最期の一人

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のぞみ

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(行かないの? あの場所)

暗い部屋。
処分する前のベッドでさえ、みゆには疎ましかった。
みゆは、自分の脳内に巣食う声と、静かに向き合っていた。

(あの場所って、何)

(ほら。工場が並ぶ、海沿いの道だよ)

(……ああ、あの殺風景)

思い入れなど、もう消えたはずだった。
今年になってようやく、あの場所へ向かわせていた執着の鎖は、断ち切れたはずだった。


---

2022年11月16日。
LGBTのマッチングアプリという、無機質な場所で出会ったのが、のぞみだった。

二つ歳下のFTX。
フィリピンの血を引くハーフ。
モデルのように整った顔立ちと、研ぎ澄まされた体躯。
スタイリッシュで、残酷なほど格好良かった。

家系も、どこか似ていた。
刺青や暴力が日常にある、荒く、不器用な血の流れ。

「兄が逃げてるみたいで、鍵閉めろって言われて……」

「ちょっと待って。社長が家に来た」

ビデオ通話の向こうで、のぞみは泣いていた。
理不尽な現実、毒親からの圧迫。
「いい人でいないと意味がない」と綴られた長文の過去。
中学生まで続いたいじめ、自殺未遂。

当時のみゆは、その涙を拭ってやりたい一心だった。

「俺が守る。必ず迎えに行く」

「……ありがとう」

その使命感こそが、悲劇の始まりだった。


---

どんなときも笑顔を絶やさないのぞみは、ときどき掴みどころのない言葉を吐いた。

「人の目を見れば、考えてることが分かる」

「自分、サイコパスかもしれない」

本当に心がない人間が、
五人と恋をし、恋に悩み、目の前で涙をこぼすだろうか。

「突き放されてきた」
「人間不信」
「あなたの前では、甘えられるようになりたい」

その言葉を信じ、みゆは自分のすべてを、のぞみに注ごうとした。

だが、四日目。
砂の城が崩れるのは、一瞬だった。


---

「なぁ、もし別れがあったら、本当に死ぬん、?」

その一言で、みけは悟った。

「別れるなんて、嫌だよ」

パニックに陥ったみゆは、震える手で何度も連絡を送った。
だが、のぞみもまた平常心を失い、通話には応じなかった。

「ねぇ、正直に言って」

数十分後、のぞみは本音を口にした。

「元々、俺に恋愛は向いてない」

「みは、何も悪くないよ」

みゆは、過去の傷が原因なのだと必死に宥めた。
しかし、次の一言で、言葉を失う。

「束縛してると感じた」

それは、もう二度と聞きたくなかった言葉だった。
中学三年の夏、SNSで出会った少女に突きつけられた、あの言葉。

だが今回は、心当たりがなかった。

「五人目が、束縛のない愛を教えてくれた」

理解が追いつかないまま、時間だけが過ぎていく。

「思ってしまった以上、どうにもできない」

「俺、一人の人じゃつまんない。友達と遊びたい」


---

「なら、話は早い。俺と別れてください」

文字だけでは、受け入れられなかった。

「本気なら、通話で言って」

「分かった」

のぞみは、驚くほどあっさり通話を繋いだ。
みゆがまだ愛している一方で、
その声は、別人のように冷え切っていた。

「あ?」

「はぁ…しつこい。冷めたって言ってんだろ」

「恋人いらねぇって思った」

踏みにじるような言葉の連続だった。

みゆは、最後に一つだけ聞いた。

「……俺と別れたら、幸せになれる?」

「うん」

無感情な返答。

「……分かった」

「幸せになってね」

通話を切った直後、
カップルアプリは解除され、GPSアプリからも、のぞみは消えていた。

付き合った時も、別れた時も、深夜だった。


---

同じ市内。徒歩三十分。
会う約束をしていた、数日前。

一度も触れ合うことなく終わった恋。
パソコンの白い光だけが、暗い部屋で、みゆの絶望を照らしていた。

声を殺し、ただ泣き続けた。

数ヶ月後、悲しみは黒い殺意へと変質する。
住む町も、行きつけの場所も、アパートも知っている。

(夜八時過ぎ、待ち伏せて……)

その腕を掴み、川へ引きずり込む。
道連れだ。

それほどまでに、
みゆは彼女を愛し、彼女に心を殺されていた。


---

思い出は、ビデオ通話の断片として蘇る。

ふざけて笑い合った夜。
眠る顔を、画面越しに見守られていた時間。
ビデオ通話越しにみゆが胸を見せ、のぞみが舐めて、愛し合った秘密。

別れの日の朝。
誰もいない公園。

「どこが変わったでしょう」

前髪の分け目。
意味のなかったはずのクイズ。

「今度会ったら……初めてを奪われたいな」

聞こえなかったふりをした言葉。
風のせいではなかった。


---

そして、一枚の絵。

血に染まった浴槽。
傷だらけの二人が、世界から切り離されたように浮かんでいる。

「……俺とみゆだろ?」

のぞみは、その狂気を拒まなかった。

その瞬間、
二人の魂は確かに、重なったように思えた。

だがそれは、みゆにとっての未練であり、
のぞみにとっては、どうでもいい過去だった。


---

(……もう、行く必要ない)

みゆは、脳内の声にそう答えた。

工場が並ぶ、海沿いの道。
愛の残骸として歩いた場所。

今、部屋には何も残っていない。
涙を照らしていた光もない。

あの四日間は、
一つの完成された悲劇として、抽斗に仕舞われた。

血の浴槽に浮かんだ二人も、
今ではただの、乾いたインクの跡だった。

最後に見たあなたは、あのマッチングアプリ。
確かに、「友達募集」と書かれてあった。
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