【本編完結】人形と皇子

かずえ

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第十章 されど幸せな日々

109 ただ、それだけ  緋色

 思わず止めた杯をあおって、そのまま次の酒を注ぐ。兄の、朱実あけみの視線をひしひしと感じたが、知らぬ顔でまた次の杯をあおった。旨い……のだろうな。すっきりとした飲み口。きりり、とした辛みの中に、芳醇な香り。皇城の秘蔵品を飲みに行くのだと利胤としたねがはしゃいでいたのだから、よほど良い酒なのだろう。
 だが、普段飲んでいるものとのあきらかな違いは、俺には分からなかった。以前ほど酒を嗜まなくなったからか。いや、もともと、それほど頻繁に飲みたい性質ではなかった。成人なるひとが嫌がるのなら飲まない、とやめられる程度のもの。
 味の違いが分からないのは、今聞いた父の言葉が思考を染めているからか、うちにある酒が、皇城の秘蔵品とそう変わらぬ品質のものだからか。
 多分、そのどちらもだろうな、とまたもう一杯、酒を口に運ぶ。顔を上げた先、灯可とうかたちと遊ぶ成人なるひとの笑顔が目に入った。ふ、と思わず吐いた息が酒臭い。失礼いたします、の声と共に次の献立が運ばれてきて、食事に口をつけていなかったことに気付いた。

緋色ひいろ殿下」

 赤璃あかりの声。一人分あいた隣の席。成人なるひとがいなくなって遮るものがなくなり、聞こえない振りもできない。
仕方なく振り返れば、その向こうの兄の顔まで目に入る。更にその斜め向こう側の父や母が。

「そんなに飲んだら、お酒の匂いが消えないわ。なるに逃げられるわよ」
「ん……」

 一杯飲んでしまえば、その後、何杯飲もうと飲むまいと同じことだ。繊細で敏感なあいつの嗅覚にかかれば、猪口一杯飲んだだけで、くさーい、と逃げられてしまう。

「ほら。食べましょ」
「ああ」

 だが、気にしなくていい。
 俺が、本当に本気で、心の底から側にいて欲しいと願えば、成人なるひとは、酒の匂いがしようがコーヒーの匂いがしようが離れはしないだろう。
 決して。
 そう考えつつ、だが、そこまで酒を飲みたい訳ではなかったな、と杯をおく。
 ここで、常陸丸ひたちまる荘重むらしげがいないこんな場所で手酌で飲んだところで、旨くないのは当たり前だ。酒を飲むのは心を緩めたい時なのだとすれば、緩めてもいい相手の前で飲むのが一番旨いに決まっているのだ。
 なら、俺が酒を飲む場所はここじゃない。
 箸を手に食べ物を口に運んでから、また顔を上げた。
 じっとこちらを見る父の目と母の目をただ見返しながら、口の中のものを咀嚼する。
 私から見て、きちんとできていなかったことなどなかった。
 ずっと聞きたかったはずの言葉は、大した感慨ももたらさずに俺の中を通り過ぎていった。
 そうか、と。
 ただ、それだけ。

 
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