芳香罪【方言ver.】

金里遠玖 かなりとおく

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5 家族の匂い

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「麻衣、ほんなら、気をつけて」
「うん、ありがとう。涼子もね」

 バイバイ、と手を振り合った。それからまた少し歩き、ひとりで汽車に乗る。都会の人からはときどき「汽車って何? 電車でしょ?」と聞かれるけど、あいにくこれは電車じゃない。動力が電気じゃなく、ディーゼルエンジンなのだ。
 そんな汽車は三両編成の単線で、四十五分に一本というのんびり具合だ。四十五分待つのとタクシーを拾うのとで微妙な選択を迫られることも少なくないけれど、今夜はタイミングよくわずかな待ち時間で乗ることができた。
 ごとん、ごとん。
 揺られながら、向かいの窓の外を見つめていた。空が少しずつ黒に染まっていくのは不思議な光景だ。家々からもれる橙の灯りが空の群青と交じって、暖かな色を創り出している。青でも、黄色でも、オレンジでもない。

 ――オレンジ。

 何となく、手の甲で額をごしごしとこすった。たぶん、自分の中で生まれかけた何かを消そうとして。
 お酒を飲んで体がぽかぽかしているせいか額には少し汗がにじんでいたから、手の甲は汗でするりとすべって目尻へと落ちる。その目尻は、あの日からずっと乾いたままだ。

 もう二度と会うことはないだろうと思っていた人と再会して、たぶんもう二度と会わなくなっただけ。それはきっと、哀しむようなことじゃない。

 無人の駅に電車が止まり、改札口に備えられた箱に切符を入れて駅を出た。
 駅から家までは直線距離で二百メートルほど。街灯の数は少なく、両脇の家からこぼれる灯りがなければ夜にはほとんど真っ暗になるけれど、ここらで不審者が出たという話はとんと聞かない。
 平和で、きっと少し取り残された古い町。夜の一人歩きで気を付けなければならないのは変質者よりも側溝だ。毎年この季節には台風が上空を通過していくから、大量の雨水を逃がすために道路の両脇には深さも幅も九十センチくらいの大きな溝がある。台風のときはゴーゴーという濁流が過ぎるそこも、普段はちょろちょろとわずかな流れしかないものだから、ボウフラもわんさか湧くし、ヒキガエルの鳴き声がうるさくて眠れない夜もある。
 だけど、私はこの町を、この場所を、この家を離れようと思ったことは一度もない。

「ただいまー」

 古い日本家屋の引き戸をガラガラと開け、家に入った。
 玄関には靴が四足。革靴が一足と、私のよりも一回り大きいローシューズが一足、すっかり汚れて黄ばんだ運動靴が一足に、脱ぎ散らかされたサンダルが一足。家族はすでにみんな帰宅しているらしい。サンダルの持ち主とは、久しぶりの顔合わせだ。
 框を上がるとすぐに短い廊下があり、右手には二階に続く透かし階段が、左手には居間に続く障子がある。障子越しに光と音楽と数人分の笑い声が漏れているから、皆でテレビでも見ているのだろう。
 ひっくり返ったサンダルと自分の靴をそろえて廊下を進み障子を開けると、やはり思った通り、炬燵用の長方形の座卓を囲んで両親と弟二人がテレビを見ていた。

「あっ姉ちゃんおかえり」

 Tシャツに短パンでくつろいでいる下の弟はまだ高校二年生だ。三厘の坊主頭に毎日の部活でこんがりと焼けた姿は焼きおにぎりのようだと、いつも思う。

「ういーっす久しぶりー」

 上の弟は春から大阪で大学生をしているが、夏休みを利用して帰省すると聞いていた。どうやらそれが今日だったらしい。髪の色がすっかり明るくなっているところをみると、大学生活をエンジョイしているのだろう。

「ただいま。翔平、達者でなにより」
「侍みたいな挨拶やめろや」
「彼女できた?」
「そんなすぐにはできんき。そういうねぇちゃんはどうなんよ」
「さぁ、どうでしょう」

 上の弟と軽いやり取りをしていたら、下の弟が「あ」と小さく声を上げた。

「ねぇちゃん、上村さんって知っちゅう?」

 この状況で一瞬言葉に詰まった私は、決しておかしくないと思う。

「ええっと、どちらの上村さんのことかな」
「何かさ、来週から新しいコーチが来ることになったがやけど、今日その人が挨拶に来ちょってね」
「うん」
「うちのOBで、センバツ出たときのチームにおったって言いよったき、ねぇちゃんと代かぶっちゅうかなと思って」

 ほとんど確実に、あの上村さんだ。
 県内には甲子園での優勝経験を誇るスポーツエリート高校があり、春夏を通じて私の母校が甲子園に出場した回数は多くはない。

「……下の名前は?」
「忘れた」
「一成、やったら、知り合いやけど」
「あー……そんなん言いよった気がする」

 弟は少し嬉しそうに言った。

「ねぇちゃん、仲良かった?」
「いや、ただのクラスメイト。仲は……微妙」

 紛うことなき真実だ。
 卒業前も、今も、彼との仲は微妙以外の何物でもない。
 なぜこのタイミングで、と一瞬思ったけれど、野球部のかつてのヒーローが帰郷してこちらに腰を落ち着けるとなれば、コーチの打診があっても不思議ではない。そして私と彼の再会も、彼の帰郷がきっかけなのだ。つまり、とりたてて驚くような偶然ではない。
 もちろん、びっくりしたけど。

「なんや、そっか」

 残念そうな弟に、一応釘を刺しておくことにした。五寸釘くらいのぶっといやつを。

「まぁほなき、そのコーチに私のことを聞いたりせんように」
「えっねぇちゃんの高校時代のこととか聞き出してやろうと思いよったのに」

 それはありとあらゆる意味でまずい。

「いらんことせんでよろしい。余計なことしたらもう二度とテスト前の一夜漬けノート作っちゃらんきね」
「えっそれはやばい。あれがないと俺赤点確実やもん」
「それやったら大人しく言うことを聞きたまえ」
「へーい」

 弟がつまらなそうに短い返事をしたところで、母がニコニコと笑いながら「ご飯食べた?」と尋ねてきた。

「うん。軽くやけど」
「夕飯のおかずちょっと残っちゅうけど、食べる? お酒飲みながらやと、あんまり食べてないんやろう」
「じゃあせっかくやき、もらおうかな」

 母は「よっこらしょう」と言って立ち上がる。
 その言い方が、私の「よっこらしょう」にそっくりで、何となく笑ってしまった。一緒に暮らしていると似てくるものなのだろうか。

「いいよ。自分で用意するき」
「いいのいいの、お母さんやっちゃる。その間に楽な服に着替えてきなさい。ついでにお風呂も入ったら? 今日も蒸したき。汗かいたやろう」
「ありがとう。ほな、お言葉に甘えて」

 「たくさん飲んだんやったらシャワーだけにしときなさいよ」という母の言葉に「はーい」と返事を返しながら、部屋着兼寝巻にしている高校時代の体操着を持って風呂場に向かった。
 もうすぐ築五十年を迎える木造の家は、すでにあちこちにガタが来ている。風呂場の引き戸の尋常ならざる重さもそのひとつだ。

「よっこらしょう」

 思いっきり力をこめてズリズリと戸を開け、タイル張りの洗い場に入って、再びの「よっこらしょう」と共に戸を閉める。
 古い家だからあちこちに隙間でもあるのか、夏になると得体の知れない虫たちがどこからともなく襲来する。風呂の高い天井の近くには今日も小さな虫が何匹か張り付いていたけど、自分に向かって飛んでこない限りは別に害もないのでそのままにしておくことにした。
 ここで暮らし始めたばかりの頃は大きな蜘蛛を見つけて悲鳴を上げたり、トイレの壁にはりついた小虫ひとつで大騒ぎをしたりしていたけれど、今では慣れたものだ。虫たちとの共存は田舎に暮らす宿命だから。

 虫から目を離し、ボディーソープをスポンジにつけて丹念に泡立てた。
 すでにほとんど消えた鬱血痕をなぞるように首からゆっくりとスポンジを滑らせる。お酒で火照った肌に触れる泡の感触は普段と少し違う。ふわふわ、やわやわとしていて、何となくつかみどころがない。
 首、耳の後ろ、肩……毎日繰り返すこの作業には自分の中で決まった順序があるけれど、その順序は家庭によって、人によって違うものらしい。私の場合は母から教わったものだ。

 ――『まずは首から。そう、上手上手。耳の後ろをあろうて。それから、肩。腕。うんうん、麻衣ちゃん、その調子』

 優しい声に、初めて嗅ぐボディーソープの香り。それらと共に私を包み込んだ苺の香りが、私にどれほどの安らぎを与えてくれたことか。あの日と同じボディーソープをあの日と同じようにぬるめのお湯で洗い流していたら、不意に涼子の言葉が蘇ってきた。

 ――やっと普通の恋愛ができるやん。

 普通の恋愛。
 それは私がずっと願ってきたはずのものだった。
 匂いに邪魔されない、ただ、普通の恋愛。

 シャワーを頭からザーザーとかぶる。

 ――俺が抱かせてって言うたら、抱かせてくれるが?

 彼の言葉に傷ついたわけではない。
 ただ、キレイな思い出と一緒に粉々になったものがあった。
 粉々になったのは、希望だ。

 人並みでいい。
 普通でいい。
 ただ、好きな人に好かれたい。
 その人とずっと一緒にいたい。

 バカみたいに追い求めてきたものは、追い求めたがゆえに手の届かないところに行ってしまった。
 私ひとりを大切に想ってくれるような誠実な人は、短命な恋愛ばかりを繰り返す私みたいな女を本気で好きにはならない。
 そんな当たり前のことに、あの一言で気づかされたような気がした。

 ――抱かせてくれるが?

「ヤケっぱち、だったがかなぁ」

 そう呟いたつもりだったけど、シャワーを頭から浴びていたせいでガボガボという音しか出なかった。
 シャワーコックを締め、顔の水を軽く手で拭う。それからシャンプーを済ませ、面倒だからとトリートメントは省いて風呂を上がった。濡れた手足ではなかなか踏ん張りが利かず、出るときの「よっこらしょう」は入るときよりも少し大変だ。
 掛け声とともに風呂の戸を閉め終えると、バスタオルで手早く体を拭いていく。
 急いで済ませたつもりだったけど、部屋着を身につけ終わるころにはすでに洗面台の鏡は真っ白に曇っている。バスタオルの隅っこで鏡の真ん中をキュッキュと拭いて化粧水をつけ、生乾きの髪の毛をタオルで包んで洗面所を出た。

 洗面所のすぐ隣にはトイレがあり、廊下の左側のドアを開けるとダイニングキッチン。反対側の障子戸が居間につながっている。
 居間からは、光と共に相変わらず楽しそうな笑い声が漏れてきていた。
 真ん中の弟は明るく、話がうまい。大学から持ち帰った色々な話を面白可笑しく語っているに違いない。
 私もその輪に入ろうと襖に手を掛け、開いた瞬間だった。
 飛び込んできた団欒の風景と、飛び込んでくるはずだった家族の甘い匂い。
 母からは苺、父からはブルーベリー、真ん中の弟はラズベリーで、一番下の弟はコケモモだった。
 だけど今は、障子から漂うかすかな紙の匂いがするだけだった。

「あ、上がった? ご飯、ダイニングのテーブルの上に置いちょいた」

 母の声が、どこか遠かった。

「ねぇちゃん? ぼぉっとして、どしたが?」

 下の弟の声も、遠い。

「髪はよう乾かさなぁ風邪ひくぞ」

 父の声は、うっすらとした膜の向こう側から聞こえてくるようだった。

「おい、ねぇちゃん。飲みすぎか? オーイ」

 真ん中の弟の声でようやく我に返った。
 数度瞬きをし、視線を団欒の風景に戻す。

「大丈夫? のぼせた?」
「ううん、ごめん、全然大丈夫。お母さん、ご飯ありがとう」
「洗い物は明日の朝まとめてやるき、終わったら食器流しのとこに置いといて」
「わかった」

 障子を閉め、ダイニングへ続くドアを開けた。
 暗い空間に、一人分の食事。
 記憶の片隅にわずかに残る声が、耳の奥で響いた。

 ――あっち行っとけ、ガキが。

 ――あんたのせいでまたアカンなった!

 ――カップラーメン、置いといたから。

 ――邪魔や言うてんねん。

 ――ゴミ出しとけって言わへんかった?

 ――さわんなや。

 ――甘ったれんな、泣いたって優しくなんかせぇへんぞ。

 ――こぼすなや、こぼすなら食うな。

 ――なに見とんじゃ。その目ェがムカつくんじゃ。

 男の声と、時折混じる女の声。
 男の声はどれも違う人物のものだ。

 ――給食費、もらえたかな?

 ――この痣はどうしたの?

 ――お母さん、今日はお家にいてる?

 ――お母さんに会ってお話ししたいって伝えてくれるかな?

 ――いつも夜、ひとりでいるの? お母さんは?

 わからない。
 わからない。
 どうして嫌われているのか、どうして邪魔にされるのか。
 いつ怒られるのか、どうして怒られるのか。
 あの人がいつも、どこへ出かけていくのか。
 次はいつ帰ってくるのか。
 誰と帰ってくるのか。
 その人は叩く人なのか。
 わからない。
 わからない。

 ――麻衣、ごめん。今まで気づいてやれんで、ごめん。お父さんたちと暮らそう。新しいお母さんも「楽しみにしちゅう」って。

 ――麻衣ちゃん、はじめまして。「お母さん」って呼びにくかったら、無理に呼ばんでもいいきね。いつか呼んでくれたら、嬉しいけど。

 ――麻衣、これが麻衣の弟だよ。ショウヘイいうが。今日から麻衣はお姉ちゃんやき。もうすぐもう一人弟が増えるき、もっと賑やかになるきね。

 遠い、遠い日の記憶。

 ――『麻衣、心当たりはないが? 匂うようになった理由とか、急に匂わんなった理由とか』

 何度思ったことだろう。

「どうして私にだけ匂いがわかるがやろう」
「こんな能力、いらんのに」

 だけど、失ってしまった今ならわかる。
 あれはきっと、身を守る術だった。
 そしてたぶん、心を守る術でもあった。
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