芳香罪【方言ver.】

金里遠玖 かなりとおく

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6 紅ショウガ

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 年齢と時間の感じ方は反比例するのだと、どこかで聞いたことがある。
 子供の頃はとてつもなく長く感じた一年という時間も大人になるとあっという間に過ぎていく。それは日々の忙しさに追われているせいでもあるのだろうし、たぶん感動が減っているからでもあるのだろう。
 恋と同じだ。
 経験を重ねて賢くなる対価として、感動を手放す。
 だから時として、若いころのキラキラした感動が無性に愛しく、尊いものに思えることがある。

「ねぇ! それ、なに?」

 顔を上げると、浴衣を着た小さな女の子が瞳を輝かせていた。
 世間はお盆休み。
 私は支店からほど近い公園で行われる地域のお祭りに、焼きそばの売り子として参加している。もちろん、趣味ではなく仕事で。これも銀行の地域振興の一環で、町内会が主催する焼きそばの屋台のお手伝いに駆り出されるのだ。三日間の日程の最終日に行われる花火大会には、うちの銀行も協賛企業としてしっかりと名を連ねている。

「どれ?」

 周囲のざわざわに負けないように大きな声で女の子に聞き返すと、女の子は私が持っている大きなタッパーを指さした。

「それ!」
「ああ、これ? これはね、紅ショウガ」
「べにしょうが?」
「うん」
「きれーやねぇ」

 そう言われてみれば、たしかにきれいな色をしている。でも、それが紅く色づけされた生姜だと知っている私には、紅い生姜以外の何かに見えることはない。
 テントから漏れだす光が女の子の瞳に反射して、少し眩しいくらいだった。

「きれいな色やけど、食べたらちょっとピリッてするよ」
「からいの?」
「うん。おとなの味かな」
「おとな? 四さいになったらたべれるかな?」

 ということはつまり、この女の子は三歳なのだろうか。
 そういえば、小さい頃はひとつ年齢が上がるだけで、ぐんと大人になったような気がしていた。だから女の子にとって、四歳は自分よりもずっと大人に思えるのだろう。身長もどんどんと伸びていく時期だから、あながち間違ってもいないのかもしれないけど。

「うーん、もうちょっと大きくなったら、かなぁ」
「五さい?」
「もうちょっと」
「六さい?」
「もう一声」
「七さい?」
「もうちょっと」

 とたんに、女の子は困ったような顔をする。

「十三までしか、数えれんがやけど」
「十三歳くらいになったら、食べれると思うよ。もしかしたらもう少し早くに食べられるようになるかもし」
「そうなの?」
「そう。楽しみにしちょってね」
「うん!」

 女の子が元気にうなずいたところで、人ごみの中から「あやちゃん、一人であちこち行っちゃダメって言っただろ?」という声がして、一人の男性が女の子をひょいと抱き上げた。女の子は甘えるように男性の首に手を回し、先ほど知ったばかりの紅ショウガのことを男性に伝えようと高い声を上げている。

 男性が女の子から視線をはずしてこちらに向いた瞬間、お互いに「あ」という顔をした。

「あれ? 上澤?」
「もしかして……入交いりまじりくん?」
「そう。久しぶりやなぁ」

 男性は高校時代の同級生だった。彼も変わらない。
 当時の女友達に会うと、皆それぞれに変わっていて、「綺麗になったねぇ」と言い合うのが常なのに。
 そう思ったところで、それが化粧のせいなのだと気づいた。

「上澤……家、この辺やったかね?」
「ううん。今日は仕事で」
「ああ、そうか。上澤、銀行か」
「うん。その子……入交くんの?」
「いや、姉貴の子やってさすがに。俺はまだ独身」
「そっか」
「あやちゃん、ちょっと先にばあちゃんとこ戻っちょいて」

 入交くんがそう言って女の子を下ろし、糸ヨーヨーを渡すと、女の子は元気にうなずいて人ごみをすり抜けていく。鮮やかな赤の浴衣に、黄色の兵児帯。浴衣や着物にはてんで詳しくないけど、ああいうのを「絞り」と言うんだったか。しわしわ、ヒラヒラとした帯が、金魚みたいに泳いで人の波に消える。
 その背を見送ってから、彼はこちらを向いて懐かしそうに微笑んだ。私は抱えていた大きなタッパーを開け、紅ショウガを目の前の小さな器に補充する。

「ほんと、ひさしぶりやな」
「うん。入交くんはたしか大阪やっけ?」

 紅ショウガの香りが鼻に抜ける。

「そうよ。盆休みで帰省中」
「そっかそっか」

 タッパーを閉じ、ふたの上に小さなトングを乗せて脇のテーブルの上に置いたところで、一緒に売り子をしている支店の先輩から声が掛かった。

「上澤さん、お友達?」
「あっはい。高校の同級生です」
「あ、ほなちょっと早いけど休憩にしたら?」
「えっ」
「今ちょうど空いちゅうし」

 大丈夫です、そう答えようとして入交くんに視線をやった。
 彼は神妙な顔でこくんとうなずいた。
 何か、話したいことでもあるのだろうか。入交くんは、彼――上村一成――の、仲の良い友人だから。

「ほんなら、お言葉に甘えて。十分ばぁで戻ります」

 そう言うと先輩はにっこりと笑った。この人からよく香っていた腐りかけのフリージアは、今はどんな香りになっているのか。笑顔が本物なのかどうか、知る術はない。

「うん、行ってきぃ」

 エプロンを外して長机に置き、テントから外に出た。入交くんと並んでゆっくりと歩き出す。

「どうよ、最近」
「うーん、どうかなぁ。仕事もまぁまぁたのしゅうて、そこそこ充実しちゅうかなぁ」
「……カズがこっち帰って来たって、知っちゅう?」

 遠慮がちに、入交くんは言った。

「うん」
「そっか。明日さ、筒井とか谷脇とか小松とか、あの辺の連中と飲むがやけど」

 挙がった名はどれも、高校時代の野球部のメンバーのものだった。

「カズも来るって」
「そうなん」

 入交くんは私の顔を覗き込んできた。
 ふわり。入交くんからはお酒の匂い。お祭りだから、きっとワイワイ飲んでいたのだろう。
 私は目を逸らして、公園の木にとまったセミの幼虫を見つめていた。

「お前らさ、なんで別れたが?」
「……今さら、その話?」
「今やき、こそ」

 どくん、とひとつ心臓がはねた。
 この間の出来事を、知っているのだろうかと。

「もうさすがに、時効やろ?」

 付け加わった言葉に、ひとり安堵する。
 どうやら知っているわけではないらしい。

「お前らずっと、めちゃくちゃ仲よかったやん。それやのに、ほんまに突然口もきかんなってさ」
「……私に聞かんで彼に聞いたらええんとちやうかな」
「あいつ、絶対に口割らんがって。上澤にも絶対に何も聞くなとか言うて」

 そういえば、最悪な初チュー事件についてその後誰かから何かを言われたことはなかった。別れた理由を聞かれたこともなかった。あの事件は、からかいの種になってもおかしくないようなものだったのに。

「大学入ってからも休みは割と予定合わせて帰ってきて集まりよったがよ。そこで上澤の話出るとさ、まぁ皆聞くわけよ。お前らなんで別れたんって。その度あいつ、本気で不機嫌になるがってね」
「そっか」
「でも一回だけベロンベロンに酔った時にポロッとこぼした。『俺のせいや。たぶん俺が急ぎすぎた』って」
「え……?」
「もし上澤がそれで怒っちゅうがやったら、もう許しちゃってくれんかな? 高校生ってそういうの、ちょっと急ぎがちやん?」

 彼はむしろ、私のペースに合わせてくれていたような気がする。急ぐどころか、付き合ってから半年近く経って初めてキスしようかというくらいの流れだったから。

「俺はおせっかいやきさ」

 昔から世話好きだった入交くんは、私と彼が付き合う前もしょっちゅう「お前ら付き合わないの?」と言ってきたし、「上澤、好きな奴いないの? 俺が仲取り持ってやろうか?」と持ちかけられたことも何度もあった。

「あいつがずっと上澤のこと引きずっちゅうがぁ見て、気になっちょったがって。クラスの誰かが大学に入って垢抜けたとか可愛くなっちょったとか、そんな話しても全然興味なさそうやのに、上澤の話になると身ぃ乗り出すがって」

 言葉がうまく、出てこなかった。

「急ぎすぎが理由でフラれたのに、浪人終わって大学入った途端の華やかな男性遍歴やろ。カズはやっぱし、やりきれんかったと思うよ」

 ――麻衣はさ、変わったよな。

 相変わらず、言葉は見つからない。
 入交くんはそんな私から視線を逸らし、小さなため息をついて肩をすくめた。そして、靴先で地面を掘った。湿っぽい、土の香りが漂ってくる。

「カズに、何か伝えることある?」

 入交くんは真顔だった。
 私は首を横に振りかけて、止めた。

「……『ごめん』って」
「え?」
「『ごめんね』って、伝えて」

 彼が急ぎすぎたわけではない。彼のせいじゃない。
 謝らなくちゃいけないのは私の方だ。お詫びのはずのディナーはあんな形で終わってしまったし。

「それは、何に?」
「高校時代のこと。ごめんって。カ……上村くんのせいじゃないって。あれは、私が……」

 『飽きちゃった』
 高校時代には思いつきもしなかった言い訳。
 恋愛を綺麗に終わらせる方法を、今の私は知っている。重ねた経験は私をひとつずつ賢くしたはずだ。
 簡単なことだ。
 これまでに何度も繰り返してきた決まり文句を口にするだけ。騙す相手は本人じゃないのだから、いつもよりずっと簡単に口にできるはず。
 入交くんは、私の言葉を待っていた。

「……『大好きやった』って」
「え?」
「え?」

 入交くんが聞き返したのと同時くらいに、私も自分で声を上げていた。
 私は、一体、何を。

「……過去形、なが?」

 頭の整理がついてないうちに、入交くんがぼそりと言った。私もそれに、ぼそりと答える。

「……過去形、だよ」
「やのに、泣くが?」
「だって、懐かしい、から」

 大好きだった。本当に。
 純粋で、キレイで。
 素直で飾り気のないあの頃の感動が、金魚の帯みたいに愛おしい。
 涙は一筋だけ頬を流れて、ぽとりと地面に落ちた。

「伝えるよ」

 入交くんは当時みたいにからかったりせず、涙の理由をそれ以上追及することもなく、静かにそう言った。
 大人になった。彼も、私も、あの彼も。

 その後焼きそばのテントに戻ると、先輩は相変わらずにこやかだった。

「話せた? もうちょっとゆっくりしてきてもよかったに」
「ありがとうございます。もう大丈夫です。次は先輩、休憩どうぞ」
「ほな、行ってこうかな。旦那が娘と来ちゅうはずやき、あとで焼きそば買いに連れてくるね」

 そう言って先輩は一心不乱に焼きそばを焼く自治会のおじさんの方に視線を流した。

「売上に貢献せだったら、『焼きそばおじさん』がうるさそうやき」

 支店からは毎年数人がこのお手伝いに駆り出されていて、焼きそばテントを取り仕切る「焼きそばおじさん」のことは代々語り継がれていた。どこの町内会にもいそうな仕切り屋のおじさんだ。町内会の人の参加率が悪いと文句をつけるし、干渉がましいし、やたらと偉そうに振る舞うしで煙たがられているけど、誰もやりたくない露店を毎年熱心にやってくれるからと、皆テキトーに言うことを聞いているらしい。

「上澤ちゃんやっけ? あんたは、結婚は?」

 先輩がいなくなってほどなくして、増えてきたお客さんをさばいていると、おじさんから声がかかった。

「まだです」
「まだってことは、もうすぐ?」
「いいえ、予定もありません」

 まったく、困っちゃいますよね。
 そんな表情を作りながら、おじさんが焼いたものを私がパックに詰め、鰹節をのせ、紅ショウガを添える。

「最近の子は結婚遅いねぇ」
「そうですねぇ」
「昔はクリスマスケーキって言うてさ、二十五過ぎると売れ残りやったけんどねぇ」
「そうながですか。私いま二十五ですき、もうギリギリですね」
「急いで探した方がええんとちがう。せっかく可愛い顔しちゅうがやきに、若いうちにちょちょっと結婚しちょかんと、歳食ったらどんどん不利になるで」

 もくもくと、鉄板から煙が上がる。
 パックを閉じ、輪ゴムで止め、割り箸を輪ゴムにするりと通す。

「二パックで八百円になります」

 ビニール袋に入れてお客さんに手渡し、また次のパックを手に取る。

「彼氏もおらんが?」
「ええ。おりません」
「なんで?」
「何で……でしょう」

 鉄板からの熱で、全身汗びっしょりだ。

「愛嬌もあるし、人気ありそうやのに」
「そうですか? ありがとうございます」
「うん。上澤ちゃんが売り子やりゆうとさ、やっぱりよく売れるよね。自治会のおばちゃん連中が揃って『あの子にやらせたらいい』って言いよったがやけんど。大当たり」

 どうやら体よく押し付けられたらしいことを理解した。

「うちの甥っ子、新聞社に勤めゆうけど、どう? 三十四。バツ一やけど、なかなかイイ男で」

 笑いながらだから、どこまで本気だかよくわからなかった。でも、きちんと断っておかないと後々めんどうなことになりそうだと判断して笑いながら答えた。

「彼氏はおりませんけど、好きな人がおるんです」
「片想いってやつ?」
「そうです」
「支店の人やったりして? それならおじさんも知っちゅう人かも」
「いいえ」
「どんな奴なんよ。ちょっと言うてごらんよ。おじさんが判断しちゃうき。うちの甥っ子よりいい男かどうか」
「高校の……同級生です」

 ただの言い訳だったはずのそれが、ずるずると真実味を帯びる。

「へぇ、それで?」
「初恋の人で、卒業してからずっと会ってなかったがですけど、ついこの間久しぶりに再会したがです」
「そっかぁ。そういう歴史があるとねぇ、うちの甥っ子もちょっと太刀打ちできんかもなぁ」

 作り話でよかったのだ。
 焼きそばおじさんのお節介計画を頓挫させられさえすれば。
 嘘っぽくなりすぎないようにと適度な真実を混ぜ込んだはずのそれは、嘘というには少し重かった。どこまでが嘘で、どこからが真実か、自分でもよくわからなくなってしまう程度には。

「うまくいくといいね」

 おじさんの言葉に頷きながら、顔の横を伝う汗を拭った。

 紅ショウガの正体を知ってしまった私は、知らなかった頃のキラキラした感動を得ることはないだろう。
 だけど代わりに、焼きそばとの相性が抜群なことも、刻んでたこ焼きに入れるとおいしいことも知っている。枝豆と一緒に天ぷらにすると、酒の肴に最高だということも。
 あの女の子の感動とは違う、新しい感動を得るたくさんの方法を。


〈上村です。伝言、聞いた。できれば会って話がしたい〉

 次の晩、短いメールが届いた。
 とうにわからなくなったとばかり思っていた彼のメールアドレスは、当時と変わってはいなかった。
 私のアドレスもまた、あの当時と同じだ。心のどこかで、何かを期待していたせいかもしれなかった。


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