってわなわなと震えあがる。殴り合いの喧嘩だなんて、なんたる野蛮人。

 ──これがアスヴァル様だったら。剣を抜くよりも鋭く、拳を振るうよりも冷徹に、アスヴァル様の言葉は刃となり、沈黙すらも武器となる。この野蛮な男のように感情に流されることなく、冷静なる思考で状況を操るその姿は、まさに戦わずして勝つ真の知将。力なき者ではない。むしろ、力を使うまでもなく勝利するからこそ、アスヴァル様は完璧なのよ──…

 またしてもイヴェットの脳内で、粗暴なユーグと対比されたアスヴァルの存在が光り輝く。
 こうして毎夜、食事をともにするのがユーグでなくアスヴァルだったらどんなにか。
 イヴェットより2歳年上のユーグは、ヴォルチエの取引先を拡大するため現在リゴ家に滞在し、家業を継ぐため実地で学びながら日夜奔走しているのである。
 ヴォルチエは豪商とはいえあくまで平民。イヴェットと結婚後は、ユーグが男爵家であるリゴの家に入ることになるので、今からリゴ家周辺を拠点に販路を新規開拓しているのだ。

 大きな口で豪快に食事をとるユーグを見て、イヴェットの父であるリゴ男爵は「いい食べっぷりだ」と褒める始末。どこがよ、とイヴェットは内心悪態をついた。小柄な父は、ユーグの逞しい体躯が見ていて気持ちがいいようで、「ユーグがもし社交界に入ったら、きっと注目の的だな」なんてのんきなことを言っている。

「いやいや、俺なんかが社交界に入ったら、イヴェットが恥ずかしい思いをするからだめですよ」

 そう言って、ユーグは笑う。

 ──そうよ、こんなマナーも何も知らない大男が社交界に入ったら、別の意味で注目の的よ!

 ユーグはなんて良い息子なんだろうな、なんて笑いあう両親の姿を尻目に、イヴェットは今日も盛大にムカムカしながら食事の時間を過ごすのであった。


 ***


 そんな折、アスヴァルも参加するという宮廷舞踏会が開催されたので、イヴェットは意気揚々と参加したものの、当のアスヴァルが──社交界で見たことのない──知らない少女の手を取り、一緒に優雅なダンスを踊っていたのだからたまらない。
 化粧がぐずぐずに崩れるほど泣きわめいたイヴェットは、酷く傷ついてしまって舞踏会なんかに参加する気持ちになれなかった。そして、すぐさま馬車を寄越すよう侍従に言伝したのに、しばらく経って迎えにきたのはなんとユーグであった。

「はあ!?なんであなたが!?」
「婚約者殿が舞踏会で泣きわめいたって聞いたから、何事かと思って迎えに来たんだよ。うわあ、すんげえ顔。早く馬車に乗りなよ」

 くすくす笑いながらユーグは馬車の前で手を差し出してきたが、イヴェットはそんなユーグを思いっきり睨みつけて一人で馬車に乗り込んだ。苦笑しながらユーグはそのあとに続いて馬車に乗り込む。

 ──ああ、もう、最低!本当にもう、死んでよ!むかつく!

 イヴェットも年ごろの乙女であるので、さすがに顔を見て笑われたのはたいそう傷ついたようだ。心の中にはアスヴァルが他の少女とダンスしていたことへの悲しみと、ユーグへの憎しみにも似た怒りが渦巻いている。

 馬車に揺られながら、イヴェットは相変わらず口をへの字にして、ぐすぐすとしている。そんなイヴェットをしばらく見つめてから、耐えきれなかったように「ははっ」とユーグは笑った。

「何よ!さっきからレディに向かって失礼よ、あなた!」
「いや、すまん。えらく泣いたんだな、と思って」

 そう言いながらユーグはハンカチを取り出し、ぐずぐずになったイヴェットの化粧を力強く拭う。

「ちょっと、痛い!やめてよ!」
「うん、これでちょっとはましになった。それで?なんでそんなに泣いたんだよ」
「あなたには関係ないでしょ……」
「関係あるよ、未来の妻が泣いた理由を知りたい」
「……失恋したの」
「失恋?あっはっは」

 仮にも婚約者である女が「失恋をした」と宣ったというのに、ユーグは膝を叩いて大笑いした。そんなユーグを見て、更に不機嫌そうに眉根を寄せたイヴェットの様子がおかしくてたまらないようで、更にユーグは笑い、しまいにはお腹を抱えて笑い出したので、またイヴェットは心の中で悪態をつく。

「あれだろ、アスヴァルとかいうヒョロっとした男」
「どうして知ってるのよ!というか、アスヴァル様をそんな風に言わないで!」
「いや、知ってるよ。部屋にもブロマイドを後生大事に飾ってるんだろ?」
「誰に聞いたの!」
「あんたの親父さん」

 お父様ったら、なんでこんな奴にアスヴァル様のことを話すのよ、プライバシーの侵害だわ!と父親に対しても怒りがわいてくる。持っている扇を真っ二つに叩き折りたいほど、イヴェットは怒りに震えていた。

「ああいう男が好みなんだ。俺とは正反対だね」
「そうよ!私はアスヴァル様みたいに上品で美しくて洗練されたエレガントな方が好きなの。だから、あなたのことはこれっぽっちも愛してないの。結婚したって、絶対絶対、あなたを愛したりなんてしないわ。一日でも長くあなたより生きて、素敵な人と再婚してやる」

 やけくそでそう言ったら、またユーグはお腹を抱えて笑い転げたのでイヴェットはとうとう怒りに任せてユーグの頭に扇を投げつけた。一瞬ぽかんとしたユーグを無視し、ふん!とそっぽを向いたが、そんな様子もおかしくてたまらない様子でユーグは今や涙が出るほど笑っている。

「俺が死ぬまであんたは死ねないってことか」
「そうよ!せいぜい早めに私を再婚させてよね」
「まあ、それでいいよ。嫁さんに先に死なれたら、寂しいしな。俺より後に死んでくれたらそのあとは何してくれてもいい」

 ユーグがそう言って笑ったので、イヴェットは怪訝そうな顔をしてユーグをじっと見る。

「気にしないの?」
「別に、俺が死んだあとなら何されようとどうだっていいさ」

 ユーグは肩をすくめてそう言った。

「貴族の男の人は、結構外聞を気にするけど……あなたはそういうの、気にならないの?」
「俺は平民だからね。俺が死んだ後に嫁さんが苦労しないで済むんなら、別にどうだっていいよ」
「あなた、案外優しいのね」
「はは、そりゃありがとう」

 少しだけユーグを見直したイヴェットはぽろりと本音が漏れる。
 ユーグは笑って、優しい目つきでイヴェットを見た。イヴェットは少しどきりとする。彼にときめいた訳ではない、決して。そうだ、化粧でぐずぐずの顔を見つめられるのが嫌だったのだ。慌てて扇で顔を隠そうとするが、先ほどまで手に持っていた、扇がない。先ほど、怒りに任せて彼に投げつけたのだとふと思い出し、後悔した。

「あんた、別に無理して可愛くしようとしなくってもいいよ。普通にしてるんでも、充分だからさ。むしろ背伸びして化粧なんかするからそんな顔になるんだよ。ほら」

 そう言いながら、ユーグはハンカチを差し出してきた。アスヴァルなら絶対持ってないような、シンプルな少し端がほつれたハンカチ。先ほどイヴェットの顔を拭ったせいで化粧がついていて少し汚れている。

「……こういうときはハンカチじゃなくて、扇を渡すものだわ」
「そりゃごめん」

 ユーグは座席の上に転がっている扇を手に取り、イヴェットに差し出した。イヴェットは急いで扇を開いて、ユーグに顔を見られないようにする。少ししてからそうっとユーグを盗み見したら、ユーグはもう窓の外を眺めていて、すでにイヴェットの方を見ていなかった。
 そのことに対し、なんだか無性に面白くない気持ちになって、イヴェットは口をとんがらせた。


 ***


 家に帰って風呂に入り、さっぱりしたイヴェットが鏡台で髪の毛を梳かしていると、ドアがノックされた。こんな時間に誰かしら、とイヴェットがドアを細く開けると、すでに暗くなっている廊下にはユーグが立っていて、「よお」と暢気に片手を上げる。

「こんな真夜中に、レディの部屋に来るなんて不躾だわ!」
「固いこと言うなよ」

 イヴェットは急いでドアを閉めようとするが、ユーグは足を隙間にねじ込んで閉じられないようにしたので、イヴェットはひぃ、と顔を引きつらせる。

「はい、これ」
「何、これ」
「ちょっと外に行こう」

 にこにこしながら、ユーグはイヴェットにガウンを差し出してきた。ガウンとユーグの顔を交互に見ながら、イヴェットは最大級に怪訝な顔をする。

「今日、流星群があるって店の奴に聞いたんだよ。さっき、馬車の中から見ていたんだけどよく見えなくて」
「そうなの?今日は流れ星が見えるの?」

 流星群は、確かに見たい。
 けれど、この男とこんな時間に外に行くなんて……。
 ぐるぐると考えるイヴェットに、「行かないんなら俺一人で行くけど」とユーグが言う。
 イヴェットは悩みぬいた末──扉を大きく開けた。




「あ、また流れた」
「どこ!?見えなかった」
「あのへん」

 屋敷から少し歩いた、開けた芝生の上で二人は空を見上げていた。
 ユーグは目が良いらしく、先ほどからいくつも流れ星を発見しているようだが天体観測なんてしたことのないイヴェットはどこを見ればいいのか見当がつかず、全く流れ星を見つけられない。

「全然見つけられない」
「これまでは、この時期の流星群では流星が1時間当たり20個を超えることなんてなかったんだが、去年くらいから突然数が増えたんだ。何千年も前に、彗星から放出された塵によって流星数が増えたそうだ。今にあんたでも見つかるよ」
「そうなの?あなたって物知りね」
「俺はもっと知りたいことがたくさんあるんだ。もっと色んなことを知って、勉強して、手広く商売をやりたい。商売の他にも、もっともっとやりたいことがたくさんある。星の観測だって、そうだ。人生は短いから、どこまでやれるかわからんが」

 空を見上げながら、ユーグはそう言った。その横顔を見ながらイヴェットは、この人ってただの野蛮人じゃないのかしら、とふと思う。
 そんなとき、ユーグが「あ、また流れたぞ」と空を指さしたので、イヴェットは慌ててまた空を見上げた。

「あんたが俺より先に死なないように、ってお願いしてやったからな」

 とユーグが笑った瞬間、イヴェットの瞳にひときわ大きい流星がうつる。
 イヴェットは、その瞬間──咄嗟に、「ユーグが寂しくならないように、私を長生きさせてください」と一度だけ、お願いしたのであった。



 ・ ・・・ ・ ・ ✧



 自室に戻ったイヴェットは、ガウンを椅子にかける。
 もうすっかり夜が更けていたのですぐにベッドに行こうとしたが、ふと、キャビネットの上に飾ったアスヴァルのブロマイドが目に入った。イヴェットは静かにそれを手に取る。

 そっとブロマイドを指で撫でてから、イヴェットはふっと笑った。

 そして、キャビネットを開けて、写真たてごとアスヴァルのブロマイドをそっとしまい込んだのだった。
 それは、確かにイヴェットの少女時代の終わりを告げていた。

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