芳香罪【方言ver.】

金里遠玖 かなりとおく

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4 消えた香り

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 クールな涼子が、珍しく怒っているようだった。
 表情は普段とほとんど変わりなくて、違うのは眉間に皺が寄っていることくらいのものだけど。

「バカもの」
「ええとそれは、私のことでしょうか」
「もちろん、そうですとも」

 涼子の声が鋭い。

「ええと、うん。弁解の余地はありません」
「一体、何がどうなったらそんな急展開になるが?」
「私にもようわかりません」

 あの日の出来事を涼子に話すかどうか、実はちょっと迷っていた。
 絶対に怒られるという確信があったし、涼子の氷点下の怒りはなかなか恐ろしいからだ。
 ところが迷っている内に、涼子から電話がかかってきた。
 『今日、うちの支店長に用事があったらしくて新井さんが来ちょったがやけど』と。
 キンモクセイの新井さんは、あの日私の首筋に鬱血痕、いわゆるキスマークを見つけていたらしい。その上私が一人であんなところに座り込んでいたものだから「何かひどい目に遭ったんやなかたらいいけど」と心配して涼子に尋ねたらしい。
 『洗いざらい吐きたまえ』と電話口で言った涼子の声は普段より一オクターブくらい低かった。
 話すかどうか迷っていたとはいえ嘘をつく気にもなれなかったから、定時退社日の今日、仕事帰りに涼子と会って事のあらましを説明し、今に至る。
 話の中盤から涼子の目がだんだんと据わっていくのを目の当たりにして、早くも話したことを後悔しつつあるけど。

「最低」

 さらに厳しいお言葉を食らい、私の体が勝手に後ろに下がる。

「……ええとそれも、私のことでしょうか」
「ちがう」

 涼子の声はやっぱり鋭い。

「上村先輩」

 涼子はそう言って、盛大なため息をついた。
 高校の一年後輩にあたる涼子は、彼のことを知っている。

「高校時代は爽やか系でイメージよかったのに。野球部の黄金時代のエースやったし、体育祭でも活躍しよってさぁ。チア部の彼女ができたって聞いたときは、うちの学年の女子も残念がっちょったくらい」

 その「チア部の彼女」というのが私なものだから、何とコメントすればいいのかわからなかった。

「そんな人が、『ヤらせろ』なんて、爽やか詐欺もええとこやわ。本当最低」
「『ヤらせろ』とは言われてないよ」
「『抱かせろ』やっけ? おんなじやろ」

 普段のクールな態度にトッピングされた怒りは、私を少し怯ませた。

「正確には『抱かせてくれるが?』やったけど、まぁ、おんなじやね」
「そんな最低な誘い文句、聞いたこともない。本当びっくりしたわ」
「……人は変わるってことなんやろうね」

 彼に言わせれば、私は変わった。
 私に言わせれば、彼は変わった。
 つまり、二人共変わったのだ。
 キレイな思い出の中の二人はもういなくなってしまった。それだけのことだ。

「禿げたらいいのに」

 何ともコメントしづらい呪いの言葉を吐きながら、涼子は腕を組んで背後の壁にもたれた。
 黒髪で前下がりのボブに、少しつり気味の大きな目。アイラインのハネを長めに描いた日なんて、「こんな顔の人、パリコレで歩きゆうよね」と言いたくなるような整った顔立ちをしている。
 そのせいだろうか。険しい顔をすると、とんでもなく怖いのは。

「まぁ、自業自得やきね。そんな女やと思われたんは私のこれまでの行動が原因やん。大学時代に涼子に言われたことがまさにって感じで」

 言いながら、お猪口を持ち上げた。
 くい、と傾けてきゅっと吸う。

「それに、『いいよ』って言うたがぁは私やき。あの人を責めるんはお門違いかなって」

 『いいよ』って言ったときに驚いた顔をしていたから、追いかけてきたのはソレ目的だったわけではないのだろうし。

「まぁ、麻衣にも山ほど言いたいことはあるよ。そんな最低な誘い文句に、なんで乗ったがか、とか。それでなんで、新井さんに実家まで送ってもらうような羽目になったがか、とか」
「うん。すみません」
「私に謝ってもしょうがないけど」
「まぁ、たしかに」
「どうしてそんなこと……」

 涼子はまた、ため息をつく。

「いや、別に、麻衣を責めたいわけじゃないがって」
「うん。涼子が私のことを心配して言ってくれゆうって、わかっとる。ありがとう。でも、私は元気やし大丈夫」
「……その後、向こうから連絡はないが?」
「うん、何も」
「そっか」

 ――どうしてそんなこと。

 私にもよくわからない。
 どうしてあのとき「いいよ」なんて言ったのか。

「答えたくなかったら答えなんでもいいけどさ」
「うん」
「ぶっちゃけ、好きなが?」
「え?」
「麻衣は大学時代からフラフラしよったし、お世辞にも身持ちが堅かったとは言えんけど。付き合ってない人とそんな関係になったこと、ある?」
「……ない」

 好き。
 好き?

「……好きやった、がって。好き、なわけじゃなくて」
「過去形ってこと?」
「うん。高校時代のこととか色々思い出してしもうて。呑み込まれたっていうか」

 あの頃に戻りたい、と思ったわけではなく。
 あの頃の自分に戻りたかったのかもしれない。

「手をつないだり、並んで歩いたりとか。そういうことだけで口から心臓を吐きそうなくらいドキドキしてさぁ」
「……もうちょっとええ表現、なかったん」
「だってそれが、まさに、な表現なんやもん」
「で? 口から臓物をリバースしそうで?」
「……悪意を感じる」
「言い換えただけやん。で? 吐きそうで、なんやって?」
「そういう経験って、この歳になるともうないやろう」
「まぁ、そうだね」
「『減るもんじゃない』とかいうけどさ。減るよね」
「何が?」
「感動とか、ドキドキとか。数を重ねるごとに減っていくやん。並んで歩いてるだけで、肩が少し触れるだけでドキドキしよったんが、いつの間にかせんなって。手をつなぐのなんて当たり前になって。触れるようなキスだけで舞い上がりよったがが、いつの間にか通過儀礼みたいになってね。減るもんなんやなぁって。だから、大事にせないかんなぁって」

 涼子は神妙な面持ちで聞いていたと思ったら、ゆっくりと口を開いた。

「…………『みつを』」
「ちょっと、何その雑なまとめ方」
「語尾の伸ばし方がね、つい。いや、冷静に失礼やったわ」
「誰に」
「みつをさんに。わたし結構好きながって。ばぁちゃん家にカレンダーあってさ。シンプルやのに、胸にくるっていうか」

 笑っているとも怒っているともつかない表情でそう言って、涼子はまた、小さなため息をついた。

「……それで? 匂いの件は?」

 涼子の声は静かだった。

「ええと……変わらず、かな」
「それはどっちの意味で?」
「戻ってない」
「普通の匂いは? そっちも?」
「ううん、普通の匂いはするよ」

 手酌でついで、お猪口を傾ける。
 県内の造り酒屋の純米吟醸「赤野」は、人生で初めて呑んだお酒だ。私の成人のお祝いにと父が嬉しそうに買ってきてくれた思い出の清酒。
 そのせいか、今でも地酒を扱っている居酒屋に入ると必ずこれを頼む。
 喉をすりぬけていく冷たさと後を追う熱。甘い香りと爽やかなあと口。
 ほら、ちゃんと。
 お酒の匂いは感じている。

「じゃあ、例のやつだけが消えた感じ?」
「うん」

 「赤野」が生んだ熱が、お腹の中からやわやわと手足に広がる。その熱に乗せられてウツボの佃煮に箸を伸ばしたら、爪のエナメルがみすぼらしく剥がれていることに気づいた。半月ほど塗り直していないから、当たり前といえば当たり前だ。彼に会った日にはまだキレイだったのが、せめてもの救いか。

 あの日は新井さんのご厚意に甘えて帰宅し、そのまま眠りについた。
 そして翌朝目覚めると、私の世界からは例の匂いがすっかり消えていた。
 家にはトーストの匂いもマーガリンの匂いもコーヒーの匂いも漂っていたし、朝シャンのときにはシャンプーの匂いもした。だけど、普段ならそれに混じってくるはずの他の匂いが無くなっていた。
 週が明けても、それは変わらなかった。七つ上の先輩から漂っていた腐りかけのフリージアも、支店長から漂っていたセージも、二つ下の後輩からの生ゴミも。全部が一気に消え失せた。
 反対に、私への好意だと思っていたパートの女性のサンダルウッドが香水の匂いだったことが判明したり、私のことを大嫌いなのだと思っていたお客様がただの強烈な体臭もちだったことがわかったりもしたけど。
 あれから一週間と少し。
 匂いが戻ってくる気配はない。

「まぁ、よかったとちがう? 消えてくれて」
「うん。ちょっと不便やけどね」
「不便?」

 くい、と涼子は片方の眉毛だけを持ち上げた。

「自覚しちょったよりも匂いに頼っちょったみたい」
「あぁ……他人の心を読む、的な?」

 心を読む、というほど大層なものではなかったけど。

「突然ないなったら、皆の気持ちがまるでわからんくて変な感じ」
「それって私にとってはごくごく普通のことながやけど。たぶん私以外の大半の人にとっても」
「そうだよね」
「よかったやん。これで、濃厚なバニラやらラベンダーやらキンモクセイやらに恋路を邪魔されんで済むんだから。やっと普通の恋愛ができるやん」
「うん」

 こくん、と頷いてはみたものの。

「恋愛はもう、しばらくいいかな」
「……せっかく楽になったのに?」

 涼子は少し意外そうだった。
 私が恋愛に消極的だったことは今までになかったからだろう。

「はじめ方とか、よくわからんし」
「はじめ方?」
「今までは簡単やったがって。いい匂いの人を見つけたら嬉しいやろ?」
「『やろ?』って言われてもわかんないけど。そんなもんかね」
「男女関係なく、誰かに好かれるのって嬉しいやん」

 涼子は軽く首を傾げた。

「私は別に、自分が好きでもない相手にどう思われてもいい」
「……相変わらず、惚れ惚れするくらいの潔さで」
「そりゃどうも」

 肩をすくめ、涼子は猪口を手にしてズズ、とお酒をすすった。普段はウイスキー派の涼子だけど、二人で呑むときは私の好みに付き合ってくれることも多い。

「私は誰かに人として好かれてるっていうだけで嬉しいが。それで、もっといい匂いになってほしいって思うがってね」
「なるほど。それで?」
「いい匂いがする行動をとってたら、段々いい感じになっていくことが多いかな。あ、でも、その人からいい匂いがするのと同時にほかの人から嫌な匂いがすることもあったりしてね」
「あー……ライバルってこと?」
「たぶんね。そういうときは引くようにしてた」

 涼子はいつもの呆れ顔をした。
 それは本当に普段どおりの表情だけど、匂いという手段を持たない今の私には、涼子が本気で呆れているのかどうかの判断がつかない。

「……麻衣って、ほんとにぐちゃぐちゃ色々考えよったがやね」
「うーん、まぁね」

 匂いがなければ気づかなくていいことに、気づいてしまうからこそ。

「でも、麻衣が色んな人と付き合ってもあんまり女子に嫌われん理由、それでわかった気がするわ」

 涼子はもう一口お酒を飲んで、顔をしかめた。
 本人は気づいていないかもしれないけど、日本酒を呑むと涼子はいつもこんな顔をする。わたしが密かに『おっさん』と名付けているこの顔が出てくるのは、もうイイ感じに酔いが回っている証拠でもある。
 ぷは、と息をついて涼子は言った。

「別に誰かがその人のことを好きやったって関係ないやん。付き合いゆう人を取るのはさすがに考えものやけど、片想いまで拾い上げていちいち気にしよったら疲れん?」
「うーん。でも、気を付けちょったのは自分の知っちゅう範囲だけやき。別に優しさとかじゃなくて、ただ、周りの人が臭くならないための自衛手段っていうか」

 だから他所では随分と恨みも買っているのだろう。『あんまり』嫌われないというだけで、決して誰からも好かれるタイプなわけではないし。その結果が、音速で広まる噂だ。

「……そういえば、カズくんにだって、彼女おったかもしれんなぁ。聞かなんかったけど」
「カズくん、ね」

 涼子と目が合った。
 涼子が黙って頷き、私も何となく頷いて、一度会話が止まった。
 互いに箸に手を伸ばし、黙っておつまみをつつく。
 戻り鰹にはまだ早いから、この鰹のたたきは冷凍だろうか。
 そんなことを考えながら、肉厚のたたきを頬張る。くさみの少ない鰹のつるりとした食感と混じって、生姜の香りが鼻に抜ける。ふと視線をやった壁の品書きには『いの町の生姜』という墨字が躍っている。県内の特産品だ。
 そういえば、高校三年間の担任の先生は生姜の香りだった。あれはどっちだったのだろう。いい匂いと、いやな臭いと。私は好きな匂いだけど。
 生姜のぴりりとした後味を楽しんでから口を開いた。

「まぁ……だからさ」

 涼子の目が、「だからって、どれの話?」と言っている。

「いままでは、だいたい向こうのいい匂いから始まることばっかりだったから、不思議なんだ。相手が自分のことを人として好きかどうかすらわからない白紙の状態から、どうやったら始まるのかなって」

 随分さかのぼったところまで話を戻したけど、涼子はそのことについては何も言わなかった。

「……おかしいのは匂いだけやと思いよったけど、色々おかしいんやね」
「そうなんやろうね。私にとっては普通のことやったけど」
「まぁ……それも全部匂いのせいっちゃ匂いのせいか」

 呆れたというよりも疲れた感じの表情で涼子は言った。

「涼子、めんどくさくなっちゅう?」
「あ、バレた? でもたぶん、見た目ほどやないで」

 涼子はそう言って笑った。

「なにこれ、私もちょっと不便。これからはいちいち説明せんといかんの?」
「だって涼子、あんまり表情変わやんき、わかりづらいんやもん」
「うわ、その台詞、前の彼氏にそっくりそのまま言われたことあるわ」

 嫌そうな声だったけど、笑っているということは本気で嫌だったわけではないのだろう。
 とくとく、小さなお猪口につぐお酒は透き通っていて、まるで水だ。だけど水よりも甘く、水よりも辛くて、水よりも熱い。

「まぁ、そんなわけやき。今は、恋とかそういうのはいいかな」

 涼子は頷いた。

「しばらくは普通の感覚を楽しんでみるのもアリやね」
「そうする。慣れるまでにちょっと、時間かかりそうだし」

 透明の液体を体に流し込んでから、どちらからともなく「そろそろ行こうか」と立ち上がった。
 居酒屋を出て夕暮れ時のぬるい空気の中を歩いていると、涼子が何てことはなさそうに言った。

「麻衣、心当たりはないの?」
「んー?」
「匂うようになった理由とか、急に匂わなくなった理由とか」
「んー」

 今日は星が綺麗だ。
 星座には全然詳しくないけど、あの真ん中にある星の輝きはきっと一等星だろう。
 もしかしたらゼロ等星かもしれない。
 ん? ゼロ等星? そんなのあったかな。あったような、なかったような。

「まぁ、わからんよね」
「うーん」

 真上を向いたまま歩いていると、少し足元がふらついた。今日は随分と飲んだから。

「麻衣」
「んー?」
「麻衣ってば」

 ゆるゆると視線を下ろすと、涼子が私を見つめていた。
 消えかけのアイラインに縁どられた大きな目が、お酒のせいか少し潤んでいる。

「大丈夫やきね。麻衣は大丈夫」

 涼子の目は力強かった。

 たぶん今、匂いがわかったなら。
 涼子は大学生のあの時と同じくらい甘い匂いなんじゃないかな。
 そんな気がした。

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