芳香罪【方言ver.】

金里遠玖 かなりとおく

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3 アンカーやった

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 カラン。

 何かが転がる小さな音がして、足を止めた。慣性で体が前につられるのを二、三歩でこらえ、トン、とつま先で止まって大きく息を吐く。
 振り向くと、鞄から飛び出したらしいリップスティックが地面に転がっていた。よろめきながら指先でつまみ、拾い上げて鞄に戻した。
 喉の奥で唾が絡んで苦しくて、前傾姿勢のまま肩で荒い息をする。
 汗があふれて顎を伝い、地面に落ちる。
 脇の車道を、シャア、ともザァ、ともつかない音と共に、車が次から次へと通り抜けて行く。腹が立つほど軽やかに走る車に、取り残されたような気分になりながら息を整えた。
 鞄から大判のタオルハンカチを取り出して首に張り付いた髪の毛を払い、汗をぬぐったそのときだった。
 後方から近づいてくる足音が聞こえた。

「麻衣」

 振り向くと、彼が私と同じくらいの荒い呼吸でそこにいた。

「足は、俺やって、負けてなかった」

 ぜぇぜぇという息の合間に、彼は言った。
 そりゃあ、負けているはずがない。彼はアンカーだったもの。四位でもらったバトンを二位で渡し、彼が一位でテープを切った。最終種目だったリレーは、クラスの総合優勝にも大きく影響する大事な得点源だったけど、私は得点どころではなかった。チーム四人で抱き合って喜ぶ中、彼の腕が私の肩に触れていることが気になって仕方なかったから。

 ――麻衣、ナイスラン。
 ――カズくんも。

 ぷは、と、目の前の彼が息をつく。膝に手を当てて。
 ゴールテープを切った鉢巻き姿の彼の姿が、ゆらりとかぶさる。

「それに、靴がさ」

 ぜぇ。

「パンプスと、スニーカーやったら、俺の方が、断然有利やき」

 彼は切れ切れに言ってTシャツの肩口で顔の汗を拭い、襟元を引っ張って風を通すようにパタパタした。

 ――やばい、汗が止まらん。
 ――制汗スプレー、いる?
 ――麻衣のって女っぽい匂いのやつやろ? 恥ずかしいき、いらん。

 緊張をゆるめたくて飲んだ、たった一杯のサングリアのせいか。
 そのあとの全力疾走のせいか。
 体をめぐる熱が全部、頭に押し寄せる。

「ごめん」

 彼は言った。
 この謝罪は何に対してだろう。
 制汗スプレーを断ったこと?
 ちがうちがう、それは昔の。

「あの言い方はひどかった」

 噂は全部本当のことだし、私は噂に傷ついたわけではない。彼の言葉に傷ついたというのとも、たぶん違う。

 かすかなオレンジと、ヘドロと、自分の汗の匂いと。
 青い青い空の下を彼めがけて必死で走る自分と、それを追って風に乗る声援。
 それが今のものか、昔のものか、判断するのが難しいくらいに、色んなものが押し寄せてくる。
 まとわりつくすべてを払うように、一度頭を振った。

「いいよ」

 すぅ、と。
 押し寄せていたものが、一度に消えた。
 謝罪に対する答えだと思ったのだろう。彼はほっと、安堵の表情を見せた。
 だから私は、もう一度わかりやすく言った。

「いいよ。しても」
「え?」
「しても、いいよ」
「ま……」
「いいよ、

 切れ長の目が大きくなった。一瞬困惑に揺れ、それからすぐに定まった。
 彼は私の意図をはかりかねているようだったけど、私にも自分の気持ちがわからないのだから、無理もなかった。
 少し歩いた場所にある病院前でタクシーを拾い、二人とも無言で乗り込んだ。

「本当は……麻衣があの支店におるって、知っちょった」

 彼は窓枠に肘をついて手に顎をのせ、外を見ながら言った。

「……そっか」

 ああ、だから金曜だったのかと、妙に納得した。最初からこのつもりだったのなら、翌日仕事のない金曜を選ぶのはむしろ自然なことだ。

〈今日は遅くなるから、先寝ちょってください〉

 通信アプリを開いて家族のグループに送信すると、ほどなくして母から返信があった。

〈飲みすぎんようにね〉

 たぶん支店の飲み会だと思われたのだろう。
 スマホを鞄にしまい、ふぅと一つ息を吐きだして窓の外を眺めた。
 トンネルの中。等間隔に並んだオレンジ色の灯りが、ひとつ、またひとつと後ろに飛んでいく。

 ぐるぐると巡る熱と、裏腹にやけに冷静な自分がせめぎ合っていた。
 古びたラブホテルの前にタクシーが停まった時には、せめぎ合っていた感情はすでに「後悔」の方向に振りきれていた。だけど、それを口に出すことができなかった。今更そんなことを言えば、きっとヘドロの臭いが襲いかかって来るに違いない。それをただただ恐れたからだった。
 彼が何を考えているのかは、ちっともわからなかった。漂ってくる匂いは不安定で、何の匂いと呼べばいいのかわからない。今日みたいな真夏日の炎天下に数時間オレンジを置いておいたらこんな匂いになるのかもしれない、と思った。

 薄暗い部屋に入ると言葉もないままキスをされた。理解が追いつかない状況の中で唯一確かなことは、そのキスが不思議に優しいことだった。
 あの日みたいに強烈なオレンジに気分が悪くなることはなかった。それは残酷なことのようでもあったし、今の私にとっては楽なことでもあった。ただ、舌を絡めたら一瞬強烈なヘドロの臭いに包まれた。このタイミングで悪臭なんて、むごい。胸がしくりと痛む。
 夏場で薄着だから、服を脱ぐのにさほど時間はかからなかった。
 汗で肌に張り付いた服は、脱ぐ、というよりも剥く、といった方がよいかもしれなかった。剥かれた服は入口からベッドまで点々と床に落とされ、唇は離れないまま、全力疾走で汗まみれになった肌を大きな手が滑って行く。
 くすぐったいような、もどかしいような。
 とん、と肩を軽く押されてベッドに沈み込んだ。
 ぎし、とマットレスが軋む。
 体を見下ろされるのが恥ずかしかったから、腕を伸ばして彼の体を引き寄せた。
 柑橘と何か別のものが、ないまぜになった匂いが降ってくる。
 きっと軽蔑しているのだろう。
 こんな女になったのか、と。

 粉々になっていく。
 ひとつ、ひとつ。

「まい」

 声は固かった。
 麻衣、と初めて呼ばれたとき。

 ――ねぇ、「麻衣」って呼んでいい? 俺のことも「カズ」でええき。

 そう笑いかけられて、呼び捨てはちょっと、と妥協案として「カズくん」を呈示した。

「んっ……」

 休み時間には、他愛もない話で盛り上がった。

 ――やっば、制服のズボンの下にパジャマ履いたままやったわ。
 ――えっ。

 私に覆いかぶさっている彼の汗が、ぽとりと頬に落ちた。

 ――背、伸びた?
 ――ひと夏で十センチ。すごいよな。
 ――それに、黒うなったね。
 ――毎日部活ばっかりやったき。

 胸をつかむ力が少し強くて、反射的に体をよじった。途端に、臭いが増す。

「……ふっ……く……」

 デートはいつも、当時出来たばかりだった大型のショッピングモールだった。
 娯楽施設の少ない田舎だから、学校帰りに寄れるようなデートスポットがほかになかったのだ。友人の誕生日プレゼントも親戚の入学祝いもそこで買うし、流行りの服をそこで揃え、映画もそこで観る。
 放課後にショッピングモールでタピオカドリンクを飲んで、プリクラを撮るのが王道のデートだった。
 あのときのプリクラを今でも机の引き出しにしまってあると言ったら、彼は驚くのだろうか。
 おそろいのポーズをとって、互いの名前と日付を書き込んだ記憶。

 首筋にかかる息が熱くて、耳を擦る彼の髪の毛がくすぐったくて、顔を少し反らした。
 彼は体を少し離して、私を見下ろした。
 私はまた、目を逸らす。
 そんな様子に苛立ったみたいに、胸に手が伸びた。

「んっ……」

 何の匂いだか、よくわからなくなってきた。
 部屋に漂う煙草の匂いに、自分の汗の匂い、彼の汗の匂い。波みたいに移ろう、オレンジの強さ。ビニールを破くピリッという小さな音がして、新たにゴムの匂いが混じりこむ。
 最後に残っていた下着が取り払われ、ぐっと腰が迫ってきた思ったら、すぐに中を押し広げられた。

「……んぐっ……」

 擦れて、少し痛い。
 性急に繋がったせいだろうか。
 体格のいい彼だから、もしかしたら普通より大きいのかもしれない。
 身長は、あの頃から変わっていなければ百八十六センチ。百四十九センチの私とは、四十センチ近い差がある。

 ――麻衣はバス、お子様料金で行けるやろ。
 ――失礼な! もうちょっとで百五十センチになるがやきね!

 休日にバスを乗り継いで海岸近くにある古びた水族館に行ったこともあった。なんてことのない小さな水族館だけど、ちゃんとイルカもアシカもいたし、ウミガメに餌をやることもできた。

 ――うわ、力、強い。
 ――カズくん、危ないからはよう離さなっ!

 割り箸で煮干しをつかんだままウミガメと綱引きを始めた彼の服の裾を必死で引っ張った。

「んっ……」

 漏れる声は、体を揺すぶられることに対する反応だった。少し痛みを感じたせいでもあったかもしれない。

 ――麻衣。キスしてもいい?
 ――うん。

「っく……」

 雄の匂いと汗の匂いと、オレンジと。
 怒りなのか、嫌悪なのか。ヘドロがふわりふわりと襲い来る。
 ただ、欲望とも激情ともわからないものをぶつけられている。

 ――俺、麻衣のこと好きながやけど。

 両想いだとわかって、うれしかった。
 クラスの友人たちに冷やかされるのも、照れくさいけどうれしかった。
 瑞々しい思い出たちが、浮かんでは消え。
 気持ちが、乾いていく。

「っっく……ぁい……」

 耳元で、微かな声が聞こえた。
 その瞬間だけは、ほかのすべての匂いを飲み込んでしまうくらい、オレンジが強かった。荒れる息を整えようと口で呼吸をしていたおかげで、気分が悪くなることはなかったけれど。
 大きくひとつ息を吐き、数度腰を揺らして彼が離れていったから、終わったのだとわかった。
 最初から最後まで、言葉はほとんどなかった。
 ふぅ、と静かに息をつく。
 私は仰向けに転がっていただけで、何ひとつしていないというのに、体がひどく重い。
 湿っぽい掛布団の下にもぐりこんで横を向き、ぎゅっと体を丸めた。

「麻衣……?」

 しばらくして、後始末を終えたらしい彼から背中にかけられた声は私を気遣うもののように聞こえたけど、振り向くことはできなかった。
 自分がどんな顔をしているかわからなくて、彼に見られたくなかったから。
 背後で彼も布団にもぐりこむ気配がして、すぐに私の髪に彼が触れたのがわかった。

 ――麻衣の髪、つるつるや。

 彼は昔よく、私のポニーテールをつかんで引っ張った。くい、と軽く。

 ――ちょっと! 崩れるき、やめて!

 別に複雑な髪型でもないのだから、崩れたら直せばいいだけだった。でも、照れくささを誤魔化すために苦情を申し立てると、決まって彼は「ごめん、つい」と笑った。
 休日、学校ではいつも束ねている髪を下ろしていると、やけに嬉しそうだった。

 さわさわと、毛先だけを弄ばれている。髪を伝って根元へと響くかすかな震動が、緩やかな眠気を誘う。
 その感覚に身を委ね、目を閉じた。

 ほんの一瞬のまばたきのつもりだったけど、たぶん少し眠っていたのだろう。
 次に目を開けた時には、背後から規則的な呼吸が聞こえてきていた。
 何度か強く目をつぶって掛布団の端からするりとベッドを抜け出した。
 彼の方を見ると、私に背を向けていた。
 しばらくその姿を見つめたあと、のろのろと服を着た。部屋が冷房でちょうどよく冷えていたおかげで汗はすでにひいていたけど、服はまだ湿っぽかった。入口に脱ぎ捨てられたスニーカーを揃えて並べ、自分のパンプスを履いて部屋を出る。廊下は薄暗く、小さなエレベーターは心許なく揺れる。
 外に出ると、ぶるり肩が震えた。
 日中は嫌になるほど暑いくせに、朝晩は冷え込みがきついのだ。日暮れ後一時間ほどたつと、ぐんと寒くなる。
 スマホを確認すると、時刻は二十三時を回ったところだった。
 少し、ホッとした。それほど遅くなくてよかった。
 それでも、田舎の夜は早い。すでに人通りも車通りもない夜の道を、ひたすら歩く。
 トンネルの中は、響く自分の足音が怖くて小走りになった。トンネルには怪談がつきものだから、きっとここにも一つや二つ、あるのだろう。
 トンネルを抜けるとすぐに、二人でタクシーに乗り込んだ病院が見えてくる。
 まだタクシーがいるだろうかと期待したけれど、一台も見当たらなかった。
 すでに終バスの時刻も過ぎているし、路面電車はとっくに終わっている。
 家の方角も道もわかるけど、疲れた体を引きずって歩くには少し遠い。
 どうしたものかと、病院の駐車場の車止めに腰を下ろした。
 この辺りではそこそこ大きな規模の病院で、たしか救急外来もあったはずだ。救急用の入り口はたぶん裏側なのだろう。外来入口、と書かれたガラスの向こう側は真っ暗で、非常灯の緑のライトだけがぼんやりと浮かび上がっている。

「上澤?」

 声をかけられ顔を上げると、外灯の光の下に立ってこちらを窺い見ていたのは、キンモクセイの人だった。

「新井さん」
「こんな時間に、どうした?」
「新井さんこそ」
「救急に妹連れてきた」
「えっ」

 何ができるというわけでもないのに、慌てて立ち上がった。

「いや、大丈夫だよ。ただの食中毒やった。それがわかって安心したとこ。いま点滴打ちゆうが。それで、大丈夫やったっていう連絡を親に入れるために出てきたら、人が見えたから」
「そうでしたか。よかったですね、大事じゃなくて」
「うん。上澤は?」
「あの、ちょっと……」

 夜の病院の駐車場にひとりで座り込んでいる女なんて、それこそ怪談だ。

「見舞い? なわけないか、この時間に」
「あ、はい。今ちょっと、帰りで」
「……送って行く」

 キンモクセイの匂いはしない。でも代わりに、嫌な臭いもしなかった。

「あ、いえ、大丈夫です」

 『飽きちゃったの』なんて吐き捨てた女を相手に、この人は何を言い出すのだろう。

「この時間やき、足、もうないやろ? どうするつもりやったが?」
「歩こうかな、と」
「家まで?」
「はい」
「歩くにはかなり距離あるし、危ないやろ」
「大丈夫です。それに、妹さんが。ついちょってあげてください」

 チアで培った自慢の笑みを浮かべてみたけど、新井さんはニコリともしなかった。

「点滴はまだ時間かかるき、その間に送って戻って来たらかまん。点滴の間ずっとくっついちょってやらないかんほど子供でもないし」
「でも……」
「俺の車に乗るのが嫌、とかじゃなかったら」

 そう言われてしまうと、断わりにくかった。
 それに、体がひたすらに重かった。

「ごめんなさい。お礼は今度必ず」
「礼なんていらんよ」

 深々と腰を折ると、柔らかな声が返ってきた。
 付き合っていた時に何度も乗せてもらった車内からは、私をあれほど悩ませたキンモクセイはすっかり消えていて、オリエンタルな香水の香りだけが漂っていた。

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