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7 捨て犬みたいな目
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『邪魔者がおれへんようになってくれて、せいせいするわ。あんたのことなんか、大っ嫌いやってんから』
――やめて、やめてよ……!
耳を塞いで叫んだら、ゆさゆさと体を揺すられた。
「……ちゃん、ねぇちゃん!」
目を開けると、焼きおにぎりが私の顔を覗き込んでいた。猛暑の中、連日の部活でこんがり具合は日に日に増している。そのおにぎりの向こう側にある天井が見慣れた自分の部屋のものであることに安堵して、ひとつ深呼吸をした。
「ねえちゃん、むっちゃうなされよったぞ。布団の上でバタフライしよるかと思うた」
どれほどダイナミックなうなされ方をしていたのか少し気になったものの、深く掘り下げる元気は残っていなかった。枕に顔を押し付け、もごもごと言った。
「あー……なんか怖い夢みよった気がする……」
「怖い夢って。子どもかよ」
のろのろと上体を起こしてベッドの縁に座り、いつの間にか蹴り落としたらしいタオルケットを持ち上げてベッドに乗せる。
「夢に大人も子どもも関係ないやろ。こないだなんか、巨大なカマキリに襲われたで」
「ねぇちゃん、怖い夢の程度……低うない?」
「カマキリで! 超怖いやん! あの三角形の顔とカマが間近に迫ったところを想像してみぃや。人型の死神よりよっぽど怖いき」
ぶる、と肩を抱くと、弟は生意気にフッと笑った。
「怖くねぇし」
「む。じゃあ、あんたの怖い夢ってどんなん」
「小さいころ熱出すと必ず見よった、スプラッタなやつ。人が輪切り……」
「あ、もうイイです」
弟は肩をすくめ、ベッドサイドの小さなテーブルの上に載っていたリモコンを手に取った。ピッという小さな電子音に続き、涼しい風がすーっと吹いてくる。
「こんな暑い部屋でクーラーもつけんと寝ゆうき変な夢みるがやない?」
「そうかも」
「あと、寝すぎやき。もう十一時やぞ」
「疲れちょったがやもん」
寝る前よりも今の方が疲れているような気がする。 不快な夢を見た記憶はあるけど、夢の内容は徐々に徐々に薄れていく。うすらぼんやりとして掴みどころがなくて、ただモヤモヤとして不快感だけが体を包む。
代わりに覚醒し始めた耳が、窓に叩きつけるようなボツボツという重い音を拾い上げた。
「……雨?」
「そう。ジャン降り」
「そっか。それで、焼きおにぎりが家に……」
「おにぎり? 寝ぼけちゅうが?」
「いや、部活、ないんやなと思って」
「そうよ。久々の休み。そんでさ、お願いがあるがやけど」
リモコンをベッドのマットレスの上にポンと投げながら、弟は言った。
私はベッドから立ち上がり、重い頭をぶるぶると振る。やけに疲れているのは、寝すぎのせいか。それとも昨日先輩にこっぴどく叱られたせいか。
「ショッピングモール連れてってくれん?」
立ち上がっても、弟にはまだ見下ろされている。お願い事をされているはずなのに見下ろされるのは、何だか癪だ。
「ショッピングモール? なんで?」
「スポーツショップに用事あるが」
「……えー……いや」
「なんで?」
「今日夕方から用事があって出かけるから。あわただしくなるやん。お父さんに頼んでよ」
「言うてみたけど、自分でチャリで行けっていうがやもん。片道五十分、この雨やぞ? 死ぬって」
最近は東京の方でも「ゲリラ豪雨」と呼ばれるすごい雨が降ったりするようだけど、この辺りでは昔から打ちつけるような雨がよく降る。幼いころ傘を持たずに夕立に遭い、あまりの水の勢いに息苦しくなったこともあるくらいだ。雨の音はポツポツ、シトシトではなく、バタバタ、ザアザア。本当にバケツをひっくり返したんじゃないかってくらいの勢いで降り、道路の上を水が這う。
「晴れちゅう日にチャリで行ったらいいやん。いい筋トレになるやろ」
今日はちょっと疲れているし、こんな雨の日の運転は殊更に気を遣う。ショッピングモールまでは車で二、三十分ほどだけど、週末で雨とくれば間違いなく渋滞している。行って、戻って、夕方また出かけるのは正直かなり億劫だった。
「それか、学校帰りに行ったら? 学校からやったら近いやろ」
そう言って大きな欠伸をしてから弟を見上げたら、ムッとした顔をしていた。
「なんや。ケチくさ」
弟の口から飛び出した言葉に、ひるんだ。
目を逸らして唇を突き出した表情は末っ子お得意の「拗ねたフリ」にも見えるし、本当に機嫌を損ねているようでもある。
「晴れちゅう日は大体部活あるし、グローブの紐切れそうでピンチやのに」
ため息交じりの言葉からは、弟の感情がまるで見えなかった。
背中を、暑さのせいではない汗が静かに流れ落ちる。
そして汗に逆行するように、冷たい何かが背を這い登った。
『あんたのことなんて、大っ嫌い――』
薄れ切っていた夢のひとかけらが唐突に耳の奥で響く。
ごくん、耳からそれを追い出すように唾を飲んだ。
「……いいよ」
「あ、まじ? やった。さんきゅ」
ころりと笑顔になったところをみると、本気で怒ったわけではなかったのか。
ふぅ、と静かに息を吐き出すと、耳の奥で響いていた鼓動が少しずつおさまっていく。
「ねぇちゃん、あとどんくらいで出れる?」
「十五分、くらいかな」
「りょうかーい」
弟は嬉しそうに部屋を出て行った。
ふう、と一つため息を落とし、パジャマ替わりのTシャツを脱ぎ捨てた。寝ている間に相当な量の汗をかいたらしく、Tシャツはじっとりと湿っている。首の後ろをぐりぐりと強く手で揉んでみても、肩と頭のずしりとした重さはとれそうになかった。疲れの原因は悪夢だけではない。
『上澤さん、この間も言うたやろう。クレームは初期対応を間違えると大きくなるって』
昨日の先輩の言葉が蘇った。
私はただ、頭を垂れて謝るしかなかった。
昨日は給料日で、店舗が珍しく混雑する日だった。暑さと長い待ち時間のせいでお客様のイライラも最高潮だったのだろう。「窓口での預金の払い戻しには印鑑が必要です。カードと通帳をお持ちでしたらATMへどうぞ」という型通りの説明をしている間に、その初老の男性の怒りが少しずつ少しずつ膨らんでいることに、私は気づけなかった。そして先輩がフォローに入ってくれたときにはすでに、男性の怒りは頂点に達していた。結果、最終的には支店長まで出てくるほどの大事になってしまったのだ。
『上澤さんの説明が間違っちょったわけじゃない。でも、もう少しお客様の感情に寄り添うような対応をすべきやったと思う。ATMにご案内して操作をお手伝いするとか。忙しかったがはわかるけど、それはお客様には関係ないことだから』
ブラジャーのホックを体の前で止め、くるくると後ろに回してから前かがみになった。脇の肉を寄せてカップの中に押し込み、サイドを整えてキャミソールを着る。その上から黄色い半袖のワンピースをかぶり、鏡を見た。
すっぴんの顔は疲れていて、いつもよりだいぶ老けて見える。
――感情に寄り添う、か。
鏡の中の自分は、不思議な表情をしていた。
眉根が少し寄っているけど、怒っているのとは少し違う。額にできたまっすぐの皺からはどこか困っているようにも見える。それに瞼がいつもより腫れぼったいせいで二重の幅が余計に広がって、普段よりも眠そうだ。
眠いとか、叱られて凹んでいるとか、昨日のお客様に少し腹を立てているとか、そういう感情が全部寄り集まるとこういう表情になる。それはわかっても、その逆は――こういう顔を見て、逆算して複雑に絡まる感情を読み解くことは――難しい。
「ねぇちゃん、まだー?」
玄関から聞こえてきた弟の催促に、「顔洗って歯磨いたら出れる」と返事をしながら、階段を駆け下りた。
「晃平、休みやのに練習着?」
高速で左右に振れるワイパーの向こう側に目をこらしながら、助手席にいる弟に問いかけた。
ボトボトと、車の屋根を叩く雨の音がうるさい。
「私服持ってないき」
茶色い弟は紺色のノースリーブのアンダーシャツの首元を引っ張りながら言った。
「平日は制服で、休日はほとんど部活やろ? 私服着る機会なんかないがって」
「えっ」
弟が私服を持っていないという事実ではなく、その発言が呼び起こした記憶のせいで出た「えっ」だった。
――ダサくてごめん。首が伸びたTシャツ着て家出ようとしたらばあちゃんにみっともないって止められてさ。持っちゅう中で一番ボロくない服、これやったがって。もう部活引退しちゅうがやき、そろそろ普通の服買わんとな。
そう言ってアンダーシャツで笑った彼と、まさかこのタイミングで遭遇することになろうとは。
「上澤?」
背後からの声に振り返ると彼は少し離れた場所に立っていて、私と弟を交互に見ていた。
彼が、弟と私のどちらに気づいて声を掛けたのかはわからなかった。
「あっ上村コーチ! こんっちは!」
棚の前にしゃがみ込んで熱心に商品を見つめていた弟は、途端にシャキッとして彼に駆け寄り、頭を下げる。目下たけのこ並の成長期を迎えている弟は、長身の彼と並んでもそれほど差はなかった。
「ういっす」
「練習休みになったき、グローブの紐買いに来たんす」
「皆考えることは一緒やなぁ。さっき新堂にも会うたよ」
「あ、まじっすか?」
「うん」
大型のスポーツショップといえばこの場所か、さらに車で三十分ほど走ったところの道路沿いの店舗しかない。だからって何も、同じ日にスポーツショップに寄り集まらなくてもいいものを。
「コーチも買い物っすか?」
「俺はグラブのオイル見に来た。ついでに最近ちょっと緩んじゅう体を引き締めようと思ってプロテインをな」
「えっ全然緩んでないっすよ」
「脱ぐと腹がな」
そう言ってから、彼は弟の後方二メートルほどの位置に立つ私のほうに視線を寄越した。
私はあわてて目を逸らした。「脱ぐと」なんていうタイミングで、こっちを見ないでほしい。
弟が振り返って私の姿を確認し、彼に向き直る。
「あ、アレねえちゃんです。高校時代の同級生なんすよね?」
「うん」
そう言ってから、彼は苦笑いした。
「上澤、だもんな。名字同じやのに全然気づかんかった。あんまり似てないがやな」
「やっぱ似てないっすか?」
「うん、顔もやし、それに体格も」
いたずら坊主みたいにニヤッと笑った彼は、昔のように私の身長をからかおうとしただけだったのかもしれない。
でも、私はうまく笑えなかった。
隣の棚に並べられたグローブから漂ってくる革の匂いが鼻の奥をつんと突く。
長身な両親に似て弟は二人とも背が高い。
一家でちんちくりんは私だけだ。
「もうちょっと似ちょったら俺もモテたかもしれんのになぁ」
ぼやく弟の背を見つめ、私は何も言わずに彼に軽い会釈だけをした。
夕方から会う約束をしている人と昼に会ってしまうのも何だか妙な気分だ。きっと彼も同じだったのだろう。
「雨、気い付けて帰れよ」
弟に対するものなのか私に対するものなのか、わからない言葉を残して彼はその場を立ち去った。
買い物を済ませて外に出ると、雨足は幾分弱まっていた。
パタパタ、サアサア。
雨は決して好きじゃないけど、雨の日に車が走る音は好きだ。サァァアッという音と水しぶきとともに、駆け抜けていく。
たぶん、騒がしいのが好きなのだ。静寂が何よりも嫌いだから。幼い頃に高熱を出して必ず見ていたのは、人の輪切りでもカマキリでもなく、音の無い暗闇でひとり膝を抱えて座っている夢だった。
来るときよりもゆっくりとしたワイパーの動きを見つめながら信号待ちをしていたら、弟がぼそりと言った。
「ねえちゃん、上村コーチと昔なんかあったが?」
「え?」
「コーチの笑顔、ちょっと変やったき」
「……そうかな」
「そうやって」
古い友人で、一度は付き合ったことがあるほど親しかった人なのに、全然気づかなかった。
たぶんそれは、彼が変わったということとは無関係なのだと思う。
昨日の仕事でも痛感させられたこと。
どうやら私は人の表情から感情を読み取る能力をどこかに置き忘れて来たらしい。
これまで香りに頼りすぎて、他の要素から人の感情を読み取る術を学んで来なかったから。
それに幼い頃、笑った次の瞬間に突然怒り出すような人と長い時間を過ごしたから。表情はアテにならないと、いつかの時点で諦めてしまっていた。
『あれだけお客様が怒ってらっしゃるときは、早めに上を呼ぶようにね』
『はい、すみません。以後気をつけます』
先輩には頭を下げたけど、先輩の言う『あれだけ』がどれのことが、実のところさっぱりわからなかった。ただ、声を荒らげて怒り出すよりも随分と手前のことなのだろうということだけはわかった。
「ねぇちゃん、『いちかけるいち』のアイスクリン食いたい」
「えっ。それやったら、さっきのショッピングモールの食品売り場で買うたらよかったのに」
「今食いたくなった」
「しょうがないなぁ。サミーマート、寄る?」
「うん」
帰り道にあるスーパーに車を止め、アイスクリンを買った。
駐車場に停めた車の中で、ふたりで食べた。
こうして一緒にアイスを食べるあたり、仲は悪い方ではない。たぶん弟に嫌われてはいないのだろうとも思う。でも、イマイチよくわからなかった。
弟から香るのはアイスクリンだけ。
生まれたときからこの弟が纏っていた甘い香りは、一体どこへ消えてしまったのか。
「ねぇちゃん、機嫌悪いが?」
「へ?」
「黙っちゅうき」
「考え事しよっただけ」
「そっか」
「アイスクリン、久しぶりに食べたなぁと思って」
「やっぱうまいよね」
「うん」
甘くて優しい味がする。普通のアイスよりも少し薄く、食感はシャーベットに近い。生成りの色も卵の風味も、どことなく懐かしい。
「なぁ、どしたが、ねぇちゃん」
窓の外に目をやってドーム状のアイスクリンをベロリと舐めながら、弟が言った。
「んー?」
私もアイスクリンを口に含んだままで答える。
「最近なんかおかしくない? ボーッとしちゅうこと、多い」
「そうかな」
「うん。下がり眉でこっちの顔覗き込んできたりさ。なんか、捨て犬みたいに見えるときある」
捨て犬、か。
その通りかもしれない。
「犬種は?」
「食いつくの、そこ?」
「捨てられ方に食いついてもしょうがないやろ」
「いや別にそういうことを言いいゆうわけじゃないけど。犬種ね……うーん……チワプー、かな」
「また可愛いのきたね」
正直、チワプーの顔は全然思い浮かばなかった。ただ、チワワとトイプードルを掛け合わせた犬なのだろうということは名前から察した。土佐犬じゃなかっただけで大満足だ。
「まぁ、なんせアイスクリンおごってもらいゆうからね」
「グローブの紐代もお忘れなく」
「あ、そうそう。あざっす」
「買い物行くのに財布持ってこんとか、ほんとええ度胸しちゅうわ」
「ねぇちゃんおるからいいかと思って」
「ドライバー兼お財布ですか」
「いや別にそこまでは」
「いいよ、晃平が働き始めたらこれまでのお返しに何かすごい高いもの買ってもらうき」
そう言ってにっこり笑うと、弟はコーンをバリバリと噛みながら言った。
「だいぶ先やぞ」
「早うしてよ」
「いや、無理やろ」
どろりと溶けたアイスクリンが指を伝う。
それを舐めとりながら、脳裏に浮かぶ声に必死で蓋をしていた。
『あんたのことなんて、大っ嫌いやってんから』
見つけた居場所を失いたくない。
ひとりぼっちになりたくない。
願いはいつも、恐怖と背中合わせだった。
――やめて、やめてよ……!
耳を塞いで叫んだら、ゆさゆさと体を揺すられた。
「……ちゃん、ねぇちゃん!」
目を開けると、焼きおにぎりが私の顔を覗き込んでいた。猛暑の中、連日の部活でこんがり具合は日に日に増している。そのおにぎりの向こう側にある天井が見慣れた自分の部屋のものであることに安堵して、ひとつ深呼吸をした。
「ねえちゃん、むっちゃうなされよったぞ。布団の上でバタフライしよるかと思うた」
どれほどダイナミックなうなされ方をしていたのか少し気になったものの、深く掘り下げる元気は残っていなかった。枕に顔を押し付け、もごもごと言った。
「あー……なんか怖い夢みよった気がする……」
「怖い夢って。子どもかよ」
のろのろと上体を起こしてベッドの縁に座り、いつの間にか蹴り落としたらしいタオルケットを持ち上げてベッドに乗せる。
「夢に大人も子どもも関係ないやろ。こないだなんか、巨大なカマキリに襲われたで」
「ねぇちゃん、怖い夢の程度……低うない?」
「カマキリで! 超怖いやん! あの三角形の顔とカマが間近に迫ったところを想像してみぃや。人型の死神よりよっぽど怖いき」
ぶる、と肩を抱くと、弟は生意気にフッと笑った。
「怖くねぇし」
「む。じゃあ、あんたの怖い夢ってどんなん」
「小さいころ熱出すと必ず見よった、スプラッタなやつ。人が輪切り……」
「あ、もうイイです」
弟は肩をすくめ、ベッドサイドの小さなテーブルの上に載っていたリモコンを手に取った。ピッという小さな電子音に続き、涼しい風がすーっと吹いてくる。
「こんな暑い部屋でクーラーもつけんと寝ゆうき変な夢みるがやない?」
「そうかも」
「あと、寝すぎやき。もう十一時やぞ」
「疲れちょったがやもん」
寝る前よりも今の方が疲れているような気がする。 不快な夢を見た記憶はあるけど、夢の内容は徐々に徐々に薄れていく。うすらぼんやりとして掴みどころがなくて、ただモヤモヤとして不快感だけが体を包む。
代わりに覚醒し始めた耳が、窓に叩きつけるようなボツボツという重い音を拾い上げた。
「……雨?」
「そう。ジャン降り」
「そっか。それで、焼きおにぎりが家に……」
「おにぎり? 寝ぼけちゅうが?」
「いや、部活、ないんやなと思って」
「そうよ。久々の休み。そんでさ、お願いがあるがやけど」
リモコンをベッドのマットレスの上にポンと投げながら、弟は言った。
私はベッドから立ち上がり、重い頭をぶるぶると振る。やけに疲れているのは、寝すぎのせいか。それとも昨日先輩にこっぴどく叱られたせいか。
「ショッピングモール連れてってくれん?」
立ち上がっても、弟にはまだ見下ろされている。お願い事をされているはずなのに見下ろされるのは、何だか癪だ。
「ショッピングモール? なんで?」
「スポーツショップに用事あるが」
「……えー……いや」
「なんで?」
「今日夕方から用事があって出かけるから。あわただしくなるやん。お父さんに頼んでよ」
「言うてみたけど、自分でチャリで行けっていうがやもん。片道五十分、この雨やぞ? 死ぬって」
最近は東京の方でも「ゲリラ豪雨」と呼ばれるすごい雨が降ったりするようだけど、この辺りでは昔から打ちつけるような雨がよく降る。幼いころ傘を持たずに夕立に遭い、あまりの水の勢いに息苦しくなったこともあるくらいだ。雨の音はポツポツ、シトシトではなく、バタバタ、ザアザア。本当にバケツをひっくり返したんじゃないかってくらいの勢いで降り、道路の上を水が這う。
「晴れちゅう日にチャリで行ったらいいやん。いい筋トレになるやろ」
今日はちょっと疲れているし、こんな雨の日の運転は殊更に気を遣う。ショッピングモールまでは車で二、三十分ほどだけど、週末で雨とくれば間違いなく渋滞している。行って、戻って、夕方また出かけるのは正直かなり億劫だった。
「それか、学校帰りに行ったら? 学校からやったら近いやろ」
そう言って大きな欠伸をしてから弟を見上げたら、ムッとした顔をしていた。
「なんや。ケチくさ」
弟の口から飛び出した言葉に、ひるんだ。
目を逸らして唇を突き出した表情は末っ子お得意の「拗ねたフリ」にも見えるし、本当に機嫌を損ねているようでもある。
「晴れちゅう日は大体部活あるし、グローブの紐切れそうでピンチやのに」
ため息交じりの言葉からは、弟の感情がまるで見えなかった。
背中を、暑さのせいではない汗が静かに流れ落ちる。
そして汗に逆行するように、冷たい何かが背を這い登った。
『あんたのことなんて、大っ嫌い――』
薄れ切っていた夢のひとかけらが唐突に耳の奥で響く。
ごくん、耳からそれを追い出すように唾を飲んだ。
「……いいよ」
「あ、まじ? やった。さんきゅ」
ころりと笑顔になったところをみると、本気で怒ったわけではなかったのか。
ふぅ、と静かに息を吐き出すと、耳の奥で響いていた鼓動が少しずつおさまっていく。
「ねぇちゃん、あとどんくらいで出れる?」
「十五分、くらいかな」
「りょうかーい」
弟は嬉しそうに部屋を出て行った。
ふう、と一つため息を落とし、パジャマ替わりのTシャツを脱ぎ捨てた。寝ている間に相当な量の汗をかいたらしく、Tシャツはじっとりと湿っている。首の後ろをぐりぐりと強く手で揉んでみても、肩と頭のずしりとした重さはとれそうになかった。疲れの原因は悪夢だけではない。
『上澤さん、この間も言うたやろう。クレームは初期対応を間違えると大きくなるって』
昨日の先輩の言葉が蘇った。
私はただ、頭を垂れて謝るしかなかった。
昨日は給料日で、店舗が珍しく混雑する日だった。暑さと長い待ち時間のせいでお客様のイライラも最高潮だったのだろう。「窓口での預金の払い戻しには印鑑が必要です。カードと通帳をお持ちでしたらATMへどうぞ」という型通りの説明をしている間に、その初老の男性の怒りが少しずつ少しずつ膨らんでいることに、私は気づけなかった。そして先輩がフォローに入ってくれたときにはすでに、男性の怒りは頂点に達していた。結果、最終的には支店長まで出てくるほどの大事になってしまったのだ。
『上澤さんの説明が間違っちょったわけじゃない。でも、もう少しお客様の感情に寄り添うような対応をすべきやったと思う。ATMにご案内して操作をお手伝いするとか。忙しかったがはわかるけど、それはお客様には関係ないことだから』
ブラジャーのホックを体の前で止め、くるくると後ろに回してから前かがみになった。脇の肉を寄せてカップの中に押し込み、サイドを整えてキャミソールを着る。その上から黄色い半袖のワンピースをかぶり、鏡を見た。
すっぴんの顔は疲れていて、いつもよりだいぶ老けて見える。
――感情に寄り添う、か。
鏡の中の自分は、不思議な表情をしていた。
眉根が少し寄っているけど、怒っているのとは少し違う。額にできたまっすぐの皺からはどこか困っているようにも見える。それに瞼がいつもより腫れぼったいせいで二重の幅が余計に広がって、普段よりも眠そうだ。
眠いとか、叱られて凹んでいるとか、昨日のお客様に少し腹を立てているとか、そういう感情が全部寄り集まるとこういう表情になる。それはわかっても、その逆は――こういう顔を見て、逆算して複雑に絡まる感情を読み解くことは――難しい。
「ねぇちゃん、まだー?」
玄関から聞こえてきた弟の催促に、「顔洗って歯磨いたら出れる」と返事をしながら、階段を駆け下りた。
「晃平、休みやのに練習着?」
高速で左右に振れるワイパーの向こう側に目をこらしながら、助手席にいる弟に問いかけた。
ボトボトと、車の屋根を叩く雨の音がうるさい。
「私服持ってないき」
茶色い弟は紺色のノースリーブのアンダーシャツの首元を引っ張りながら言った。
「平日は制服で、休日はほとんど部活やろ? 私服着る機会なんかないがって」
「えっ」
弟が私服を持っていないという事実ではなく、その発言が呼び起こした記憶のせいで出た「えっ」だった。
――ダサくてごめん。首が伸びたTシャツ着て家出ようとしたらばあちゃんにみっともないって止められてさ。持っちゅう中で一番ボロくない服、これやったがって。もう部活引退しちゅうがやき、そろそろ普通の服買わんとな。
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「上澤?」
背後からの声に振り返ると彼は少し離れた場所に立っていて、私と弟を交互に見ていた。
彼が、弟と私のどちらに気づいて声を掛けたのかはわからなかった。
「あっ上村コーチ! こんっちは!」
棚の前にしゃがみ込んで熱心に商品を見つめていた弟は、途端にシャキッとして彼に駆け寄り、頭を下げる。目下たけのこ並の成長期を迎えている弟は、長身の彼と並んでもそれほど差はなかった。
「ういっす」
「練習休みになったき、グローブの紐買いに来たんす」
「皆考えることは一緒やなぁ。さっき新堂にも会うたよ」
「あ、まじっすか?」
「うん」
大型のスポーツショップといえばこの場所か、さらに車で三十分ほど走ったところの道路沿いの店舗しかない。だからって何も、同じ日にスポーツショップに寄り集まらなくてもいいものを。
「コーチも買い物っすか?」
「俺はグラブのオイル見に来た。ついでに最近ちょっと緩んじゅう体を引き締めようと思ってプロテインをな」
「えっ全然緩んでないっすよ」
「脱ぐと腹がな」
そう言ってから、彼は弟の後方二メートルほどの位置に立つ私のほうに視線を寄越した。
私はあわてて目を逸らした。「脱ぐと」なんていうタイミングで、こっちを見ないでほしい。
弟が振り返って私の姿を確認し、彼に向き直る。
「あ、アレねえちゃんです。高校時代の同級生なんすよね?」
「うん」
そう言ってから、彼は苦笑いした。
「上澤、だもんな。名字同じやのに全然気づかんかった。あんまり似てないがやな」
「やっぱ似てないっすか?」
「うん、顔もやし、それに体格も」
いたずら坊主みたいにニヤッと笑った彼は、昔のように私の身長をからかおうとしただけだったのかもしれない。
でも、私はうまく笑えなかった。
隣の棚に並べられたグローブから漂ってくる革の匂いが鼻の奥をつんと突く。
長身な両親に似て弟は二人とも背が高い。
一家でちんちくりんは私だけだ。
「もうちょっと似ちょったら俺もモテたかもしれんのになぁ」
ぼやく弟の背を見つめ、私は何も言わずに彼に軽い会釈だけをした。
夕方から会う約束をしている人と昼に会ってしまうのも何だか妙な気分だ。きっと彼も同じだったのだろう。
「雨、気い付けて帰れよ」
弟に対するものなのか私に対するものなのか、わからない言葉を残して彼はその場を立ち去った。
買い物を済ませて外に出ると、雨足は幾分弱まっていた。
パタパタ、サアサア。
雨は決して好きじゃないけど、雨の日に車が走る音は好きだ。サァァアッという音と水しぶきとともに、駆け抜けていく。
たぶん、騒がしいのが好きなのだ。静寂が何よりも嫌いだから。幼い頃に高熱を出して必ず見ていたのは、人の輪切りでもカマキリでもなく、音の無い暗闇でひとり膝を抱えて座っている夢だった。
来るときよりもゆっくりとしたワイパーの動きを見つめながら信号待ちをしていたら、弟がぼそりと言った。
「ねえちゃん、上村コーチと昔なんかあったが?」
「え?」
「コーチの笑顔、ちょっと変やったき」
「……そうかな」
「そうやって」
古い友人で、一度は付き合ったことがあるほど親しかった人なのに、全然気づかなかった。
たぶんそれは、彼が変わったということとは無関係なのだと思う。
昨日の仕事でも痛感させられたこと。
どうやら私は人の表情から感情を読み取る能力をどこかに置き忘れて来たらしい。
これまで香りに頼りすぎて、他の要素から人の感情を読み取る術を学んで来なかったから。
それに幼い頃、笑った次の瞬間に突然怒り出すような人と長い時間を過ごしたから。表情はアテにならないと、いつかの時点で諦めてしまっていた。
『あれだけお客様が怒ってらっしゃるときは、早めに上を呼ぶようにね』
『はい、すみません。以後気をつけます』
先輩には頭を下げたけど、先輩の言う『あれだけ』がどれのことが、実のところさっぱりわからなかった。ただ、声を荒らげて怒り出すよりも随分と手前のことなのだろうということだけはわかった。
「ねぇちゃん、『いちかけるいち』のアイスクリン食いたい」
「えっ。それやったら、さっきのショッピングモールの食品売り場で買うたらよかったのに」
「今食いたくなった」
「しょうがないなぁ。サミーマート、寄る?」
「うん」
帰り道にあるスーパーに車を止め、アイスクリンを買った。
駐車場に停めた車の中で、ふたりで食べた。
こうして一緒にアイスを食べるあたり、仲は悪い方ではない。たぶん弟に嫌われてはいないのだろうとも思う。でも、イマイチよくわからなかった。
弟から香るのはアイスクリンだけ。
生まれたときからこの弟が纏っていた甘い香りは、一体どこへ消えてしまったのか。
「ねぇちゃん、機嫌悪いが?」
「へ?」
「黙っちゅうき」
「考え事しよっただけ」
「そっか」
「アイスクリン、久しぶりに食べたなぁと思って」
「やっぱうまいよね」
「うん」
甘くて優しい味がする。普通のアイスよりも少し薄く、食感はシャーベットに近い。生成りの色も卵の風味も、どことなく懐かしい。
「なぁ、どしたが、ねぇちゃん」
窓の外に目をやってドーム状のアイスクリンをベロリと舐めながら、弟が言った。
「んー?」
私もアイスクリンを口に含んだままで答える。
「最近なんかおかしくない? ボーッとしちゅうこと、多い」
「そうかな」
「うん。下がり眉でこっちの顔覗き込んできたりさ。なんか、捨て犬みたいに見えるときある」
捨て犬、か。
その通りかもしれない。
「犬種は?」
「食いつくの、そこ?」
「捨てられ方に食いついてもしょうがないやろ」
「いや別にそういうことを言いいゆうわけじゃないけど。犬種ね……うーん……チワプー、かな」
「また可愛いのきたね」
正直、チワプーの顔は全然思い浮かばなかった。ただ、チワワとトイプードルを掛け合わせた犬なのだろうということは名前から察した。土佐犬じゃなかっただけで大満足だ。
「まぁ、なんせアイスクリンおごってもらいゆうからね」
「グローブの紐代もお忘れなく」
「あ、そうそう。あざっす」
「買い物行くのに財布持ってこんとか、ほんとええ度胸しちゅうわ」
「ねぇちゃんおるからいいかと思って」
「ドライバー兼お財布ですか」
「いや別にそこまでは」
「いいよ、晃平が働き始めたらこれまでのお返しに何かすごい高いもの買ってもらうき」
そう言ってにっこり笑うと、弟はコーンをバリバリと噛みながら言った。
「だいぶ先やぞ」
「早うしてよ」
「いや、無理やろ」
どろりと溶けたアイスクリンが指を伝う。
それを舐めとりながら、脳裏に浮かぶ声に必死で蓋をしていた。
『あんたのことなんて、大っ嫌いやってんから』
見つけた居場所を失いたくない。
ひとりぼっちになりたくない。
願いはいつも、恐怖と背中合わせだった。
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